明史卷一百二十八 列傳第十六 宋濓

出自と太祖への出仕

  • 宋濓は字を景濓といい、先祖は金華の潛溪の人であったが、濓の代に浦江へ移った。幼くして英敏で記憶力が強く、聞人夢吉に学んで五經に通じ、さらに呉萊に学び、のち桞貫・黄潛の門に遊んだ。二人とも大いに謙遜して自ら及ばぬと言った。
  • 元の至正年間に推薦されて翰林編修を授けられたが、親が老いていることを理由に辞して赴かず、龍門山に入って十余年にわたり著述した。
  • 太祖が婺州を取ると濓を召見した。当時すでに寧越府と改めており、知府の王顯宗に郡学を開かせ、濓と葉儀を五經の師とした。
  • 翌年三月、李善長の推薦により、劉基・章溢・葉琛とともに徴されて應天に至り、江南儒學提舉を授けられ、太子に経書を授けるよう命じられた。まもなく起居注に改まった。
  • 濓は劉基より一歳年長で、ともに東南に重い名声があった。劉基は雄邁で奇気があり、濓は自ら儒者をもって任じた。劉基は軍中の謀議を助け、濓もまた文学によって知遇を得、常に左右に侍って顧問に備えた。

経筵での献言

  • 『春秋左氏伝』を講じるよう召されたとき、濓は「春秋は孔子が善を褒め悪を貶した書です。これに遵って行えば賞罰が適切になり、天下は定まります」と進言した。
  • 太祖が端門に御して黄石公の『三畧』を口ずから解説したとき、濓は「『尚書』の二典三謨には帝王の大経大法がすべて備わっています。心を留めて講明なさいますよう」と言った。
  • 賞賜を論じたときには「天下を得るには人心を本とします。人心が固まらねば、金帛が満ち溢れていても何の役に立ちましょう」と言い、太祖はいずれも善しとした。
  • 乙巳年(1365年)三月、帰省を願い出ると、太祖と太子はそろって労って賜与した。濓は箋を上って謝し、あわせて太子に書を奉って、孝友・敬恭・進徳修業を勧めた。太祖は書を見て大いに喜び、太子を召してその趣旨を語り、札を賜って褒め答え、太子にも返書を出させた。
  • まもなく父の喪に遭い、服喪を終えて召し還された。

『元史』の編纂と文治

  • 洪武二年(1369年)、詔して『元史』を修めることとなり、總裁官に充てられた。この年八月に史が成り、翰林院學士を授けられた。
  • 翌年二月、儒士の歐陽佑らが元の元統以後の事蹟を採録して朝に還ると、濓らに続修を命じ、六か月で再び完成して金帛を賜った。この月、朝参を欠いたため編修に降された。
  • 洪武四年(1371年)、國子司業に遷ったが、孔子を祀る礼を時に合わせて奏さなかったことに坐して安遠知縣に謫された。まもなく召されて禮部主事となり、翌年に贊善大夫に遷った。
  • このころ帝は文治に意を留め、四方の儒士である張唯ら数十人を召し、そのうち年少で俊異な者をみな編修に抜擢し、禁中の文華堂に入れて学業を修めさせ、濓をその師とした。
  • 濓は太子を輔導すること前後十余年、一言一動をすべて礼法に照らして諷諫し、道に帰させた。政教にかかわることや前代の興亡の事に及ぶと、必ず拱手して「かくあるべきで、あのようであってはなりません」と言った。皇太子はそのたびに容を改めて嘉納し、言えば必ず「師父」と称した。

