明史卷九十四 志第七十 刑法二
三法司の職掌と太祖の親鞫
- 三法司とは刑部・都察院・大理寺をいう。刑部が天下の刑名を受け、都察院が糾察し、大理寺が駁正する。
- 太祖はかつて「大きな獄事は必ず面と向かって訊ねるべきだ。構え陥れ鍛え上げる弊を防ぐためである」と述べており、その時期の重い案件の多くは自ら鞫問して法司に委ねなかった。
- 洪武十四年(1381年)、刑部に原告・被告双方の言い分を聴かせて議定のうえ奏上させ、奏上して下された旨は四輔官・諫院官・給事中に写して覆審させ、食い違いがなければ改めて奏して施行することとした。疑わしい獄事は四輔官が封駁した。年を越えて四輔官が廃されると、獄事の議定は三法司に一本化された。
- 洪武十六年(1383年)、刑部尚書開濟らに命じて「五日・六日・十日という期限で三審五覆する法」を議定させた。
- 洪武十七年(1384年)、三法司の庁舎を太平門外の鍾山の北側に建て、これを「貫城」と名づけた。下された勅にいう。貫索七星は珠を貫くように環をなして象を成し、天牢という。その中が空であれば刑が平らかで官に邪私なく、獄に囚人がない。貫の内が空でなく星が数個あれば刑が繁く、刑官が適任でない。星があって明るいのは貴人が無罪で獄にあることをいう。いま天道に法って法司を置いたのだから、諸司はそれぞれ職事を慎み、天道に法って行い、貫索の中を空にして朕が建てた意に背かぬようにせよ、と。
- また法司の官に諭し、布政司・按察司が擬した刑名のうち人命にかかわる重い獄事は奏上して刑部・都察院に転達し、大理寺が詳しく擬することを令として定めた。
刑部十三清吏司と在外の法司
- 刑部には十三の清吏司があり、各布政司の刑名を治めた。陵衛・王府・公侯伯府・在京の諸曹および両京の州郡もそれぞれこれに分属させた。
- 按察司は提刑を名とし、在外の法司にあたる。副使・僉事を配して各府・県の事を分治させた。
- 京師では笞罪以上の罪はすべて刑部の議を経た。
洪武年間の決獄手続と二十六年の定制
- 洪武の初め、笞五十は県が、杖八十は州が、杖一百は府が決し、徒罪以上は獄を具えて行省に送った。ところが差し戻しが繁くて賄賂が行われたため、中書省・御史臺に詳しく讞せ、月報を季報に改め、季報の数をまとめて歳報とした。
- 府州県は軽重の獄囚を律により決断し、違枉があれば御史・按察司が糾劾した。
- 洪武二十六年(1393年)に定めた制では、布政司および直隷の府州県は笞・杖はその場で決し、徒・流・遷徙・充軍・雑犯死罪は刑部に送って審録した。死囚の犯した罪名を刑部に上げて詳議し、律に合うものは大理寺が擬覆して平允とし、監収して決を待たせた。
- 時を待たず決すべき重囚は、報可があれば即座に奏して官を遣わして決した。
- 情や供述が明らかでないもの、失出・失入のあるものは大理寺が駁回して改正し再度問わせた。三度駁っても改擬が不当なら、担当の官吏を奏上して問う。これを照駁という。
- 讞決したのに囚が供述をひるがえした場合は、別の衙門に改め回して問擬させ、二度ひるがえして服さなければ奏上して九卿を会して鞫問した。これを圓審という。三度四度訊ねてなお服さなければ、そのうえで旨を請うて決した。
- 正統四年(1439年)、直隷・諸省の決遣の制を少し改め、徒・流はその地で決遣し、死罪は奏聞することとした。
- 成化五年(1469年)、南京大理寺評事の張鈺が「南京の法司は厳しい刑を多用して囚を迫り誣服させており、糾されてもただ改正するだけで無罪となるのは律の意にまるで反する」と言上した。そこで詔して、大理寺が刑部に参問する制を申し明らかにさせた。
- 𢎞治十七年(1504年)、刑部主事の朱瑬が「刑部の囚を大理寺に送るのは駁正のためであって、用刑すべきではない」と言った。大理卿の楊守隨は「刑具は永樂年間に設けられたもので廃すべきでない」と述べ、帝はその言を是とした。
会官審録の制(洪武三十年)
- 会官審録の例は洪武三十年(1397年)に定まった。当初の制では大きな獄事は必ず面訊した。
- 洪武十四年(1381年)、法司が囚を論じ律を擬して奏し、翰林院・給事中および春坊の正字・司直郎が会議して平允としたのち、改めて奏して論決させた。
- 洪武三十年に至って「政平」「訟理」の二旛を置き、罪囚を審らかにして諭した。刑部に諭していう。今より囚を論ずるのは、武臣の死罪だけ朕が自ら審らかにし、それ以外はすべて犯した内容を奏せ、と。そのうえで承天門外に引き出し、行人に訟理旛を持たせて旨を伝えて諭させ、無罪で釈放すべき者には政平旛を持たせて徳意を宣べて遣わした。
- 続いて五軍都督府・六部・都察院・六科・通政司・詹事府に、時には駙馬も交えてこれを聴かせ、冤のある者は状を奏聞し、冤のない者は実犯死罪以下すべて律のとおり論じ、諸々の雑犯は贖を認めた。
- 永樂七年(1409年)、大理寺の官が法司の囚犯を承天門外に引き出し、行人が節を持って旨を伝え、府・部・通政司・六科などの官が会同して審録することとした。洪武の制に倣ったものである。
- 永樂十七年(1419年)、在外の死罪の重囚をすべて京師に赴かせて審録させた。
- 仁宗は特に内閣学士に命じて重囚を会審させ、疑わしいものは再度問わせた。
- 宣德二年(1427年)、重囚を奏上したとき、帝は多くの官に覆閲させて言った。古は獄を断ずるのに必ず三公九卿に訊ねた。至公に合わせ民の命を重んずるためである。卿らは行って共に覆審し、枉げて死なせることのないようにせよ、と。英國公張輔らは戻って、冤を訴える者が五六十人あると奏した。帝は重ねて法司に実否を勘べさせ、そのうえで切に戒めた。
朝審・大審の成立
- 天順三年(1459年)、毎年霜降の後に三法司と公・侯・伯が会して重囚を審らかにすることとした。これを朝審といい、歴朝これに従った。
- 成化十七年(1481年)、司禮太監一員に命じ、三法司の堂上官と会同して大理寺で審録させた。これを大審という。南京では内守備にこれを行わせた。以後、五年ごとに大審を行うのが定例となった。
- はじめ成祖が熱審の例を定め、英宗が特に朝審を行い、ここに至って大審も加わったので、憐れみ疑って放ち遣わす者の数は熱審の時の倍にもなった。
内閣の会審参加と大審の中絶
- 内閣が会審に加わることは、憲宗のとき罷められ、隆慶元年(1567年)に高拱が復活させた。旧例では朝審は吏部尚書が筆を執ることになっており、拱がたまたま吏部を兼ねていたからである。
- 萬厯二十六年(1598年)の朝審では吏部尚書が欠員だったので、戸部尚書の楊俊民がこれを主宰した。三十二年(1604年)にもまた欠員で、戸部尚書の趙世卿が主宰した。
