明史卷一百三十八 列傳第二十六 周楨

律令の制定

  • 周禎は字を文典といい、江寧の人。 元末に湖南に流寓した。太祖が武昌を平定すると江西行省僉事に用いられ、大理卿を歴任した。
  • 太祖は、唐・宋にはいずれも成文の律があって獄を裁いたのに、元だけは一時の措置を条格としたため胥吏が不正を働きやすかったと考え、禎に李善長・劉基・陶安・滕毅らとともに律令を定めさせた。少卿の劉惟謙と丞の周禎もこれに参加した。書が成ると太祖は善しとした。
  • 洪武元年(1368年)に刑部が設けられると禎を尚書とし、まもなく治書侍御史に改めた。

廣東行省參政としての人事

  • 翌年、廣東行省參政として出た。当時、省の統治が始まったばかりで正官の欠員が多く、吏の勤務に勧懲が行き届かなかった。
  • 香山丞の冲敬は治績があり、激務のため在官で没した。禎が文を作って祭ると、聞く者は感動した。
  • 一時期の郡邑の良吏として、雷州同知の余騏孫、惠州知府の萬迪、乳源知縣の張安仁、清流知縣の李鐸、揭陽縣丞の許徳、亷州知府の托音、歸善知縣の木寅を、いずれもその政績を列挙して上申した。木寅は土司、托音は蒙古人である。これによって属吏はいっそう励んだ。
  • 洪武三年(1370年)九月、御史中丞に召されたが、まもなく病を理由に致仕した。
  • 帝は即位当初、元の寛縦を懲らしめて法の運用がきわめて厳しく、これを奉行する者は身を縮めて立つほどであった。律令が備わってはじめて吏士は守るべきところを知った。その後たびたび改訂されたが、いずれも禎の書が出発点となったという。

劉惟讓(周禎に附す)

  • 劉惟讓は出自が明らかでない。呉元年(1367年)に才学によって挙げられ、洪武の初めに刑部尚書を歴任した。
  • 洪武六年(1373年)、新律を詳定するよう命じられ、繁を削り旧を損じて軽重の均衡を得た。帝が自ら裁定を加えて頒行した。のちに事に坐して免ぜられた。

周湞(周禎に附す)

  • 周湞は字を伯寜といい、鄱陽の人。江西十才子の一人である。官はやはり刑部尚書に至った。
  • 洪武の一代を通じて刑部の長となった者もまた四十人近くに及ぶ。楊靖が最も知られ、端復初・李質・黎光・劉敏にも名がある。

端復初(周禎に附す)

  • 端復初は字を以善といい、溧水の人で、子貢の裔である。省文に従って端氏と称した。
  • 元末に小吏であったが、常遇春が金華を鎮したときに幕下に招かれ、まもなく辞去した。太祖がその名を知って徽州府經歴に召し、民に自ら田を申告させ、これをまとめて図籍とし、積年の弊をすべて洗い流した。
  • しだいに遷って磨勘司令に至った。当時は官署が新設されたばかりで案牘が山積していたが、復初は逐一調べて漏らさなかった。帝は朝廷でこれを称えたことがある。
  • 性格は厳しく峻烈で、人は私事で近づけなかった。僚属の多くが貪汚で身を誤ったなか、復初だけは清白であったので免れた。
  • 洪武四年(1371年)、抜擢されて刑部尚書を拝した。法の運用は公平で、杭州の飛糧の事件が発覚して百余人が逮えられたとき、詔を受けて赴き、真偽をたちどころに裁いた。知府以下はみな罪に服した。
  • 翌年、湖廣參政として出、帰農した者の賦を一年免除させたところ、流亡した者がことごとく集まった。統治の手腕で名を知られたが、事に坐して召還され、没した。
  • 子の孝文は翰林待詔、孝思は翰林侍書となり、前後して朝鮮に使いし、ともに清廉な節操で知られた。朝鮮の人は双清館を建てたという。

李質(周禎に附す)

  • 李質は字を文彬といい、徳慶の人。才略があり、元末は何真の麾下にあって、兵を募って徳慶の乱民を平らげ、近隣の郡も多くその庇護を頼りにした。
  • 嶺南に客居していた名士――茶陵の劉三吾、江右の巴延子中、順徳の孫蕡、建安の張智ら――をいずれも礼遇した。
  • 洪武元年(1368年)、何真に従って降り、中書斷事に任じられた。翌年、都督府斷事に改められ、力を尽くして法を執行した。
  • 洪武五年(1372年)に刑部侍郎に抜擢され、尚書に進んだ。獄を治めるにあたって公平寛恕であった。山東の飢饉の賑給に遣わされる際、帝は自ら詩を作って餞した。
  • まもなく浙江行省參政として出、三年在任して恵政の実績が知られた。帝はその老齢を思って召還し、しばしば便殿で引見して時政を尋ねた。質は隠すところなく直言した。
  • 靖江王右丞を拝したが、王が罪を得て廃されると、質もついに死んだ。

黎光(周禎に附す)

  • 黎光は東莞の人。郷薦によって御史を拝した。蘇州を巡按して水害の賑給を請い、救われた者はきわめて多かった。鳳陽を巡按したときは封事を上って時弊を鋭く突き、帝はこれを嘉した。
  • 洪武九年(1376年)に刑部侍郎に抜擢された。法の執行に曲げるところがなく、御史大夫の陳寧に憎まれ、事に坐して貶された。

劉敏(周禎に附す)

  • 劉敏は肅寧の人。孝廉に挙げられて中書省の吏となった。
  • 夕方に龍江で□(底本欠字)を買い、朝にそれを家へ運んで妻に蓆を織らせ、売って母を養ってから出仕して事務にあたった。
  • 性格は廉直で、陶磁器を贈られても受け取らなかった。楚相府録事となったとき、中書が没官の女子を文臣の家に給したので、周囲は母に仕えさせるために願い出るよう勧めたが、敏は固辞して「母に仕えるのは子と嫁の務めで、他人に何の関わりがあろう」と言った。
  • 省の大臣が失脚して吏の多くが誅に坐したときも、敏だけは連座しなかった。帝はその賢を認めて工部侍郎に抜擢し、刑部に改め、徽州府同知として出した。恵政があり、在官のまま没した。