帝の諮問への応答

  • 帝が符を剖いて功臣を封じるにあたり、濓を召して五等の封爵を議させ、大本堂に泊まり込んで夜通し討論し、漢・唐の故実に基づいてその中庸を量って奏した。
  • 甘露がしばしば降ったとき、帝が災異と祥瑞の理由を問うと、「命を受けるのは天によるのではなくその人による。休符は瑞祥によるのではなくその仁による。春秋が異を書いて祥を書かないのはこのためです」と答えた。
  • 帝の甥の朱文正が罪を得たとき、濓は「文正はもとより死に値します。陛下が親を親しむ誼を体して遠地に置かれるなら善いことです」と言った。
  • 車駕が方丘を祀ったとき、帝が心が安らかでないのを患うと、濓は落ち着いて「心を養うには欲を寡なくするに勝るものはありません。真によく行えば心は清く身は泰らかになります」と言い、帝は長く感心した。
  • かつて帝王の学問にはどの書が要かと問うと、濓は『大學衍義』を挙げた。帝は大書して殿の両廡の壁に掲げさせた。
  • しばらくして帝が西廡に御し、諸大臣が居並ぶ中、『衍義』の中の司馬遷が黄老を論じた箇所を指して濓に講析させた。講が終わると濓は「漢の武帝は方技のいい加減な学に溺れ、文帝・景帝の恭倹の風を改めた。民力が疲弊してのち厳刑で督した。人主がまことに礼義で心を治めれば邪説は入らず、学校で民を治めれば禍乱は起こらない。刑罰は先にすべきものではありません」と言った。
  • 三代の暦数と封疆の広狭を問われて詳しく陳べたうえ、「三代は仁義をもって天下を治めたゆえに年数を長く保ちました」と言った。
  • 三代以上には何の書を読んだかと問われると、「上古は書物がまだ立てられず、人は講誦を専らにしませんでした。人君は治教の責を兼ね、率いて自ら行えば衆はおのずと化しました」と答えた。
  • かつて制に応じて鷹を詠むよう命じられたとき、七歩歩む間に成し、「古より禽荒を戒める」の語を含めた。帝は喜んで「卿は善く陳べると言うべきだ」と言った。濓が事に応じて忠を尽くすさまは、みなこの類であった。

累進と誠謹の人柄

  • 洪武六年(1373年)七月、侍講學士・知制誥・同修國史に遷り、贊善大夫を兼ねた。詹同・樂韶鳳とともに日暦を修めるよう命じられ、また呉伯宗らとともに『寳訓』を修めた。
  • 九月に散官の資階を定めるにあたり、濓に中順大夫を給し、政事を任せようとしたが、「臣に他の長所はございません。禁近に侍るだけで足ります」と辞し、帝はいよいよ重んじた。
  • 洪武八年(1375年)九月、太子および秦・晉・楚・靖江の四王に従って中都で講武した。帝は濠梁の古蹟を描いた輿図一巻を得て、使者を遣わして太子に賜り、その外題に「濓に諮り、随処に説明させよ」と書いた。太子が濓に示すと、濓は一つ一つ挙げ陳べ、事に即して説を進めて大いに益があった。
  • 濓は誠実謹厳な性格で、長く内廷に仕えながら人の過ちを暴いたことがなかった。居室に「溫樹」と署し、客が禁中の言葉を問うとその署を指して示した。
  • あるとき客と飲んだのを帝が密かに人を遣わして偵察させ、翌日「昨日は酒を飲んだか、同席の客は誰か、料理は何だったか」と問うた。濓がありのままに答えると、帝は笑って「そのとおりだ。卿は私を欺かぬ」と言った。
  • 折々に群臣の善悪を問われても、濓は善き者を挙げるだけで「善き者は臣の友ですから知っております。善からぬ者は知りようがありません」と言った。
  • 主事の茹太素が一万余言の上書をして帝が怒り廷臣に問うたとき、その書を指して「これは不敬だ」「これは誹謗で法に外れる」と言う者がいた。濓は「彼は陛下に忠を尽くしているだけです。陛下はいま言路を開いておられます。深く罪に問うてはなりません」と答えた。のちに帝はその書に採るべき点があるのを見て、廷臣をみな召して詰責し、濓を字で呼んで「景濓がいなければ、危うく言う者を誤って罪するところだった」と言った。
  • そこで帝は廷上で濓を褒めて言った。「私は、最上を聖といい、その次を賢といい、その次を君子というと聞く。宋景濓は私に仕えて十九年、一言の偽りも、一人を短く誚ることもなかった。終始変わらぬのは君子にとどまらず、賢と言ってよい。」
  • 燕見のたびに必ず席を設けて茶を出させ、朝ごとに必ず食事に侍らせ、繰り返し諮問して夜半に及んでようやく退かせた。濓は飲めなかったが、帝が三杯を強いて歩行もままならぬほどになり、帝は大いに歓んで自ら楚辭一章を製し、詞臣に「醉學士詩」を賦させた。
  • また甘露を湯に調え、自ら酌んで濓に飲ませ「これは病を癒し年を延ばす。卿と共にしたい」と言った。さらに太子に詔して濓に良馬を賜い、あわせて「良馬歌」一章を製し、侍臣に和させた。その寵遇はこのようであった。

