中原を図る議論
- 孔克仁は句容の人。行省都事から郎中に進み、かつて宋濓とともに太祖に侍した。太祖はそのたびに天下の形勢および前代の興亡について論じた。
- 陳友諒が滅ぶと、太祖は中原を図る志を抱いて克仁に言った。元の運はすでに崩れ、豪傑が互いに争ってその隙に乗じられる。私は両淮と江南の諸郡の民に時を逃さず耕作させ、加えて訓練を施し、兵と農を兼ね備えて、進んでは取り、退いては守りたい。さらに両淮の間で運送が通じる場所に糧を蓄えて備えたい。兵糧が足りれば中原は図れる。卿はどう思うか、と。
- 克仁は「糧を積み兵を訓練し、隙をうかがって時を待つ。これは長策です」と答えた。
漢の高祖への自負
- そのころ江左の兵勢は日ごとに盛んで、太祖は漢の高祖をもって自ら期していた。かつて克仁に言った。秦の政治は暴虐で、漢の高帝は布衣から起こり、寛大さで群雄を御してついに天下の主となった。いま群雄が蜂起しているが、みな法度を修めて軍政を明らかにすることを知らない。これが成功しない理由だ、と。そう言って長く感嘆した。
- さらに言った。天下が兵を用いているが、河北には博囉特穆爾、河南には庫庫特穆爾、關中には李思齊と張良弼がいる。しかし兵はあっても紀律のないのが河北、やや紀律はあるが兵が振るわないのが河南、道が通じず糧の供給が続かないのが關中である。江南では私と張士誠だけだ。士誠は奸謀が多く間諜を好み、衆を御するのに紀律がない。私は数十万の衆をもって軍政を整え、将帥に任せ、時を見て動く。その勢いからして平定できないことがあろうか、と。
- 克仁は頓首して「主上は神武であられます。天下を一つに定められましょう」と言った。
漢書をめぐる問答
- かつて漢書を読んでいたとき、濓と克仁が侍していた。太祖が「漢の治道が純粋でないのはなぜか」と問うと、克仁は「王道と覇道が混じっているからです」と答えた。太祖が「誰の咎か」と問うと、克仁は「責は高祖にあります」と答えた。
- 太祖は言った。高祖は創業にあたって秦の学問破壊のあとに遭い、民は疲弊してようやく息を吹き返したところで、礼楽の事はもとより論じる段階になかった。孝文は良き君主であったから、まさに礼を制し楽を作って三代の旧に復すべきであったのに、ためらって果たさず、漢の業をこの程度で終わらせてしまった。帝王の道は時を失わないことを貴ぶ。三代の王はその時があって行いえた。漢の文帝はその時がありながら行わず、周の世宗はその時がないのに行った者である、と。
- また克仁に「漢の高祖は徒歩から起こって万乗の主となったが、どういう道を執ったのか」と問うた。克仁は「人を知って善く使ったことです」と答えた。
- 太祖は言った。項羽は南面して孤と称したが、仁義を施さず自ら功伐を誇った。高祖はそれを知って柔和と謙遜で応じ、寛仁で補い、ついに勝った。いま豪傑は一人ではない。私は江左を守り、賢を任じ民を撫して天下の変化をうかがう。ただ力比べをするだけでは、にわかには定まらない、と。
淮東西平定後の情勢論
- 徐達らが淮の東西を下したとき、また克仁に言った。壬辰の乱(1352年)以来、民は塗炭の苦しみにある。中原の諸将のうち、博囉は兵を擁して闕を犯し、倫を乱し紀を干して、その身は滅ぼされた。庫庫は太子を挟んで戈を称し、私の仇に急で、敵に立ち向かう志がない。思齊らは凡庸に一方を窃かに占拠して民がその害を受けている。士誠は外に元の名を借りて両端に反覆している。明玉珍父子は蜀に拠って僭号し、自分の考えに満足して遠謀がない。その行いを見るに、いずれも成功しえない。
- 私は天の時を測り人の事を審らかにして、定めうる機があると見る。いま軍は西に襄陽・樊城へ出て、東は淮水・泗水を越え、首尾が相応じている。これを撃てば必ず勝ち、大事は成る。天下を定めるのは難しくない。ただし定めたのちの生育がなお難しく、そこにこそ思慮を労するのだ、と。
- 克仁は帷幄に侍することが最も長かったので、太祖の謀略を聞き知ることがとりわけ多かった。
- 洪武二年(1369年)四月、克仁らに諸皇子への経書の教授を命じ、功臣の子弟にも入学させた。のち江州知事として出、入って參議となったが、事に連座して死んだ。
史論
- 賛に曰く。太祖は布衣から起こって天下を経営し、渡江以来その構想は壮大で、声教は風のように広まった。これは天授と言えようが、また左右の輔弼に国士の助けが多かったからでもあろう。
- 陳遇の受けた礼遇は劉基に劣らず、しかも利禄の外に超然としていた。葉兌は天下の大計を審らかに謀り、しかも節を守って隠退することができた。その高い趣きはいずれも人の容易に及ぶところではない。
- 孔克仁には称すべき事跡がないが、太祖の雄大な謀略がその記事の中に備わっているので、この篇に叙列した。