明史卷一百二十九 列傳第十九 馮勝
定遠の人。はじめ國勝、また宗異と名のり、最後に勝と名のった。兄の馮國用とともに読書を好み兵法に通じ、元末に太祖へ帰服して親任された。國用の没後はその職を襲って親軍を統率し、陳友諒・張士誠との戦いで功を重ね、中原から山西・陝西の平定を担って宋國公に封じられた。沙漠の征討では三道のうち勝の軍だけが全軍を保って多くを斬獲したが、駱駝や馬を隠したと告げる者があって賞されなかった。のち征虜大將軍として元の太尉納克楚を降し二十余万を得たが、良馬を隠したなどの告発により大將軍印を取り上げられ、以後大兵を率いなかった。太祖が高齢となって猜疑を深めるなか、藍玉の誅殺と同月に召還され、二年余りして死を賜り、諸子はみな爵を嗣げなかった。
年表(9件)
- 洪武三年1370年兄の馮國用が郢國公を追封され功臣廟の第八位に列する
- 洪武元年1368年太子右詹事を兼ねたが法に触れて都督同知に貶され汴・洛と陝州を取る
- 洪武二年1369年陝西へ渡って臨洮で李思齊を降し慶陽を克って陝西を平定する
- 洪武二年1369年慶陽駐留の命に背いて勝手に兵を率いて還り帝に厳しく責められる
- 洪武五年1372年四方に力を尽くしたとして徐達・李文忠とともに彤弓を賜る
- 洪武二十年1387年征虜大將軍として歩騎二十万を率い金山の納克楚を征し降す
- 洪武二十一年1388年曲靖征討の番兵が中途で叛き永寧に鎮して撫し安んじる
- 洪武二十五年1392年太原・平陽の民を軍籍に入れ衛を立てて屯田させるよう命じられる
- 洪武二十五年1392年皇太孫の冊立に伴い太子太師を加えられ山西・河南で軍を練る
出自と帰服
- 馮勝は定遠の人。はじめ國勝と名のり、また宗異と名のり、最後に勝と名のった。生まれたとき黒い気が室に満ち、日を経ても散らなかった。長じては雄々しく勇敢で智略に富み、兄の馮國用とともに読書を好み、兵法に通じた。
- 元末に寨を結んで自ら守っていたが、太祖が土地を切り取って妙山に至ると、國用は勝とともに帰服し、大いに親任された。
- 太祖がくつろいで天下の大計を尋ねたとき、國用は「金陵は龍が蟠り虎が踞る帝王の都です。まずここを抜いて根本とし、そののち四方へ征伐に出て、仁義を唱えて人心を収め、子女や玉帛を貪らなければ、天下は定まらぬはずがありません」と答えた。太祖は大いに喜んで幕府に置いた。
- 滁州・和州の攻略、三义河・板門寨・雞籠山の戦いに従っていずれも功があった。江を渡って太平を取ると、國用に親兵を統率させ、腹心として委ねた。
馮國用の功と死
- 太祖が陳額森を捕えて釈放し、その部曲を招かせようとしたとき、國用は必ず叛くと見て遣わさぬがよいと進言した。まもなく果たして叛き、部下に殺された。
- その甥の陳兆先がふたたび衆を擁して方山に屯し、曼濟哈雅が采石を扼した。國用は諸将とともに哈雅の水寨を攻め破り、また兆先を破って捕え、その衆三万余人をことごとく降した。
- 衆が疑い恐れていたので、太祖はその中から驍勇の者五百人を選んで親軍とし、帳中に宿衛させ、旧来の者をみな退けて國用だけを寝台のそばに侍らせた。五百人はこれでようやく安心した。そこで國用にこれを率いさせて集慶を攻めさせると、争って死力を尽くして先登した。
- 諸将とともに鎮江・丹陽・寧國・泰興・宜興を下し、金華征伐に従い、紹興を攻め、重ねて親軍都指揮使に抜擢された。軍中で没した。享年三十六。太祖は慟哭した。
- 洪武三年(1370年)、郢國公を追封され、功臣廟に肖像が置かれて第八位に列した。
- 國用が没したとき子の馮誠は幼く、勝はすでに功を積んで元帥となっていたので、兄の職を襲って親軍を統率するよう命じられた。
陳友諒・張士誠との戦い
- 陳友諒が龍灣に迫ると、太祖はこれを防ぎ、石灰山で戦った。勝はその中堅を攻めて大いに破り、さらに采石で追撃して破り、太平を回復した。
