明史卷一百三十一 列傳第十九 葉昇

帰順と西北・西南の平定、誅死

  • 葉昇は合肥の人。左君弼が廬に拠っていたとき、昇は自ら抜け出して帰順し、右翼元帥として江州征討に従った。指揮僉事として呉の平定に従い、府軍衛指揮使として明州の平定に従った。
  • 洪武三年(1370年)、功を論じて僉大都督府事となった。翌年、征西將軍湯和に従い、舟師で蜀を取った。二年を経て都指揮使として出て西安を鎮守し、慶陽の叛賊を討ち平らげた。
  • 洪武十二年(1379年)、再び僉大都督府となった。西畨が叛くと、都督の王弼とともにこれを征し、切實嘉を降してその部落を平らげた。また延安の巴延特穆爾を討ち平らげ、洮州の畨酋を捕らえた。功を論じて靖寧侯に封じられ、歳祿二千石、指揮使を世襲とされた。
  • 遼東を鎮め、海益復の三城を修めた。在鎮六年、辺備は整い、外寇はあえて侵さなかった。高麗の贈賄を摘発し、帝はしばしば敕を賜って、唐勝宗とともに褒められた。
  • 洪武二十年(1387年)、普定侯陳桓とともに雲南の定邊・姚安で諸軍を総べ、営を立てて屯田し、畢節衛を経営するよう命じられた。
  • 翌年、東川・龍海の諸蠻が叛くと、昇は參將として沐英に従ってこれを討ち平らげた。
  • その後、湖廣安福所の千戸・夏徳忠が九溪の洞蠻を誘って賊を働いたので、昇は胡海らとともにこれを討ち、ひそかに兵を賊の背後に出して不意を撃ち、徳忠を捕らえた。永定・九溪の二衛を立て、そのまま襄陽に留まって屯した。
  • 贛州の山賊がまた湖廣の峒蠻と結んで賊を働くと、昇は副將軍として胡海らとともにこれを討ち平らげ、一万七千人を俘獲した。
  • 昇は三たび叛蠻を平らげ、二たび出て甘肅・河南で練兵した。洪武二十五年(1392年)八月、胡惟庸と通じていたことが発覚して誅死した。涼國公藍玉は昇の姻戚であり、玉が敗れたとき再び連座したので、その名は両方の党籍に列せられているという。

史論

  • 贊に曰く――諸将は天下が定まらぬ草創の時期にあたり、上は天命を見定め、明主に心を委ね、戦えば勝ち攻めれば取って、特別の勲功を建てた。いずれも当代の智勇の士である。
  • しかし海内が安らかになると、その名は党籍に列せられ、あるいは死後に追論され、あるいは自身が罪に坐して、身を全うできた者はまれであった。
  • 圭と裳を賜ることは功に報いるに足るが、「帯を礪ぐ」の盟い(黄河が帯のように細くなるまで封土を保つという誓い)は二代と続かなかった。これもまた嘆かわしいことである。