明史卷一百三十四 列傳第二十二 丁玉

四川平定と胡惟庸の連座

  • 丁玉ははじめの名を國珍といい、河中の人。韓林兒に仕えて御史となり、弁舌の才で当時の評判があった。呂珍が安豐を破ると玉は帰順した。
  • 彭蠡の征討に従い、九江知府となった。大軍が建康に還ったのち、彭澤の山民が叛くと、玉は郷兵を集めてこれを討ち平らげた。太祖はその武略を嘉して指揮を兼ねさせ、名を玉と改めさせた。
  • 傅友徳に従って衡州を克ち、指揮同知としてその地を鎮め、さらに永州の守備に移された。玉は文武の才を備え、新たに帰属した者を安撫して威望がたいへん高かった。
  • 洪武元年(1368年)、都指揮使に進み、まもなく行省叅政を兼ねて廣西に鎮した。十年(1377年)、召されて右御史大夫となった。
  • 四川の威州・茂州の土酋董貼里が叛くと、玉を平羌将軍としてこれを討たせた。威州に至ると貼里は降り、承制によって威州千戸所を設けた。
  • 十二年(1379年)、松州を平定し、玉は指揮の髙顯らを遣わして城を築かせ、軍衞を立てることを請うた。帝は「松州は山が多く田が少ないから、耕作しても軍を養えない。守るのは良策でない」と言ったが、玉は「松州は西羌の要地で、軍衞を廃すべきではない」と述べ、玉の議のとおり官を置いて戍を築いた。
  • 四川の妖人彭普貴が乱を起こし、十四の州縣を焼き掠めたが、指揮の普亮らは平定できなかった。玉に軍を移して討滅させ、帝は自筆の敕で褒め称え、左御史大夫に転じた。軍を返すと大都督府左都督を拝した。
  • 十三年(1380年)、胡惟庸の姻戚として連座し誅された。