明史卷一百二十八 列傳第十六 劉基

出自と若き日

  • 劉基は字を伯溫といい、青田の人。曾祖父の劉濠は宋に仕えて翰林掌書となった。
  • 宋が滅びたのち、同じ邑の林融が義兵を挙げて敗れると、元は使者を遣わしてその一党の名簿を作らせ、巻き添えになる者が多かった。使者が道中で劉濠の家に泊まったとき、濠は使者を酔わせて自邸に火を放ち、名簿もろとも焼き払った。使者は手の打ちようがなく、名簿を作り直したため、連坐しかけた者は皆助かった。
  • 劉基は幼くして人並み外れて聡明で、師の鄭復初は父の劉爚に「あなたの祖父の徳は厚い。この子はきっと一門を大きくするだろう」と語った。
  • 元の至順年間(1330-1333年)に進士に挙げられ、髙安の丞に任じられて清廉正直との評判を得た。行省に招かれたが辞し、のち江浙儒學副提舉となったが、御史の職務怠慢を論じて臺臣に阻まれ、再び弾劾の書を投じて帰郷した。
  • 経史に広く通じ、読まぬ書はなく、とくに象緯(天文占星)の学に精しかった。西蜀の趙天澤は江左の人物を論じてまず劉基を挙げ、諸葛孔明の同類だと評した。

元朝末期の方國珍との確執

  • 方國珍が海上に起こって郡県を掠め、官司が制圧できずにいると、行省はふたたび劉基を招いて元帥府都事とした。劉基は慶元の諸城を築いて賊を圧迫する策を献じ、國珍は気勢をくじかれた。
  • 左丞の托里特穆爾が國珍の招撫にあたったとき、劉基は「方氏兄弟は乱の張本人で、誅さねば後の見せしめにならぬ」と主張した。國珍は恐れて劉基に厚く賄賂を贈ったが、受け取らなかった。
  • 國珍は人を海路で都に遣わして当路の要人に賄賂を贈り、ついに國珍を撫して官を授ける詔が下り、逆に劉基は「ほしいままに威福を振るった」と責められて紹興に羈管(軟禁)された。方氏はいよいよ横暴になった。
  • まもなく山中の賊が蜂起すると、行省はまた劉基を起用して討伐にあたらせ、行院判の舒穆嚕伊遜とともに處州を守らせた。経畧使の李國鳳がその功を上申したが、執政は方氏の一件を理由に抑え、總管府判を授けただけで兵事には関与させなかった。
  • 劉基は官を棄てて青田に帰り、『郁離子』を著して志を示した。当時、方氏を避ける者が争って劉基を頼り、劉基が少しばかり部署を定めると賊は侵せなかった。

太祖への帰服と時務十八策

  • 太祖が金華を下し括蒼を平定すると、劉基や宋濓らの名声を聞き、幣を贈って劉基を招いた。劉基は応じなかったが、總制の孫炎が重ねて書を送って強く求めたので、ようやく出仕した。
  • 到着すると時務十八策を陳べ、太祖は大いに喜んで禮賢館を築いて劉基らを住まわせ、格別の礼遇を加えた。
  • 当初、太祖は韓林兒を宋の後裔として遥かに奉じ、歳首に中書省で御座を設けて礼を行っていたが、劉基だけは拝礼せず「牧童にすぎぬ。奉ってどうする」と言い、太祖に会って天命の所在を説いた。
  • 太祖が征討の順序を問うと、劉基は「張士誠は自守するだけの虜で憂うるに足りぬ。陳友諒は主を脅し下を圧し、名分も正しくないうえ上流を占めており、我らを忘れる日がない。まず陳氏を図るべきだ。陳氏が滅びれば張氏は孤立し、一挙に定まる。しかるのち北へ向かえば中原の王業は成る」と答えた。太祖は大いに喜び「先生には至計がある。言い尽くすことを惜しまれるな」と言った。

