出自と巣湖からの帰順
- 俞通海は字を碧泉といい、その先祖は濠の人。父の俞廷玉が巣に移った。子は三人あり、通海・通源・通淵である。
- 元末に汝寧・潁州で盗賊が起こると、廷玉父子は趙普勝・廖永安らと巣湖に寨を結び、水軍千艘を擁したが、しばしば廬州の左君弼に苦しめられたので、通海を間道から遣わして太祖に帰属させた。
- 太祖はちょうど和陽に駐屯して渡江を謀っていたが舟がなかったので、通海が来ると大いに喜び「天が私を助けた」と言い、自ら赴いてその軍を撫めた。
- 一方、趙普勝は叛いて去った。元兵が楼船で馬塲河などの水口を扼し、湖に臨む水路はただ一つの港しか通じず、そこも長く涸れていた。折しも大雨で水深が一丈余りとなり、そこで舟を引いて江に出て和陽に至った。
- 通海は沈着剛毅で、軍を治めるのに厳しくかつ恩があり、士は喜んで用いられた。巣湖の諸将はみな水戦に長けていたが、通海が最も優れていた。
江南各地の水戦
- 曼濟哈雅の諸水寨を破るのに従い、萬戸を授かった。渡江に従って采石を陥とし、太平を取り、その属県を攻略した。
- 曼濟哈雅がまた戦艦で采石を遮り、陳兆先が淮の兵二十万を合わせて方山に屯して掎角の勢をなしたとき、通海は廖永安らとともにその衆を大破し、曼濟哈雅は逃げた。進んで兆先を破って集慶を取った。
- 湯和に従って鎮江を抜き、秦淮翼元帥に遷り、諸将とともに丹陽・金壇・常州を取り、行樞密院判官に遷った。
- 寧國を陥とすのに従い、水陽を落とした。舟師で太湖を攻略し、張士誠の守将を馬蹟山で降した。
- 胥口に船をつけたとき呂珍の兵が急に押し寄せ、諸将は退こうとしたが、通海は「いけない。敵は多く我は少ない。退けば実情が知れる。撃つに越したことはない」と言い、自ら先んじて激しく戦った。矢が雨のように降り、右目に当たって戦えなくなると、帳下の士に自分の甲を着せて戦を督させた。敵は通海だと思ってあえて迫らず、やがて退いた。これによって片目を失った。
- のち永安らとともに石牌の戍を陥とし、馬䭾沙を奪って還った。
- 趙普勝は叛いて陳友諒に帰し、池州を陥として別将を守りに置き、自らは樅陽の水寨に拠った。太祖はちょうど浙東を征していて樅陽を憂えていたが、通海が攻めて大破し、普勝は陸路へ逃げ、その舟をことごとく獲て池州を回復した。僉樞密院事に遷った。
- 陳友諒が龍灣を侵したとき、諸将とともに撃退し、追ってその舟を慈湖で焼き、七人の将帥を捕らえ、敗走する敵を采石まで追って、功が最も多く、樞密院同知に進んだ。
- 友諒攻めに従って銅陵を落とし、九江を陥とし、蘄州・黄州を掠め、徐達に従って叛将の祝宗・康泰を撃って南昌を回復した。安豐救援に従って士誠の兵を破り、還って廬州を攻めた。
鄱陽湖の激戦
- 友諒が大挙して南昌を囲んだとき、太祖に従ってこれを撃ち、康郎山で遭遇した。味方の船は小さく見上げて攻めることができず、力戦しても持ちこたえられそうになかったが、通海が風に乗じて火を放ち、敵船二十余隻を焼いて敵はやや挫けた。
- 太祖の船が浅瀬に乗り上げたとき、友諒の猛将・張定邊がまっすぐ進んで太祖の船を犯した。常遇春が定邊を射当て、通海は快舟で救援に駆けつけた。船が急に進んで水が湧き、太祖の船は脱出できた。しかし通海の船は敵の巨艦に押しつけられ、兵はみな頭を艦に打ちつけて兜が裂けたが、辛うじて免れた。
- 翌日また戦い、廖永忠らとともに七隻の船に火薬を積んで敵船数百を焼いた。
