明史卷一百二十六 列傳第十四 鄧愈

鄧愈(1337頃–1377年)は虹の人。初名は友徳で、太祖から名を賜った。父の順興、兄の友隆が相次いで没したため十六歳で軍を継ぎ、盱眙から太祖に帰属した。渡江して太平・集慶・鎮江の攻略に功があり、廣徳・宣州・徽州・建徳・饒州を転戦して江西を平定、洪都では陳友諒六十万の囲みを三か月支え続けた。人となりは簡素重厚で降人をよく慰撫し、二十八歳で江西行省右丞に進んで李文忠と並ぶ早い出世を遂げた。洪武三年に河州を克して吐番諸部を帰順させ衞國公に封じられたが、十年の吐番討伐の帰途に病んで四十一歳で没し、寧河王を追封された。

年表(11件)
  • 1337頃虹に生まれる
  • 吳元年1367年御史臺の創設に伴い右御史大夫となり臺の事を領する
  • 洪武元年1368年征戍將軍として南陽を克し均・房・金・商の地を平定する
  • 三年1370年河州を克し朶甘・烏斯藏の諸部を帰属させる
  • 三年1370年功を論じて衞國公に封じられ歳禄三千石・世券を与えられる
  • 四年1371年伐蜀にあたり襄陽で軍馬を練り糧を運んで軍士に給する
  • 五年1372年征南將軍として辰・澧の諸蠻を討ち四十八の洞を克す
  • 六年1373年右副將軍として徐達に従い西北の辺を巡る
  • 十年1377年征西將軍として沐英とともに吐番を討ち崑崙山まで追撃する
  • 十年1377年帰途に病み壽春で四十一歳で没し寧河王を追封される
  • 嘉靖十一年1532年炳の子の繼坤が定遠侯に封じられる

出自と江南での転戦

  • 鄧愈は虹の人。初名は友徳で、太祖が名を賜った。父の順興は臨濠に拠って元兵と戦って死に、兄の友隆が代わったがまた病死したので、衆は愈を推して軍事を領させた。愈はまだ十六歳であったが、戦うたびに必ず先登して陣を陥れ、軍中はみなその勇に服した。
  • 太祖が滁陽で起こると、愈は盱眙から来て帰属し、管軍總管を授けられた。渡江に従って太平を克し、陳額森を破って捕らえ、溧陽・溧水を平定し、集慶を下し、鎮江を取るのにいずれも功があった。廣興翼元帥に進み、出て廣徳州を守った。
  • 長鎗の帥の謝國璽を城下で破り、その總管の武丗榮を捕らえ、甲士千人を得た。宣州に移鎮し、その兵で績溪を取り、胡大海とともに徽州を克し、行樞密院判官に遷ってこれを守った。
  • 苗の帥の楊完者が十万の衆で攻めて来たとき、守備は手薄であったが、愈は将士を励まし、大海と合撃して破り走らせた。進んで休寧・婺源を抜き、兵三千を得、高河壘を下した。
  • 李文忠・胡大海とともに建徳を攻め、遂安を経て長鎗の帥の余子貞を破り、淳安まで追い、さらにその援兵を破って建徳を克した。楊完者が攻めて来たので破ってその将の李副樞を捕らえ、溪洞の兵三万を降した。一月後、ふたたび烏龍嶺で完者を破り、僉行樞密院事に再遷した。
  • 臨安を攻略し、李伯昇が救援に来ると閑林寨で敗り、使者を送って饒州の守将の于光を説いて降した。そのまま饒州の守りに移った。饒は彭蠡湖に臨み友諒と境を接していたので、たびたび侵されたがそのつど撃退した。
  • 江南行省參政に進み、各翼の軍馬を総制し、浮梁を取り、樂平・餘干・建昌を攻略してみな下した。
  • 友諒の撫州守将の鄧克明が吳宏に攻められると、偽って降ると使者を送り、軍を緩めさせようとした。愈はその事情を見抜き、甲を巻いて夜に二百里を馳せ、夜明けにはその城に入った。克明は不意を衝かれて単騎で走った。愈の号令は厳粛で秋毫も犯さなかったので、撫州は平定され、克明はやむなく降った。

洪都の防衛

  • ちょうど友諒の丞相の胡廷瑞が龍興路を献じたので、洪都府と改め、愈を江西行省參政としてこれを守らせ、降将の祝宗・康泰にその部隊を率いて従わせた。二人はもとより降る気がなく、命を奉じて徐達に従い武昌を攻めるにあたって反し、舟が女兒港に宿ったところで引き返し、夜に乗じて新城門を破って入った。
  • 愈はにわかに変を聞き、数十騎で走った。たびたび賊と遭遇して従騎はほとんど死に尽くし、窮まって続けて三度馬を替えたが馬はそのつど倒れた。最後に養子の馬を得て乗り、ようやく撫州門を奪って脱出し、應天へ奔り帰った。太祖はこれを罪としなかった。
  • やがて徐達が軍を返して洪都を回復すると、ふたたび愈に大都督の朱文正を佐けて鎮させた。その翌年、友諒の衆六十万が侵入した。楼船は高さが城と等しく、増水に乗じてまっすぐ城下に迫り、囲みは数百重であった。愈は撫州門を分担して守り、要衝に当たった。友諒が自ら衆を督して攻め、城壁が三十余丈にわたって壊れたが、愈は築きながら戦った。敵の攻撃はいよいよ急となり、昼夜三か月間甲を解かなかった。太祖が自ら援けに来てようやく囲みが解けた。功を論じて敵に克った者と同等とされた。