- 崇禎十五年(1642年)、首輔の周延儒に三法司とともに淹滞した獄を清理するよう命じたが、これは特旨によるものであった。
- 大審は萬厯二十九年(1601年)から絶えて行われず、四十四年(1616年)になってようやく行われた。
熱審の沿革
- 熱審は永樂二年(1404年)に始まる。当初は軽罪を決遣し、獄を出して沙汰を待たせるだけであった。まもなく徒・流以下にまで寛典を及ぼした。
- 宣德二年(1427年)の五月・六月・七月、続けて三法司に諭して繋がれた囚の罪状を録上させ、二千八百余人を決遣した。
- 宣德七年(1432年)二月、法司の進めた繋囚の罪状を自ら閲し、千余人を決遣して減等・輸納とした。春審はここに始まる。同年六月、炎暑を理由に実犯死罪を除いてすべて早く発遣させ、あわせて中外に諭して刑獄すべてこれに倣わせた。
- 成化のとき、熱審にはじめて重罪の矜疑、軽罪の減等、枷号の疏放といった諸例が加わった。
- 正德元年(1506年)、大理寺を掌る工部尚書の楊守隨が言った。毎年の熱審の事例は北京で行われて南京で行われず、五年に一度の審録の事例は在京で行われて在外では略される。いま南京にも通行させるべきで、囚を審らかにするにはみな三法司が会審し、在外の審録もこの例によるべきだ、と。詔して許した。
- 嘉靖十年(1531年)、毎年の熱審および五年ごとの審録の期には、雑犯死罪で徒五年に准ずる者は皆一年を減ずることとした。
- 嘉靖二十三年(1544年)、刑科の羅崇奎が「五月・六月の間、笞罪は釈放し、徒罪は減等すべきであり、成化のときの欽恤・枷号の例のように暫く免除して六月の終わりまでとし、南京の法司も同様にすべきだ」と言い、報可された。
- 隆慶五年(1571年)、贓銀十両以上で長く監され、家産が絶えたり本人が死亡した者は、熱審で追徴を免じ、その家族を釈すこととした。
- 萬厯三十九年(1611年)、大暑となって刑を省いたが、熱審の矜疑の疏は下されなかった。刑部侍郎の沈應文が獄囚の久しい滞留を理由に暫く矜疑の者を放免するよう乞うたが返答がない。翌日、法司はことごとく囚籍を調べ、軍・徒・杖罪でまだ結審していない五十三人を大興・宛平の二県に発して監候とし、そのうえで疏を奉った。神宗もこれを罪としなかった。
熱審の旧例と萬厯末の停滞
- 旧例では毎年の熱審は小満の後十余日、司禮監が旨を伝えて刑部に下し、刑部が都察院・錦衣衛と会同して題請し、南京の法司にも一体に審擬して具奏するよう通行させた。京師は命が下った日から六月の終わりまで、南京は刑部の移文が到った日を始めとしてやはり二か月で終わった。
- 萬厯四十四年(1616年)には行われず、翌年もまた二か月を過ぎて命が下らなかった。折しも暑雨で獄中に疫病が多発したため、言官は熱審の期限切れ、朝審の不実施、詔獄に理刑の担当者がいないことの三事を、章を重ねて上請した。あわせて楚宗の英嫶・藴鈁ら五十余人、および罣誤の知縣滿朝薦、同知の王邦才・卞孔時らの釈放を請うたが、いずれも返答はなかった。
- 崇禎十五年(1642年)四月、ひどい旱のため詔して獄を清めさせた。中允の黄道周が「中外が斎宿して百姓のために命を請うているのに、五日のうちに二人の尚書を繋いで、抗議の疏を上げて争う者があるとも聞かない。これで天意を回らせられましょうか」と言った。二人の尚書とは李日宣と陳新甲である。帝はちょうどこの二人に強く怒っていて、従うことができなかった。
寒審――崇禎十年の鄭三俊の考証
- 歴朝に寒審の制はなかった。崇禎十年(1637年)、代州知州の郭正中の疏が寒審に言及したので、担当の官に故事を調べさせた。尚書の鄭三俊は数件の先例を引いて奏した。
- 洪武二十三年(1390年)十二月癸未、太祖が刑部尚書の楊靖に諭し、今より十悪および殺人を犯した者だけを死に論じ、その他の死罪はみな北辺に粟を輸めさせて自ら贖わせた。
- 永樂四年(1406年)十一月、法司が月ごとの繋囚数を進めたところ数百人で、大辟はわずかに十分の一であった。成祖は呂震に諭して「これらはもともと死罪でないのに久しく繋いで決せず、天気が凍えれば冤死させられる者が必ず出る」と言い、雑犯死罪以下およそ二百人をすべて贖を認めて発遣した。
- 永樂九年(1411年)十一月、刑科の曹潤らが「以前は寒さのために軽囚を審らかにして釈したが、いま囚は一年以上も留め置かれ、しかも一か月の間に牢死した者が九百三十余人に及ぶ。獄吏の毒は口にするに忍びない」と言った。成祖は法司を召して切責し、徒・流以下は三日以内に決して放ち、繋いでおくべき重罪の者も憐れんで飢えと寒さで死なせぬよう詔した。
- 永樂十二年(1414年)十一月、再び疑わしい獄事の名を上げさせ、自ら閲した。
- 宣德四年(1429年)十月、皇太子の千秋節にあたり雑犯死罪以下を減じ、笞・杖および枷・鐐に処せられた者を宥した。
- その後も世宗・神宗は、あるいは災異によって刑を修め、あるいは覃恩によって徳を布いた。
- 寒審は近い先例こそないが、先朝の寛大はみな法とすべきものである。
- 奏が上がると帝はその言を容れた。ただし、永樂十一年(1413年)十月に副都御史の李慶を遣わして璽書を齎らせ、皇太子に南京の囚を録して雑犯死罪以下を贖わせた例、および宣德四年冬、寒気が厳しいため南北の刑官に繋囚をすべて録して奏聞するよう勅し、軽重を分けず、夏原吉らに向かって「堯舜の世には民は法を犯さず、成康の時には刑が措かれて用いられなかった。いずれも君臣が徳を同じくした結果である。朕は徳が薄い、卿らは力を尽くして匡け扶け、古人に恥じぬようにせよ」と語った例――この二つこそ寒審の最も著しいものであるが、三俊はそこまで詳しく調べる暇がなかった。
在外の恤刑・会審の起こり
- 在外の恤刑・会審の例は成化のときに定まった。
- はじめ太祖は刑獄が塞がり隠されるのを患い、御史の林愿・石恒らを分け遣わして各道の囚を治めさせ、勅諭した。
- 宣宗は夜に『周官』立政の「爾の獄に由るを敬み、以て我が王國を長ぜよ」の句を読み、慨然と嘆じて、立国の基と天命はここにあると考え、そこで三法司に勅した。朕は上帝の生を好む心を体して刑を恤む。爾らは天下の重い獄事を詳しく覆審せよ。だが罪を犯した者は万里も遠くにあり、順を待って決に当たるのだから、冤がないはずがない、と。こうして官を遣わして審録させた。
- 正統六年(1441年)四月、災異がしばしば現れたため、三法司の官を勅遣して天下の疑わしい獄事を詳審させた。御史の張驥、刑部郎の林厚、大理寺正の李從智ら十三人が同じく勅を奉じて赴いた。あわせて刑部侍郎の何文淵、大理卿の王文、巡撫侍郎の周忱、刑科給事中の郭瑾に両京の刑獄を審らかにさせ、これにも勅を賜った。
