開科第一の廷試
- 吴伯宗は名を祐といい、字で通った。金谿の人。洪武四年(1371年)、廷試で第一となった。当時は科挙を開いた最初であり、帝は自ら策問を作った。伯宗を得てたいへん喜び、冠帯と袍笏を賜り、禮部員外郎を授けて大明日暦の編修に加えた。
- 胡惟庸が権を握って人を自分に付かせようとしたが、伯宗は屈しなかったので、惟庸はこれを恨み、事に連座させて鳳陽に流した。
- 伯宗は上書して時政を論じ、そのなかで惟庸は専恣にして法に従わず、単独で任せるべきではない、長く続けば必ず国の患いとなると述べた。その辞はきわめて切実であった。帝は奏を得て召し還し、衣と鈔を賜った。
安南への使いと武英殿大學士
- 命を奉じて安南に使いして上意にかない、國子助教に任じられ、東宮での進講を命じられて、まず正心誠意の説を述べた。翰林典籍に改まった。
- 帝が十題を作って賦を作らせたところ、筆を執るとその場で仕上げ、辞旨は雅やかで清らかであった。織金の錦衣を賜った。
- 太常寺丞に任じられたが辞し、國子司業に改まったがまた辞したので、上意に逆らって金縣教諭に落とされた。着任しないうちに召し還されて翰林檢討となった。
- 十五年(1382年)、武英殿大學士に進んだ。翌年の冬、弟の吳仲實が三河知縣として推薦した人物が実に合わなかったことに連座し、供述が伯宗に及んで檢討に降された。
- 伯宗の人となりは温厚であったが、内には剛く、いいかげんに調子を合わせなかったので、しばしばつまずいた。一年余りで在官のまま卒した。
鮑恂と老儒の召し出し
- 伯宗が進士となったときの考試官は宋濂と□恂である。
- 恂は字を仲孚といい、崇徳の人。臨川の吳澄に易を受け、古を好み実践に努め、大易傳義を著して学ぶ者に称された。元の至正年間、推薦によって温州路學正を授けられ、まもなく召されて翰林に入るよう命じられたが就かなかった。
- 洪武三年(1370年)、はじめて科挙で士を取ったとき召されて同考官となり、試験が終わると辞して去った。
- 十五年(1382年)、吉安の余詮、髙郵の張長年、登州の張紳とともに、経に明るく老成しているとして禮部主事の劉庸に推薦され、召されて京に至った。恂は八十余歳、長年と詮もいずれも七十を過ぎていた。座を賜って諮問を受け、翌日そろって文華殿大學士に任じられたが、いずれも老齢と病を理由に固辞したので、そのまま帰された。
- 張紳は遅れて到着したので鄠縣教諭とし、まもなく召されて右僉都御史となり、浙江左布政使で終わった。
- その翌年、老儒として召された者に全思誠がいる。字は希賢、上海の人で、やはり文華殿大學士を授けられた。さらに翌年、老齢を願い出て、敕を賜って致仕した。
任亨泰――旌表孝行の例と安南への使い
- 伯宗が安南に使いしたとき、その名徳によって交趾の人に重んじられた。その後、襄陽の任亨泰もまた洪武二十一年(1388年)の進士第一に挙げられ、禮部尚書として安南に使いしたので、交趾の人はこれを栄誉とした。前後して安南に使いした者を並べて「吳・任」と称したという。
- 亨泰が禮部尚書であったとき、日照の民である江伯兒が、母の病のために三歳の子を殺して岱嶽に祀った。有司が報告すると、帝はその倫理を絶つことに怒り、杖百を加えて海南に流した。そこで亨泰に旌表孝行の事例を定めるよう命じた。
- 亨泰は議して言った。人の子が親に仕えるにあたっては、日常には敬を尽くし、養うには喜ばせることを尽くし、病があれば医薬を慎むものである。氷に臥し股を割くのは常の道ではない。股を割いてやまなければ肝を割くに至り、肝を割いてやまなければ子を殺すに至る。道に背き生を損なうことでこれ以上のものはない。家系を絶やし祭祀を絶つのは、とりわけ不孝の最たるものである。厳しく戒め諭すべきで、もし愚昧無知でなお行う者があっても、その勝手にさせ、旌表の例には入れないのがよい、と。詔して許可された。
- 翌年、秦王の喪礼を議し、あわせておよそ世子が爵を襲うときの礼を定めた。
- 龍州の趙宗壽を討つにあたり、御史の嚴震直とともに安南に使いして、辺境を慎み逃亡者を受け入れないよう諭すよう命じられた。当時、帝は安南が君を簒い弑したことからその貢使を絶っていたので、詔使が来ると聞いて震え恐れた。亨泰は書を作って朝廷が兵を用いる理由を述べて安心させたので、交趾の人は大いに喜んだ。
- 使いから帰ったが、私に蛮人を買って僕としたことで御史に降された。まもなく思明の土官と安南が境を争ったとき、供述がまた亨泰に及び、連座して免官された。