明史卷一百二十七 列傳第十五 汪廣洋

出自と累進

  • 汪廣洋は字を朝宗といい、高郵の人。太平に流寓していた。太祖が渡江すると召されて元帥府令史となり、江南行省提控となった。正軍都諫司が置かれると諫官に抜擢され、行省都事に遷り、累進して中書右司郎中となった。ほどなく驍騎衞の事を知り、常遇春の軍務に参与して贛州を下し、そのまま留守にあたり、江西參政に拝された。
  • 洪武元年(1368年)、山東が平定されると、廣洋が清廉で明察、慎重であるとして、行省を管理し新たに帰属した者を慰撫させた。民は大いに安んじた。この年、召されて中書省參政となった。
  • 翌年(1369年)、出て陝西の參政となった。
  • 三年(1370年)、李善長が病んで中書に官がいなくなり、廣洋を召して右丞とした。当時、左丞の楊憲が事を専断しており、廣洋は曖昧に従っていたが、それでも憲に忌まれた。憲は御史をそそのかして廣洋が母に仕える態度がよろしくないと弾劾させ、帝は厳しく責めて郷里に放った。憲がさらに奏したので海南に移されたが、憲が誅されて召し還された。
  • その冬、忠勤伯に封じられ、食禄三百六十石。誥詞はその繁雑な事務をさばき難事を治め、たびたび忠実な謀を献じたことを称え、子房(張良)・孔明になぞらえた。

丞相と最期(洪武十二年、1379年)

  • 善長が病で位を去ると、廣洋を右丞相とし、參政の胡惟庸を左丞とした。廣洋は建言するところがなく、久しくして廣東行省參政に左遷された。しかし帝の心は結局廣洋をよしとしており、ふたたび召して左御史大夫とした。
  • 十年(1377年)、ふたたび右丞相に拝された。廣洋はかなり酒に耽り、惟庸と同じく宰相の座にありながら浮き沈みに身を任せ、地位を守るだけであった。帝はたびたび戒め諭した。
  • 十二年(1379年)十二月、中丞の凃節が、劉基は惟庸に毒殺されたのであり、廣洋はその事情を知っているはずだと述べた。帝が問うと、「そのようなことはございません」と答えた。帝は怒り、廣洋が徒党を組んで欺いたと責め、廣南に貶した。舟が太平に泊まったとき、帝は江西にあって朱文正を庇い、中書にあって楊憲の姦を告発しなかった過去の罪をさかのぼって怒り、勅して誅を賜った。
  • 廣洋は若い頃に余闕に師事し、経史に広く通じ、篆書・隷書を善くし、歌や詩を作るのに巧みであった。人となりは寛和で自らを守ったが、姦人と同じ位にありながらこれを取り除くことができず、そのため禍に及んだ。

史論

  • 賛にいう。明の初め、中書省を設けて左右の丞相を置き、枢要を統べさせたが、おおむね勲臣にその事を領させた。しかし徐達・李文忠らはたびたび征討の命を受け、専ら省の事を処理したわけではない。落ち着いて宰輔の任にあたったのは、李善長・汪廣洋・胡惟庸の三人だけである。惟庸が敗れた後、丞相の官は廃されて置かれなくなったので、明の一代を通じて丞相と称しうるのは善長と廣洋だけである。
  • ただ惜しむらくは、善長は布衣で徒歩の身から、草創の初めに主君を選ぶことができ、身を委ねて力を尽くし大業を成すのを助け、符を割いて開国し、上公の爵に列せられながら、富は極まり貴は溢れて、衰えた晩年に自ら覆滅を招いた。廣洋は謹厚で自らを守ったが、姦を暴いて禍を遠ざけることができなかった。ともに重い譴責を受けたのは、宰相に任ぜられた当初の志に大きく背き、左右に置かれた職責に恥じるものではないか。