明史卷一百二十九 列傳第十九 傅友德
先祖は宿州の人でのち碭山へ移った。元末に李喜喜・明玉珍・陳友諒に転じて仕えたが用いられず、太祖が江州を攻めた折に麾下を率いて降り、将に用いられた。鄱陽湖・武昌・徐州の戦いで身に傷を負いながら先陣を切り、北伐では汴洛・山西・慶陽の平定に加わった。蜀の伐討では階州・文州を衝いて成都を囲み明夏を降し、太祖の「平西蜀文」に功第一と称えられた。のち征南將軍として雲南を平定して頴國公に進封され、北辺でもたびたび出征したが、太祖の猜疑を受けて郷里へ帰され、のち死を賜った。
年表(13件)
- 洪武三年1370年大將軍に従って定西を衝き庫庫を大破し漢中を攻め克つ
- 洪武三年1370年功を論じて頴川侯に封じられ禄千五百石と世券を与えられる
- 洪武五年1372年征西將軍馮勝の副として沙漠を征し甘肅を攻略して瓜州・沙州に至る
- 洪武九年1376年延安で巴延特穆爾を破って捕えその衆を降す
- 洪武十四年1381年大將軍徐達の副として塞を出て鼐爾布哈を討ち灰山を襲う
- 洪武十四年1381年征南將軍として藍玉・沐英を率い歩騎三十万で雲南を征す
- 洪武十七年1384年功を論じて頴國公に進封され禄三千石と世券を与えられる
- 洪武十九年1386年師を率いて雲南の蠻を討ち平らげる
- 洪武二十年1387年大將軍馮勝の副として金山の納克楚を征す
- 洪武二十一年1388年征南將軍として東川の叛蠻を討ち越州の酋長阿資へ兵を移す
- 洪武二十三年1390年晉王・燕王に従って沙漠を征し鼐爾布哈を捕えて寧夏を征す
- 洪武二十五年1392年懷遠の田千畝を請うて帝の不快を招き諭される
- 嘉靖元年1522年何孟春の請いにより友德を祀る報功の祠が立てられる
出自と太祖への帰服
- 傅友德の先祖は宿州の人で、のち碭山へ移った。元末に劉福通の一党の李喜喜に従って蜀に入り、喜喜が敗れると明玉珍に従ったが、玉珍は用いることができず、武昌へ去って陳友諒に従ったが、名を知られることはなかった。
- 太祖が江州を攻めて小孤山に至ると、友德は麾下を率いて降った。帝は語り合って非凡と見て将に用いた。
- 常遇春に従って安豐を援け、廬州を攻略し、還って鄱陽湖の戦いに従い、軽舟で友諒の前鋒をくじき、数か所の傷を負いながらますます力戦した。さらに諸将とともに涇江口で迎撃し、友諒は敗れて死んだ。
- 武昌征伐に従ったとき、城の東南の高冠山は城中を見下ろす位置にあり、漢兵が拠っていた。諸将は顔を見合わせて進めなかったが、友德は数百人を率いて一気にこれを奪った。流矢が頬に当たり脇まで貫いたが、ひるまなかった。武昌が平定されると雄武衛指揮使を授けられた。
- 徐達に従って廬州を抜き、別将として彝陵・衡州・襄陽を克ち、安陸を攻めて九か所の傷を負いながらその将の任亮を破って捕えた。
- 大軍に従って淮東を下し、馬邏港で張士誠の援兵を破って戦艦千艘を獲た。さらに安豐で元の将の珠占を大いに破った。
徐州の戦いと北伐
- 陸聚とともに徐州を守っていたとき、庫庫が将の李二を遣わして攻め、陵子村に陣した。友德は兵が少なく敵し得ないと判断して壁を堅くして戦わず、敵が分散して掠奪しているのを探知すると、二千人で河を遡って呂梁に至り、上陸して撃った。単騎で槊を振るってその将の韓乙を刺し、敵は敗れ去った。
- また来るだろうと見て急ぎ還り、城門を開いて野に陣し、戈を伏せて待ち、鼓を聞いたら起つと約束した。李二は果たして来た。鼓が鳴ると士は跳り上がって搏戦し、李二を破って捕えた。
- 召還されて江淮行省參知政事に進み、御前の麾蓋と鼓吹を割いて邸まで送らせた。
- 翌年、大將軍に従って北征し、泝州を破り、青州を下した。元の丞相の伊蘇が援けに来ると、軽騎で敵を誘って伏兵に入れ、奮撃して敗走させ、萊陽・東昌を取った。