- 友諒征伐に従って安慶の水寨を破り、長駆して江州に至って友諒を逃走させ、親軍都護に進んだ。安豐の囲みを解くのに従い、同知樞密院事に遷った。
- 鄱陽での戦いに従い、武昌を下し、廬州を克ち、兵を移して江西の諸路を取った。諸将とともに淮東を収め、海安壩を克ち、泰州を取った。
- 徐達が高郵を囲んで落とせず、宜興を援けるために軍を還したとき、勝に軍を督させた。高郵の守将が偽って降り、勝は指揮の康泰に数百人を率いて先に入城させたが、敵は門を閉じてことごとく殺した。太祖は怒って勝を召し、大杖十を科したうえ、歩いて高郵へ赴かせた。勝は慚愧と憤りから力を尽くして攻め、徐達も宜興から還って兵を増して攻め落とした。
- そのまま淮安・安豐を取り、旧館で呉の将の呂珍を破って捕え、湖州を下し、平江を克った。功の序列は平章の常遇春に次ぎ、ふたたび右都督に遷った。
- 大將軍徐達に従って北征し、山東の諸州郡を下した。
中原・山西・陝西の平定
- 洪武元年(1368年)、太子右詹事を兼ねたが、軽微な法に触れて一官を貶され都督同知となった。兵を率いて河を遡って汴・洛を取り、陝州を下し、潼關に迫ると守将は夜に逃げ去り、關を奪って華州を取った。汴に還って帝の行在に謁し、征虜右副將軍を授けられ、汴梁に留守した。
- まもなく大將軍に従って山西を征し、武陟から懷慶を取り、太行を越えて碗子城を克ち、澤州・潞州を取った。猗氏で元の右丞の賈成を捕え、平陽・絳州を克ち、元の左丞の田保保らを捕え、将士五百余人を獲た。
- 帝は喜んで詔し、右副將軍の勝は常遇春の下、偏將軍の湯和は勝の下、偏將軍の楊璟は湯和の下と序列を定めた。
- 洪武二年(1369年)、河を渡って陝西へ向かい、鳳翔を克ち、隴を越えて鞏昌を取り、進んで臨洮に迫って李思齊を降した。還って大將軍に従い慶陽を囲んだ。庫庫が将を遣わして原州を攻め慶陽の声援としたが、勝は驛馬關を扼してその将を破り、慶陽を克って張良臣を捕え、陝西はことごとく平定された。
- 九月、帝が大將軍を召し還し、勝に慶陽に駐して諸軍を節制するよう命じたが、勝は關中・陝西が平定されたからとして勝手に兵を率いて還った。帝は怒って厳しく責めたが、功が大きいことを思って赦して罪に問わなかった。ただし賜与の金幣は大將軍の半分にも満たなかった。
- 翌年正月、ふたたび右副將軍として大將軍とともに西安を出て定西を衝き、庫庫特穆爾を破って士馬数万を獲た。兵を分けて徽州から南へ一百八渡に出て畧陽を攻略し、元の平章の蔡琳を捕えて沔州に入り、別将を連雲棧から興元へ向かわせ、兵を土番に移して哨戒は西北の果てにまで及んだ。
- 凱旋して功を論じ、開國輔運推誠宣力武臣・特進榮禄大夫・右柱國・同參軍國事を授けられ、宋國公に封じられて禄三千石を食み、世券を与えられた。誥詞には「勝の兄弟は親しきこと骨肉に同じく、十余年の間に肘腋の患いを除き爪牙の功を建て、中原を平定して統一を助けた」とあり、称揚は極めて厚かった。
- 洪武五年(1372年)、四方に力を尽くしたとして、魏國公徐達・曹國公李文忠とともに彤弓を賜った。
沙漠の征討
- 庫庫が和林にあってしばしば辺境を侵し、帝はこれを患えて大挙して三道から塞を出た。勝を征西將軍として、副將軍の陳德・傅友德らを率いて西道から甘肅へ向かわせた。
- 蘭州に至ると、友德が驍騎で先駆して二度元兵を破り、勝もまた索琳山でこれを破った。甘肅に至ると元の将の上都羅が迎え降り、額齊訥路に至ると守将の布延特穆爾も降った。畢道山に至ると岐王の多爾濟巴勒は逃げ去り、追ってその平章の昌嘉努ら二十七人と馬・駱駝・牛・羊十余万を獲た。
- この役では大將軍徐達の軍は不利、左副將軍李文忠は損害と戦果が相当したが、勝だけが斬獲がきわめて多く、全軍を保って還った。ところが駱駝や馬を私に隠したと言う者があり、賞は行われなかった。
