明史卷一百三十 列傳第十六 康茂才

帰服と龍灣の計

  • 康茂才は字を壽卿といい、蘄の人。経史の大義に通じ、母に孝であった。元末に賊が乱れて蘄が陥ちると、義兵を結んで郷里を守り、功を立てて長官から重ねて淮西宣慰司都元帥に遷った。
  • 太祖が江を渡ったとき、将士の家族は和州に留めてあった。当時、茂才は采石に移り戍って江の渡しを扼していた。太祖が兵を遣わして数度攻めたが茂才は力を尽くして守り、常遇春が伏兵を設けてその精鋭を殲滅した。茂才はさらに天寧洲に寨を立てたが、また破られて集慶へ走った。太祖が集慶を克つと、麾下の兵を率いて降った。太祖は釈して、麾下を統率したまま征伐に従わせた。
  • 翌年、秦淮翼水軍元帥を授けられて龍灣を守り、江陰・馬䭾沙を取って張士誠の兵を破り、その楼船を獲た。廖永安に従って池州を攻め、樅陽を取った。
  • 太祖は兵を起こしたために民が農業を失ったことを憂え、茂才を都水營田使とし、帳前總制親兵左副指揮使を兼ねさせた。
  • 陳友諒が太平を陥れて張士誠と結んで應天を挟撃しようと謀ると、太祖は友諒を早く来させて破ろうと考え、茂才が友諒と旧知であることを知って、その僕に書を持たせ、偽って内応すると伝えさせた。
  • 友諒は大いに喜んで「康公はどこにいる」と問い、「江東の木橋を守っています」と答えさせて帰した。太祖は橋を石に架け替えた。友諒は到着して橋を見て呆然とし、「老康」と続けて呼んだが応答がない。退いて龍灣に至ると伏兵が四方から起こり、茂才は諸将と合わせて奪い撃って大破した。太祖は茂才の功を嘉して手厚く賜った。

各地の転戦と死

  • 翌年、太祖が自ら友諒を征すると、茂才は舟師で従って安慶を克ち、江州を破った。友諒が西へ逃げると、蘄州・興國・漢陽を下し、流れに沿って黄梅寨を克ち、瑞昌を取り、友諒の八人の指揮を破って士卒二万人を降した。帳前親兵副都指揮使に遷った。
  • 左君弼の廬州を攻めたが落とせず、南昌の救援に従い、彭蠡で戦って友諒は敗死した。武昌征伐に従っていずれも功があり、金吾侍衛親軍都護に進んだ。
  • 大將軍徐達に従って再び廬州を攻めて克ち、江陵および湖南の諸路を取り、神武衛指揮使に改められ、大都督府副使に進んだ。
  • 士誠が江陰を攻め、太祖が自ら出撃したが、鎮江に至ったとき士誠はすでに瓜洲を焼いて逃げていた。茂才は敗走する敵を浮子門まで追った。呉軍が海口を遮り、潮に乗じて迫ったが、茂才は力戦して大破した。
  • 淮安の馬邏巷を衝いてその水寨を抜き、淮安は平定された。まもなく湖州を抜き、進んで平江に迫った。士誠が精鋭を遣わして迎え撃ち、尹山橋で大戦したが、茂才は大戟を持って戦を督し、敵衆をことごとく覆した。諸将とともにその城を囲み、齊門に軍した。平江が下ると還って無錫を取った。
  • 同知大都督府事に遷り、太子右率府使を兼ねた。
  • 洪武元年(1368年)、大將軍に従って中原を経略し、汴・洛を取り、陝州に留守した。兵糧の運送を計画し、浮橋を造って軍を渡し、絳州・解州の諸州を招き寄せ、潼關を扼したので、秦の兵は東へ向かえなかった。茂才は民を撫し安んじるのが巧みで、民は石を立ててその徳を頌えた。
  • 洪武三年(1370年)、ふたたび大將軍に従って定西を征し、興元を取ったが、軍を還す途中で没した。蘄國公を追封され、武康と諡された。

康鐸

  • 子の康鐸は十歳で皇太子に侍って大本堂で読書し、父の功により蘄春侯に封じられ、禄千五百石を食み、世券を与えられた。
  • 洪武八年(1375年)、鳳陽で民の開墾を督し、辰州の蠻を征し、施州・疊州の諸州を平らげた。大將軍徐達に従って北征し、また征南將軍傅友德に従って雲南を征し、普定を克ち、華楚山の諸砦を破った。軍中で没した。享年二十三。蘄國公を追封され、忠愍と諡された。
  • 子の康淵は幼くて襲爵できず、散騎舍人を授けられたが、のち事に坐して冠服を剥奪され、山西に居住を命じられ、ついに嗣ぐことができなかった。𢎞治の末、茂才の後裔を録して世襲千戸とした。