明史卷一百八 表第九 外戚恩澤侯表

表の序――恩澤の封と明代の外戚

  • 古来、恩澤による封には三つの筋があるとされる。外戚・中官・嬖倖である。
  • 明が興ると、天子の外家(外氏)を追って崇め、廟のたたずまいは手厚く、爵位は五等の枠を超えるほどであったが、その子孫の系譜はたどれず、官を授けるところまでは至らなかった。
  • 髙后の外家は朝請に参列することがなかった。外戚を抑える家法の厳しさには、こうした由来があるのである。
  • 文皇后を除けば、后妃はおおむね儒者の家柄・門地の低い家から出て天子の配偶となった。后の父の最初の位階も指揮の域を出ず、侯・伯や保傅へは段々に進むにすぎなかった。
  • 厚遇された者には田宅を厚く与え、下僕を多く付けた。財産の豊かさは抱えていても、寄りかかれるだけの権勢は与えられておらず、外戚を制し防ごうとする細やかな意図がここに込められていた。
  • 肅宗は功令を明らかにし、世襲の封を切り詰めた。外戚や天子の近親は、戦功のある勲臣と肩を並べることを許されず、身内とは称しても待遇は封君に劣った。漢・唐と比べれば、その差は大きく隔たっている。
  • そこで実録に記された封爵と襲爵の年月を調べ、もれなく並べて表とし、開国の功臣の序列とは別立てにした。
  • そのほか、宦官の子弟が身分不相応に高位の装束に列し、方士や義子(養子)も同じように爵位の班列に加わった例がある。文臣のいつわりに満ちた言辞を走らせ、養子を取り立てて政をくつがえす轍を踏むという乱政がしきりに行われ、どれも同じ道筋をたどっている。それらも年次の順に従ってこの篇に書き載せた。
  • これは、班固が外戚を表に立て、張釋や欒大を系譜に列した先例にならったものである。