明史卷一百三十三 列傳第二十一 趙徳勝

出自と江南各地の戦功

  • 趙徳勝は濠の人。元の義兵の長で、馬上の槊に長け、戦うたびに先登した。王孟格の麾下に属していたが、必ず敗れると見て取り、太祖が滁陽を取ったとき、徳勝の母が軍中にいたので、妻を棄てて帰順した。太祖は喜んで名を与え、帳前先鋒とした。
  • 鐵佛岡を取り、三汊河を攻め、張家寨を破り、全椒・後河の諸寨を陥とすのに従った。六合を救援して流れ矢に当たり危うく死ぬところだった。
  • 雞籠山を撃ち、烏江を衝き、和州・含山を落とし、夜に陳額森の営を襲い、板門・鐵長官の二寨を抜き、そのまま儀真を取って總管府先鋒を授かった。
  • 渡江に従って太平を落とし、蕪湖・句容・溧水・溧陽を陥として、いずれも功があった。
  • 常遇春に従って曼濟哈雅を采石に破り、陳兆先の営を方山に破り、集慶を落として功が最も多かった。
  • 徐達に従って鎮江を取り、苗軍の水寨を破り、丹陽・金壇を落とし、寧國を平らげ、転じて領軍先鋒となって廣徳を取り、張士誠の水寨を破った。
  • また遇春に従って常州を攻め、牛塘の囲みを解き、廣徳・寧國を回復し、江隂を取り、常熟を攻めて張士徳を捕らえた。湖州攻めに従い、宜興が叛くと兵を返して平定し、中翼左副元帥に抜擢された。
  • 陳友諒が龍灣を侵したとき、龍江の第一関を虎口城といったが、太祖はこれを徳勝に任せた。友諒が至ると力戦し、伏兵が起こって友諒は大敗した。
  • そのまま太平を回復し、銅陵・臨山寨を落とし、黄山橋および馬河沙を攻略し、高郵を征して功があり、後翼統軍元帥に進んだ。
  • 太祖の西征に従って安慶の水寨を破り、風に乗じて小孤山まで遡り、九江まで五里に迫った。友諒ははじめて気づいて慌てて逃げ去り、そのまま九江を陥とした。黄梅・廣濟を攻略し、瑞昌・臨江・吉安を陥とし、還って安慶を落とし、進んで撫州を陥とし、新淦を取った。南昌の叛将を討ってその城を回復し、砲で肩を傷つけられた。僉江南行樞密院事を授かり、朱文正・鄧愈とともに南昌を守った。
  • 羅友賢を池州に平らげ、友諒の将を西山に破り、臨江・吉安・撫州を回復した。

南昌籠城戦での戦死

  • まもなく友諒が大挙して兵を出し南昌を囲むと、徳勝は部下数千を率いて城を背に迎え戦い、その将を射殺したので敵は大いに沮喪した。
  • 翌日、敵は再び集まって城を幾重にも囲み、友諒が自ら戦を督して昼夜攻め、城が壊れかかった。徳勝は諸将を率いて死力を尽くして戦い、戦いながら城を築いて、壊れてはまた完成させた。
  • 日暮れに城門の楼に座って士卒を指揮していたとき、弩が腰と背に当たり、鏃が六寸も入った。これを抜き出して嘆じ「私は壮年から従軍して矢石に傷つくこと数知れぬが、これほど重いものはなかった。丈夫たる者、死は恨みではない。ただ中原を掃き清められぬのが恨みだ」と言い、言い終わって絶命した。三十九歳。
  • 梁國公を追封され、諡は武桓。功臣廟に列祀され、太廟に配享された。
  • 徳勝は剛直沈着で、部下を統べるのに厳粛であった。書を読んだことはなかったが、臨機応変が古の法にかない、平生は篤く孝行で兄弟に友愛があり、修養を積んだ士のようであった。

