明史卷一百十五 列𫝊第三 睿宗獻皇帝
睿宗獻皇帝(?–1519年)は諱を祐杬といい、憲宗の第四子、母は邵貴妃。成化二十三年に興王に封ぜられ、のち安陸に藩邸を構えた。詩書を好み珍玩や女樂を絶ち、巫覡を尚ぶ楚の俗に良方を頒って病者を救うなど、藩王として謹直な治績を残した。正徳十四年に薨じて獻王と諡されたが、二年後に武宗が崩じて世子が大統を嗣ぎ世宗となったため、その追尊をめぐって大礼の議が起こった。張璁・桂蕚らの議が容れられて獻皇帝・皇考と称され、嘉靖十七年には廟號睿宗を贈られて太廟に祔され、位次は武宗の上に置かれた。
年表(19件)
- 成化二十三年1487年興王に封ぜられる
- 𢎞治四年1491年徳安に邸を建てのち安陸に改める
- 𢎞治七年1494年藩国に之く
- 正徳十四年1519年薨じて獻王と諡される
- 嘉靖元年1522年禁中の火事を機に本生父興獻帝の称を加え園を陵と尊ぶ
- 嘉靖三年1524年本生皇考㳟穆獻皇帝と称し九月に皇考と称する詔が出る
- 嘉靖四年1525年夭折した長子厚熙に岳王を贈り懐と諡す
- 嘉靖六年1527年觀徳殿が狭いとして崇先殿に改建される
- 嘉靖七年1528年明倫大典の成立に伴い尊諡を加え安陸州を承天府と改める
- 嘉靖十七年1538年廟號を睿宗とし太廟に祔して位次を武宗の上とする
- 嘉靖四十四年1565年世廟の柱に芝が生え玉芝宫を作って配する
- 𢎞治五年1492年蒋氏が興王妃に冊せられる
- 嘉靖元年1522年蒋氏が興國太后と改称される
- 嘉靖三年1524年蒋氏が本生章聖皇太后さらに聖母章聖皇太后と尊ばれる
- 嘉靖五年1526年世廟が成り太后を奉じて謁させる
- 嘉靖七年1528年蒋氏が慈仁の尊號を上られる
- 嘉靖九年1530年太后の製した女訓が天下に頒たれる
- 嘉靖十五年1536年太后を奉じて天夀山の陵に謁し康靜貞夀の尊號を加える
- 嘉靖十七年1538年十二月に蒋氏が崩じ改葬の議が起こる
興王としての事績
- 睿宗興獻皇帝は諱を祐杬といい、憲宗の第四子、母は邵貴妃。成化二十三年(1487年)に興王に封ぜられ、𢎞治四年(1491年)に徳安に邸を建てたが、のち安陸に改めた。七年(1494年)に藩に之いた。
- 舟が龍江に停泊したとき、慈烏が数万羽、舟をめぐった。黄州でもまた同じことが起き、人々は瑞兆とした。王は辞退し、疏を上げて五事を陳べたので、孝宗はこれを嘉し、賜与は諸弟より厚かった。
- 王は詩書を好み、珍玩を絶ち、女樂を畜えず、公宴でなければ牲醴を設けなかった。楚の俗は巫覡を尚んで醫薬を軽んじたので、良方を選んで頒ち、薬餌を備えて病者を救った。
- 長史の張景明が自著の六益を王に献じると、金帛を賜って「わしはこれを宫門に懸けよう」と言った。
- 邸のかたわらに陽春という臺があり、しばしば羣臣や賓客を伴って登臨し詩を賦した。
- 正徳十四年(1519年)に薨じ、獻王と諡された。
大礼の議
- 王が薨じて二年後に武宗が崩じ、王の世子が召されて大統を嗣いだ。これが世宗である。
- 禮臣の毛澄らは漢の定陶王・宋の濮王の故事を援いて、孝宗を考とし、王を皇叔父興獻大王、王妃を皇叔母と改称することを主張した。帝は廷臣に集議を命じたが決しなかった。進士の張璁が上書して興獻王を考とするよう請い、帝は大いに喜んだ。