陳友諒との戦い

  • 陳友諒が太平を陥れ東下を謀って勢いが盛んになると、諸将には降伏を説く者、鍾山に拠って逃れようと説く者があった。劉基は目を見開いたまま黙していたが、太祖が奥へ召し入れると奮って「降伏や逃走を主張する者は斬るべきです」と言った。
  • 太祖が策を問うと、劉基は「賊は驕っている。深く誘い込んで伏兵で討てば容易い。天道は後から動く者が勝つ。威を取り敵を制して王業を成すのはこの一挙にあり」と答えた。太祖はその策を用いて友諒を誘い出し、大いに破った。克敵の賞を劉基に与えようとしたが、劉基は辞退した。
  • 友諒の兵がふたたび安慶を陥れると、太祖は自ら討とうとして劉基に諮り、劉基は強く賛成した。出師して安慶を攻めたが朝から夕まで落ちず、劉基は直ちに江州へ向かって友諒の巣窟を襲うよう請い、全軍を西上させた。不意を突かれた友諒は妻子を率いて武昌へ逃げ、江州は降った。
  • 友諒配下の龍興守将の胡美が子を遣わして帰順を申し出、その部曲を解散させないことを条件とした。太祖が難色を示すと、劉基は後ろから胡牀を蹴り、太祖は悟って許した。胡美が降ると江西の諸郡はみな下った。
  • 劉基は母の喪に遭っていたが軍事のさなかで言い出せずにいた。ここに至って帰って葬ることを請うた。ちょうど苖軍が反乱を起こして金華・處州の守将である胡大海・耿再成らを殺し、浙東が動揺した。劉基は衢に至って守将の夏毅に諭させて属邑を安んじ、のち平章の邵榮らと處州の回復を謀って乱は平定された。
  • 方國珍はもとより劉基を畏れており、書を送って弔意を表した。劉基は返書で太祖の威徳を宣べ示し、國珍はついに入貢した。
  • 太祖はしばしば書を劉基の家に届けて軍国の事を諮り、劉基の条答はことごとく機宜にかなった。

鄱陽湖の戦いと呉元年

  • まもなく京に赴いたとき、太祖はまさに自ら安豐を救援しようとしていた。劉基は「漢(陳友諒)と呉(張士誠)が隙を窺っており、動くべきではありません」と言ったが、聞き入れられなかった。
  • 友諒はこれを聞いて隙に乗じ洪都を図った。太祖は「君の言を聞かず、危うく計を誤るところだった」と言い、自ら洪都を救いに向かった。
  • 友諒と鄱陽湖で大戦し、一日に数十度も交戦した。太祖が湖上の牀に坐して戦を督し、劉基が傍らに侍していたとき、劉基は突然跳ね起きて大声で太祖に舟を移るよう促した。太祖があわてて別の舸に移り、坐り定まらぬうちに飛礮が元の御舟を撃って粉砕した。友諒は高みから見て大いに喜んだが、太祖の舟がさらに進んだので漢軍はみな色を失った。
  • 湖上で三日相持して決着がつかず、劉基は軍を湖口に移して友諒を扼し、金木相犯の日に決戦することを請うた。友諒は敗走して死んだ。
  • その後、太祖が張士誠を取り中原を北伐して帝業を成したのは、おおむね劉基の謀のとおりであった。
  • 呉元年(1367年)、劉基は太史令となり、戊申の大統暦を上った。熒惑が心宿に留まると詔を下して自ら罪を責めるよう請い、大旱のときは滞った獄訟を裁くよう請うた。太祖は劉基に平反(冤罪の是正)を命じ、雨がたちまち降り注いだ。そこで法制を立てて濫殺をやめさせるよう請うた。
  • 太祖がまさに人を刑しようとしたとき、劉基が理由を問うと、太祖は夢の話を語った。劉基は「これは土地と人衆を得る兆しです。刑を停めてお待ちください」と言い、三日後に海寧が降った。太祖は喜んで囚人をすべて劉基に付し、劉基はこれを放免した。
  • まもなく御史中丞に拝せられ、太史令を兼ねた。