- その後も何度も出て臨清・北平で兵を練り、大同へ出て元の遺衆を征し、陝西および河南を鎮めた。その娘を周王妃に冊立された。
納克楚の招降
- 久しくして大將軍徐達も左副將軍李文忠も没し、元の太尉の納克楚が数十万の衆を擁して金山に屯し、しばしば遼東の害となった。
- 洪武二十年(1387年)、勝を征虜大將軍とし、頴國公傅友德・永昌侯藍玉を左右副將軍として、南雄侯趙庸らを率いて歩騎二十万でこれを征させた。鄭國公常茂・曹國公李景隆・申國公鄧鎮らもみな従った。帝はさらに、かつて捕えた納克楚の部将の鼐拉勒古に璽書を奉じて降を諭させに行かせた。
- 勝は松亭關を出て、大寧・寛河・會州・富峪の四城を分けて築き、大寧に駐まった。二か月を越えて兵五万を留めて守らせ、全軍で金山に迫った。
- 納克楚は鼐拉勒古を見て驚き「お前はまだ生きていたのか」と言った。鼐拉勒古が帝の恩徳を述べると、納克楚は喜んで左丞の特黙齊らを遣わして馬を献じ、あわせて勝の軍を窺わせた。
- 勝はすでに金山を越えて女直の魁呑に至り、納克楚の将である慶國公の古通を降していた。大軍が突如迫ったので、納克楚は敵し得ぬと判断し、鼐拉勒古を通じて降を請うた。
- 勝は藍玉に軽騎で受降させた。藍玉は納克楚と酒を酌み交わして大いに歓び、衣を脱いで着せかけたが、納克楚は着ようとせず、左右を顧みて舌打ちしながら語り、逃げようと謀った。勝の婿の常茂が同席していて、突然立ち上がってその腕を斬りつけた。都督の耿忠が抱きかかえて勝に会わせた。
- 納克楚の将士の妻子十余万は松花河に屯していたが、納克楚が傷つけられたと聞いて驚き潰えた。勝が古通を遣わして諭させ、ようやく降り、その部下二十余万人、牛・羊・馬・駱駝と輜重は百余里に連なった。
- 還って伊瑪河に至り、さらにその残卒二万余と車馬五万を収めたが、殿軍の都督の濮英が敵に殺された。
- 軍を還し、捷報を伝えるとともに常茂が変を引き起こした顛末を奏し、降衆二十万人をすべて率いて關内に入った。帝は大いに喜んで使者に迎え労わせたが、勝らは常茂を械につないだ。
- ところが「勝は良馬を多く隠し、門番を納克楚の妻に酒を勧めに行かせて大珠や珍宝を求め、王子が死んで二日で強いてその娘を娶り、降附者の心を失った。さらに濮英の三千騎を失った」と言う者があり、常茂もまた勝の過失を告発した。帝は怒って勝の大將軍印を取り上げ、鳳陽の邸に就いて朝請に侍るよう命じ、諸将士にも賞は行われなかった。勝はこれ以来、二度と大兵を率いなかった。
晩年と賜死
- 洪武二十一年(1388年)、詔を奉じて東昌の番兵を調発して曲靖を征させたが、番兵が中途で叛いた。勝は永寧に鎮して撫して安んじた。
- 洪武二十五年(1392年)、太原・平陽の民を軍籍に入れ、衛を立てて屯田させるよう命じられた。皇太孫が立てられると太子太師を加えられ、頴國公傅友德とともに山西・河南で軍を練り、諸公侯はみなその節制を受けた。
- 当時、勲臣で望みの重い者八人を挙げるよう詔があり、勝は第三位であった。
- 太祖は高齢となって猜疑が多く、勝は功が最も多かったが、しばしば些細な事で帝の意にそむいた。藍玉が誅されたその月に京に召し還され、二年余りして死を賜った。諸子はみな嗣ぐことができなかった。
- 一方、國用の子の馮誠は雲南で戦功を積み、重ねて官を経て右軍左都督に至った。
納克楚
- 納克楚は元の穆呼里の裔孫で、太平路萬戸であった。太祖が太平を克ったとき捕えられたが、名臣の子孫として厚遇された。元を忘れぬことを知って、資を与えて北へ帰した。
- 元が滅びると、納克楚は金山に兵を集め、牧畜は盛んに殖えた。帝が使者を遣わして招き諭したが、ついに返答せず、しばしば遼東を犯して葉旺に敗れた。勝らの大兵が臨むに及んで降り、海西侯に封じられた。
- 傅友德に従って雲南を征する途中で没した。子の察罕は瀋陽侯に改封されたが、藍玉の党に坐して死んだ。