- 折しも母妃が安陸から至り、通州に止まって入らなかった。帝は張太后に啓して、天子の位を避け母妃を奉じて藩に帰りたいと申し出た。羣臣は恐懼した。太后は王を興獻帝に、妃を興國后に進めるよう命じた。璁はさらに大礼の議を進め、主事の霍韜、桂蕚、給事中の熊浹の議も璁と合致した。
- 帝はそこで輔臣の楊廷和・蔣冕・毛紀に、帝・后の称に「皇」を加えるよう諭した。廷和らは廷臣を集めて争い、決しなかった。
- 嘉靖元年(1522年)、禁中に火事があり、廷和および給事中の鄧繼曽・朱鳴陽が五行五事を引いて礼を廃したことの証とした。そこで「皇」の称をやめ、本生父興獻帝の称を加え、園を尊んで陵とし、黄屋と守衛は制のとおりとし、安陸に祠署を設けて歳時の享祀に籩豆十二、楽は八佾を用いることとした。
- 帝の心はついに満足しなかった。三年(1524年)、称を加えて本生皇考㳟穆獻皇帝とし、興國太后を本生母章聖皇太后とし、奉先殿の西に廟を建てて觀徳殿と呼び、太廟同様に祭った。七月には「本生」の号を去るよう諭し、九月には孝宗を皇伯考と称し、獻皇帝を皇考と称する詔を出した。
- 璁・蕚らが急に貴くなると、進取を求める者が争って礼を論じて上意に迎合した。百戸の隨全、錄事の錢子勲は、獻皇帝を天夀山に遷葬すべきだと言った。禮部尚書の席書は、髙皇帝が祖陵を遷さず太宗が孝陵を遷さなかったのはその慎重さゆえであるとし、小臣が妄りに山陵を議したのは罪とすべきだと議した。工部尚書の趙璜もまた不可と言い、そこでやんだ。陵の名を尊んで顯陵とした。
睿宗の廟號と祔廟
- 翌年、獻皇帝實錄を修め、太廟の左に世廟を建てた。六年(1527年)、觀徳殿が狭いとして崇先殿に改建した。七年(1528年)、璁らに命じて明倫大典を集成させ、成ると尊諡を加えて㳟睿淵仁寛穆純聖獻皇帝とし、自ら顯陵の碑を製し、松林山を封じて純徳山とし、方澤の祀に従えて五鎮の次に置き、安陸州を承天府と改めた。
- 十七年(1538年)、通州同知の豐坊が皇考に尊号を加えて宗と称し、上帝に配することを請うた。九月、尊諡を加えて□知天守道洪徳淵仁寛穆純聖恭儉敬文獻皇帝とし、廟號を睿宗とし、太廟に祔して位次を武宗の上とし、明堂の大享では主を奉じて天に配し、世廟の祭を罷めた。
- 四十四年(1565年)、世廟の柱に芝が生え、あらためて玉芝宫を作ってこれに配した。穆宗が立つと明堂の配享を罷めた。
- はじめ楊廷和らは、益王の次子である崇仁王厚炫を興王に封じて獻帝の祀を奉じさせることを議したが、許されず、興國の封は除かれた。
- 獻帝には長子の厚熙があったが、生後五日で夭折した。嘉靖四年(1525年)に岳王を贈り、懐と諡した。
獻皇后蒋氏――入京と称号の議
- 獻皇后蒋氏は世宗の母。父の蒋斆は大興の人で、玉田伯に追封された。𢎞治五年(1492年)に興王妃に冊せられた。
- 世宗が大統を承けて即位して三日目、使者を安陸に遣って迎え奉らせ、あわせて廷臣に推尊の礼を議させた。廷臣はみな孝宗を考とし、興王を皇叔父、妃を皇叔母と称すべきだと言った。議は三度上ったが決しなかった。
- 妃が到着しようとするころ、禮臣は入宫の儀を上り、崇文門から東安門を経て入り、皇帝が東華門で迎えることとしたが、許されなかった。丹議では正陽門から大明門・承天門・端門を経て王門から入宫することとしたが、これもまた許されなかった。王門は諸王の出入りする門だからである。