洪武年間の朝廷

  • 太祖が皇帝の位に即くと、劉基は軍衛法の制定を奏した。かつて處州の税糧を定めたとき、宋の制に比べて畝あたり五合を加えたが、青田だけは加えぬよう命じ、「伯溫の郷里を世々の美談としよう」と言った。
  • 帝が汴梁に行幸したとき、劉基は左丞相の李善長とともに留守した。劉基は「宋・元は寛縦にして天下を失った。今こそ紀綱を厳しくすべきだ」と考え、御史に糾弾をためらわぬよう命じた。宿衛や宦官・侍臣に過失ある者はみな皇太子に申し上げて法に照らして処断し、人々はその厳しさを恐れた。
  • 中書省都事の李彬が貪縦の罪に問われたとき、李善長は日ごろ李彬を可愛がっていたので処分を緩めるよう請うたが、劉基は聞かず、早馬で奏聞して裁可を得、雨乞いの最中に斬った。これによって善長と反目した。
  • 帝が帰還すると、善長は「劉基が壇壝の下で人を殺したのは不敬だ」と訴え、劉基を怨む者たちも次々に讒言した。
  • 旱を理由に意見を求められた劉基は、「戦死者の妻は数万人にのぼり別営に置かれ、陰気が鬱結している。工匠の死者は骸骨が野ざらしのままだ。呉の将吏で降った者はみな軍戸に編入されている。これらが和気を損なっている」と奏した。帝はこれを容れたが、十日たっても雨は降らず、帝は怒った。
  • ちょうど劉基は妻の喪に遭ったので、暇を請うて帰郷した。当時、帝は中都を営み、また庫庫(王保保)を滅ぼすことに意を注いでいた。劉基は出発に臨んで「鳳陽は帝の郷里ではありますが都を建てる地ではありません。王保保も軽んじてはなりません」と奏した。果たして定西の戦いで失敗し、庫庫は沙漠へ逃れてついに辺境の患いとなった。
  • その冬、帝は自ら詔を書いて劉基の勲功を述べ、京に召して手厚く賜与し、劉基の祖父・父にいずれも永嘉郡公を追贈した。しばしば劉基の爵位を進めようとしたが、劉基は固辞して受けなかった。

宰相の人物評

  • かつて太祖がある事で丞相の李善長を責めたとき、劉基は「善長は勲功ある旧臣で、諸将を調和させることができます」と言った。太祖が「あの男はしばしば君を害そうとした。それなのに君は彼のために弁じるのか。私は君を丞相にしようと思っている」と言うと、劉基は頓首して「それは柱を取り替えるようなもので、大木を用いねばなりません。小木を束ねて代えれば、たちまち倒れます」と答えた。
  • 善長が罷免され、帝が楊憲を丞相にしようとしたとき、楊憲は日ごろ劉基と親しかったが、劉基は強く不可を説き、「憲には宰相の才はあるが宰相の器がない。そもそも宰相は心を水のように保ち、義理を秤として私心を交えぬものだ。憲はそうではない」と言った。
  • 帝が汪廣洋を問うと「これは狭量浅薄で、憲よりひどい」と答え、胡惟庸を問うと「車にたとえれば、轅を折る恐れがあります」と答えた。
  • 帝が「私の丞相にはやはり先生に及ぶ者がいない」と言うと、劉基は「臣は悪を憎むことが甚だしく、また煩雑な政務に耐えられません。就けば陛下の恩に背くことになります。天下に人材がないはずはなく、明主が心を尽くしてお求めになればよい。ただ今の顔ぶれには適任と見える者がおりません」と答えた。のちに楊憲・汪廣洋・胡惟庸はみな身を滅ぼした。

封爵と隠棲

  • 洪武三年(1370年)、𢎞文館學士を授けられた。十一月に功臣を大封するにあたり、開國翊運守正文臣・資善大夫・上護軍を授けられ、誠意伯に封じられて禄二百四十石を給された。
  • 翌年、老いを理由に郷里に帰ることを許された。帝がかつて自筆で天象について問うたとき、劉基は詳細に条答したうえでその草稿を焼いた。その大意は、霜雪の後には必ず陽春が来るように、国威はすでに立ったのだからいくらか寛大さで補うべきだ、というものであった。
  • 劉基は天下の平定を助け、事を料ること神のごとくであったが、性格は剛直で悪を憎み、人と衝突することが多かった。この時、山中に隠れてからは酒を飲み碁を打つばかりで、口に功を言わなかった。
  • 邑の県令が面会を求めても得られず、微行して野人の姿で劉基を訪ねた。劉基は足を洗っていたところで、甥に案内させて茅屋に入れ、黍飯でもてなした。県令が「私は青田の知縣です」と告げると、劉基は驚いて立ち上がり「民でございます」と称して謝し去り、ついに二度と会わなかった。その跡を韜(つつ)み隠すさまはこのようであった。

