河州経営と屯田
- 甯正は字を正卿といい、壽州の人。幼くして韋徳成の養子となり、韋姓を名乗った。元末に徳成に従って帰順し、渡江にも従った。徳成が宣州で戦死すると、正がその衆を率い、功を積んで鳯翔衞指揮副使を授けられた。
- 中原平定に従って元の都に入り、元の将士八千余人を招降した。傅友徳が真定から平定州を攻略すると、正は真定を守った。ついで大軍に従って陝西を取り、馮勝が臨洮を克つと正を留めて守らせた。大軍が慶陽を囲むと、正は邠州に駐屯して敵の後援を絶った。慶陽が下ると臨洮の守備に戻り、鄧愈に従って定西を破り、河州を克った。
- 洪武三年(1370年)、河州衞指揮使を授けられた。上言して、西方の民が粟を運んで軍に給するのはたいへんな労苦であるが、茶と布は粟と交換できるので、茶と布を軍に給して自ら交易させれば運送の苦を省ける、と述べ、詔によって容れられた。
- 正が着任した当初、衞の城邑は空虚であったが、勤めて人を招き寄せ、数年ならずして河州は楽土となった。璽書を賜って労をねぎらわれ、このとき初めて甯姓に復した。
- 寧夏衛の事を兼ね領し、漢唐以来の旧渠を修築して黄河の水を引いて田に灌ぎ、数万頃の屯田を開いて兵糧を豊かにした。
北征と雲南鎮守
- 洪武十三年(1380年)、沐英に従って北征し、元の平章托和齊・知院按珠を捕らえ、全寧の四部を取った。
- 十五年(1382年)、四川都指揮使に遷り、松州・茂州の諸州を討ち平らげた。雲南が平定されたばかりのころ、正は馮誠とともにこれを守るよう命じられた。
- 思倫𤼵が乱を起こすと、正は摩沙勒寨でこれを破り、千五百の首を斬った。のち敵の大軍が集まって定邉を囲むと、沐英は兵を三隊に分け、正は左軍を率いて激戦し、大いにこれを破った。詳しくは英の伝にある。土酋の阿資が叛くと、また英に従ってこれを討ち降した。
- 英が卒すると、詔により正に左都督を授けて代わって鎮守させた。さらに平羌将軍として川陝の兵を統べ、階州・文州で叛いて寇をなした者を討ち平らげた。
- 二十八年(1395年)、秦王に従って洮州の番を討ち平らげ、京に還った。翌年(1396年)卒した。
袁義――帳前親軍から楚雄鎮守へ
- 袁義は廬江の人。もとの姓は張で、張徳勝の族弟である。はじめ雙刀趙の總管として安慶を守り、沙子港で趙の同僉丁普郎を破った。左君弼が招いたが応じず、徳勝が戦死してから帰順し、帳前親軍元帥となって姓名を賜った。
- たびたび征伐に従って功を積み、興武衞指揮僉事となった。大将軍に従って北征し、通州で元の平章温普達らを破り、澤州・潞州で賀宗哲・詹同を敗走させ、功は第一であった。
- さらに陝西平定に従って元の豫王の兵を破り、諸将と合わせて慶陽を攻めた。張良臣の兵が急に義の営に迫ったが、義は塁を固めて動かず、相手が緩んだところを力攻めして破った。定西で庫庫の軍を敗走させ、南に興元を取り、本衞の同知に進んだ。羽林衞に移され、遼東に鎮を移した。
- のち沐英に従って雲南を征し、普定の諸城を克ち、楚雄に留まって鎮守した。蛮人がたびたび叛くと、義は糧を積み塁を高くし、守りながら戦って、その功で楚雄衞指揮使に遷った。
- かつて入朝したとき、帝は手厚くねぎらい、その老齢を思って医師に鬚と鬢を染めさせ、任地に還して遠人を威圧させ、さらに特に銀印を賜って厚遇した。
- 二十年にわたり、田を開き堰を築き、城郭や橋梁を整えて計画が行き届き、軍民はその徳を慕った。建文元年(1399年)召還されて右軍都督府僉事となり、同知に進んで在官のまま卒した。