巣湖からの帰順と龍灣の戦い
- 張徳勝は字を仁輔といい、合肥の人。才と計略が雄大で、俞通海らとともに舟師を率いて巣から帰順した。
- 渡江に従って采石・太平を陥とした。陳額森が攻めて来ると、湯和らとともに破って捕らえ、太平興國翼總管を授かった。
- 曼濟哈雅の水寨を破り、陳兆先を捕らえ、集慶を落とし、鎮江を陥として秦淮翼元帥を授かった。常州を取って樞密院判に抜擢された。
- 寧國を陥とし、長槍軍を収め、太湖を落とし、馬蹟山を攻略し、宜興を攻め、馬䭾沙および石牌寨を取り、僉樞密院事に進んだ。
- 趙普勝が池州を陥とすと、徳勝は救援に赴いたが間に合わなかった。還って徐達に従って宜興を抜いた。
- 普勝がまた青陽・石埭を掠めると、徳勝は柵江口に戦ってこれを敗走させ、のち通海とともにその衆を撃ち破って池州を回復した。
- 兵を率いて無為から浮山へ向かい、普勝の将・胡總管を追い払い、青山まで追って破り、敗走する敵を潛山まで追った。陳友諒の将・郭泰が迎え撃ったが、沙河でこれを破って斬り、そのまま潛山を陥とした。
- 友諒が龍灣を侵すと、徳勝は舟師を総べて迎え撃ち、殺傷は互角であったが、徳勝が大声で諸将を指揮して奮撃すると、友諒の軍は崩れて大敗した。諸将とともに慈湖まで追いつき、火を放ってその舟を焼いた。采石に至って大いに戦い、陣中に没した。
- 蔡國公を追封され、諡は忠毅。功臣廟に肖像が掲げられ、太廟に配享された。子の張宣は幼く、養子の興祖が職を嗣いだ。
汪興祖――張徳勝の養子、山東・大同の平定と蜀での戦死
- 興祖は巣の人。もとの姓は汪。職を嗣いでから、安慶を破り、江州を陥とし、蘄州・黄州を抜き、南昌を取るのに従った。
- 安豐救援に従って張士誠の兵を大破し、鄱陽の戦いでは廖永忠らとともに六隻の船で敵中深く入り、また友諒を涇江口に迎え撃って功が最も多く、湖廣行省參政に抜擢された。
- 武昌平定に従い、そのまま廬州を陥とし、通州まで攻略して還り、大都督府僉事に進んだ。徐達に従って淮東を取り、浙西を落とし、同知大都督府事に進んだ。
- 大軍が北征したとき、別将として衛の軍を率い、徐州から沂州・青州・東平を陥とし、勝ちに乗じて東阿に至り、元の參政・陳璧およびその部下五万余人を降した。
- 孔子五十六世の孫である衍聖公の孔希學が、曲阜知縣の孔希舉・鄒縣主簿の孟思諒らを率いて軍門に迎え謁したので、興祖は礼をもって遇した。兗東の州県は風を聞いてみな降り、そのまま濟寧・濟南を取った。
- 洪武元年(1368年)、都督として右率府使を兼ね、樂安攻めに従って汴梁・河洛を陥とし、還って濟寧を守った。大將軍と徳州で合流し、師を率いて黄河沿いに進んで元の都を陥とし、永平を攻略し、また西して大同を取り、三衛の卒を率いてこれを守り、再び元兵を破って斬獲は数えきれなかった。
- このとき徳勝の子の宣がすでに成長していたので、宣を宣武衛指揮同知とし、興祖は汪の姓に復した。
- 洪武三年(1370年)、進んで武州・朔州の二州を陥とし、元の知院・馬廣らを獲た。兵を率いて大同の北口に至り、元兵を大破して庫庫の弟の金剛努ら四百余人を獲た。
- まもなく晉王武傅・山西行都督府同知を兼ねるよう命じられた。
- 洪武四年(1371年)、前將軍傳友徳(傅友徳の誤りか)に従って兵を合わせて蜀を伐ち、階州・文州を陥とし、勝ちに乗じて五里關に至ったが、飛石に当たって死んだ。
- 蜀が平定されると、詔して都督興祖は王事に殉じたとしてその子を優遇して賞し、東勝侯を追封して世劵を与えた。興祖の子は幼く、張宣と同居するよう命じられたが、病で卒去し、爵位は除かれた。