明史卷一百三十五 列傳第二十二 陳遇

篇首の立伝者一覧

  • 本篇の巻頭に掲げられた立伝者と附伝者は次のとおり。陳遇(附・秦從龍)、葉兌、范常(附・潘庭堅)、宋思顔(附・夏煜)、郭景祥(附・李夢庚、王濓、毛騏)、楊元杲(附・阮𢎞道、汪河)、孔克仁。

出自と招聘

  • 陳遇は字を中行といい、先祖は曹の人。高祖の陳義甫は宋の翰林學士で建康に移り住み、子孫はそのまま土着した。
  • 遇は生まれつき落ち着いて純粋で、学問に篤く広く書を読み、とりわけ象數の学に精通した。元末に温州教授となったが、まもなく官を捨てて帰隠し、学ぶ者は静誠先生と呼んだ。
  • 太祖が長江を渡ったとき、秦從龍の推薦により書を出して招聘し、伊尹・呂尚・諸葛亮を引き合いに出して誘った。遇が至って語り合うと太祖は大いに喜び、そのまま留めて密議に参与させ、日ごとに親しく信任した。

辞退を重ねた仕官

  • 太祖が吳王となると供奉司丞を授けたが辞退した。皇帝の位に即くと三度にわたって翰林學士を授けたがいずれも辞退したので、肩輿一乗と衛士十人を賜って出入りを護らせ、栄誉と寵愛を示した。
  • 洪武三年(1370年)、命を奉じて浙江に行き民の苦しみを調べ、帰ると金帛を賜り中書左丞に任じられたが、また辞退した。
  • 翌年、華蓋殿に召されて対し、座を賜って平西の詔を草するよう命じられ、禮部侍郎兼𢎞文館大學士を授けられたが、これも辞退した。西域が良馬を献じたときには、遇は漢代の故事を引いて諫めた。太常少卿に任じられたが固辞し、強いても受けなかった。最後に禮部尚書に任じたが、また固辞した。帝はしばらく考え込んだのちこれを認め、以後は無理に官を与えなかった。
  • 帝がくつろいだ折に子を官に就けたいと言ったときも、遇は「臣の三子はみな幼く学問が成っておりません。後日をお待ちください」と答え、帝もまた強いなかった。

帝の師友としての位置

  • 遇は建国の初めから帷幄に侍した。帝が国を保ち民を安んじる根本の策を問うと、遇は、人を殺すことを好まず、税を軽くし、賢者を任用し、先王の礼楽を復することを第一の務めとせよ、と答えた。
  • 廷臣に過失があって譴責されると、遇は力を尽くして弁解し、多くは全く赦された。その計画の多くは秘されて伝わらない。
  • しかし受けた寵遇の厚さは、勲臣や外戚の大臣でも比べられる者がなかった。帝はたびたびその邸に行幸し、話すときは必ず先生と呼び、あるいは君子と呼んだ。爵位を命じてもそのつど辞退し、ついにその高潔さを全うした。
  • 洪武十七年(1384年)に卒し、鍾山に葬るよう賜わった。
  • 子の陳恭は挙人で、官を重ねて工部尚書に至り、有能との評判があった。
  • 遇の弟の陳逺は字を中復といい、かつて遇に随って帝に侍した。永樂の初め(1403年)に翰林待詔となり、絵を得意とした。逺の子の陳孟顒は書に巧みであった。

秦從龍――太祖の顧問

  • 秦從龍は字を元之といい、洛陽の人。元に仕えて江南行台侍御史となり、兵乱を避けて鎮江に移り住んだ。
  • 徐達が鎮江を攻めるとき、太祖は「秦元之という者がいて才器が老成していると聞く。訪ね求めて、私が会いたがっていることを伝えよ」と言った。達は鎮江を下してこれを訪ね当てた。
  • 太祖は甥の朱文正と外甥の李文忠に金と綺を持たせてその廬を訪ね、招聘させた。從龍が妻の陳氏とともに来ると、太祖は自ら龍江に出迎えた。
  • 当時、太祖は富民の家に住んでいたので、從龍を招いて同居させ、朝夕に時事を諮った。まもなく元の御史台をそのまま府として、從龍を西華門の外に住まわせ、事の大小を問わずすべて相談した。かつては漆の簡に筆で書いて問答するほど、その内密さは徹底しており、側近も内容を知ることができなかった。
  • 從龍の誕生日には太祖と世子から厚い贈り物があり、あるいは自ら家に赴いて宴飲した。
  • 至正二十五年(1365年)冬、從龍の子の秦澤が死んだため帰郷を願い出た。太祖は郊外に出て手を握って送った。まもなく病で卒し、享年七十。太祖は驚き悼んだ。翌年、軍を督して鎮江に至ると、自ら臨んで哭し、その家を厚く恤み、有司に葬儀を営ませた。