巣湖からの帰順と渡江
- 廖永安は字を彦敬といい、徳慶侯廖永忠の子である。
- 太祖が挙兵した当初、永安の兄弟は俞通海らとともに舟師を率いて巣湖から帰順した。太祖は自ら赴いてその軍を収めた。
- そのまま舟師で元の中丞・曼濟哈雅を馬場河に攻めた。元人は楼船を操って進退が思うにまかせなかったが、永安らの船は飛ぶように動き、二度戦って二度破り、渡江の策がここに定まった。
- ほどなく江口に出て、永安が帆を揚げて向かう先を問うと、まっすぐ牛渚を指すよう命じられた。西北の風が激しく吹き、たちまち岸に達した。太祖は常遇春に先登を命じ、采石鎮の兵はみな潰え、そのまま勝ちに乗じて太平を取り、管軍總管を授かった。
- 舟師で曼濟哈雅の水柵を破り、陳兆先を捕らえて集慶に入り、建康翼統軍元帥に抜擢された。
呉との水戦と捕囚、死後の追諡
- 舟師を率いて鎮江を取り、常州を陥として、同僉江南行樞密院事に抜擢された。
- また舟師で常遇春とともに銅陵から池州へ向かい、合わせてその北門を破り、徐壽輝の守将を捕らえて池州を陥とした。
- 俞通海とともに江隂の石牌の戍を抜き、張士誠の守将・欒瑞を降し、同知樞密院事に抜擢された。
- また舟師で士誠の兵を常熟の福山港に破り、さらに通州の狼山に破って、その戦艦を獲て帰った。
- そのまま徐達に従って宜興を回復し、勝ちに乗じて深く太湖に入ったが、呉の将・呂珍に遭って戦い、後続の軍が続かず、船が浅瀬に乗り上げて捕らえられた。
- 永安は水戦に長け、行く先々で功があった。士誠はその才と勇を惜しんで降そうとしたが応じず、囚われた。太祖は永安が屈しないのを壮として、遠く行省平章政事を授け、楚國公に封じた。永安は囚われること八年、ついに呉で死んだ。呉が平定されて喪が還ると、太祖は郊外で迎えて祭った。
諸功臣への諡号の追贈(洪武六年・九年)
- 洪武六年(1373年)、帝は天下が大いに定まったのに、永安および俞通海・張徳勝・耿再成・胡大海・趙徳勝・桑世傑ら先に没した功臣にまだ諡号が無いことを思い、礼部に議定を命じた。
- 礼部の議は次のような趣旨であった――元は統御を失い天下は沸き立ち、英傑の士は義兵を起こしたり一方を保ったりして、混乱して帰属するところを知らなかった。真人が奮い立つと、期せずして人が集まった。龍が行けば雲が起こり、虎が嘯けば風が生じるようなものである。楚國公臣永安らはみな熊羆のごとき士、膂力の才であり、堅陣を破って陣中に没するか、変事に遭って身を捨てるかして、義と忠をともにし、その名は天地に輝いている。陛下は天下を統一して旧労を追念し、爵禄は子孫に及び、祭祀は祀典に載せられた。名を改め諡を定めるのは礼にかなう。
- 諡法に照らして次のように定めた。敵に赴き難に逢ったことにより臣永安に武閔、身を殺して敵に克ったことにより臣通海に忠烈、上に奉じて果断であったことにより臣張徳勝に忠毅、敵に勝って強を致したことにより臣大海に武莊、土地を開き境を斥け武ありながら遂げなかったことにより臣再成に武壯、衝を折り侮りを禦ぎ壮にして力あったことにより臣趙徳勝に武桓。臣世傑はすでに永義侯に封じられており、漢の世祖が寇恂・景丹を封じた例と類するので、そのまま諡とする、と。詔して許された。
- 洪武九年(1376年)、いずれにも開國輔運推誠宣力武臣・光禄大夫・柱國を加贈した。のちに永安を鄖國公に改封した。永安に子が無かったので、その甥の廖昇を指揮僉事に任じた。