- そこで敕して言った――聖母が至られたら太后の車服に乗り、御道から入り、太廟に朝せよ、と。故事では后妃に謁廟の礼はなく、禮臣は難色を示した。
- 折しも妃は通州に至り、孝宗を考とする議を聞いて怒り、「どうして私の子を他人の子にできようか」と言って、留まって進まなかった。帝は涙を流して位を避けたいと願い出た。羣臣は慈夀太后の命によって興獻后と改称し、そこで入って太后の儀により奉先・奉慈の二殿に謁したが、廟見はしなかった。
獻皇后蒋氏――尊号の累加と崩御
- 嘉靖元年(1522年)に興國太后と改称し、三年(1524年)に尊號を上って本生章聖皇太后とし、同年秋には張璁らの言を用いて聖母章聖皇太后と尊んだ。
- 五年(1526年)、獻帝の世廟が成り、太后を奉じて入って謁させた。七年(1528年)に尊號を上って慈仁とし、九年(1530年)には太后の製した女訓を天下に頒った。十五年(1536年)には太后を奉じて天夀山の陵に謁し、諸臣に行殿で賀を進めさせた。同年、尊號を加えて康靜貞夀とした。
- 十七年(1538年)十二月に崩じた。禮部・工部の二部に諭して、獻皇帝を大峪山に改葬させることとし、駙馬都尉の京山侯崔元を奉迎行禮使、兵部尚書の張瓉を禮儀護行使、指揮の趙俊を吉凶儀仗官、翊國公の郭勛を聖母山陵の事を知らしめる役とした。
獻皇后蒋氏――顕陵への南祔
- のち帝は自ら大峪に行って視察し、太后を南に赴かせて合葬することを議させた。禮部尚書の嚴嵩らは、霊駕が北に来るのと慈宫が南に赴くのとは一挙の労にすぎず、大峪なら朝発って夕に至れるが、顯陵は遠く承天にあり、陛下が春秋に思われることを恐れる、臣としてはやはり初議のとおりが便宜である、と言った。
- 帝は「成祖は皇祖を思われなかったであろうか。それなのになぜ孝陵は南にあるのか」と言い、崔元らの派遣を止めて趙俊だけを行かせ、あわせて幽宫を開いて検分させた。
- この年、尊諡を上って慈孝貞順仁敬誠一安天誕聖獻皇后とした。
- 翌年、俊が帰って顯陵は不吉だと言ったので、南巡が議された。九卿大臣の許讚らが諫めたが聴かれず、左都御史の王廷相もまた諫めたが、帝は「朕がむだに行くものか。わが母のためである」と言った。ついで侍御の吕柟、給事中の曾烶、御史の劉賢、郎中の岳倫らが相継いで疏を上げて諫めたが、聴かれなかった。
- 三月、帝は承天に至って顯陵に謁し、新宫を作って「合葬を待つためだ」と言った。
- 帰路、慶都を過ぎたとき、御史の謝少南が慶都には堯母の墓があるのに祀典から漏れているとして祀ることを請うた。帝は「帝堯の父母は陵を異にしていた。合葬が古の法でないことが分かる」と言い、その場で少南を左春坊左司直兼翰林院檢討に任じ、大峪山に葬ることを定めた。
- 四月、帝は長陵に謁し、嚴嵩に諭して「大峪は純徳(山)に及ばぬ」と言い、あらためて崔元に命じて梓宫を南に護送して祔させた。七月、顯陵に合葬し、主は睿宗の廟に祔した。
史論
- 贊に言う。興宗と睿宗はみずから天子となったことはないが、尊号と徽称、典礼はことごとく備わっており、その実は抹消しがたいものがある。史とは事を記すためのものであり、事を記すには必ずその名と実とを照合しなければならない。宗といい帝というのは当時すでに定まった名であり、名が定まればそこに実も著れる。そこで元史が裕宗・睿宗の列傳を立てた例に拠り、別に右のように一巻を設け、それぞれに后を附したのである。