明史卷一百三十一 列傳第十九 金朝興

帰順と江南・北方の戦功

  • 金朝興は巢の人。淮西が乱れたとき衆を集め寨を結んで自らを守っていた。俞通海らが太祖に帰したのち、朝興も衆を率いて来て附いた。
  • 渡江以後の征伐にことごとく参加して功があり、常州を陥として都先鋒となった。宜興を回復して左翼副元帥となり、武昌を平定して龍驤衛指揮同知に進んだ。呉が平定されると鎮武衛指揮使に改められ、大同を陥として大同衛指揮使に改められた。東勝州を取り、元の平章・劉麟ら十八人を捕らえた。
  • 洪武三年(1370年)、功を論じて都督僉事となり、秦王左相を兼ねた。まもなく都督府の職務を解かれ、王傅に専念した。
  • 洪武四年(1371年)、大軍に従って蜀を伐った。洪武七年(1374年)、軍が黑城に至って元の太尉・盧巴延、平章・特穆爾布哈ならびに省院の事官二十五人を捕らえた。そのまま李文忠に従って東道の兵を分け領し、和林を取った。その経緯は文忠の伝に記す。
  • 朝興は沈着で勇があり知略に富み、行く先々で偏師をもって勝ちを収め、大帥にこそならなかったが功は諸将の上に出た。

雲南征討と没後

  • 洪武十一年(1378年)、沐英に従って西征し、納鄰七站の地を収めた。翌年、功を論じて宣徳侯に封じられ、祿二千石、指揮使を世襲とされた。
  • 洪武十五年(1382年)、傅友徳に従って雲南を征し、臨安に駐屯した。元の右丞・鄂博台、元帥・烏哲勒圖、土豪の楊政がみな降った。朝興の撫育はよろしきを得て、軍も民も喜んだ。進んで會川に至って卒去した。沂國公を追封され、諡は武毅。
  • 洪武十七年(1384年)、雲南平定の功を論じ、世襲の侯劵を賜り直し、祿五百石を加増した。長子の金鎮が封を嗣いだ。
  • 洪武二十三年(1390年)、朝興が胡惟庸の党として追坐され、鎮は平□衛指揮使に降された。従軍して功があり、都指揮使に進み、その後は衛指揮使を世襲した。
  • 嘉靖元年(1522年)、傅友徳・梅思祖および朝興の廟を雲南に立て、「報功」の額を掲げるよう命じられた。