帰順と四輔官
- 安然は祥符の人で、潁州に移り住んだ。元末に左丞として萊州を守った。明の兵が山東を下すと衆を率いて帰順し、官を重ねて山東叅政となった。流民を安撫し、俸禄の余りはすべて公用に充てた。帝はこれを聞いて嘉した。
- 洪武二年(1369年)、召されて工部尚書となり、出て河南叅政となった。浙江布政使を歴任し、入って御史台右大夫となった。十三年(1380年)、左中丞に改まったが、事に連座して免ぜられた。まもなく召されて四輔官となった。
四輔官の制と王本ら
- これより先、胡惟庸が謀反して誅されたので、帝は歴代の丞相が権を専らにすることが多いとして中書省を廃し、その職を六部に分けた。しかしそののち、機密の議論には人がなくてはならないと考え、四輔官を建てて四季を号とし、天下に詔して賢才を挙げさせた。
- 戸部尚書の范敏が老儒の王本・杜佑・龔斆・杜斆・趙民望・吳源らを推薦した。召して至ると太廟に告げ、王本・杜佑・龔斆を春官、杜斆・趙民望・吳源を夏官とし、秋官と冬官は欠員として本らに兼摂させた。
- 位は都督の次で、たびたび敕諭を賜り、坐して論ずる礼をもって遇し、政事を協賛し四時を調和させるよう命じた。
- 立冬に北風が寒さを醸したとき、帝はこれを冬の令に順ったのは本らの功だとして、敕を賜って嘉勉した。
- また月を三旬に分けてそれぞれが分担し、雨と晴れが時にかなうかどうかで職に称うかを検証した。刑官が獄を議すると、四輔および諫院が再審して奏上し、疑わしい判決があれば四輔官が封じ返して論駁した。
- ほどなく杜斆ら四人が相次いで致仕したので、安然を召して代えた。王本はのち事に連座して誅された。
- 諸人はみな老儒で農家から起こり、質朴なほかに取り柄はなかったが、ひとり安然だけは長く中央と地方を経て庶務に練達しており、恩顧はとりわけ厚かった。
- 十四年(1381年)八月に卒した。帝は然が帰順したときの誠意を思い、自ら文を作って祭った。
- 然に続いて四輔となったのは李幹・何顯周である。幹は出て知府となり、佑と顯周はともに罷めて去った。この官はそのまま廃されて再び設けられなかった。
- 王本は籍と郷里が分からない。杜佑は安邑の人。かつて三度、本籍の布政司の郷試を主宰し、人を得たと称された。龔斆は鉛山の人。行いと信義で郷里に重んじられ、致仕したのちふたたび國子司業に起用され、祭酒を歴任したが、諸生に休暇を与えて奏聞しなかったことに連座して免ぜられた。杜斆は字を致道といい、壺關の人。元の郷試に第一で挙げられ、台州學正を歴任し、帰郷して教授し、易・詩・書の三経に通じた。吳源は莆田の人。やはり二度召されて國子司業となり、在官のまま卒した。趙民望は藁城の人、李幹は絳州の人、何顯周は内黄の人である。