帰順までの経歴
- 梅思祖は夏邑の人。はじめ元の義兵元帥であったが、叛いて劉福通に従った。庫庫がその父を醢にした。まもなく福通を棄てて張士誠に帰し、中書左丞となって淮安を守った。
- 徐達の兵が至ると迎えて降り、あわせて四州を献じた。士誠はその兄弟数人を殺した。太祖は思祖を大都督府副使に抜擢した。
呉・中原の平定と雲南での治績
- 大軍に従って呉を伐ち、昇山水寨を陥とし、湖州を落とし、平江を囲んで、いずれも功があった。呉が平定されると浙江行省右丞に遷った。
- 大將軍に従って中原を伐ち、山東を陥とし、汴州・洛陽を取り、陝州を破り、潼關を落とした。軍を返して河北を攻略し、衛輝に至ると元の平章・龍二が城を棄てて彰徳へ走ったので、軍はこれを追った。龍二がまた出て逃げたので、その城を降して守った。
- 北平の未攻略の州郡を平定し、大軍に従って晉・冀を平らげ、また陝西の平定に従った。別将として邠州を陥とし、元の參政・毛貴ら三十人を捕らえた。大將軍に従って庫庫を定西に破り、秦州から還って略陽を破り、沔州に入って興元を取った。
- 洪武三年(1370年)、功を論じて汝南侯に封じられ、祿九百石、世劵を賜った。洪武四年(1371年)に蜀を伐ち、洪武五年(1372年)に甘肅を征した。還って山陝・遼東の城池を巡視するよう命じられた。
- 洪武十四年(1381年)、四川の水盡源・通塔平・散毛の諸洞の長官が乱を起こしたので、思祖は征南副將軍として江夏侯周徳興とともに兵を率いてこれを討ち平らげた。
- 洪武十五年(1382年)、再び傅友徳とともに雲南を平定し、貴州都司を置いて思祖に都指揮使を署せしめ、まもなく雲南布政司事を署せしめた。平帝の潘元明とともに雲南を守り、思祖は遠方の人々をよく撫育したので、彼らは安んじた。この年に卒去し、鍾山の北麓に葬られた。
- 子の梅義は遼東都指揮使。洪武二十三年(1390年)、思祖は胡惟庸の党として追坐され、その一家は滅ぼされた。思祖の甥の梅殷は駙馬都尉で、別に伝がある。