明史卷一百三十六 列傳第二十四 任昻

国子監と科挙・貢士の制

  • 任昻は字を伯顒といい、河陰の人。元末に進士に挙げられ、寧晉縣知事に任じられたが赴かなかった。洪武の初め、推薦されて襄垣訓導となり、御史に抜擢された。
  • 十五年(1382年)、禮部尚書を拝した。帝は太学に意を用い、祭酒の李敬と吳顒を罷めて、昻に監規八条を増定するよう命じ、そこで曹國公李文忠と大學士宋訥に國子監の事を兼領させた。
  • 司諫の關賢が「近ごろ郡邑の担当者が人を得ず、師道が立たず、毎年の選士は欠員が多く、はなはだしくは優秀な生員を承差に充てており、朝廷が賢を育てる意に背いている」と上言した。昻はそこで、天下の歳貢の士は翰林院の考試によって優劣を定めることを奏定した。
  • 翌年、科挙と薦挙を併行するよう命じられ、昻は科場の成式を条上して、以前より詳しくした。士を取る制はここに定まった。

封贈の例と淫祠の整理

  • 廣東都指揮の狄崇と王臻が妾を継室として封を乞い、廷議に下された。昻は不可として持したので、これに従った。そこで昻および翰林院に嫡と妾の封贈の例を定めさせ、あわせて吏部とともに文官の封贈の例十一、蔭叙の例五を定めて中外に頒示するよう詔した。
  • まもなく冕服の制および朝参の坐次を改定することを請うた。
  • また天下の淫祠を毀ち、祀典の称号を正すことを奏した。すなわち、蜀では秦の守李冰を祀り、漢の守文翁・宋の守張詠を添える。密縣では太傅の卓荗を祀る。鈞州では丞相の黄霸を祀る。彭澤では丞相の狄仁傑を祀る。いずれも民に恵みを残した者である。李龍遷は隆州で祀り、謝夷甫は福州で祀る。いずれも民のために害を防いだ者である。呉の丞相陸遜は労苦して国を定めたから呉で祀り、子の陸抗と甥の陸凱を配する。元の總管李黼は江州に祀を立て、元帥の余闕は安慶に廟を立てる。いずれも職務に殉じた者である。余闕に従って皖を守り一家を挙げて義に殉じた者に萬戸の李宗可がおり、闕の廟に配享すべきである。いずれも許可された。
  • 翌年、郷飲酒礼を天下に頒つよう命じられ、さらに大成の楽器を作って楽官に分け頒たせた。
  • このころ、入朝しての勤務評定による外吏の考課、および雲南の功に対する賞の序列は、事は禮部の管轄でなかったが、帝はいずれも昻にその議を主宰させた。まもなく休暇を賜って帰郷した。