胡惟庸との軋轢と死

  • しかし結局は胡惟庸に陥れられた。もともと劉基は、甌括の間に談洋という隙地があり、南は閩の界に接して塩の密売と盗賊の巣となっており、方氏の乱もここから起こったとして、巡檢司を置いて守らせるよう請うたことがあった。奸民はこれを不都合とした。
  • 折しも茗洋の逃亡兵が反乱を起こしたのに、吏が隠して報告しなかったので、劉基は長子の劉璉に命じてこれを奏させ、先に中書省に届け出なかった。当時左丞として省事を掌っていた胡惟庸は、かねての恨みを抱いて吏に劉基を告発させ、「談洋の地に王気があり、劉基はそこを自分の墓所にしようと図った。民が承知しないので巡檢を置いて民を追い払おうとした」と言わせた。
  • 帝は劉基を罪に問わなかったものの、かなり心を動かされ、劉基の禄を奪った。劉基は恐れて入朝して謝し、そのまま京に留まって帰ろうとしなかった。
  • まもなく胡惟庸が丞相となると、劉基は大いに嘆いて「私の言葉が当たらなければ蒼生の幸いだ」と言い、憂憤のあまり病を発した。
  • 洪武八年(1375年)三月、帝は自ら文を作って賜り、使者に護送させて帰らせた。家に着くと病は篤く、天文の書を子の劉璉に授けて「急いで献上せよ。後の者に習わせるな」と言った。
  • また次子の劉璟に語って「政をなすには寛と猛が循環するものだ。今の急務は徳を修め刑を省き、天に祈って永く命を保つことにある。要害の地はみな京師と声勢を連絡させるべきだ。遺表を書きたいが、胡惟庸がいる間は無益だ。惟庸が失脚した後、主上は必ず私を思い出して問われるだろう。そのときにこれを密奏せよ」と言った。
  • 一月ほどして没した。享年六十五。劉基が京で病んでいたとき、胡惟庸が医者を寄こし、その薬を飲んだところ腹中に拳大の石のようなものがたまったという。のちに中丞の凃節が胡惟庸の逆謀を自首して告げ、あわせて劉基を毒殺したと述べた。

人物と著作

  • 劉基は虬のような髯を蓄え、容貌は堂々として背が高く、慷慨として大節があった。天下の安危を論じるとき、その義憤は顔色に表れた。帝はその至誠を察して腹心とし、召すたびに人払いをして長く密談した。
  • 劉基もまた自ら「またとない知遇」と考え、知ることは言い尽くした。危急に遭えば勇気が奮い立ち、計画は即座に定まって、人は測り知れなかった。暇があれば王道を説き述べ、帝はそのつど恭しく聴いた。常に「老先生」と呼んで名を呼ばず、「わが子房(張良)だ」と言い、また「しばしば孔子の言を引いて私を導く」と言った。
  • ただし帷幄の語は秘され詳らかにできない。世に神異として伝わる陰陽風角の説は、劉基の本領ではない。
  • その文章は気が盛んで奇であり、宋濓とともに一代の宗匠とされた。著書に『覆瓿集』『犁眉公集』があって世に伝わる。

劉璉と劉基の後裔

  • 子は劉璉と劉璟。劉璉は字を孟藻といい、文才と行いに優れた。洪武十年(1377年)に考功監丞を授けられ、監察御史に試補され、出て江西參政となった。太祖は常に大いに用いようとしたが、惟庸の一党に脅迫され、井に堕ちて死んだ。
  • 劉璉の子の劉廌は字を士端といい、洪武二十四年(1391年)三月に伯爵を嗣ぎ、禄五百石を食んだ。もともと劉基の爵は一代限りであったが、ここに至って帝は劉基の功を追想し、また劉基父子がともに惟庸に苦しめられたことを憐れんで、禄を増して世襲を許した。
  • 翌年、事に坐して秩を貶され郷里に帰った。洪武の末に事に坐して甘肅に戍り、まもなく赦されて還った。建文帝も成祖もこれを用いようとしたが、親に仕え墓を守るためとして固辞した。永樂年間に没した。
  • 子の劉法の代で世襲は停止された。景泰三年(1452年)、劉基の後裔を録するよう命じ、劉法の曾孫の劉禄に世襲五經博士を授けた。𢎞治十三年(1500年)、給事中の呉士偉の言により、劉禄の孫の劉瑜を處州衛指揮使とした。
  • 正徳九年(1514年)、劉基に太師を加贈し、文成と諡した。

