帰順までの経緯
- 朱亮祖は六安の人。元から義兵元帥を授かっていた。太祖が寧國を陥として亮祖を捕らえたとき、その勇悍を喜んで金幣を賜り、もとの官のままとした。
- 数か月後、叛いて元に帰し、しばしば明軍と戦って、捕らわれた者は六千余人に及んだ。そのまま宣城に入って拠った。太祖はちょうど建康を取るところで討伐する余裕がなかった。
- のちに徐達らを遣わして囲ませたが、亮祖は囲みを破って戦い、常遇春も傷を負って還り、諸将であえて前に出る者がなかった。太祖が自ら赴いて戦を督し、これを捕らえた。縛って引見し「お前はどうするつもりか」と問うと、「生きれば力を尽くし、死ねば死ぬまでのこと」と答えた。太祖はその心意気を壮として釈した。
浙東・広東広西の平定
- 功を積んで樞密院判を授かり、南昌・九江を落とし、鄱陽湖に戦い、武昌を落とし、廣信衛指揮使に進んだ。
- 李文忠が李伯昇を新城に破ったとき、亮祖は勝ちに乗じてその陣営数十を焼き、同僉・元帥ら六百余人、軍士三千、馬八百匹を獲て、輜重・鎧甲は数えきれなかった。伯昇はわずか数騎で逃げた。太祖はその功を嘉して賜与はたいそう厚かった。
- 胡深が兵を合わせて陳友定を攻めることを請うと、亮祖は鉛山から進んで浦城を取り、崇安・建陽を陥として、功が最も多かった。桐廬攻めに加わり、餘杭を囲んで、浙江行省參政に遷り、李文忠の副として杭州を守った。
- 馬歩・舟師数万を率いて方國瑛を討ち、天台を落とし、進んで台州を攻めた。國瑛が逃げたので黄巖まで追い、その守将・哈喇婁を降し、仙居の諸県を攻略した。
- 進んで温州へ兵を出し、方明善が防戦したのを撃ち破ってその城を陥とし、瑞安を攻略した。再び明善を盤嶼に破り、楚門まで追った。國瑛および明善は軍門に来て降った。
- 洪武元年(1368年)、征南將軍廖永忠の副として海路から廣東を取り、何真が降ってその地はことごとく平定された。
- 進んで廣西を取り、梧州を陥とすと、元の尚書・布延特穆爾が戦死した。そのまま鬱林・潯州・貴州の諸郡を平定し、平章の楊璟と合流して靖江を攻め陥とし、廖永忠とともに南寧・象州を陥として廣西は平定された。凱旋すると、太子が百官を率いて龍灣で出迎え労った。
封侯と鞭殺
- 洪武三年(1370年)、永嘉侯に封じられ、祿千五百石、世券を賜った。
- 洪武四年(1371年)、蜀を伐った。帝は諸将が長く功をあげないので、亮祖を征虜右副將軍として援軍を出したが、蜀に至ったときすでに明昇は降っていた。未帰属の州県を攻略して軍が還ったが、擅に軍校を殺したため賞にあずからなかった。
- 洪武八年(1375年)、傅友徳とともに北平を鎮め、還ってまた李善長とともに屯田を督理し、海道を巡った。
- 洪武十二年(1379年)、出て廣東を鎮めた。亮祖は勇悍で戦に長けたが学問を知らず、行いに違法が多かった。番禺知縣の道同がそれを上申すると、亮祖は同を誣告して上奏し、同は死んだ。その経緯は道同の伝に見える。
- 帝はまもなくその誤りを悟り、翌年(洪武十三年、1380年)九月、亮祖を召し寄せ、その子で府軍衛指揮使の朱暹とともに鞭で打ち殺した。帝は自ら壙誌を作り、なお侯の礼で葬らせた。
- 洪武二十三年(1390年)、亮祖は胡惟庸の党として追論され、次子の朱昱もまた坐して誅せられた。