明史卷一百三十五 列傳第二十二 范常

滁州での帰順と和州の民

  • 范常は字を子權といい、滁州の人。太祖が滁州に軍したとき、杖をついて軍門に謁した。太祖はもとよりその名を知っており、語り合って意が合ったので、幕下に留め置いた。疑問があればそのつど問い、常はすべて実直に答えた。
  • 諸将が和州を克ったとき軍紀が乱れたので、常は太祖に「一城を得るために人を肝脳地に塗れさせては、どうして大事を成せましょう」と言った。太祖はそこで諸将を厳しく責め、軍中で掠奪した婦女を捜し出してその家に帰したので、民は大いに喜んだ。

上帝への祈文

  • 太祖は四方が割拠して戦争が絶え間ないので、常に命じて上帝に祈る文を作らせた。その辞に言う。
  • いま天下は乱れ、民は塗炭の苦しみにある。主たる者がなければ生きとし生けるものは尽きてしまう。もし元の命運がまだ終わっていないのなら、群雄は早くその罪に伏すべきである。某もまた群雄の中にいるのだから、某から始めていただきたい。もしすでに元の徳に飽きて、天命を受けるべき者があるのなら、そこに帰せしめ、この民を長く危苦のうちに置かないでいただきたい。存亡の機は三か月のうちに現れよう、と。
  • 太祖はよく自分の意を伝えたと嘉して文書を掌らせ、元帥府都事を授けた。

太平知府から翰林直學士へ

  • 太平を取ると知府に任じ、諭して言った。太平は我が股肱の郡で、その民はたびたび兵に苦しんだ。落ち着き所を得させよ、と。
  • 常は簡素な方針で治め、学を興し民をいたわった。官の倉に数千石の穀があったので、種を欠く民に貸し与え、秋の実りに官へ納めさせるよう請い、公私ともに足りた。三年在任して民に親しみ愛された。召されて侍儀となった。
  • 洪武元年(1368年)、翰林直學士に抜擢され太常司を兼ねた。帝が熱心に古の礼文を調べさせ、群臣が集まって議論したとき意見が分かれることがあったが、常は諸説を組み合わせてうまく上意にかなわせた。
  • まもなく病により免ぜられて帰郷したが、一年余りで手詔によって召され、もとの官に復した。帝は宴の折にはそのつど儒臣を並べ座らせて詩を賦させて楽しんだが、常はいつも先に作り、その語は多くが率直であった。帝は笑って「老范の詩は質朴で、その人柄によく似ている」と言った。
  • 起居注に遷った。常はもとから足の病があってたびたび休みを願ったので、安車を賜った。まもなく帰郷を願い出ると、帝は詩四章を賦して送り、太平に邸を賜った。
  • 子の范祖は官を重ねて雲南左參政となり、清廉潔白と称された。

潘庭堅――浙東の撫綏

  • 潘庭堅は字を叔聞といい、當塗の人。元末に富陽教諭となったが辞して去った。太祖が太平に駐まると、陶安の推薦で庭堅を召して帥府教授とした。慎重で内密、謙虚で控えめであり、太祖に称された。
  • 集慶を下すと中書省博士に抜擢された。婺州が下って寧越府と改められると、庭堅を同知府事とした。
  • 当時、上流の諸郡が次々に平定されたので、儒臣を選んでこれを撫綏させた。前後して陶安と汪廣洋を江西に用い、庭堅と王愷が浙東を守った。
  • 太祖が吳王となって翰林院を設けたとき、陶安とともに召されて學士となるはずであったが、庭堅はすでに老いていたので帰郷を願い出た。洪武四年(1371年)、再び召されて会試を主宰した。
  • 子の潘黼は字を章甫といい、文名があり、官は江西按察使に至った。律令の編修にあたって留められて議律官となり、書が完成して卒した。黼は父に似て慎み深く、そのうえ文采の清雅さは父を上回った。父子ともに郷校の出身で世に知られ、当時これを栄誉とした。