江西・襄陽の平定

  • 太祖が武昌を平らげると、愈に兵を率いて江西の未だ帰属しない州県を攻略させた。鄧克明の弟の志清が永豐に拠って兵二万を擁していたが、愈は撃ち破ってその大帥五十余人を捕らえた。常遇春に従って沙坑・麻嶺の諸寨を平らげ、兵を進めて吉安を取り、贛州を囲んで五か月でこれを克した。江西行省右丞に進んだ。時に年二十八。兵が起こって以来、諸将のうち早く貴顕となった者で、愈と李文忠に及ぶ者はなかった。
  • 愈の人となりは簡素で重厚、慎重で緻密、危険と辛苦を厭わず、軍を将いては厳格で、降った者をよく慰撫した。安福を攻略したとき、部下の兵に掠奪する者があった。判官の潘樞が謁見して面と向かって責めると、愈は驚いて起って謝し、ただちに「民を掠める者は斬る」と令を下し、軍中で得た子女を探し出してすべて出させた。樞はそこで空き家に閉じ込め、自ら家の外に座って粥を作って食べさせた。兵の中に夜に乗じて奪おうと謀る者があったので、愈は鞭打って見せしめにした。樞はことごとく護送してその家に帰し、民は大いに喜んだ。
  • やがて遇春が襄陽を克すと、愈を湖廣行省平章としてその地に鎮させ、書を賜って言った。「お前は襄陽を守るのだから、法度を謹んで守れ。山寨から帰順する者は兵も民もすべて旧の戸籍のままとし、小校以下はみな屯種させ、耕しながら戦わせよ。お前が守る地は庫庫と隣り合っている。お前が愛を民に加え法を軍に行えば、彼の部下はみな義を慕って帰順するだろう。虎口を脱して慈母のもとに就くようにな。私はお前を長城のように頼りにしている。励め」。
  • 愈は荊棘を切り開いて軍府を立て、屯営を営み、慰撫して招き寄せ、威と恵はきわめて顕著であった。

中原・河州の平定と最期

  • 吳元年(1367年)、御史臺が建てられると召されて右御史大夫となり、臺の事を領した。
  • 洪武元年(1368年)、太子諭徳を兼ねた。大軍が中原を経略すると、愈は征戍將軍として襄漢の兵を率い、南陽以北の未だ帰属しない州郡を取った。唐州を克し、進んで南陽を攻め、瓦店で元兵を破り、追撃して城下に至って克し、史國公ら二十六人を捕らえた。隨・葉・舞陽・魯山の諸州県が相次いで降り、牛心・光石洪山の諸山寨を攻め下し、均・房・金・商の地はことごとく平定された。
  • 三年(1370年)、征虜左副副將軍として大將軍に従って定西に出た。庫庫が車道峴に屯すると、愈はまっすぐその塁に迫って柵を立てて圧迫し、庫庫は敗走した。兵を分けて臨洮から進んで河州を克し、吐番の諸酋長を招諭すると、宣慰の何索諾穆温布らはみな印を納めて降った。豫王を西黄河まで追い、黒松林に至ってその大将を斬った。河州以西の朶甘・烏斯藏の諸部はことごとく帰属し、甘肅の西北数千里まで出て還った。
  • 功を論じて開國輔運推誠宣力武臣・特進榮禄大夫・右柱國を授け、衞國公に封じ、同參軍國事とし、歳禄三千石・世券を与えた。
  • 四年(1371年)、蜀を伐つにあたり、愈に襄陽に赴いて軍馬を練り糧を運んで軍士に給するよう命じた。
  • 五年(1372年)、辰・澧の諸蠻が乱を起こすと、愈を征南將軍、江夏侯の周徳興・江隂侯の吳良を副として討たせた。愈は楊璟・黄彬を率いて澧州を出、四十八の洞を克し、また房州の反乱者を捕らえて斬った。
  • 六年(1373年)、右副將軍として徐達に従って西北の辺を巡った。
  • 十年(1377年)、吐番が川藏で妨害をなし貢使を掠めたので、愈は征西將軍として副將軍の沐英とともに討った。兵を三道に分けて崑崙山まで追撃し、捕虜と斬首は万を数え、馬・牛・羊十余万を得た。兵を留めて諸要害を守らせて還った。途中で病み、壽春に至って没した。年四十一(1337頃〜1377年)。寧河王を追封し、武順と諡した。
  • 長子の鎮が嗣ぎ、申國公に改封された。征南副將軍として永新・龍泉の山賊を平らげ、再度塞を出て功があった。その妻は李善長の外孫であった。善長が敗れると姦党に連坐して誅された。
  • 弟の銘は錦衣衞指揮僉事で、蠻を征して軍中で没した。子の源があり、鎮の後を継いだ。𢎞治年間、源の孫の炳を南京錦衣衞の世襲指揮使に授けた。嘉靖十一年(1532年)、詔して炳の子の繼坤を定遠侯に封じた。五代を伝えて文明に至り、崇禎の末に流賊の難に死んだ。