- 翌年、汴・洛の平定に従い、諸山寨を収め、河を渡って衛輝・彰德を取り、臨清に至って元の将を捕えて嚮導とし、德州・滄州を取った。元の都を克つと、古北の隘口を偵察し、盧溝橋を守り、大同を攻略した。還って保定・真定を下し、定州を守った。
- 山西攻めに従って太原を克った。庫庫が保安から万騎で援けに突入してくると、友德は五十騎で衝いて退け、夜にその営を襲った。庫庫はあわてて逃げ去り、土門關まで追って士馬万を数えるほど獲た。
- さらに石州で賀宗哲を破り、宣府で圖魯卜を破り、西へ向かって大將軍と合流して慶陽を囲み、偏師を靈州に駐めてその援兵を遮り、慶陽を克った。還ると白金と文綺を賜った。
蜀の平定
- 洪武三年(1370年)、大將軍に従って定西を衝き、庫庫を大破した。兵を移して蜀を伐ち、前鋒を率いて一百八渡に出て畧陽關を奪い、沔に入り、兵を分けて連雲棧から合わせて漢中を攻めて克った。糧食の補給が続かず西安に軍を還した。
- 蜀の将の呉友仁が漢中を寇すると、友德は三千騎で救援し、斗山寨を攻めるにあたって軍中の者に十本ずつ松明を灯して山上に並べさせ、蜀兵は驚いて逃げた。
- この冬、功を論じて開國輔運推誠宣力武臣・榮禄大夫・柱國・同知大都督府事を授けられ、頴川侯に封じられて禄千五百石を食み、世券を与えられた。
- 翌年、征虜前將軍に充てられ、征西將軍の湯和と道を分けて蜀を伐った。湯和は廖永忠らを率いて舟師で瞿塘を攻め、友德は顧時らを率いて歩騎で秦・隴へ出た。
- 太祖は友德に「蜀人は我が西伐を聞けば必ず精鋭を尽くして東は瞿塘を守り、北は金牛に拠って我が軍に抗するだろう。不意を突いてまっすぐ階州・文州を衝けば、門戸が壊れて腹心はおのずと潰える。兵は神速を貴ぶ。恐れるべきは勇まぬことだけだ」と諭した。
- 友德は疾走して陝に至り、諸軍を集めて金牛へ出ると言い触らしながら、密かに兵を陳倉へ向け、巌谷をよじ登って昼夜行軍し、階州に至って蜀の将の丁世珍を破ってその城を克った。
- 蜀人が白龍江の橋を断つと、友德は橋を修めて渡り、五里關を破って文州を抜き、白水江を渡って綿州へ向かった。
- そのとき漢江の水が増して渡れなかったので、木を伐って戦艦を造り、軍の声勢を瞿塘へ伝えようとした。そこで木を削って牌数千枚を作り、階州・文州・綿州を克った月日を書いて漢水に投じ、流れに乗せて下した。蜀の守兵はこれを見てみな戦意を失った。
- はじめ蜀人は大軍の西征を聞いて、丞相の戴壽らが総力を挙げて瞿塘を守っていたが、友德が階州・文州を破って江油を衝いたと聞き、ようやく兵を分けて漢州を援け成都を保とうとした。
- 到着せぬうちに友德はすでに城下でその守将の向大亨を破っており、将士に「援軍は遠来のうえ、大亨が破れたと聞いて胆をつぶしている。何もできまい」と言って迎え撃ち、大いに破って漢州を抜き、進んで成都を囲んだ。
- 戴壽らは象を用いて戦ったが、友德は強弩と火器で衝かせ、自らも流矢に当たりながら退かず、将士は死を決して戦った。象は逆に走って踏み殺された者がきわめて多かった。戴壽らはその主の明昇がすでに降ったと聞き、府庫と倉廩の帳簿を作り、面縛して軍門に至った。
- 成都が平定されると、兵を分けてまだ下らぬ州邑を巡り、保寧を克って呉友仁を捕えて京師に送り、蜀の地はことごとく定まった。
- 友德が漢州を攻めたとき、湯和はなお大溪口に軍を留めていたが、江の流れに木牌を得てから軍を進めた。戴壽らが精兵を割いて西の漢州を救い、老弱を残して瞿塘を守らせたため、永忠らは勝ちに乗じて重慶を衝き、明昇を降すことができたのである。
- そこで太祖は「平西蜀文」を製し、友德の功を第一とし、廖永忠をこれに次ぐと大いに称えた。軍が還ると最上の賞を受けた。
甘肅・北辺の征討