致仕と流謫

  • 洪武九年(1376年)、學士承旨・知制誥に進み、贊善大夫はそのままであった。翌年に致仕し、御製の文集と綺帛を賜った。帝が年齢を問うと「六十八」と答え、帝は「この綺を三十二年しまっておき、百歳の衣とするがよい」と言った。濓は頓首して謝した。さらにその翌年に来朝した。
  • 洪武十三年(1380年)、長孫の宋慎が胡惟庸の党に坐し、帝は濓を死罪にしようとしたが、皇后と太子が力を尽くして救い、茂州に安置されることとなった。

人物・文章と没後

  • 濓は容貌が堂々として鬚髯が美しく、近視ではあったが目は明るく、黍粒ほどの上に数字を書けた。若年から老年まで一日も書巻を手放したことがなく、学において通じぬところがなかった。
  • その文は醇厚深遠で、古の作者に並ぶものであった。朝廷では郊社・宗廟・山川百神の典、朝会・宴享・律暦・衣冠の制、四方の異民族の貢賦・賞賜の儀、さらには元勲・巨卿の碑記や刻石の辞まで、すべて濓に委ねられ、しばしば開國文臣の首と推された。
  • 士大夫で門を訪ねて文を乞う者があとを絶たず、外国の使者もその名を知って、しばしば「宋先生はご健勝か」と問うた。高麗・安南・日本は兼金を出して文集を購った。四方の学者はみな「太史公」と称して姓氏で呼ばなかった。
  • 白首まで侍従の身であり、勲業や爵位は劉基に及ばなかったが、一代の礼楽制作は濓の裁定したものが多かった。
  • 翌年、夔で没した。享年七十二。知事の葉以從が蓮花山の下に葬った。蜀の獻王は濓の名を慕い、塋を華陽城の東へ移した。
  • 𢎞治九年(1496年)、四川巡撫の馬俊が「濓は真の儒者で、翊運の功があり、その著述は師とするに足り、文飾に功が多く、輔導に績を著したが、久しく遠戍に死んで幽壌に沈淪している」と奏し、卹録を加えるよう請うた。禮部の議に下されて官を復し、葬所で春秋の祭を行うこととなった。正徳年間に文憲と諡を追贈された。

宋濓の子孫

  • 次子の宋璲が最も知られた。字は伯珩、詩をよくし、とりわけ書法に巧みであった。洪武九年(1376年)、濓のゆえに召されて中書舍人となった。その兄の子の宋慎も儀禮序班となった。
  • 帝はしばしば璲と慎を試し、あわせて訓誡を加え、笑って濓に「卿は私のために太子や諸王を教えた。私もまた卿の子孫を教えているぞ」と言った。濓が歩行に難儀すると、帝は必ず璲と慎に助け支えさせた。祖孫父子が内廷に共に仕え、人々はこれを栄誉とした。
  • 宋慎が罪に坐すと璲も連坐してともに死に、家族はみな茂州へ移された。
  • 建文帝が即位すると、濓が興宗(懿文太子)の旧師であったことを追想し、璲の子の宋懌を召して翰林の官とした。永樂十年(1412年)、濓の孫が姦党の鄭公智の外戚であることに坐したが、詔して特に許した。