明史卷一百三十二 列傳第二十 藍玉
定遠の人で、開平王常遇春の妻の弟にあたる藍玉(?–1393年)。はじめ遇春の帳下に属し、蜀・北元・西番・雲南の征討で戦功を重ねて永昌侯に封じられた。徐達・常遇春の没後はしばしば大軍を総べ、捕魚兒海で北元の主力を撃破して涼國公に進み、明初随一の武将となった。背が高く顔が赤く、勇と計略に富む大将の才があったが、しだいに驕慢となって帝の譴責を受け、洪武二十六年に謀反を告発されて一族誅殺された。連坐した者は一万五千人に及び、建国の功臣・宿将はこれで尽きた。
年表(17件)
- 洪武四年1371年傅友徳に従って蜀を伐ち綿州を陥とす
- 洪武五年1372年徐達に従って北征し雁門に出て元兵を亂山・圖拉河に破る
- 洪武七年1374年興和を抜き元の國公特爾墨齊ら五十九人を捕らえる
- 洪武十一年1378年沐英とともに西番を討ち三副使を捕らえ斬獲は千を数える
- 洪武十四年1381年征南右副將軍として雲南を征し元の平章達爾瑪を曲靖で捕らえる
- 洪武二十年1387年征虜左副將軍として馮勝に従い納克楚を招降し、のち大將軍に拝される
- 洪武二十一年1388年師十五万を率いて捕魚兒海に元主を襲い大勝し涼國公に進む
- 洪武二十三年1390年施南・忠建の叛蠻を討ち平らげ祿五百石を加増され郷里に還る
- 洪武二十四年1391年蘭州など七衛を統べて西番の罕東を攻略し、建昌の叛将伊嚕特穆爾を誅す
- 洪武二十六年二月1393年錦衣衛指揮蔣瓛に謀反を告発され獄に下される
- 洪武二十六年1393年獄が成って一族が誅され、連坐した者は数えきれず『逆臣録』が布告される
- 洪武十二年1379年曹震が西番征討の功で景川侯に封じられる
- 洪武二十一年1388年曹震が葉昇と道を分けて東川の叛蠻を討ち五千余人を俘獲する
- 洪武十七年1384年張翼が鶴慶侯、陳桓が普定侯に封じられる
- 洪武二十六年1393年張翼が藍玉の党に坐して死ぬ
- 洪武二十年1387年朱夀が漕運の功で舳艫侯に封じられる
- 洪武十一年1378年曹興が沐英に従い洮州の羌を討ち懐遠侯に封じられる
出自と雲南までの戦功
- 藍玉は定遠の人。開平王常遇春の妻の弟である。はじめ遇春の帳下に属し、敵に臨んでは勇敢で、向かうところ常に勝った。遇春はしばしば太祖に称えた。管軍鎮撫から功を積んで大都督府僉事に至った。
- 洪武四年(1371年)、傅友徳に従って蜀を伐ち、綿州を陥とした。
- 洪武五年(1372年)、徐達に従って北征し、先に雁門に出て元兵を亂山に破り、また圖拉河に破った。
- 洪武七年(1374年)、兵を率いて興和を抜き、その國公・特爾墨齊ら五十九人を捕らえた。
- 洪武十一年(1378年)、西平侯沐英とともに西番を討ち、その酋の三副使を捕らえ、斬獲は千を数えた。翌年、軍が還って永昌侯に封じられ、祿二千五百石、世劵を賜った。
- 洪武十四年(1381年)、征南右副將軍として潁川侯傅友徳に従って雲南を征し、元の平章・達爾瑪を曲靖で捕らえた。梁王は逃げて死に、滇の地はことごとく平定された。玉の功が最も多く、祿五百石を加増され、その娘は蜀王妃に冊立された。
納克楚の招降と捕魚兒海の大捷
- 洪武二十年(1387年)、征虜左副將軍として大將軍馮勝に従って納克楚を征し、通州に宿営した。元兵が慶州に屯していると聞き、玉は大雪に乗じて軽騎を率いて襲い破り、平章の郭勒を殺し、その子の布喇竒を捕らえて還った。
- 大軍と合して金山に至ると、納克楚は使者を大將軍の営に遣わして款を通じた。玉が降を受けに行くと、納克楚は数百騎で来た。玉は大いに喜んで酒を勧めた。納克楚が酒を酌んで玉に酬いると、玉は衣を脱いでこれに着せ「これを着てから飲んでほしい」と言った。納克楚は着ようとせず、玉も飲まず、長く譲り合った。納克楚は酒を地にこぼし、部下を顧みて咄々と何か言い、立ち去ろうとした。
- 座にいた鄭國公常茂がまっすぐ進み出て斬りつけ傷つけた。都督の耿忠が抱えて馮勝に会わせたが、その衆は驚いて散った。降将の古通を遣わして諭し降した。