- 二日を経て、また六隻で深く敵中に入った。敵は大艦を連ねて力の限り防いだ。太祖は舵楼に登って長く望んだが何も見えず、もう沈んだかと思った。しばらくして六隻が敵艦を回り込んで出てきた。その姿は遊龍のように飄々としていた。軍士は歓呼し、勇気は百倍して戦いはいよいよ激しくなり、友諒の兵は大敗した。
- 軍が左蠡に宿営したとき、通海は進み出て「湖には浅瀬があって舟の回転が難しい。江に入って敵の上流を押さえるに越したことはない。敵の舟が入ってくればそのまま捕らえられる」と言った。そこで軍を移して湖を出て、水陸に柵を結んだので、友諒は出られず、湖中に一か月とどまり、糧が尽きて兵を率いて突破しようとし、ついに敗れて死んだ。
- この役では通海の功が最も多く、軍が還って良田・金帛を賜った。
呉の平定と戦傷死
- 翌年、武昌平定に従い、中書省平章政事に拝せられた。兵を総べて劉家港を攻略し、進んで通州に迫って士誠の兵を破り、その将・朱瓊・陳勝を捕らえた。進んで江淮行中書省事を摂り、廬州を鎮めた。
- 徐達に従って安豐を平らげ、また従って湖州を陥とし、太倉を攻略したが、秋毫も犯さなかったので民は大いに喜んだ。
- 平江を囲み、滅渡橋に戦い、桃花塢を衝いたとき、流れ矢に当たって傷が重く、金陵に帰った。太祖がその邸に行幸して「平章よ、私が見舞いに来たのが分かるか」と問うたが、通海は答えられず、太祖は涙を払って出た。翌日、卒去した。三十八歳。
- 太祖は臨んで哭してたいそう哀しみ、従官・衛士もみな感じて涙を流した。豫國公を追封され、太廟に配享され、功臣廟に肖像が掲げられた。洪武三年(1370年)、虢國公に改封され、諡は忠烈。
- 通海の父・廷玉は僉樞密院事の官にあって先に卒し、河間郡公を追封された。通海には子が無く、弟の通源がその官を嗣いだ。
俞通源――中原・陝西の征討と晩年
- 俞通源は字を百川という。大將軍に従って中原を征し、副將軍馮勝らとともに太原で兵を合わせ、河中を平定して黄河を渡り、鹿臺を陥とし、鳳翔・鞏昌・涇州を取り、開城を守った。
- 張良臣が慶陽に拠って再び叛くと、大將軍は諸将に兵を分けて迫らせた。通源は臨洮から急行して涇に至ってその西を、顧時が北を、傳友徳(傅友徳の誤りか)が東を、陳徳が南を攻略した。大將軍が城下に迫り、良臣は援が絶え糧が尽きて敗死し、そのまま慶陽を陥とした。
- 定西を征し、興元を陥とすとき、いずれも先登した。
- 洪武三年(1370年)、南安侯に封じられ、歳祿千五百石、世劵を賜った。
- 洪武四年(1371年)、廖永忠に従って蜀を伐ち、また徐達に従って塞外に出て、甘肅を撫めて功があった。江南の豪族の民十四万を鳳陽に移して田を耕させた。さらに雲南を攻め、廣南の蠻を征して俘斬は数万に及んだ。
- 洪武二十二年(1389年)、詔して郷里に還され、鈔五万を賜り、巣に邸を置いた。まだ赴かぬうちに卒去した。子の俞祖は病があって嗣げなかった。一年余りして胡惟庸の党を追論したとき、通源はすでに死んでいたので罪は問われず、爵位は除かれた。
俞通淵――越巂侯と白溝河の戦死
- 俞通淵は父兄のゆえに參侍舍人にあてられ、従軍して功を積み、都督僉事を授かった。
- 通源が党に坐したのち、太祖は廷玉・通海の功を思い、洪武二十五年(1392年)、通淵を越巂侯に封じ、歳祿二千五百石、世劵を賜った。師を率いて建昌の叛賊を討ち、越巂に築城した。
- 翌年、連坐して侯を失い、郷里に還された。建文元年(1399年)、召されて爵位を回復し、大軍に従って燕を征し、白溝河で戦没した。次子の俞靖が官を嗣いだ。