博学と君子郷
- 曾魯は字を得之といい、新淦の人。七歳で五経を暗誦して一字も漏らさなかった。やや長じては古今に広く通じ、およそ数千年の国体・人材・制度の沿革で言えないことがなかった。文学によって当時に名を知られた。
- 元の至正年間、魯は郷里の豪族を率いて壮丁を集め、郷里を守った。たびたび牛と酒を用意して集会を開き、順逆を説いたので、みな取り決めに従い、不義を行う者はいなかった。人はその里を君子郷と呼んだ。
外国使節への詰問
- 洪武の初め、元史を編むにあたり魯を召して修纂官とした。史が成って金帛を賜り、魯が筆頭であった。山に帰ることを願い出たが、ちょうど礼書の編類があってまた留められた。
- 当時、礼を議する者が蜂のように起こったが、魯は衆中で声を上げて「某の礼は某の説に拠るべきで、某の説に従うのは誤りだ」と言い、反論する者があれば必ず伝記を次々に挙げて示した。
- まもなく禮部主事を授けられた。開平王常遇春が薨じ、高麗が使者を遣わして祭りに来たとき、魯はその文を求めて見た。外は金龍の黄色い帕で包まれ、文には洪武の年号が記されていなかった。魯は責めて「龍の帕は誤りにすぎないとしても、貢を納めて藩と称しながら正朔を奉じないのは、道理としてどういうことか」と言った。使者は謝罪し、ただちに改めさせた。
- 安南の陳叔明が簒立して討伐を恐れ、使者を遣わして入貢し朝廷の意をうかがった。主客曹はすでにその表を受け取っていたが、魯は副本を取って見て尚書に告げ、使者を詰問して「前の王は日熞であったのに、いまなぜ急に名が変わったのか」と問うた。使者は隠しきれず事実を述べた。帝は「島夷はここまで狡猾なのか」と言い、その貢を退けた。これによって魯を重んじた。
昇進と最期
- 五年(1372年)二月、帝が丞相に魯は何の官かと問うと、「主事にすぎません」と答えた。その日のうちに六階を飛び越えて中順大夫・禮部侍郎を拝した。魯は「順」の字が父の諱に触れるとして辞し、階を下げて朝請大夫とすることを願ったが、吏部は典制を守って許さなかった。
- 守備の将が倭人を捕らえたとき、帝はこれを帰すよう命じ、儒臣が詔を草した。上が魯の草稿を読んで大いに喜び、「先ごろ陶凱の文はすでに人の意を奮い立たせた。魯もまたこの通りだ。文運はまさに昌んになろうか」と言った。
- まもなく京畿の郷試を主宰するよう命じられた。甘露が鍾山に降ったとき、群臣が詩賦を献じたが、帝はひとり魯を褒めた。
- この年十二月、病を理由に帰郷し、途上で卒した。
- 淳安の徐尊生はかつて「南京には博学の士が二人いる。筆を舌とする者は宋景濂、舌を筆とする者は曾得之である」と言った。魯は文を作っても草稿を残さず、その門人が集録したものもあるが、書として成らなかったという。
洪武の禮部侍郎――劉崧・秦約・陳思道・張衡
- 洪武年間の禮部侍郎は二十余人いたが、名を知られた者は曾魯のほかに劉崧・秦約・陳思道・張衡の数人である。
- 崧には別に伝がある。
- 秦約は崇明の人、字は文仲。博学で辞章に巧みであった。洪武の初め、文学によって挙げられ、召されて慎獨箴を試作させたところ、約の文が第一で、ただちに禮部侍郎に抜擢された。母が老いたので帰郷を願い出た。ついで再び召されて入り、三事を述べ、いずれも切実で率直であった。やはり帰郷を願い出て卒した。
- 陳思道は山陰の人、字は執中。進士で刑部主事を授けられた。帝はその法の執り方を賞して兵部侍郎に飛び越えて任じた。ますます気節を励み、私事で頼み込む者はなかった。禮部に改まって帰郷を願い出、家に居ては産を殖やさず、守令が門を訪ねても会えなかった。久しくして卒した。
- 張衡のことは別に載せる。