- 伊瑪河まで還り、その残りの衆をことごとく降した。折しも馮勝が罪を得て大將軍印を収められたので、玉に總兵官の事を行わせ、まもなく軍中で玉を大將軍に拝し、薊州に屯を移した。
- 当時、順帝の孫の特古斯特穆爾が嗣立して塞上を騒がせていた。洪武二十一年(1388年)三月、玉に師十五万を率いてこれを征するよう命じた。大寧を出て慶州に至り、諜報で元主が捕魚兒海にいることを知り、間道を兼行して百眼井に至った。海まで四十里のところで敵が見えず、引き返そうとしたが、定遠侯王弼は「われらは十余万の衆を率いて漠北深く入り、何も得ずににわかに軍を返しては、どう復命するのか」と言った。玉は「そのとおりだ」と言い、軍士に地に穴を掘って炊事させ、煙を見せないようにした。
- 夜に乗じて海の南に至った。敵営はなお海の東北八十余里にあった。玉は弼を前鋒として疾駆させ、その営に肉薄した。敵は明軍が水草に乏しく深入りできまいと考えて備えを設けておらず、また大風が砂を巻き上げて昼も暗く、軍が進んでも敵は気づかなかった。突然眼前に現れたので大いに驚いて迎え撃ったが、これを破り、太尉の曼濟らを殺してその衆を降した。
- 元主は太子の天保努と数十騎で逃げ去った。玉は精騎で追ったが及ばず、その次子の地保努、妃・公主以下百余人を獲た。さらに吳王多爾濟・代王達爾瑪および平章以下の官属三千人、男女七万七千余人、ならびに寶璽・符敕・金牌・金銀印などの品々、馬・駱駝・牛・羊十五万余を追って獲た。その甲仗・蓄積を焼いたが数えきれなかった。
- 勝報が京師に奏されると帝は大いに喜び、敕を賜って褒め労い、衛青・李靖になぞらえた。
- また哈喇章の営を破り、人畜六万を獲た。軍が還って涼國公に進んだ。
- 翌年、四川の城池の修築を督するよう命じられた。洪武二十三年(1390年)、施南・忠建の二宣撫司の蠻が叛くと、玉に討ち平らげさせた。また都勻安撫司・散毛の諸洞を平らげ、祿五百石を加増され、詔して郷里に還らせた。
西番の経略と驕慢、そして族誅
- 洪武二十四年(1391年)、玉に蘭州・莊浪など七衛の兵を統べて逃亡した賊の祁者孫を追わせた。そのまま西番の罕東の地を攻略し、土豪の哈爾吉らは逃げた。
- 折しも建昌指揮使の伊嚕特穆爾が叛いたので、詔して兵を移して討たせた。着いたときには都指揮の瞿能らがすでにその衆を大破しており、伊嚕は柏興州へ逃げていた。玉は百戸の毛海を遣わして誘い出し、その父子を縛って京師に送り誅し、その衆をことごとく降した。
- そこで屯衛の増置を請い、許された。さらに民を籍して兵とし朶甘・百夷を討つことを請うたが、詔して許されず、軍を返した。
- 玉は背が高く顔が赤く、勇と計略に富み、大将の才があった。中山王(徐達)・開平王(常遇春)が没したのち、しばしば大軍を総べて多く功を立て、太祖の遇し方は厚かった。
- しだいに驕り高ぶって自恣となり、多くの荘奴・仮子を蓄え、勢いに乗じて横暴に振る舞った。かつて東昌の民田を占有し、御史が調べて問うと、玉は怒って御史を追い払った。
- 北征から還ったとき、夜に喜峯關を叩き、関の役人がすぐに通さないと、兵を放って関を壊して入った。帝はこれを聞いて不快であった。
- また、玉が元主の妃を犯したという者があり、妃は恥じて自ら縊れて死んだので、帝は厳しく玉を責めた。
- はじめ帝は玉を梁國公に封じようとしたが、過失のゆえに涼に改め、その過失を券に刻んだ。それでも玉は改めず、宴に侍しては言葉が傲慢で、軍中では擅に将校を黜陟し、進退を自ら決めたので、帝はしばしば譴責した。
- 西征から還って太子太傅に任じられると、玉は宋國公・潁國公の下に居ることを喜ばず「私は太師には堪えぬというのか」と言った。近ごろ奏事しても採用されないことが多く、いよいよ不満を募らせた。
- 洪武二十六年(1393年)二月、錦衣衛指揮の蔣瓛が玉の謀反を告発した。獄に下して訊問すると、供述には、玉は景川侯曹震・鶴慶侯張翼・舳艫侯朱夀・東莞伯何榮および吏部尚書詹徽・戸部侍郎傅友文らと変を謀り、帝が耤田に出るのをうかがって事を挙げようとしていた、とあった。
