築城と和州鎮守
- 郭景祥は濠州の人。鳳陽の李夢庚とともに渡江に従い、文書を掌り謀議を助け、それぞれ行中書省の左司・右司の郎中に分かれて任じた。ともに浙東分省に移り、まもなくともに入って大都督府參軍となった。
- 景祥は誠実で率直な性質で、書史を広く渉猟し、事にあたって物怖じせず発言したので、太祖はこれを親しく信任した。かつて「景祥は文吏でありながら敵を退け侮りを防ぐ才がある。私に忠を尽くしうる者で、大任を任せられる」と言った。
- これより先、滁州・太平・溧陽を克ったとき、城郭が整っていないので、そのつど景祥に命じて修めさせた。ついで和州の守臣が城が久しく荒れていると言ったので、景祥に命じて地形を測らせ、旧址にそのまま城を築かせたところ、九十日で工事を終えた。
- 太祖は有能と認めて和州總制を授けた。景祥はさらに城隍と樓櫓を整え、屯田を広げ、士卒を訓練したので、威望は引き締まり、和州はついに重鎮となった。璽書を賜って労をねぎらわれた。官は浙江行省參政で終わった。
李夢庚――諸全での最期
- 謝再興が諸全を守っていたとき、その部将がひそかに呉の領内で交易した。太祖は怒ってその部将を殺し、再興を召して諭したうえで、夢庚に諸全へ行って軍事を総制するよう命じた。
- 再興は鎮に還ると、夢庚が自分の上に置かれたことを憤って叛き、夢庚を捕らえて呉に降った。夢庚はそこで死んだ。
王濓――王佐の才
- そのころ行省の参佐にはさらに毛騏と王濓がいた。
- 濓は字を習古といい、定遠の人で、李善長の妻の兄である。若くして学を好み、親に仕えて孝であった。はじめ汝潁の賊に従っていたが、太祖が集慶を克つと江を渡って帰順し、善長の口添えで召見され、執法官に任じられて裁きは公平であった。中書省員外郎に遷り、浙江按察僉事として出て、治績が広く知られた。
- 大風が吹いて昼なお暗くなったとき、詔に応じて民の苦しみを述べ、徴税を緩めることを請い、太祖はこれを容れた。
- 洪武三年(1370年)に卒した。帝は善長に「濓には王佐の才があった。いま死んで、朕は片腕を失った」と言った。のち善長が事に連座したとき、帝は「王濓が生きていたら、必ずここまでにはならなかった」と嘆じた。
毛騏――太祖左右の文書機密
- 騏は字を國祥といい、濓と同郷である。太祖が濠から兵を率いて定遠に向かったとき、騏は縣令を助けて出降した。太祖は喜んで留めて飲食をともにし、兵事を謀るといずれも意にかなった。
- 滁州を取ると總管府經歴に抜擢され、倉廩を掌り、あわせて朝夕の点検を管し、将帥のうち隊列を乱す者を調べた。渡江に従って行省郎中に抜擢された。
- 当時、太祖の左右には善長と騏だけがおり、文書と機密はみな二人が助けた。まもなく參議官を授けられ、婺州征討にあたっては中書省の事務を代行するよう命じられ、腹心として委ねられた。にわかに病で卒した。太祖は自ら文を作って哭し、その葬儀に臨んだ。
- 子の毛驤は管軍千戸となり、功を積んで親軍指揮僉事に抜擢された。中原平定に従って指揮使に進んだ。滕州で段士雄が反すると驤がこれを討ち平らげた。浙東で倭を捕らえて捕獲が多く、都督僉事に抜擢されて親任された。かつて錦衣衛の事を掌り、詔獄を管した。のち胡惟庸の党に連座して死んだ。