劉基の廟享と爵位の回復

  • 嘉靖十年(1531年)、刑部郎中の李瑜が「劉基は高廟に侑享し、中山王徐達のように世爵に封ずべきだ」と言い、廷臣の議に下された。
  • 廷臣は口をそろえて次のように述べた。髙帝は賢豪を集め、一時の佐命の功臣が並んで功を立てたが、帷幄の奇謀と中原の大計はしばしば劉基に属した。ゆえに軍中では子房の称があり、符を剖くにあたっては諸葛の喩えがあった。劉基の没後、孫の劉廌が実際に嗣ぎ、太祖は再三召して諭し、鉄券丹書で世禄を誓った。ところが劉廌が嗣いでまもなく世代が絶え、末裔から圭裳(爵位の印)が奪われ、帯礪の誓いは空言となった。ある者は後嗣が孤貧で担えなかったと言い、ある者は長陵(成祖)が統を継いで猜疑を招いたと言う。一たび泥途に辱められ伝聞には誤りが多いが、盟府の載書には功績が残っている。昔、武王は滅んだ国を興して天下の心を帰し、成季に後嗣がないことを君子は歎いた。劉基は太廟に侑享し、その九世孫の劉瑜に伯爵を嗣がせて世襲とすべきである。
  • 制して「可」とした。
  • 劉瑜が没し、孫の劉世延が嗣いだ。嘉靖末、南京の振武營で兵が乱を起こしたとき、劉世延は右軍都督撫事を掌ってこれを鎮めた。しばしば封事を上ったが返答がなく、憤って横暴になり、萬厯三十四年(1606年)に罪に坐して死罪を論ぜられた。
  • 没したとき嫡孫の劉萊臣は幼く、庶兄の劉藎臣が仮に襲爵した。藎臣が没して萊臣が襲うべきところ、藎臣の子の劉孔昭がふたたび爵を占めた。崇禎年間には南京操江を督し、福王の擁立では馬士英・阮大鋮と結んだ。のち海上に去って行方は知れない。

劉璟

  • 劉璟は字を仲璟といい、劉基の次子。二十歳で諸経に通じた。太祖は劉基を思い、毎年劉璟を召して、章溢の子の章允載、葉琛の子の葉永道、胡琛の子の胡伯機とともに便殿に入らせ、家人のように打ち解けて語った。
  • 洪武二十三年(1390年)、父の爵を襲うよう命じられたが、劉璟は「長兄の子の劉廌がおります」と言った。帝は大いに喜んで劉廌に襲封させ、劉璟を閤門使とし、「宋の制を考えるに閤門使は儀禮司にあたる。私は汝を朝夕そばに置き、宣達を職とさせたい。礼儀だけのことではない」と諭した。
  • 帝が朝に臨むと出仕して班に侍り、百官の奏事に落ち度があればその場で正した。都御史の袁泰が車牛の事を事実と違えて奏し、帝が許したのに袁泰が謝辞を忘れると、劉璟がこれを糾し、袁泰は罪に服した。帝は劉璟に「このような場合はその場で糾せ。私が罪に問わなくとも、朝廷の綱紀を知らしめよ」と諭し、法司とともに獄囚の冤罪や滞留を調べさせた。
  • 谷王が就封すると左長史に抜擢された。劉璟は論説が果敢剛直で、兵を談じるのを好んだ。かつて溫州の賊の葉丁香が叛き、延安侯の唐勝宗が討つにあたって劉璟のもとで策を決した。賊を破って還ると劉璟の才略を称し、帝は喜んで「劉璟はまことに伯溫の子だ」と言った。
  • かつて成祖と碁を打ったとき、成祖が「卿は少しも譲らぬのか」と言うと、劉璟は色を正して「譲ってよいところは譲りますが、譲ってはならぬところは譲れません」と答え、成祖は黙った。
  • 北平で兵が起こると、劉璟は谷王に従って京師に帰り、十六策を献じたが用いられず、李景隆の軍事に参与するよう命じられた。景隆が敗れると劉璟は夜に盧溝河を渡ったが氷が割れて馬が沈み、雪を冒して三十里を行った。子の劉貊が大同から難に駆けつけ、良鄉で出会ってともに帰った。上った見聞録は顧みられず、そのまま郷里に帰った。
  • 成祖が即位して召したが、病と称して赴かず、逮えられて入京してもなお「殿下」と呼び、「殿下は百世の後も簒の一字を逃れられません」と言った。獄に下されて自ら縊れて死んだ。法官は上意を迎えてその家を縁坐させようとしたが、成祖は劉基のゆえに許さなかった。宣徳二年(1427年)、劉貊に刑部照磨を授けた。