- のちに評事の馬豫が言った。臣が勅を奉じて刑を審らかにしたところ、各地で捕らえられた強盗の多くは、仇のある者の指し引きと拷掠によって獄が成り、詳報を待たずに死傷する者が甚だ多い。今後はでたらめな指名を聴かず、確かに贓と証があれば御史・按察司が会審したうえで論決を許すべきである。まだ審録せぬうちに傷つき死んだ場合は、例による陞賞を認めるべきでない、と。この年、死囚以下で獄を出た者は数知れなかった。
- 正統九年(1444年)、山東副使の王裕が言った。獄囚は会審すべきなのに、御史および三司の官は年を越えて一度会するかどうかで、囚の多くは牢死する。かつては御史を遣わして按察司と会して詳審させ、釈し遣わす者が甚だ多かった。いまは会審の例を罷めて詳審の法を行い、按察司の官一員を勅遣して専ら諸獄を審らかにさせるに越したことはない、と。刑部は旧制を廃すべきでないと主張した。帝は審らかにする例は旧のままとしたうえで、詳審の例にならって按察司の官一員を選び、巡按御史と同審させ、失出はしばらく問わず、贓私にかかわる場合は律のとおり究めさせた。
成化以後の恤刑差遣と減等
- 成化元年(1465年)、南京戸部侍郎の陳翼が災異を理由に正統の例に倣うよう請うたが、刑部の議で諸方に事が多いとして行われなかった。
- 成化八年(1472年)、刑部郎中の劉秩ら十四人を分け遣わし、巡按御史および三司の官と会して審録させた。勅書は鄭重なもので、これを持たせて遣わした。
- 成化十二年(1476年)、大學士の商輅が「八年に官を遣わしてから五年になる、改めて例のとおり行われたい」と言い、帝はその請を容れた。
- 成化十七年(1481年)、在京の五年ごとの大審が定まり、この年に刑部・大理寺の官を天下に分け行かせ、巡按御史と会同して事を行わせた。こうして恤刑の官が至れば放ち遣わされる者が多くなった。
- 嘉靖四十三年(1564年)、贓に坐して百両に及ばず家産の絶えた者は追徴のための監禁を免ずることとした。
- 萬厯四年(1576年)、雑犯死罪で徒五年に准ずる者、および二度徒罪を犯して律により総徒四年となる者は、それぞれ一年を減じ、その他の徒・流などの罪もみな減等するよう勅した。いずれも恤刑の官の奏によって定まったもので、命を全うする者はいよいよ多くなった。
- はじめ正統十一年(1446年)、刑部郎中の郭恂、員外の陸瑜を遣わして南北直隷の獄囚を審らかにさせ、文職五品以下で罪ある者は執らえて問うことを許した。
- 嘉靖のころ、審録官が一省の事を終えるごとに、前後に奏して依准となった数と改駁された数の多寡を総計して考課し、改駁の数が多い者は弾劾を認めることとした。それゆえ恤刑の権は重く、責任もまた軽くはなかった。以上が中外の法司の審録の大略である。
歳報・月報と文書の制
- 刑部が問い罰した罪囚については、担当の司が問うた囚の数を罪名の軽重を分けず、南人・北人それぞれ何人と山東司に送り、堂に呈して奏聞した。これを歳報という。
- 毎月、現に監にある罪囚を奏聞するのを月報という。
- 労役や運炭などの項目は五日ごとに工科へ送り、精微冊に書き入れ、月末に六科が分担して順番に報告した。
法官が囚を治める成法
- 人を提り事を勘べるには必ず精微批文を携えた。
- 京官・外官で五品以上の者に犯罪があれば必ず奏聞して旨を請い、擅に勾引して問うことはできなかった。八議に当たる罪は実封して奏聞した。
- 民間の獄訟は通政司の転達を経なければ刑部は聴理しなかった。誣告した者は反坐、越訴した者は笞、登聞鼓を撃って事実でなければ杖とした。訐告して官に聞こえた場合は必ず事実を確かめてから逮え問うた。
- 罪囚の打断・起発には定まった期限、刑具には定まった器、停刑には定まった月日、屍傷の検験には定まった法、囚を恤むには定まった規、籍没にも定まった物があった。ただ復讎についてだけは明文がなかった。
提人の精微批文と駕帖
- 𢎞治元年(1488年)、刑部尚書の何喬新が言った。旧制では人を提るとき、所在の官司が必ず精微批文を検めて符号と合致するのを確かめてから発遣した。これは祖宗が漸を杜ぎ微を防ぐ深い意である。近ごろ中外の提人はただ駕帖に頼るだけで符を用いないから真偽が分からず、姦人が命を偽ったとしても拒みようがない。もとどおり批文を給されたい、と。帝は「これは祖宗の旧例であり廃してはならぬ」と言い、復行を命じた。しかし旗校が人を提るのはおおむね駕帖を携えるだけであった。
- 嘉靖元年(1522年)、錦衣衛千戸の白壽らが駕帖を携えて科に来たとき、給事中の劉濟は御批の原本を科に送って事情を知らせるべきだと言い、両者が争って並べて上申した。帝は成化・𢎞治の事例を検めて奏せと命じ、濟は天順のときからこの例だと重ねて言上した。帝は壽の言を容れて濟に状を答えるよう責めたが、罪とするには至らなかった。
- 天啓のとき、魏忠賢が駕帖を用いて周順昌らを提り、ついに蘇州の変を引き起こした。
- 両畿の決囚もまた必ず精微批を検めた。嘉靖二十一年(1542年)、恤刑主事の戴楩・吳元璧・呂顒らは急いで出発して内号と照らし合わせなかったため、着いてみると原給の外号と合わず、巡按御史に糾され、贖を納めて職に復した。
提問の管轄と八議・実封
- 成化のころ、六品以下の官に罪があると巡按御史がすぐに府の官に提問させていた。陝西巡撫の項忠が「祖制では京官・外官の五品以上に犯があれば奏聞し、擅に勾引して問うことはできない。いま巡按がたやすく六品官を提問するのは甚だしく律の意に反する。朝廷に奏聞し、御史・按察司に提問を命ずるのが正しい」と言い、刑部の議に下してこれに従った。
- 八議に当たる罪はすべて実封して奏聞し旨を請うが、十悪だけはこの例を用いなかった。
- 所属の官が上司から理不尽に虐げられた場合も、実封して直接奏することを許した。
- 官軍が罪を犯した場合は都督府が旨を請い、諸司の事で軍官にかかわるもの、および軍官の不法を呈告するものは、いずれも密かに実封して奏し、擅に勾引して問うことを許さなかった。
刑部と按察御史の管轄争い(嘉靖)
- 嘉靖のころ、順天按察御史の鄭存仁が府県に檄を出し、法司から追取があってもたやすく応じてはならぬとした。尚書の鄭曉は故事を調べ、民間の詞訟は通政司の転達を経なければ聴かず、諸司に問うべき罪人があれば必ず刑部に送り、互いに侵さないのが定めだとして、刑部が人を追取するのを府県が却けるのは不当であり、存仁は制に違えたのだから罪とすべきだと言った。存仁もまた下から上への律を執って曉を欺罔と論じた。そこで在外の事は有司に、在京の事は刑部に属させることとした。しかし曉が職を去ってからは、民間の詞訟を五城御史がすぐに受理するようになり、祖制は守られなくなった。
