袁州における帰順の功
- 黄彬は江夏の人。歐普祥に従って袁州・吉州の属県を攻め落とした。徐壽輝が普祥に袁州を守らせていたが、陳友諒が壽輝を殺して僭号を称すると、彬は普祥に「公は友諒と肩を並べる立場なのに、なぜその下につくのか。友諒は驕り高ぶって江東(太祖)の敵ではない。境域を保って東の軍を待てば富貴を失うまい」と説いた。
- 普祥はそこで使いを遣わして款を通じた。友諒は弟の友仁を遣わして攻めさせたが、彬は普祥とともにその軍を破り、友仁を捕らえた。友諒は恐れて境を分けて侵さないと約したので、友仁を釈した。
- 当時、江楚の諸郡はみな陳氏の領するところであったが、袁州がその要害を扼していたため、潭州・岳州・贛州の兵は出ることができなかった。友諒の勢いが大きく挫け、太祖の兵が迫ると江州を棄てたのは、彬の力である。
- 太祖が龍興に至り、普祥にはなお袁州を守らせ、彬を江西行省參政とした。まもなく普祥が死に、彬がその衆を領した。普祥はもともと残虐であったが、彬はその行いをことごとく改めたので、民は大いに安んじた。
江西・湖南の平定と誅死
- 常遇春に従って贛州を征したとき、饒鼎臣が吉安に拠って熊天瑞に呼応していた。遇春の兵が至ると鼎臣は安福へ逃げ、彬が兵をもって追い、鼎臣は茶陵へ逃げ、天瑞はそのまま降った。永新の守将・周安が叛くと、彬は湯和に従って安を捕らえ、鼎臣もまた殺された。
- 袁州に移鎮して諸山寨を招き集め、江西はことごとく平定された。江淮行省中書左丞に進んだ。
- 洪武三年(1370年)、宜春侯に封じられ、歳祿九百石、世劵を賜った。洪武四年(1371年)、贛州の上猶の山賊が叛いたのを討ち平らげた。
- 洪武五年(1372年)、古州などの洞蠻が叛き、鄧愈を征南將軍として三道から出師したとき、彬は營陽侯楊璟とともに澧州へ出た。軍が還ると中都に邸を賜った。
- 翌年、徐達に従って北平を鎮め、出て沂州・臨清で練兵した。洪武二十三年(1390年)、胡惟庸の党に坐して死に、爵位は除かれた。