明史卷一百三十二 列傳第二十 周徳興

出自と広西の平定

  • 周徳興は濠の人。太祖と同じ里の出で、若い頃から互いに気が合った。滁州・和州の平定に従い、渡江ののちしばしば戦っていずれも功があり、左翼大元帥に遷った。
  • 金華・安慶・高郵を取るのに従い、安豐を救援し、廬州を征して指揮使に進んだ。
  • 贛州・安福・永新の討伐に従い、吉安を抜いて湖廣行省左丞に進んだ。
  • 楊璟とともに廣西を討ち、永州を攻めた。元の平章・阿爾薩蘭および周文貴が全州から来援したが、徳興は二度これを撃ち破り、朱院判を斬り、全州まで追撃してそのまま陥とした。道州・寧州・藍山もみな落ちた。進んで武岡州を陥とし、兵を分けて険を占め、靖江の呼応を絶った。廣西平定に功が多かった。

封侯と各地の蛮の討伐

  • 洪武三年(1370年)、江夏侯に封じられ、歳祿千五百石、世券を賜った。
  • この年、慈利の土豪・覃垕が茅岡の諸寨を連ねて乱を起こし、長沙の洞苗もみな煽動された。太祖は徳興を征蠻將軍として師を率いてこれを討ち平らげさせた。
  • 翌年、蜀を伐つのに湯和の副として征西左將軍となり、保寧を陥とした。これより先、傅友徳がすでに階州・文州を陥としていたが、湯和の率いる舟師は進んでおらず、保寧が落ちてはじめて両路の軍が合した。
  • 蜀が平定されて功を論じたとき、帝は湯和の功は徳興によるものとして徳興に賞を与え、和を面前で責めた。さらに征蠻の事にさかのぼり、覃垕の役では楊璟が陥とせず、趙庸は中途で引き返したので、功は徳興に比べられる者がいないと言った。
  • 再び鄧愈の副として征南左將軍となり、趙庸・左君弼を率いて南寧に出て、婪鳳・安田の諸州の蠻を平らげ、泗城州を陥とした。功はまた諸将の上に出て、賞は大將軍の倍であった。中立府に署して行大都督府事とするよう命じられた。
  • 徳興は功が盛んで、しかも帝の旧友であることを恃み、邸宅の造営が制を超えた。有司がその罪を挙げたが、詔して特別に許された。
  • 洪武十三年(1380年)、福建の軍務を処理するよう命じられ、まもなく召し還された。

五溪の乱と福建の海防、誅死

  • 翌年、五溪の蠻が乱を起こしたとき、徳興はすでに老いていたが強く出征を願った。帝はその意気を壮として遣わし、手書を賜って言った――「趙充国が西羌征討を図り、馬援が交阯討伐を請うたことを、私はつねづね嘉し、今の人には難しいと思っていた。卿の忠勤は怠らず、前賢に恥じるところがない。乱を靖め民を安んじるのはこの行にかかっている」と。徳興が至ると五溪の蠻はことごとく散り逃げた。
  • 折しも四川の水盡源・通塔平の諸洞が乱を起こしたので、そのまま徳興に討ち平らげさせた。
  • 洪武十八年(1385年)、楚王楨が思州・五開の蠻を討ったとき、また徳興を副將軍とした。徳興は長く楚にいて、用いる兵はみな楚の卒であり、その威は蠻中に轟いた。
  • 武昌など十五衛を定め、毎年四万四千八百人の軍士を練った。荊州の嶽山壩を決して田を灌漑し、毎年の官租を四千三百石増した。楚の人はこれを徳とした。
  • 郷里に還ると黄金二百両・白金二千両・文綺百匹を賜った。
  • ほどなく帝は「徳興の福建での功はまだ終わっていない。卿は老いたとはいえ、なお私のために努めて行ってくれ」と言った。徳興は閩に至って戸籍を調べ選んで練り、民兵十万余人を得た。要害を検分して城十六を築き、巡司四十五を置き、防海の策がここにはじめて備わった。
  • 三年を経て邸に帰り、さらに鳳陽留守司を節制し、あわせて属衛の軍士を訓練するよう命じられた。
  • 存命の勲臣のうち徳興が最も年長で、年ごとに入朝して賜与が絶えなかった。
  • 洪武二十五年(1392年)八月、その子の周驥が宮中を乱したことにより連坐して誅死した。