誣告・越訴の禁
- 洪武のとき、謀反を告げる者があり、勘べたところ事実でなかった。刑部は罪に抵らせるべきだと言った。帝が秦裕伯に問うと「元のときはこうした場合、罪は杖一百までで、告げ来る路を開くためでした」と答えた。帝は「姦徒が罪に抵らないのでは、誣いられる善人が多くなる。今後、謀反を告げて事実でない者は罪に抵らせよ」と言った。
- 學正の孫詢は税使の孫必貴を胡惟庸の党だと訐し、また元の參政であった黎銘が常々「老豪傑」と自称して朝廷を謗り誹ると訐した。帝は告訐は儒者のすることではないとして取り上げず問わなかった。
- 永樂のころ定めた制では、三、四人を誣った者は杖・徒、五、六人なら流三千里、十人以上なら凌遲して家族を化外に徙すこととした。
- 洪武末年、小民が京師に越訴することが多く、その事を按じてみるとしばしば事実でなかった。そこで越訴の禁を厳しくし、老人に一郷の詞訟を理めさせて里胥とともに決し、重い事だけ官に申し出させた。それでも越訴する者は日々増えたので、重法によって辺に戍らせた。
- 宣德のときは、越訴して事実であれば免罪、事実でなければやはり辺に戍らせた。景㤗のころは虚実を問わず皆口外に発して充軍させたが、後には例としなかった。
登聞鼓
- 登聞鼓は洪武元年(1368年)に午門外に置かれ、御史一人が日ごとに監した。大きな冤や機密の重大事でなければ撃つことを許さず、撃てばただちに引いて奏した。後に長安右門外に移し、六科と錦衣衛が交替で受けて奏聞した。旨が下れば校尉が駕帖を領して担当の司に送り問い理めさせた。覆い隠し阻む者は罪とした。
- 龍江衛の吏が過失により書写を罰されていたところ、母の喪に遭って服喪を乞うたが、吏部尚書の詹徽は聴かなかった。吏が鼓を撃って冤を訴えると、太祖は徽を切責し、吏に喪を終えさせた。
- 永樂元年(1403年)、贓によって戍された縣令が鼓を撃って事情を陳べた。帝が法司に下すと、その者は実際に贓を受けたが年老いて目がかすみ判断を誤ったのだと言い、ただ哀憫を乞うた。帝はその帰服の誠を認め、法を屈して宥した。
- 宣德のとき、登聞鼓に当直した給事中の林富が「重囚二十七人が姦盗によって決に当たっているのに、鼓を撃って冤を訴えるのは煩わしく汚らわしく、宥すべきでない」と言った。帝は「登聞鼓を設けたのはまさに下情を届かせるためだ。何が煩わしく汚らわしいのか」と言った。それ以後、鼓を撃って冤を訴えるのを阻む者は罪とされた。
原問官を訐告する者の扱い
- 訐告して原問の官司を告げる件は、成化のころに議が定まり、事実を確かめたうえで逮え問うこととした。
- 𢎞治のとき、南京御史の王良臣が指揮の周愷らの権勢を恃んだ蓄財を按じたところ、愷らは逆に良臣を訐した。詔して南京の法司に逮繋させ会同して鞫させた。侍郎の楊守隨が「これは旧章に合いません」と言い、今後は官吏・軍民の奏訴が別件に絡めて原問官の粗を拾うものは立案せず処理せず、訴えられた事は問い結ばせ、虚偽であれば罪を擬し、原問官が枉げて断じていた場合もまた罪とすべきだと請うた。その議を三法司に下したところ、法司は請のとおりと覆奏し、これに従った。
打断(笞杖執行)の制と萬厯の議
- 洪武二十六年(1393年)以前は、刑部が主事廳に御史・五軍斷事司・大理寺・五城兵馬指揮使の官を会して罪囚を打断させた。二十九年(1396年)には錦衣衛の官も差し加えた。その後は主事が御史と会して笞・杖罪を打断廳で決し終えて巻に附し、旨を奉じたものは翌日に覆命した。
- 萬厯のころ、刑部尚書の孫丕揚が言った。獄を折くのが速やかでないのは、文書のやりとりに牽制されるからにほかならない。議断が成れば刑部と大理寺がそれぞれ長単を立て、刑部が審を送って掛号し、翌日ただちに大理に送る。大理が審允すれば翌日ただちに本部に返す。食い違うものは究め処す。そうすれば事体を一つにできる。打断と相験については、御史は三・六・九の日に例のとおり会同し、他の日は大理寺の官だけが会するようにして、速やかに遣わす。徒・流以上は刑部と大理寺が詳しく鞫し、笞・杖の小罪は堂部の処分に委ねる、と。議のとおり行うよう命じた。
淹禁の禁と嘉靖六年の周瑯の上言
- 獄囚がすでに審録され決断すべき者は三日、発遣すべき者は十日を期限とし、期限を過ぎれば日数を計って笞とし、囚を滞らせて死なせた場合は徒とする。これが旧例である。
- 嘉靖六年(1527年)、給事中の周瑯が言った。このごろ獄吏は苛刻で、犯の軽重を問わず一様に幽閉し、案件の新旧を問わず何かというと歳月を引き延ばす。意を通わせ顔色で示すうちに、論奏がまとまらぬうちに囚の骨はすでに砕けている。まして偏った州や下級の邑では監察が及ばず、姦吏や悍卒が獄を市として、あるいは飲食を締めて苦しめ、あるいは汚れた便所に移して責め、あらゆる痛苦を加えるので十人に一人も生き残らない。律令に載るところを臣が見るに、囚を逮え繋ぐには老疾の者は分けて収め、軽重は種類によって分かち、枷・杻・敷き筵は時に応じて整え、冷たい飲み物や暖かい設えは時に応じて備え、身寄りのない者には衣服を給し、病ある者には医薬を与え、いたずらに禁ずれば科があり、疏決には詔がある。これは祖宗の良法美意である。臣下に勅して共に奉行させ、逮え繋いだ年月、結了・未結了、疾病・死亡の別をそれぞれ文冊に載せて長吏に申報させ、結了の遅速、病死の多寡を較べて功罪とし、黜陟すべきである、と。帝は深くその言をもっともとし、あわせて中外で法の運用が深刻に過ぎて民命を損なう者は即刻斥けて庶民とし、才幹・節操が見るべきものであっても推薦してはならぬと命じた。
拷訊の限度と酷吏の私刑具
- 内外の問刑官は、死罪および竊盗の重犯に限って拷訊を用い、その他は鞭・扑の常刑にとどめた。
- 酷吏はしばしば挺棍・夾棍・腦篐・烙鐵、および一封書・鼠彈箏・攔馬棍・燕兒飛といった器具を用い、あるいは鼻に水を灌ぎ指に釘を打ち、径一寸の嬾杆や稜の節を削らぬ竹片を用い、あるいは脊背や両踝を鞭った。傷を負わせた以上のものはすべて奏請し、罪は充軍に至った。
停刑の月日・検験・恤囚
- 停刑の月は立春以後から春分以前まで。
- 停刑の日は、初一・初八・十四・十五・十八・二十三・二十四・二十八・二十九・三十の、あわせて十日である。
- 屍傷の検験は、照磨司が刑部の印を捺した屍圖一幅を取り、五城兵馬司に委ねて法どおり検験させる。府では通判・推官、州県では長官が自ら検め、下僚に委ねてはならない。
