篇首の立伝者一覧
- 本篇の巻頭に掲げられた立伝者と附伝者は次のとおり。陶安(附・錢用壬)、詹同、朱升、崔亮(附・牛諒、答祿與權、張籌、朱夢炎、劉仲質)、陶凱、曾魯、任昻、李原名、樂韶鳳。
太平での帰順と金陵の献策
- 陶安は字を主敬といい、當塗の人。若くして聡敏で経史を広く渉猟し、とりわけ易に長じた。元の至正の初め、浙江の郷試に挙げられ、明道書院山長を授けられた。乱を避けて家に居た。
- 太祖が太平を取ると、安は老儒の李習とともに父老を率いて出迎えた。太祖が召して語ると、安は進んで言った。天下は鼎の沸くごとく、豪傑が争っているが、その意は女子や玉帛にあり、乱を収め民を救い天下を安んじる心はない。明公は江を渡っても神武にして人を殺さず、人心は悦服している。天に応じ人に順って弔伐を行えば、天下を平らげるのは難しくない、と。
- 太祖が「私は金陵を取りたいがどうか」と問うと、安は「金陵は古の帝王の都です。取ってこれを有し、地の利を掌握して四方に臨めば、どこへ向かっても克てないことはありません」と答えた。太祖は「よし」と言い、留めて幕府に参与させ、左司員外郎を授けた。
- 李習は太平知府とした。習は字を伯羽といい、年は八十余りで、在官のまま卒した。
黄州・饒州の治
- 安は従軍して集慶を克ち、郎中に進んだ。劉基・宋濂・章溢・葉琛を招聘したとき、太祖が安に四人はどうかと問うと、「臣は謀略で基に及ばず、学問で濂に及ばず、民を治める才で溢と琛に及びません」と答えた。太祖はその謙譲をよしとした。
- 黄州が下ったばかりのころ、重臣を得て鎮めさせたいと考えたが、安に勝る者がなかったので、黄州知事を命じた。租を寛くし徭役を省いたので、民は生業を楽しんだ。事に連座して桐城知事に落とされ、さらに饒州知事に移った。
- 信州の賊兵が城を攻めると、安は吏民を集めて順逆を諭し、城に籠って固く守り、援兵が至って賊は敗れ去った。諸将は賊に従った民をことごとく殺そうとしたが、安は許さなかった。太祖は詩を賜って褒め称え、州の民は生祠を建てて仕えた。
翰林學士としての礼制と修律
- 吳元年(1367年)、はじめて翰林院を置くと、真っ先に安を召して學士とした。当時、諸儒を集めて礼を議させたが、安を總裁官とした。まもなく李善長・劉基・周禎・滕毅・錢用壬らとともに律令を刪定した。
- 洪武元年(1368年)、知制誥として国史の編修を兼ねるよう命じられた。
- 帝はかつて東閣に出て安および章溢らと前代の興亡の本末を論じた。安が「喪乱の源は驕りと奢りにある」と言うと、帝は「高位に居る者は驕りやすく、安楽に処する者は奢りやすい。驕れば善言が入らず過ちが耳に届かず、奢れば善道が立たず行いを顧みない。こうした者で滅びなかった者はない。卿の言はまことに当たっている」と言った。
- また学術を論じたとき、安が「道が明らかでないのは邪説がこれを害するからです」と言うと、帝は「邪説が道を害するのは、美味が口を喜ばせ美色が目をくらますのと同じだ。邪説を除かなければ正道は興らず、天下は何によって治まろうか」と言った。安は頓首して「陛下のお言葉は、まことにその本を深く探ったものと申せます」と言った。
寵遇と讒言
- 安が帝に仕えて十余年、諸儒のなかで最も古参であり、侍従の官となってからは寵愛がいっそう厚かった。帝は自ら門帖子を作って賜り、「國朝謀略無雙士 翰苑文章第一家」と書いた。当時の人はこれを栄誉とした。
- 御史のある者が安の隠れた過失を言上したところ、帝は詰問して「安にどうしてそんなことがあろう。しかもお前はどこでそれを知ったのか」と問うた。「道端で聞きました」と答えたので、帝は大いに怒ってその場で罷免した。
江西行省叅政と死後
- 洪武元年(1368年)四月、江西行省叅政が欠員となったので、帝は安を任じて諭した。朕が江を渡ったとき卿は真っ先に軍門に謁して王道を説き、幕府に参与しては益するところが多かった。続いて翰林に入ってはますます正論を聞かせてくれた。江西は上流の地であり、これを撫綏するには卿に勝る者がない、と。安は辞退したが帝は許さなかった。
- 任地に至ると政績はいよいよ顕著であった。その年九月、在官のまま卒した。病が重くなると時務十二事を草して上った。帝は自ら文を作って祭り、姑孰郡公を追封した。
- 子の陶晟は洪武年間に浙江按察使となったが、賄賂を貪って誅された。その兄の陶昱も連座して死に、家族四十余人が軍に発せられて、のち死亡してほぼ尽きた。担当の役所がさらに晟の家に捕縛に来たので、安の後妻の陳氏が闕に詣でて訴えた。帝は安の功を思ってその籍を除いた。
錢用壬――礼制の考証
- 安が諸礼を裁定したとき、廣徳の錢用壬もまた論じ立てるところが多かった。
- 用壬は字を成夫といい、元の南榜の進士第一で、翰林編修を授けられた。使者として張士誠のもとに出たところ留められて官を授けられた。大軍が淮・揚を下すと帰順し、官を重ねて御史台經歴となり、律令の制定に参与した。
- まもなく陶安らとともに郊廟・社稷の諸儀を広く議した。その釈奠と耤田の議は、いずれも経文および漢魏以来の故事を引いてその制を定めたもので、詔により許可された。詳しくは礼志にある。
- 洪武元年(1368年)、六部の官を分けて建てるにあたり、用壬を禮部尚書に任じた。およそ礼儀・祭祀・宴享・貢挙の諸政はすべて礼官の専管とした。また詔して儒臣とともに乗輿以下の冠服の諸式を議定させた。
- 当時、儒生の多くは古義に通じていたが、用壬の考証はとりわけ詳確であった。ただしその後、諸典礼にはやはり改定が多くあったという。
- その年十二月、休暇を願い出て帰郷した。