明史卷一百三十五 列傳第二十二 宋思顔

参議としての直言

  • 宋思顔はどこの人か分からない。太祖が太平を克つと、思顔を幕府に置いた。集慶を定めて江南行中書省を置き、太祖が省の事務を総べたとき、李善長と思顔を參議とした。
  • 同時に省中の官として置かれたのは李夢庚・郭景祥・侯元善・楊元杲・陶安・阮𢎞道・孔克仁・王愷・欒鳳・夏煜ら数十人であるが、思顔だけが善長と並んで參議を授けられ、その任は他の者より重かった。まもなく大都督府を建てると、思顔に參軍事を兼ねさせた。
  • 太祖が東閣で政務を執っていたとき、暑さで汗が衣を濡らし、側近が替えの衣を進めたが、いずれも何度も洗濯したものであった。思顔は「主公が自ら節倹を行われるのは、まことに子孫に示す手本となります。願わくは終始変わらぬように」と言った。太祖はその率直さを嘉して幣を賜った。
  • 別の日にはまた進み出て「句容の虎が害をなしたので捕らえたのですから、除くべきです。いま民間で飼っておいて何の益がありましょう」と言った。太祖は喜んですぐ虎を殺させた。事に応じて忠を尽くすさまは、おおむねこの通りであった。
  • のち河南道按察僉事として出たが、事に連座して死んだ。

夏煜――文才と伺察の任

  • 夏煜は字を允中といい、江寧の人。俊才があり詩に巧みで、召し出されて中書省博士となった。婺州が平定されると浙東分省に移り、二度にわたって方國珍への使者となり、いずれも上意にかなった。
  • 太祖が陳友諒を征したとき、儒臣では劉基と煜だけが侍した。鄱陽の勝利のとき、太祖とともに檄を草し詩を賦した者の一人が煜である。
  • 洪武元年(1368年)、浙東の諸府を総制する使いとなった。高見賢・楊憲・凌説と四人で人の動静を探り攻撃することを事としたが、のちみな不良の死を遂げた。