- 獄囚で貧しく自活できない者には、洪武十五年(1382年)に定めた制で一人あたり米を日に一升給した。二十四年(1391年)に廃止された。正統二年(1437年)、侍郎の何文淵の言により旧のとおりとするよう詔し、あわせて贓罰の古着があれば分給させた。
- 成化十二年(1476年)、有司に薬餌を買って刑部に送らせ、また恵民薬局を広く設けて囚人を治療させた。正德十四年(1519年)に至って囚犯の煤・油・薬料はいずれも額銀の定数が設けられた。
- 嘉靖六年(1527年)、運炭などに従事する資力ある罪囚の折色で米を買い上げて本部の倉に納めさせたが、毎年およそ五百石になったので収めるのをやめた。
- 冬には毎年、綿の上着と袴を各一そろい給し、提牢主事が検めて渡した。
籍没と復讎の条
- 罪を犯して籍没する場合、洪武元年(1368年)の定制では、反叛を除いてその他の罪はただ田産と家畜を没収するにとどめた。
- 洪武二十一年(1388年)の詔では、謀逆・姦党および偽鈔を造った者は資産と丁口を没収するが、農具と耕牛は返し与えた。
- 鈔劄(財産没収)に該当するのは、姦黨、謀反大逆、姦黨惡、造偽鈔、一家三人を殺した者、採生折割人の首謀者である。大誥に定める十条は、後には用いられなかった。
- 復讎については祖父が殴られた条にだけ見える。いわく、祖父母・父母が人に殺され、子孫がほしいままに下手人を殺した場合は杖六十、その場でただちに殺した場合は問わない。その他の親族が人に殺されてほしいままに殺した場合は杖一百。律によれば、死罪に当たる罪人がすでに捕らえられているのに捕える者がほしいままに殺した罪もこれと同じ程度であるから、「その他の親族など」には兄弟も含まれ、その例は類推できる。
決囚の手続
- 囚を決するには、毎年の朝審が終わると法司が死罪について旨を請い、刑科が三度覆奏し、旨を得て刑を行う。在外の者は決すべき者の単を冬至の前に奏して会審のうえ決した。
- 正統元年(1436年)、重囚の三覆奏が終わったら駕帖を請うて錦衣衛に付し、監刑官が校尉を率いて法司に赴いて囚を取り、市に引くこととした。
- また、決に臨んで冤を訴える者があれば、登聞鼓に当直する給事中が状を取って封じ進め、あわせて校尉の手に指令を書いて市曹へ馳せさせ、しばらく刑を停めることとした。
- 嘉靖元年(1522年)、給事中の劉濟らは、囚の廖鵬父子および王欽・陶杰らに内々の後ろ盾があるため帝の意が決しないのを懼れて言った。近ごろは三覆奏が終わって駕帖を待つころにはすでに正午、鼓が下ってなお訴状を受け返答を得るころには未・申の時刻、再び請うてようやく刑を行うころには酉を過ぎており、「人を市に刑して衆とともにこれを棄つ」という意にまるで反する。今より囚を決するのは未の刻より前に終えていただきたい、と。これに従った。
- 嘉靖七年(1528年)に議が定まり、重囚に冤があれば家族が決の前日に鼓を撃ち、翌日の午前に下し、午を過ぎれば刑を行い、覆奏はしないこととした。
南京の決囚と各省の決囚
- 南京の決囚には刑科の覆奏の例がなかった。𢎞治十八年(1505年)、南京刑部が時を待たず決すべき者三人を奏し、大理寺もすでに審允していたので、法司の議に下した。いわく、在京の重囚には時を待たず決すべき者があり、審允して奏請し刑科が三覆奏する、あるいは恩を蒙ってなお監候のまま会審となる。南京には覆奏の例がないので、秋の後に審らかにし終えてまとめて奏し定めるようにしたい。もし大悪人で常例によりがたい者があれば、改めて具奏して処決したい、と。これを令として著し、詔して許した。
- 各省の決囚は、永樂元年(1403年)の定制で死囚が百人以上なら御史を差して審決させた。𢎞治十三年(1500年)には、毎年差遣する審決重囚官は霜降の後を期限として復命することと定めた。
赦の制
- 大きな慶事および災荒があれば赦を行う。ただし常赦、不赦、特赦の別がある。十悪および故意の犯は赦さない。
- 律文にいう、赦は臨時に出るもので、罪名を定めて特に免じ、あるいは降し減じて軽きに従うものはこの限りではない、と。十悪のうち不睦は会赦のとき原宥する例に入っているので、不赦とされる者でも許されることがある。旨を伝えて赦を布くときに別に罪名を定めない場合は、なお常赦不宥の律による。
- 仁宗が立ってから赦条三十五を設けたが、いずれも楊士竒の代作で、永樂年間の弊政をことごとく除き、歴代これに従った。先朝で民に不便なものはみな遺詔や登極の詔を援いて撤廃された。
- 赦より前の事を告げて人を罪に問おうとする者は、その告げた罪でそのまま坐された。
- 𢎞治元年(1488年)、民の呂梁山ら四人が窃盗殺人により死罪に坐したが赦に遭った。都御史の馬文升は死を宥して辺に戍らせるよう請うたが、帝は律のとおり斬るよう特に命じた。
- 世宗はしばしば刑を停めたが、赦にはことに慎重で、廷臣が赦令を援いて大禮の大獄および建言した諸臣を宥そうとするほど、いよいよ許さなかった。嘉靖十六年(1537年)、同知の姜輅が平民を惨殺し、都御史の王廷相が口外に発すべきだと奏当したが、帝は詔書どおりに宥免せよと特に命じ、詔に違えたとして廷相らを責めた。
- 嘉靖四十一年(1562年)、三殿が落成し群臣が赦を頒つよう請うと、帝は「赦は小人の幸いである」と言って許さなかった。
- 穆宗の登極の覃恩では、徒・流の人犯がすでに配所に着いていた者も皆放ち還すことを許した。遷謫された諸臣のための処置であった。
太祖の刑政――大誥と重典
- 明一代の刑法の大略はこうである。太祖は開国の初め、元末の貪欲を懲らしめ、贓吏を厳しく取り締まり、諸司の法を犯した者を申明亭に掲げて戒めとした。また刑部に命じ、官吏に犯があって罪を宥され復職した者は、その過ちを門に書き出して自ら省みさせ、改めなければ律のとおり論じさせた。犯諭・戒諭・榜諭を重ねて頒ち、いずれも刑を象って天下に誥示した。
- 洪武十八年(1385年)に大誥が成り、序して「諸司であえて公を急がず私を務める者は、必ずその根源を窮め捜して罪する」と述べた。三度の誥に列された凌遲・梟示・種誅は数百から千に及び、棄市以下は万を数えた。
- 貴溪の儒士夏伯啓は叔父・甥ともに指を断って仕えず、蘇州の人才である姚潤・王謨は召されて来なかったので、いずれも誅されて家を籍没された。「寰中の士夫、君のために用いられず」の科が設けられたのはこれによる。
- 第三編はやや寛容だが、そこに記された進士・監生の罪名は一犯から四犯まで三百六十四人に及び、幸いに死を免れて職に還った者も、おおむね斬罪を戴いたまま事に当たった。