- 獄が成って一族が誅され、列侯以下、党に坐して滅ぼされた者は数えきれなかった。手詔を天下に布告し、供述を条列して『逆臣録』とした。
- 九月に至って詔を下し「藍賊が乱を謀り、謀が漏れて族誅された者は一万五千人である。今より胡党・藍党はおしなべて赦して問わない」と言った。胡党とは丞相胡惟庸の党である。こうして建国の功臣・宿将は相次いでことごとく尽きた。
- 『逆臣録』に名を列ねた者は一公・十三侯・二伯である。葉昇は以前に事に坐して誅され、胡玉らの諸小侯はみな別に見える。曹震・張翼・張温・陳桓・朱夀・曹興の六侯は附伝として以下に記す。
曹震――蜀の経営と誅死
- 曹震は濠の人。太祖の挙兵に従い、累進して指揮使となった。洪武十二年(1379年)、西番征討の功で景川侯に封じられ、祿二千石。
- 藍玉に従って雲南を征し、道を分けて臨安の諸路を取り、威楚に至って元の平章・閻鼐瑪岱らを降し、雲南は平定された。
- そこで容美・散毛の諸洞の蠻および西番の朶甘思・曩日の諸族の討伐を請うたが、詔して許されなかった。
- また、貴州・四川の二都司が交易で得た番馬を陝西・河南の将士に分給することを請うた。
- また、四川から建昌への駅路は大渡河を経るため往来する者の多くが瘴癘で死ぬ、父老に尋ねたところ嵋州の峨嵋から建昌に至る古い駅路があり平坦で瘴毒がない、すでに軍民に修治させたので、瀘州から建昌への駅馬を峨嵋の新駅に移したい、と言上し、聴き入れられた。
- 洪武二十一年(1388年)、靖寧侯葉昇と道を分けて東川の叛蠻を討ち平らげ、五千余人を俘獲した。まもなくまた四川の軍務を処理し、藍玉とともに征南の軍士を調べた。
- 折しも永寧宣慰司が、管轄の地に百九十の灘があり、そのうち八十余の灘は水路が塞がって通じにくいと言上したので、詔して震に浚渫させた。震は瀘州に至って検分し、永寧に通じる支流があったので、石を鑿ち崖を削って深く広くし、漕運を通じさせた。
- また陸路を開いて駅舎・郵亭を作り、橋を架け桟道を立て、茂州から一路は松潘へ、一路は貴州へ通じて保寧に達するようにした。
- これより先、行人の許穆が、松州の地は痩せて屯田に適さず、戍卒三千の兵糧が足りないので、茂州に戍を移して近くで屯田させたいと言上した。帝は松州が西番を抑える要地なので動かせないとした。ここに至って輸送路が通じ、松潘はそのまま重鎮となった。帝はその労を嘉した。
- 一年余りして、また四事を上奏した。一つは雲南の大寧の境で井から塩を煮させ、商人を募って粟を輸させて辺境を賄うこと。一つは商人が雲南・建昌に粟を納めれば重慶・綦江の馬市の引を給すること。一つは馬湖の未納の租を免ずること。一つは施州衛の軍需は湖廣に仰いでいるが江に沿って陸路が遠いので、重慶の粟を流れに順って輸すこと。いずれも許された。
- 震は長く蜀にあり、規画するところはみなきわめて周到で、蜀の人はこれを徳とした。
- 藍玉が敗れると、震および朱夀とともに指揮の莊成らを誘って不軌を謀ったとされ、逆党を論ずるに震を筆頭とし、その子の曹炳とともに誅された。
張翼――雲南の征討と誅死
- 張翼は臨淮の人。父の張聚は前翼元帥として江南・淮東の平定に従い、功を積んで大同衛指揮同知となり致仕した。
- 翼は父に従って軍中にあり、驍勇で戦に長け、副千戸として父の職を嗣いだ。陝西征討に従って叛賊を捕らえ、都指揮僉事に抜擢され、僉都督府事に進んだ。
- 藍玉に従って雲南を征し、普定・曲靖を陥とし、鶴慶・麗江を取り、七百房の山寨を掃討し、劍川を衝き、石門を撃った。
- 洪武十七年(1384年)、功を論じて鶴慶侯に封じられ、祿二千五百石、世券を賜った。洪武二十六年(1393年)、藍玉の党に坐して死んだ。
張温――蘭州の防衛と誅死
- 張温はどこの人か詳らかでない。太祖に従って長江を渡り、千戸を授かり、功を積んで天䇿衛指揮僉事に至った。
- 大軍に従って中原を収め、陝西を陥とし、蘭州を攻め落としてこれを守った。
