陳理の招降
- 羅復仁は吉水の人。若くして学を好んだ。陳友諒が招いて編修としたが、成功しないと見て逃げ去り、九江で太祖に謁して左右に留め置かれた。
- 鄱陽の戦いに従い、蠟書を携えて江西でまだ下らない諸郡に降を諭し、中書諮議を授けられた。
- 武昌の包囲に従ったとき、太祖は陳理を招いて降そうとし、復仁がもと友諒の臣であったことから城に入って諭させ、「理が来れば富貴を失わせはしない」と言った。復仁は頓首して「もし陳氏の遺孤が首領を保ち、臣が後日に食言せずにすむのであれば、臣は死んでも恨みません」と言った。太祖は「行け。私はお前を欺かない」と言った。
- 復仁が城下に至って一日中号泣すると、理は縄で吊り上げて入れた。理に会うと大いに哭して太祖の意を述べ、さらに「大軍の向かうところはみな砕かれる。降らなければ城を屠ることになるが、中の民に何の罪があろう」と言った。理はその言を聴き、そのまま官属を率いて出降した。
「老實羅」と晩年
- 國子助教に遷り、老齢のため特に小車に乗って出入りすることを賜り、宴に見えるたびに座を賜って飲食した。
- のちふたたび庫庫への使いとされた。以前の使者の多くは抑留されたが、復仁だけが帰ることができた。
- 洪武元年(1368年)、編修に抜擢され、また主事の張福とともに安南に赴いて占城の侵した地を返すよう諭した。安南は詔を奉じ、復仁に土産を厚く贈ったが、すべて退けて受けなかった。帝はこれを聞いて賢とした。
- 三年(1370年)、𢎞文館を置いて復仁を學士とし、劉基と同位とした。帝の前では思うままに得失を述べ、いつも南方の訛りで話したが、帝はかえってその質直さを喜び、「老實羅」と呼んで名を呼ばなかった。
- あるとき、その家に立ち寄ると、城壁沿いの狭い路地にあり、復仁はちょうど壁を塗っているところで、急いで妻を呼んで腰掛けを持って来させ、帝を座らせた。帝は「賢士がこんな所に住むべきではない」と言い、城中に邸を賜った。
- 天寿節に「水龍吟」一闋を作って献じ、帝は喜んで厚く賜った。
- まもなく致仕を乞い、陛辞のとき粗布の衣を賜り、衣の襟に詩を書いて褒め称えた。のちまた京師に召され、江西の秋糧の減免を奏して許可された。三か月留まり、玉帯・鉄の杖・坐墩・裘・馬・食器を賜って帰され、天寿を全うした。
孫汝敬――直言と諫言
- 孫汝敬は名を簡といい、字で通った。永樂二年(1404年)、吉士として文淵閣で学ばせたとき、書の暗誦が上意にかなわず、その日のうちに江南に流されたが、数日で戻された。これより刻苦して学に励み、たびたび遷って侍講となった。
- 仁宗の時、時政十五事を上言して上意に逆らい下獄した。のち李時勉とともに御史に改まり、直言の名声が一時期を圧した。
- 宣宗の初め、大學士の楊士奇に上書して言った。太祖高皇帝は四海を有し、太宗文皇帝は天下を再造されたが、なお慎重の上にも慎重で、油断されなかった。先皇帝は統を嗣いで一か月に満たず群臣を捨てられたが、その由来を考えれば、みな邪佞の小人が金石の薬方を献じて病を招いたのである。
- 昨冬、簡は愚直にも詔に応じて上書し、言葉が不敬にわたって罪は万死に当たったが、先皇帝はその孤独な直言を憐れんで雷霆の誅を寛くし、言路に置いてくださった。身を省みても任に堪えるところがない。
- 今年六月、車駕が天寿山に行幸し、自ら二陵に詣でられたのを見て、京師の人は仰ぎ見て感嘆し、聖天子の大孝と称した。ところがその後、道端で騒がしく伝えられるところでは、礼が終わるとすぐ狩猟と武の講習を行い、扈従したのは額森托干とその徒数百人だけで、風のように電のように先を争って駆け回ったという。簡はこれを聞いて胸が騒ぎ胆をつぶした。
- そもそも蒐・苗・獮・狩は国の常の定めではあるが、陵に詣でるために出たついでに、降将と山谷の間で狩りを競うのは、堂の端に近づくなという戒め、轡や轅の危険を、深く慮らないわけにはいかない。
- 執事は四朝の旧臣、二聖の元輔である。ここで言わなければ誰が言えようか。どうか特にお取り上げくださり、諫言を献ずる思いを広め、直言を助ける義を輝かせていただきたい、と。
孫汝敬――安南への使いと晩年
- まもなく工部右侍郎に抜擢され、二度安南に使いした。当時、黎利はその主の陳暠がすでに死んだと言いながら、宴席を設けて女楽を並べたので、汝敬が叱ると、利は恐れて謝した。
- 帰って両浙の漕運を督し、陝西の屯田を治めて、設けるところが多かった。贈り物を受け取ったことに連座して事官に充てられた。
- 英宗が立って赦に遭ったとき、汝敬は詔を誤って引いて職に復したので、また逮捕された。陝西での措置の労によって死を宥され、辺境に流されたが、まもなく職に復してもとの任に臨んだ。
- 塞上に警報があり、汝敬が糧の輸送を督しに行って紅城子で敵に遭い、流れ矢に当たって落馬したが助かった。病により帰郷を願い出て卒した。
史論
- 賛に曰く。明が建国した当初、まず人材を務めとして四方を招聘したので、老儒が闕下に群れ集まり、その長ずるところに従って用いられた。礼を議し制を定めるほか、ある者は法従の列に加わり、ある者は承明に直宿し、なかでも成均で学んだ者の仕官はとりわけ職に称う者が多く、盛んに人を得たと称された。
- そもそも諸臣は元の末世にあっては経を窮め学を積んでも草野に閉じこもり、生涯知られずに終わりかねなかった。ところが泰運が定まると、茅を引けば根が連なるように次々に用いられ、それぞれ蓄えたものを展べて大いなる計を潤色し、文治を彩った。
- 昔の人は「天下に才がないことを憂うるのではなく、ただ上の網羅の仕方いかんを見るだけだ」と言った。まことにその通りではないか。