帰順と揚州平定
- 繆大亨は定遠の人。はじめ義兵を糾合して元のために濠州を攻めたが落とせなかった。元の兵が潰えたのち、大亨だけは二万の衆を率いて張知院とともに横澗山に屯して一か月余り固守した。太祖は計略を用いて夜その営を襲って破り、大亨は子とともに逃れた。夜明けに散卒を収めて陣を並べて待ったが、太祖がその叔父の繆貞を遣わして降を諭させた。
- 麾下を率いて従軍を命じられ、たびたび功を立てて元帥に抜擢され、兵を統べて揚州を取ってこれを克ち、青軍元帥の張鑑を降した。
- 張鑑ははじめ淮西で衆を集め、青い布を目印にしたので青軍と呼ばれ、また長槍が得意なので長槍軍とも称した。含山から揚州へ転戦して掠奪し、元の鎮南王博囉布哈がこれを招降して濠泗義兵元帥とした。一年余りで食糧が尽きると王を擁して乱を起こそうと謀り、王は淮安に走って死んだ。鑑はそのまま城に拠り、住民を殺して食料とした。
- 大亨は太祖に「賊はいま飢えて困っている。四方に出て食を掠め始めれば抑えがきかなくなる。しかも勇猛で使える者たちだ。他人の手に渡してはならない」と進言した。太祖は大亨に急ぎ攻めさせ、鑑は降った。数万の衆と馬二千余匹を得、その将校の妻子はすべて應天に送った。
- 淮海翼元帥府を改めて江南分樞密院とし、大亨を同僉樞密院事として揚州・鎮江を總制させた。大亨は治政の才があり、寛厚で民を騒がせずに治め、軍律は厳しく、暴を禁じ残虐を除いたので、民は大いに喜んだ。
- まもなく卒した。太祖は鎮江を通ったとき「繆将軍は生涯まっすぐで過ちがなかった。会えぬのが惜しい」と嘆き、使者を遣わしてその墓を祭らせた。
武徳――李文忠麾下の勇将
- 武徳は安豐の人。元の至正年間に義兵千戸となった。元の滅亡が近いと見て、その帥の張鑑に「我らの才は万人に雄たる者だが、いま東西に敗れ続け、成り行きは明らかだ。早く頼る先を選ぶに越したことはない」と説いた。鑑はその言を認め、相率いて太祖に帰順した。
- 李文忠に属して池州に赴き、力戦して流れ矢が右の股に当たったが、これを抜いて平然と戦い続けた。於潛・昌化を取り、嚴州を攻略するのにいずれも加わって萬戸に進んだ。
- 苗帥の楊完者が烏龍嶺に軍したとき、徳は「これは奇襲して取れます」と請うた。文忠が理由を問うと「高みから窺ったところ、その部隊は移動が落ち着かず、騒がしい」と答えた。文忠は「よし」として完者を襲い、その営を覆した。
- 蘭溪を取り、諸暨を克ち、紹興を攻めたが、いずれも先登して敵陣を破り、右腕を傷めても意に介さなかった。文忠は「将士が人ごとにこうであれば、どんな戦にも勝てる」と嘆じた。
- 蒋英・賀仁徳が叛いて浙東が大いに動揺すると、文忠に従って金華を平定し、さらに處州攻めに従った。劉山で仁徳と出会い、戈が右の股に当たると、徳は刀を引いて戈を断ち切って追撃した。仁徳は二度戦って二度敗れて逃げ、ついに配下に殺された。
- 徳は軍を還して嚴州を守った。二年後に官制が定まり、管軍百戸に改められた。文忠に従って諸暨で張士誠の兵を破り、諸将とともに浦城を救援して、通過した山寨をすべて下した。さらに文忠に従って建州・延平・汀州の三州を下し、閩の渓谷の諸寨をことごとく平定した。管軍千戸に進み、衢州に守りを移して世襲を与えられた。
- 最後に靖海侯吳禎に従って海上を巡視した。禎は徳を任に堪えると認めて平陽を守らせ、在任八年で致仕した。雲南征討に際しては、帝が徳を宿将として諸大帥とともに行かせた。
- 張鑑はまた明鑑ともいい、淮西の人。太祖に帰順してからは、攻伐のたびに必ず武徳とともに先陣に立った。徳より先に卒し、官は江淮行樞密院副使に至った。