明史卷一百三十四 列傳第二十二 郭雲

抗戦と帰順

  • 郭雲は南陽の人。身の丈八尺余り、姿かたちは堂々としていた。元末に義兵を集めて裕州の白泉寨を保ち、官を重ねて湖廣行省平章政事に至った。
  • 元主が北に走り、河南の郡縣がみな降ったなかで、雲だけは固守した。大将軍徐達が指揮の曹諒を遣わして囲むと、雲は出て戦い捕らえられた。大将軍が叱って跪かせようとしても、雲は突っ立ったまま罵り死を求め、刃で脅しても動じなかった。
  • 大将軍はその気概に感じ入り、縛って京師に送った。太祖はその容貌を奇として釈放した。ちょうど帝が漢書を読んでいたので、字が読めるかと問うと「読めます」と答えたので、その書を与えた。雲がその書をすらすらと誦じたので、帝は大いに喜んで手厚く賞賜した。
  • 溧水知縣に用いられて政績が上がった。帝はいよいよ賢と認め、特に南陽衞指揮僉事に抜擢し、郷里に還ってもとの部曲を集め、その地に戍らせた。数年で卒した。

子の郭洪への制詞

  • 長子の郭洪はまだ十三歳であった。帝は洪のために制を下して言った。雲は田間から出て義旗を掲げ、郷里を保ち、険しい年月を重ねて仕える先に心を尽くした。王師が北伐して人も神も応じたのに、雲はたびたび戦って屈せず、勢い窮まり援軍も絶えてなお異心を抱かなかった。朕はその節操を嘉し、有司に試みれば里の人々が徳を称え、故郷を鎮めさせれば軍民が生業を楽しんだ。汗馬の勲や倒戈の効はないが、治績は明らかで忠義は凛然としている。子の洪を開国功臣の列に入れ、宣武将軍・飛熊衞親軍指揮使司僉事を授け、世襲とする、と。

王溥――降将から中書右丞へ

  • 同じころ降将で世職を与えられた者に王溥がいる。溥は安仁の人。陳友諒に仕えて平章となり、建昌を守った。太祖が将に命じて攻めさせたが落とせず、朱亮祖が饒州の安仁港で撃ったがこれも利あらず。
  • 友諒の将李明道が信州を攻めたとき、溥の弟の漢二がその軍中にあり、ともに胡大海に捕らえられ、行省の李文忠のもとに送られた。文忠は二人に溥を招かせた。この年、太祖が江州を抜き、友諒が武昌に走ると、溥は使者を遣わして降り、そのまま建昌を守るよう命じられた。
  • 翌年、太祖が龍興に至ると、その衆を率いて謁見し、たびたびねぎらわれ、従って建康に帰った。聚寶門外に邸を賜り、その街を宰相街と呼ばせて厚遇した。
  • まもなく撫州および江西でまだ服属しない郡縣を取らせ、武昌攻略に従って中書右丞に進んだ。洪武元年(1368年)、詹事府副詹事を兼ねるよう命じられ、大将軍に従って北征してたびたび功があり、文幣を賜って河南行省平章に抜擢されたが、事務は執らず、歳禄は李伯昇・潘元明に準じた。

王溥――母を尋ねる

  • はじめ溥がまだ仕えていないころ、母の葉氏を奉じて貴溪に兵乱を避けたが、乱のなかで母と離ればなれになり、十八年が過ぎた。かつて夢に母が現れて居場所を告げたようだったので、そこで落ち着いて帝に申し出て、墳墓を省みるための帰郷を願った。帝は許し、礼官に祭物を用意させた。
  • 溥は士卒を率いて貴溪に行って探したが見つからず、昼夜泣き叫んだ。土地の人の吳海が「夫人は賊に迫られて井に身を投げて亡くなった」と言った。溥が井を探し当てると、鼠が井から出てきて溥の懐に飛び込み、すぐまた井に入った。井の水を汲んで探ると、母の遺体がそこにあった。溥は悲しみ叫んで自分を抑えられず、棺を用意して納め、その地に葬った。
  • 溥の死後、子孫は指揮同知を世襲した。

史論

  • 賛に曰く。何文輝と徐司馬は股肱としての信任を託され、葉旺と馬雲は辺境で功を挙げた。繆大亨はまっすぐな人柄で偲ばれ、郭雲は政績によって寵を得た。そのほか蔡遷・王銘・甯正・金興旺らも、ある者は戦に長じ、ある者は守りに長じ、ある者は民の安撫に長じており、要するにみな当代の良将であった。思うに明の運が興った当初は人材が盛んに現れ、鉄券丹符を与えられた功臣のほかにも、なお称すべき者がこれほどいた。詩人が兔罝を詠んだのに比べても、いささかも劣るものではない。