- 中外の貪墨の起こりを推し究めて、六曹を罪の魁とし、郭桓を誅の首とした。
郭桓の獄と空印の案
- 郭桓は戸部侍郎である。帝は北平の二司の官吏である李彧・趙全德らが桓と結んで姦利を図ったと疑い、六部の左右侍郎以下がみな死に、贓は七百万に上り、供述は直隷・諸省の官吏に連なって繋がれて死んだ者は数万人に及んだ。贓を調べると預けたり借りたりが天下に遍く、中流の家はおおむね破産した。
- 当時、非難は御史の余敏・丁廷舉に集まった。帝はそこで手詔を出して桓らの罪を列挙し、右審刑の吳庸らを極刑に処して天下の心を鎮め、「朕は有司に姦を除けと詔したのに、かえって姦を生じて我が民を擾した。今後このような者があれば赦に遭っても宥さない」と述べた。
- これより先、洪武十五年(1382年)に空印の事が発覚した。毎年、布政司・府州県の吏が戸部に赴いて銭糧・軍需の諸事を照合したが、道が遠いためあらかじめ空印の文書を持参し、刑部の駁があればその場で書き改めるのを常としていた。帝は姦があると疑って大いに怒り、諸々の長吏を死に論じ、佐貳の官は杖百のうえ辺に戍らせた。寧海の人鄭士利が上書してその冤を訴えたが、これもまた杖して戍らせた。
- この二つの獄の誅殺はすでに度を越えていたうえ、胡惟庸・藍玉の両獄の連座で死んだ者は四万にも及んだ。
太祖の縦舎と刑罰観
- とはいえ、時には大体を引いて許すこともあった。沅陵知縣の張傑が労役に処せられた際、母の賀氏が元末の乱離に節を守り、いま年老いて養う者がないと自ら陳べた。帝は風俗を励ますに足るとして特に赦し、傑に俸禄を与えて終身の養いをさせた。給事中の彭與民が繋がれた際、その父が上表して哀を訴えると、ただちに釈し、同じく繋がれていた十七人も免じた。死囚の妻妾が夫の冤を訴え、法司が黥を請うと、帝は「婦が夫のために訴えるのはその務めである」として罪としなかった。都察院が二十四人を死に当てたときは、群臣に鞫させ、冤のある数人を死から減じた。真州の民十八人が謀反を図って戮されたが、連坐に当たるその母子は釈した。
- 用いた深文の吏である開濟・詹徽・陳寧・陶凱の輩は、後にはおおむね罪によって誅された。
- また、しばしば仁を宣べて、ひたすら刑罰に頼ることを望まなかった。郊壇に赴いたとき皇太子が従っていたので、道端の荊楚を指して「古はこれを扑刑に用いた。よく風を去り、寒い時でも人を傷つけないからだ」と言った。
- 尚書の開濟が法を細密に議したときは、「沢を涸らして漁れば害は稚魚に及び、林を焼いて狩れば禍は小獣に及ぶ。法があまりに巧緻細密では、民はどうやって身を全うできようか」と密かに諭し、濟は恥じて謝した。
- 參政の楊憲が重法を望んだときは、帝は「重典によって生きようとするのは、釜の中に魚を探すようなもので、生き延びるのは難しい」と言った。
- 御史中丞の陳寧が「法が重ければ人は軽々しく犯さず、吏が明察なら下に隠れる実情はない」と言うと、太祖は「そうではない。古人が刑を制したのは悪を防ぎ善を守るためだ。唐虞は衣冠に絵を描き章服を異にすることを戮としたが、それでも民は犯さなかった。秦には頭頂を鑿ち脇を抜く刑や三族の誅があったが、牢獄は市のようになり天下は怨んで叛いた。商鞅・韓非の法を用いて堯舜の治に至れたなどとは聞いたことがない」と述べ、寧は恥じて退いた。
- また尚書の劉惟謙に「仁義は民を養う美食であり、刑罰は悪を懲らす薬石である。仁義を捨ててもっぱら刑罰を用いるのは、薬石で人を養うようなもので、善き政治といえようか」と語った。
- 思うに太祖は重典を用いて一時を懲らしつつ、中庸の制を酌んで後世に垂れたのであり、猛烈な統治と寛仁の詔とが相補って行われ、どちらかに偏ることはなかった。
建文帝
- 建文帝は体制を継いで文を守り、もっぱら仁義によって民を化そうとした。元年(1399年)に刑部が報じた囚は太祖のときより十分の三を減じていた。
成祖
- 成祖は靖難の師を起こすと、忠臣をことごとく姦党と指し、甚だしきは一族を誅し墓を掘り、妻女を浣衣局や教坊司に下した。親族・党与で謫戍された者は、隆慶・萬厯のころに至ってもなお名簿から抜けなかった。
- 抗い違う者をすべて殺戮したのち、人が陰で議するのを懼れて、誹謗を憎むことがことに甚だしかった。山陽の民である丁鈺がその郷の誹謗の罪ある者数十人を訐すと、法司は上意を迎えて「鈺は才があり用いるべし」と言い、ただちに刑科給事中に任じた。永樂十七年(1419年)には重ねてその禁を申し明らかにした。
- 陳瑛・呂震・紀綱の輩が前後して事に当たり、もっぱら刻深によって寵を固めたので、蕭議(蕭儀の誤りか)・周新・解縉らの多くが罪もなく死んだ。
- ただし帝も心では苛法の非を知っており、時には寛大を示した。ある千戸が桐油を灌いだ皮鞭で人を打ち据えたとき、刑部が杖に当てると、あわせてその職を罷めさせた。法司が官糧を冒して支給を受けた者をただちに戮するよう奏すると、刑部が覆奏し、帝は「これは朕の一時の怒りであった、過ちである。律によれ」と言った。今より犯罪はみな五覆奏することとした。
仁宗
- 仁宗は性質がきわめて仁恕であり、即位するとすぐ金純・劉觀に「卿らは皆国の大臣である。朕の法の運用が中を失していると知ったなら、必ず改めて執奏せよ。朕は善に従うのを難しいとは思わぬ」と語った。
- そこで学士の楊士竒・楊榮・金幼孜を寝台の前に召して諭した。近年の法司の濫を朕が知らぬはずがない。大逆不道と擬されるものは往々にして文をもって仕立てたものだ。先帝もしばしば切に戒め、それゆえ死刑は必ず四、五度覆奏させた。ところが法司はまるで意に介さず、進んで酷吏となって恥じない。今より重囚を審らかにするときは、卿ら三人が必ず出向いて共に讞し、冤抑があれば些細なことでも必ず奏聞せよ、と。
- 洪熙改元(1425年)二月、都御史の劉觀、大理卿の虞謙に諭した。以前は法司が誣い陥れるのを功とし、人がひと言でも国事に触れればすぐに誹謗と論じ、身も家も破滅したまま弁明の途もなかった。この数か月の間にまたこの風が芽生えている。そもそも政治の道で急務なのは言を求めることであり、患いは言を忌み憚ることだ。どうして誹謗を禁じてよかろうか、と。そして士竒らを顧みて「この事は必ず詔書によって行え」と言った。
- そこで士竒が旨を承け、己丑の詔書に帝の言葉を載せた。もし朕が一時、悪を憎むあまり律の外に籍没や凌遲の刑を用いたなら、法司は再三執奏せよ。三度奏して許されなければ五度、五度奏して許されなければ三公および大臣とともに執奏し、必ず許されるまでやめてはならない。永く定制とする。文武の諸司もまた残酷に背を鞭つ類の刑を用いてはならず、擅に宮刑を用いて人の血筋を絶ってはならない。自ら宮した者は不孝として論ずる。謀反および大逆を除き、その他の犯は本人のみを罪し、一切連坐の法を用いてはならない。誹謗を告げる者は取り上げるな、と。
