鳳翔籠城戦
- 金興旺は出自が分からない。威武衞指揮僉事となり、同知に進んだ。洪武元年(1368年)、大将軍徐達が河南から陝西に至り、兵を増して潼闗を守ることを請うたので、興旺は郭興の副として潼闗を守り、指揮使に進んだ。
- 翌年、臨洮を攻めるにあたり興旺は鳯翔の守備に移され、軍糧の輸送にあたった。まもなく賀宗哲が鳯翔を攻め、興旺は知府の周煥とともに城に籠って守った。
- 敵は荊を編んで大きな箕の形に作った。半ば舟のような形で、箕ひとつを五人が背負って城を攻めたので、矢石も通らなかった。藁を投げて焼こうとしても、藁は舞い上がってしまう。そこで藁の中に鉤を仕込んで隙間に引っかけて投げると、火が燃え広がり、敵は箕を捨てて逃げた。次に地道を掘って城に迫ると、城中から矛で迎え刺し、敵の死者は非常に多かったが、なお攻撃はやまなかった。
- 興旺は煥と謀って「敵は我が援軍が来ないと思っているから、こちらが出るとは考えていない。不意を突けば破れる」と言い、ひそかに西北門から出て奮戦し、敵はやや退いた。
- ちょうど百戸の王輅が臨洮で李思齊の降卒を収めて東へ帰ってきたので、その衆をそのまま城に入れて共に守った。敵は営を払って去り、みな追撃しようとしたが、輅は「敗れてもいないのに退くのは、こちらを誘っているのだ」と言った。騎兵を出して偵察させると、五里坡で果たして伏兵が起こった。
- 敵は軍を返して再び城を囲んだ。人々は逃げようと言い出したが、興旺は叱って「天子が城を我に託されたのだ。どうして去れようか」と言った。輅の率いる者はみな新たに帰属した者なので、変事を恐れて城中の財貨と家畜を集めて庭に積み、「敵の攻撃が少し緩んだら新兵を大いにねぎらう」と令を出した。新兵は喜んで力を合わせて固守した。
- 十五日にらみ合ったのち、敵は慶陽が落ちたと聞いて引き揚げた。帝は使者を遣わし、金と綺で興旺らをねぎらった。
興元防衛
- 翌年、徐達が沔州に入ると、興旺と張龍を遣わして鳯翔から連雲棧を通らせ、合わせて興元を攻めさせた。守将が降ると興旺にこれを守らせ、大都督府僉事に抜擢した。
- 蜀の将吳友仁が三万の衆を率いて興元に攻め寄せた。興旺は城中の兵三千をことごとく出して防ぎ、顔に流れ矢を受けたが、矢を抜いてまた戦い、数百人を斬った。敵がさらに増えたので兵を収めて入城した。
- 友仁は濠を切って塹を埋め、必ず落とすつもりで構えた。徐達はこれを聞いて傅友徳に夜、木槽闗を襲わせ、斗山寨を攻めさせた。一人が十本の松明を持ち、山の上に連なって並んだので、友仁は驚いて逃げた。興旺が兵を出して追撃すると、崖から落ち石に打たれて死ぬ者は数え切れなかった。友仁はこれ以来気勢を奪われた。
- 当時、興旺の威は隴と蜀に鳴り響いた。建国当初の諸都督のうち、城を守った功では興旺のほかにとくに費子賢が推された。
費子賢――安吉の守り
- 費子賢もまた出自が分からない。渡江に従って廣徳翼元帥となり、たびたび功があった。武康を取り、また安吉を取って城を築いて守った。張士誠の兵がたびたび攻めてきたが、そのつど敗れて去った。
- 最後に張左丞が八万の兵で攻めてきたとき、子賢の部下はわずか三千であったが、守りは極めて堅かった。城上に車弩を設けて敵の猛将二人を射殺したので、敵は囲みを解いて去った。この功で指揮同知に進んだ。
- 福建を取り、元の都を克ち、定西の戦いにいずれも功があり、大都督府僉事と世襲の指揮使を授けられた。