金山の役で捕らえられ自刃
- 濮英は廬州の人。はじめ勇力によって百夫長となり、功を積んで西安衛指揮に至った。軍政が整わないとして召し還されて詰責され、葉昇を代わりに遣わしたが、昇があらためてその賢を言上したので、衛に還らせた。
- 洪武十九年(1386年)、太祖は耿炳文に陝西都司の衛所の卒を選んで辺境に備えさせたが、英の練った兵だけが精鋭と称された。都督僉事を加えられた。
- 翌年、部下を率いて大將軍馮勝に従って北征するよう命じられ、金山に至って納克楚を降し、そのまま軍を返した。英は奇兵三千人を率いて殿軍となった。
- 納克楚の残衆で身を隠していた者はなお数十万おり、軍が返ると聞いて道に伏兵を設け、大軍が過ぎるのを待って掠め取ろうと謀った。それが発する前に、英が後から至って不意を突かれ、突撃したが抜け出せず、馬が倒れてついに捕らえられた。
- 敵は英を得て人質にしようと考えたが、英は絶食して口をきかず、隙をうかがって佩刀を引き腹を切って死んだ。
- 事が聞こえると金山侯を贈られ、諡は忠襄。翌年、樂浪公を進贈され、その子の濮璵を西涼侯に封じ、祿二千五百石、世劵を賜った。
- 洪武二十三年(1390年)、東昌で練兵するよう命じられ、また臨清に駐屯して士卒を訓練させた。洪武二十五年(1392年)、召し還されて宋國公馮勝らとともに山西の士馬を検閲した。
- 璵はよく父の職を務め、帝はたいそう嘉した。また山西の民兵を籍させたところ、籍した州県は最も多かったが、事は整って騒がしくならなかった。翌年、藍玉の党に坐して五開に流され、そこで死んだ。
洪武年間に事に死んだ指揮使たち――于光・嚴徳・孫虎ほか
- 洪武年間に事に死んだ指揮使には、ほかに于光・嚴徳・孫虎がいる。
- 于光は都昌の人。はじめ徐壽輝に仕えて浮梁を鎮めた。陳友諒が壽輝を弑すると、光は浮梁をもって降り、樞密院判を授かった。功を積んで鷹揚衛指揮となり鞏昌を鎮めた。庫庫が蘭州を囲んだとき、光は救援に赴き、馬蘭灘に至って敗れ捕らえられ、城下に引き回された。光は大声で「公らはただ堅く守れ。徐將軍が大軍を率いて朝夕のうちに至る」と叫んだ。賊は怒ってその頬を打ち、そのまま殺した。功臣廟に祀られた。
- 嚴徳は太平の人。挙兵の当初から従い、功を積んで海寧衛指揮となった。朱亮祖に従って方國珍を討ち、台州で戦没した。天水郡公を追封された。
- 孫虎はどこの人か分からない。池州救援に従い、於潛・昌化を落とし、建徳・諸全を平定していずれも功があり、千戸を授かった。新城・桐廬を陥として海寧衛指揮使に進み、嘉興の盗賊を平らげた。副將軍李文忠に従って北征し、東道から應昌に入り、落馬河に至って元兵と戦って死んだ。康安郡伯を追封された。
- また指揮僉事の劉廣は永平を守り、賊を防いで戦死した。
- 涼州衛百戸の劉林は涼州を守り、額森特穆爾が叛いたときに戦死した。辺境の人はこれを壮とし、その住んでいた竇融臺を劉林臺と名づけた。
- 錢塘衛千戸の袁興は全椒の人。雲南征討に従い、自ら前鋒を願い出て、陣中で死んだ。いずれも差をつけて褒賞・追贈された。
史論
- 贊に曰く――明の太祖の興起は、渡江を決断したところから始まる。東南数千里の内で力を尽くして争い、陳友諒を摧き張士誠を滅ぼし、そののちに北は中原を定め、南は閩・粤を図った。とすれば廖永安・胡大海以下の人々の功は、どうして小さかろうか。
- 彼らは踵をめぐらす間もなく戦場で命を捧げた。勲業こそ全うできなかったが、廟祀に褒め崇められ、その名は史書に燦然と輝いている。功を成して爵を受けながら、ついに奸党の罪に落ちた者たちに比べれば、なお幸いであったといえよう。