- 洪武五年(1372年)、征西將軍馮勝の副として沙漠を征し、西涼で實喇罕を破り、永昌に至って太尉の多爾濟巴勒を破って馬・牛・羊十余万を獲た。甘肅を攻略して平章の布哈を射殺し、太尉の索諾爾らを降し、瓜州・沙州に至って金銀の印および雑畜二万を獲て還った。
- このとき三道から出師したが、友德だけが完勝した。しかし主将の勝が軽微な法に触れたため賞は行われなかった。
- 翌年、ふたたび雁門を出て前鋒となり、平章の鄧博囉特穆爾を捕えた。還って北平に鎮し、便宜五事を陳べていずれも聴き入れられた。召還されて太子に従って荊山で講武し、歳禄千石を加えられた。
- 洪武九年(1376年)、延安で巴延特穆爾を破って捕え、その衆を降した。
- 帝が雲南を征そうとしたとき、友德に川蜀・雅州・播州の境を巡行させ、城郭を修め關梁を繕わせ、兵威によって金筑・普定の諸山寨を降した。
- 洪武十四年(1381年)、大將軍徐達の副として塞を出て鼐爾布哈を討ち、北黄河を渡って灰山を襲い、斬獲がきわめて多かった。
雲南の平定
- 同じ年の秋、征南將軍に充てられ、左副將軍藍玉・右副將軍沐英を率い、歩騎三十万で雲南を征した。湖廣に至って都督の胡海らに兵五万を分けて永寧から烏撒へ向かわせ、自らは大軍を率いて辰州・沅州から貴州へ向かった。
- 普定・普安を克ち、諸苗蠻を降し、進んで曲靖を攻め、白石江で大戦して元の平章の達爾瑪を捕えた。そのまま烏撒を撃ち、格孤山に沿って南下して永寧の兵と連絡し、両將軍を雲南へ向かわせると、元の梁王は逃げて死んだ。
- 友德が烏撒に城を築くと群蠻が争いに来たが、奮撃して破り、七星關を得て畢節と通じた。さらに可渡河を克ち、東川・烏蒙・芒部の諸蠻を降した。烏撒の諸蠻がふたたび叛くとこれを討ち、首級三万余を斬り、牛馬十余万を獲て、水西の諸部はみな降った。
- 洪武十七年(1384年)、功を論じて頴國公に進封され、禄三千石を食み、世券を与えられた。
- 洪武十九年(1386年)、師を率いて雲南の蠻を討ち平らげた。洪武二十年(1387年)、大將軍馮勝の副として金山に納克楚を征した。
- 洪武二十一年(1388年)、東川の蠻が叛くと、ふたたび征南將軍として師を率いて討ち平らげ、兵を移して越州の叛いた酋長の阿資を討ち、翌年、普安で破った。
- 洪武二十三年(1390年)、晉王・燕王に従って沙漠を征し、鼐爾布哈を捕え、還って開平に駐まり、さらに寧夏を征した。
- 翌年、征虜將軍として北平で辺を備え、さらに燕王に従って哈扎爾實喇を征し、元の遼王を追ったが、進み始めたところで急に退軍を命じた。敵が備えを怠ったところで密かに兵を進めて深く入り、黒嶺に至って敵衆を大破して還った。
- ふたたび出て山西・陝西で兵を練り、屯田の事を総べ、太子太師を加えられ、まもなく郷里へ帰された。
人物と最期
- 友德は口数少なく猛々しく躍動し、身をもって百死を冒した。偏裨から大将に至るまで、戦うたびに必ず士卒に先んじ、傷を負ってもいよいよ力戦したので、行く先々で功を立てた。帝はしばしば勅して奨励し労った。
- 子の傅忠は夀春公主を娶り、娘は晉の世子の朱濟熺の妃となった。
- 洪武二十五年(1392年)、友德が懷遠の田千畝を請うと、帝は不快に思い「禄も賜与も薄くはない。そのうえ民の利を侵すとは何事か。公儀休の故事を聞かぬのか」と言った。
- まもなく宋國公馮勝の副として山西を分行し、大同・東勝に屯田して十六衛を立てた。この冬、ふたたび山西・河南で軍を練り、翌年ともに召し還され、さらにその翌年に死を賜った。
- 公主の縁により、その孫の傅彦名を金吾衛千戸に録した。𢎞治年間、晉王が友德の五世孫の傅瑛について六王の例に倣って襲封を求めたが、禮官の議に下されて許されなかった。嘉靖元年(1522年)、雲南巡撫都御史の何孟春が友德を祀る祠を立てるよう請い、詔して許され、報功と名づけられた。