- 在位一年に満たなかったが、仁と恩は行き渡った。
宣宗
- 宣宗はこれを承けていよいよ恵政が多かった。
- 宣德元年(1426年)、大理寺が猗氏の民の妻である王骨都が夫を殺したとされた冤を駁正すると、帝は刑官を切責し、尚書の金純らが謝罪してようやく済んだ。
- 義勇軍の兵士である閻羣兒ら九人が盗と誣われて斬に当たり、家人が登聞鼓を撃って冤を訴えた。覆審して調べると盗ではなかったので、羣兒らを釈し、都御史の劉觀を切責した。
- その後は囚を奏上するたびに顔色を痛ましげにし、御膳を廃し、あるいは手でその文書を退けて左右に「刑官に少し緩めるよう言え」と言った。
- ある日、文華殿で群臣と古の肉刑を論じ、侍郎が「漢が肉刑を除いてから人はかえって軽々しく法を犯すようになった」と答えると、帝は「それは教化によるもので、肉刑の有無とは関わりない。舜の法には流刑による宥免と金による贖いがあり、四凶の罪も追放や誅殺にとどまった。当時、肉刑を受けた者は必ずみな重罪であって濫りに及ばなかったのだ。まして漢は秦の弊を承けて挾書にすら律があったのだから、一様に肉刑を用いていたら傷つく者は必ず多かったろう」と言った。
- 翌年『帝訓』五十五篇を著し、その一つが恤刑であった。
- 武進伯の朱冕が「先ごろ舎人の林寛らを遣わして囚百十七人を辺に送らせたが、着いたのはわずか五十人で、残りはみな道中で死んだ」と言うと、帝は怒って法司に窮め治めるよう命じた。
- 帝の寛大な詔は毎年下って囚を閲し、しばしば放ち遣わして三千人に達することもあった。刑官に「牢死を懸念するから寛く赦すのであって、常制ではない」と諭した。
宣德の贖罪の軽さと贓吏の厳罰
- このころ官吏は米百石ないし五十石を納めれば雑犯死罪を贖え、軍民はその十分の二を減じ、諸辺衛では十二石、遼東では二十石であったから、例としては軽きに過ぎた。
- ただ贓吏の罰だけは厳しく、文職で贓を犯した者はみな律によって科断するよう命じた。これにより法の運用は軽くなったが、貪墨の風もさほど恣にはならなかった。
- しかし明の制は朋比の誅を重んじた。都御史の夏廸が常州で糧を催促した際、御史の何楚英が金を受けたと誣った。諸司は罪を懼れ、冤であることを承知しながら明らかにしようとせず、廸はついに駅夫に落とされ憤死した。帝の寛仁をもってしても大臣に冤死する者があった。これは立法の弊である。
英宗・正統から景㤗
- 英宗以後、仁宗・宣宗の政は衰えた。正統の初めは三楊が国に当たっていたので、なお祖法を恪守し、内外の諸司が刑獄を鍛え上げることを禁じた。
- 刑部尚書の魏源は旱の災を理由に疑わしい獄事を上げ、各巡撫に審録を命ずるよう請い、これに従った。巡撫のない所は巡按清軍御史に命じた。行在の都察院もまた疑獄を上げ、審録に通じさせた。
- 御史の陳祚が言った。法司の論獄は定律に違うものが多く、もっぱら刻深を務めている。たとえば戸部侍郎の吳璽が淫らな行いを挙げた件で、主事の吳軏は「貢挙其の人に非ず」の罪に坐すべきなのに、「奏事に規避有り」の律を加えて斬とされ、軏は自ら縊れた。獄官の卒する罪には明らかに順に減ずる科があるのに、当てはまらぬ事柄で理の重いものを引いて一律に杖している。そもそも情を原ねて律を定めるという祖宗の防ぎは行き届いていたのに、法司は軽きを抑えて重きに従うことここに至った。これでは聖朝の仁厚を広める所以ではない。今後、妄りに重い律を援く者は、成法を変乱したとして罪せられたい、と。帝はその言を是として警戒を申し渡した。
- 正統六年(1441年)に至って王振が政を乱しはじめ、しばしば廷臣を辱めて刑章は大いに乱れた。侍講の劉球が十事を条上し、その中で「天が災譴を降すのは刑罰が中を得ないことに感ずるところが多い。ひとえに法司に任せ、その私に狥う不当を見て罪を加えるべきである。たとえ意に逆らうことがあっても、漢の犯蹕・盗環の事のように、張釋之の執奏を聴いて従うべきだ」と述べた。帝は用いることができず、球はまさにこの疏によって振の怒りに触れ獄死した。
- しかし諸々の酷虐な事はおおむね振の所為であって、帝の心はすこぶる寛平であった。正統十一年(1446年)、大理卿の俞士悦が殴り合いによる殺人の類百余人について奏して宥免を請い、みな死を減じて辺に戍らせた。
- 景㤗のころ、陽穀主簿の馬彦斌が斬に当たり、その子の震が身代わりを願い出たので、特に彦斌を宥し、震を辺衛の軍に編入した。
- 大理少卿の薛瑄が「法司が罪囚を擬して発するとき多く參語を加えて奏請し、律の意を乱している」と言い、詔して法官が獄を問うのは一に律令に依り、妄りに參語を加えることを許さないとした。
- 景㤗六年(1455年)、災異により中外の刑獄を審録し、生きながらえた者が甚だ多かった。
天順・成化
- 天順のころは詔獄がしきりに起こり、三法司と錦衣衛に囚が多く繋がれて未決のままとなり、吏がしばしば獄の内情を洩らして姦をなした。都御史の蕭維楨は徐有貞に付会して王文・于謙らを枉げ殺したが、その刑部侍郎の劉廣衡はやがて制文を偽造したとして有貞を斬罪に坐した。その後、緹騎が四方に出て海内は不安となった。
- ただし霜降の後に重囚を審録することは、実は天順のころに始まる。成化の初め、刑部尚書の陸瑜らが請うてこれを挙行し、獄を上げてその情を核べ、憐れみ疑うべき者は死を免じて戍に発した。歴代これを奉行し、人々は法外の恩に浴した。
- 憲宗が即位すると、三法司および中外の文武群臣に勅し、贓罪を除いて、犯した罪名が官に記録されている者はすべて洗い落とさせた。その後は毎年の恒例となった。
- 成化十年(1474年)、囚を決すべき時期が冬至の節に近かったので、節を過ぎてから刑を行うよう特に命じた。まもなく給事中が「冬至の後の行刑は時に非ず」と言ったので、翌年の冬月を待つよう詔した。
- 山西巡撫の何喬新が獄詞の遅延を劾奏し、僉事の尚敬・劉源がこれに因んで「二司が詞訟を決断しないまま半年以上経つものは、すべて奏請して問い糺すべきだ」と言った。帝は「刑獄は重大な事である。『周書』に『囚を要して服念すること五六日、旬時に至る』とあるのは、まだその実情を得ていない者について言ったにすぎない。かりにも実情を得たならただちに決断すべきである。無罪の者を拘え幽するとしばしば牢死し、これは刑官が殺すのだ。だから律には特に淹禁罪囚の条が置かれている」と言い、喬新の奏したところをそのまま天下に通行させた。