- 元の将・庫庫は大將軍が南へ還ったのを察知し、甘肅から歩騎を率いて突然迫った。諸将は固守して援を待つよう請うたが、温は「彼らは遠来で我らの虚実を知らない。日暮れに乗じて撃てばその鋭気を挫ける。もし退かなければ、固守しても遅くはない」と言った。そこで兵を整えて出撃すると、元兵は少し退いた。
- やがて城は幾重にも囲まれたが、温は兵を収めて固守し、敵は攻めても陥とせず、そのまま引き揚げた。太祖はこれを奇功と称え、大都督府僉事に抜擢し、のちに陝西行都督府僉事を兼ねさせた。
- 蘭州が囲まれたとき、元兵が夜に梯を掛けて城に登ったが、千戸の郭佑は酔って寝ており、他の将で城を巡っていた者がこれを撃退した。囲みが解けると、温は佑を斬ろうとした。
- 天䇿衛知事の朱有聞が諫めて「賊が城を犯したときに将軍が佑を斬って衆に示すのが軍法です。賊が退いてから追って誅しても事に益がなく、しかも擅殺の名を負います」と言った。温は謝して「君でなければこの言葉は聞けなかった」と言い、佑を杖罰にとどめて釈した。帝はこれを聞いて双方を善しとし、あわせて有聞に綺帛を賞した。
- 翌年、參將として傅友徳に従って蜀を伐ち、功が多かった。
- 洪武十一年(1378年)、副將として王弼らとともに西羌を討ち、翌年、功を論じて會寧侯に封じられ、祿二千石。さらに翌年、河南の軍務を処理するよう命じられた。
- 洪武十四年(1381年)、傅友徳に従って雲南を征した。洪武二十年(1387年)秋、師を率いて納克楚の残衆を討ち、北伐に従っていずれも功があった。
- のち、居室や器物が身分を超えていたことで罪を得、そのまま藍玉の党に坐して死んだ。
陳桓――雲南・烏撒の平定と誅死
- 陳桓は濠の人。滁州・和州を陥とすのに従い、渡江して集慶を陥とすとき先登した。寧國・金華を取るのに従い、龍江・彭蠡に戦い、淮東を収め、浙西を平らげ、中原を平定して、功を積んで都督僉事を授かった。
- 洪武四年(1371年)、蜀征討に従った。
- 洪武十四年(1381年)、雲南征討に従い、胡海・郭英とともに兵五万を率いて永寧から烏撒へ向かった。道は険しく狭かったが、赤河から進軍して烏撒の諸蠻と大いに戦い、これを敗走させた。再び芒部の土豪を破り、元の右丞・實保を追い払って、そのまま烏撒に築城し、東川・烏蒙の諸蠻を降した。進んで大理を陥とし、汝寧・靖寧の諸州邑を平定した。
- 洪武十七年(1384年)、普定侯に封じられ、祿二千五百石、世券を賜った。
- 洪武二十年(1387年)、靖寧侯葉昇とともに東川を征して俘獲がたいへん多く、そのまま雲南の諸軍を総制するよう命じられ、再び九溪の洞蠻を平らげ、営堡を立てて屯田した。還って藍玉の党に坐して死んだ。
朱夀――漕運の功と誅死
- 朱夀はどこの人か詳らかでない。萬戸として渡江に従い、江東の郡邑を落とし、總管に進んだ。常州・婺州を収め、武昌を陥とし、蘇州・湖州を平らげ、南北に転戦して功を積み、横海衛指揮となり、都督僉事に進んだ。
- 張赫とともに漕運を督して功があった。洪武二十年(1387年)、舳艫侯に封じられ、祿二千石、世券を賜った。藍玉の党に坐して死んだ。
曹興――山西の軍務と誅死
- 曹興は一名を興才という。どこの人か詳らかでない。武昌平定に従って指揮僉事を授かり、平江を取って指揮使に進み、蘇九疇の炭山寨を陥として都督僉事に進み、太原衛指揮を兼ねた。山西行省參政に進んで衛の事を領し、晉王の相となった。
- 洪武十一年(1378年)、沐英に従って洮州の羌を討ち、朶甘の酋を降し、三副使らを捕らえた。軍が還って懐遠侯に封じられ、指揮使を世襲とされ、山西の軍務を処理し、北征に従って功があった。数年ののち、藍玉の党に坐して死んだ。
藍玉の党に連坐した都督たち
- 同時に党として連坐した都督には、黄輅・湯泉・馬俊・王誠・聶緯・王銘・許亮・謝熊・汪信・蕭用・楊春・張政・祝哲・陶文・茆鼎の十余人がおり、多くは藍玉の部下の副将であった。こうして勇力武健の士は刈り取られてほぼ尽き、生き残る者はまれとなった。