南昌籠城の戦死者――忠臣廟の十四人

  • 友諒が南昌を囲むこと八十五日、前後して戦死した者は十四人であった。
  • 張子明は領兵千戸である。洪都の囲みが長引いて内外が隔絶したとき、朱文正は子明を遣わして應天に急を告げさせた。東湖の小漁舟で水関からひそかに出て、夜行し昼は止まり、半月かかってようやく到着した。太祖が友諒の兵勢を問うと「兵は多いが戦死した者も少なくない。今、江水は日に日に涸れており、賊の巨艦はやがて不利になる。援軍が至れば破れます」と答えた。太祖は「帰って汝の将に、一か月堅守せよ、私が自ら討ちに行くと伝えよ」と言った。帰路、湖口で友諒に捕らえられ、城中に降伏を勧めるよう命じられた。子明は偽って承知し、城下に至って大声で「私は張大舍である。すでに主上にお目にかかった。諸公は堅く守れ、救援はまもなく来る」と叫んだ。賊は怒って槊を集めて殺した。忠節侯を追封された。
  • 友諒が撫州を攻めたとき、樞密院判の李繼先は城に上って戦死した。
  • 左翼元帥の牛海龍は囲みを破って死んだ。
  • 左副元帥の趙國旺は兵を率いて戦艦を焼き、敵に追われて橋の下に投じて死んだ。
  • 百戸の徐明は馬を躍らせて出て賊を射た。賊は明の名を知って力を合わせて攻め、捕らえられて死んだ。
  • 軍士の張徳山は夜半にひそかに城を出て賊の舟を焼いたが、賊に気づかれて死んだ。
  • 夏茂成は城楼を守って飛砲に当たって死んだ。
  • 右翼元帥同知の朱潛、統軍元帥の許珪はともに戦死した。
  • 蔣必勝は吉安で陥り、參政の劉齊、知府の朱文華は捕らえられて屈せず死んだ。
  • 趙天麟は臨江を守り、友諒が攻めて城が陥ると、屈せず死んだ。
  • 祝宗・康泰が叛いて洪都を陥れたとき、知府の葉琛と行省都事の萬思誠が迎え戦っていずれも死んだ。
  • 事が平定されると、みな侯・伯以下の爵を差をつけて贈られた。豫章に忠臣廟を立て、十四人を並び祀り、趙徳勝を筆頭とした。

康郎山の戦死者――三十五人

  • 康郎山で戦死した者は三十五人で、筆頭は丁普郎である。
  • 丁普郎ははじめ陳友諒の将として小孤山を守っていたが、傳友徳(傅友徳の誤りか)とともに来降し、行樞密院同知を授かってしばしば功があった。南昌救援に赴き、鄱陽湖で辰の刻から午の刻まで大いに戦い、普郎は身に十余の傷を受け、首が落ちてもなお直立して武器を執り戦う姿勢のままであった。敵は驚いて神と思った。時に七月己丑の日である。濟陽郡公を追贈された。
  • 張志雄もまた友諒の将で、もとより驍勇で「長張」と号した。趙普勝に従って安慶を守っていたが、友諒が普勝を殺したので恨んで来降し、樞密院判となった。この戦いで船の帆柱が折れ、敵が槍を集めて刺し、逃れられぬと知って自刎した。
  • 元帥の余昶、右元帥の陳弼、徐公輔はみなこの日に戦没した。
  • その前日、左副指揮の韓成、元帥の宋貴・陳兆先が戦没した。韓成の子の韓觀は都督に至り、別に伝がある。陳兆先は陳額森の甥で、捕らえられたのち、太祖がその兵を宿衛に加えたので、帝の大度に感じて死力を尽くし、ここに至って戦死した。
  • 三日後の辛卯にまた大いに戦い、副元帥の昌文貴、左元帥の李信・王勝・劉義が死んだ。
  • 八月壬戌、敵を涇江口に扼したとき、同知元帥の李志高、副使の王咬住もまた戦死した。
  • その他、副将で事に死んだ者は、千戸の姜潤・王鳳顯・石明・王徳・朱鼎・王清・常徳勝・袁華・陳冲・王喜仙・汪澤・丁宇・史徳勝・裴軫・王理・王仁、鎮撫の常惟徳・鄭興・逮徳山・羅世榮・曹信である。
  • 贈られた爵は公一人、侯十二人、伯二人、子十五人、男六人。康郎山忠臣廟に肖像が掲げられ、有司が毎年祭祀を行った。
  • また程國勝という者は徽の人で、義兵元帥として帰順し、楊完者を破り、功を積んで萬戸となり南昌を守った。牛海龍とともに夜に友諒の営を襲い、海龍が流れ矢に当たって死んだとき、國勝は泳いで脱し、金陵に至って太祖に従って鄱陽に戦った。張定邊がまっすぐ進んで太祖の船を犯したとき、國勝は韓成・陳兆先とともに小舟を駆って左右から奮撃し、太祖の船は脱出できた。國勝らは敵艦の後ろに回り込んで出たが、援が絶えて力戦して死んだ。南昌城中では國勝はすでに先に死んだと思われていた。そのため豫章・康山の両廟ともに祀られることになったという。