- また制を定めて、盗賊の贓や凶器が確かでなく、人命の死傷を勘験しないうちにたやすく重刑を加えて獄中で死なせた場合は、故意か過失かを審らかに勘べたうえ、軍民・職官を分たずみな酷刑の事例に照らして庶民に落とすこととした。
- 侍郎の楊宣の妻が悍く妬んで婢十余人を殺したとき、刑部は命婦が坐すべき律を擬したが、特に杖五十の決を命じた。
- 当時、帝には益ある政が多く、刑獄にはことに慎重で、失としては一、二の事があるだけである。かつて一人の囚を殺そうとして覆奏を許さず、御史の方佑が重ねて請うと、帝は怒って佑を杖し謫した。また吉安知府の許聰に罪があったとき、中官の黄髙が法司をけしかけて斬を論じさせ、給事中の白昻が審録を経ていないことを理由に請うたが聴かれず、ついに夜に乗じて斬った。
孝宗
- 孝宗は立つとすぐ、決に当たる死罪四十八人を免じた。
- 元年(1488年)、知州の劉概が妖言の罪で斬に坐したが、王恕の争いによって長期の繋留にとどまった。
- 末年、刑部尚書の閔珪が重い獄を讞して旨に逆らい、久しく下されなかった。帝が劉大夏と語ってこれに及ぶと、大夏は「人臣が法を執って忠を尽くしたので、珪のしたことは怪しむに足りません」と答えた。帝が「では言ってみよ、古来、君臣にこのようなことがあったか」と問うと、「臣は幼いころ『孟子』を読み、瞽瞍が人を殺せば皋陶がこれを執えるという語を見ました。珪の執るところは深く責めるべきではありません」と答えた。帝はうなずき、翌日には疏が下されて擬のとおりとなった。
- 前後に任じた司寇の何喬新・彭韶・白昻・閔珪はみな法を執ることが公平で、海内はこぞって仁徳を称えた。
武宗
- 正德五年(1510年)、重囚を会審して死を減じた者は二人であった。当時は冤濫が獄に満ちており、李東陽らが風霾に託して言上し、特に寛恤を許されたが、刑官が劉瑾の怒りに触れるのを懼れたので、上げたものはこれにとどまった。
- 後に流賊の趙璲らを市に磔し、首魁六人の皮を剥いだ。法司が祖訓に禁があると奏したが聴かれず、まもなくその皮で鞍と鐙を作らせ、帝はいつもそれに乗った。直言する臣を廷杖することも、武宗が最も甚だしかった。
世宗
- 世宗が即位した年の七月、日精門の火災により冤抑を疏理し、死を緩められた者三十八人を再度問わせたが、その中に廖鵬・王瓛・齊佐らがいた。給事中の李復禮らが「鵬らはみな江彬・錢寧の党で王法が必ず誅すべき者だ」と言ったので、従来どおり禁じさせ、後に順次法に伏した。
- 大禮を争う者を杖して以来、痛烈に廷臣を挫いた。嘉靖五年(1526年)、張璁・桂蕚・方獻夫に三法司を摂させて李福逹の獄を覆し、馬録を姦党律に坐そうとした。楊一清が力争して録を戍とするにとどめたが、罪に坐した者は四十余人に上った。璁らはこれを自分の功として、帝に『欽明大獄録』を編んで天下に頒示するよう請うた。この獄に坐した者はおおむね璁ら三人の旧怨のある者で、祖宗の法を権臣の排斥・陥害に供したのだが、帝は悟らなかった。
- 嘉靖八年(1529年)、京師の民である張福が母を殺したのに張柱に殺されたと訴えた。刑部郎中の魏應召が覆審して実を得たが、帝は柱(張柱)が武宗の后家の僕であるため意図的に曲げて殺そうとし、侍郎の許讚に讞詞をことごとく覆させたうえ、都御史の熊浹および應召を獄に下した。
- その後は猜忌が日ごとに甚だしくなり冤濫が多くなった。時には寛恤を命じたが、意は苛刻を主とした。かつて輔臣に諭して「近年は続けて災異により刑を免じてきたが、今また刑科の三覆奏で旨を請うている。朕は死刑が重大な事だと思うので、陵殿の物などを盗んだ者、父母を殴り罵って大いに倫理を傷つけた者だけを決し、その他は法司に再び理めさせ、卿らと論じて慎重を期したい」と言った。当時これは大体を得たものとされた。
- 数年を経て、大理寺が詔を奉じて獄を讞し、死を減ずべき囚があるとしたところ、帝は「諸囚の罪はみな赦されぬものである。恩例を仮借して姦を放ち法を壊すものだ」として、寺丞以下を差をつけて降格した。
- 嘉靖九年(1530年)から秋の謝醮を行って決囚を免じ、その後も祥瑞に応じ、あるいは郊祀の大報によって、停刑の典が毎年行われた。しかし執法の官をしばしば譴責して怒り、時ならず旨を請い、冬至に迫って義を廃し恩を売るものだと責め、刑部尚書の吳山の職を削り、刑科給事中の劉三畏らを降調した。
- 中年以後は誅戮をいよいよほしいままにし、宰輔の夏言すら免れなかった。三十七年(1558年)になって手諭を出し、「司牧の任にある者がまだ十分に人を得ておらず、情にまかせて威を振るっている。湖廣の幼い民である吳一魁は二つの命を枉げて刑せられ、母もまた捕らえられ、事情に迫られて訴える手だてもなく、万里を越えて宮門に叩いた。これから推せば冤抑の者はどれほどか知れない。爾らはすみやかに朕の心を体して矜恤に意を用いよ。あわせて天下に通行させ、みなに諭せ」と述べた。この詔にはいたわしいまでの哀痛の思いがある。
- 末年、主事の海瑞が上書して逆らい、刑部は死に当てたが、帝はその章を持したまま下さず、瑞は長く繋がれるにとどまった。
穆宗・神宗
- 穆宗が立つと、徐階が帝の意に沿って遺詔を作り、追われた諸臣をことごとく還し、死亡した者を手厚く恤み、幽閉されていた者を釈した。詔書を読んだ者で嘆息しない者はなかった。
- 萬厯の初め、冬月に停刑を詔したことが三度あった。
- 萬厯五年(1577年)九月、司禮太監の孫得勝がまた旨を伝え、聖母の諭を奉じて、大婚の期が近いことを理由に、閣臣に三覆奏の本の擬旨で刑を免ずるよう命じた。張居正が言った。祖宗の旧制では、死罪を犯して鞫問が明らかになれば律により市に棄てる。嘉靖末年、世宗皇帝が斎醮のためにしばらく免じて決しない令を出しはじめ、あるいは御筆で印を付けたものだけを量って決するようになった。これは近年の姑息の弊であって旧制ではない。臣らが諸囚の罪状を詳しく閲したところ、みな天理を滅し人倫を損なう者ばかりである。聖母はただ罪を犯した者が誅戮を被るのを憐れむべきものと見て、彼らが害した者たちがみな冥土で冤を含み憤りを蓄えていることをご存じない。その痛みを一たび雪がなければ、怨恨の気が上って天和を犯し、傷つく所は必ず多いだろう。いま行刑しなければ年ごとに牢獄は満ち、警備の費がかさむうえ国典に背き、政体の上でも大きな誤りである、と。給事中の嚴用和らも同じ趣旨を述べ、詔して許した。
- 萬厯十二年(1584年)、御史の屠叔明が革除された忠臣の外戚の釈放を請い、齊泰・黄子澄を除き、方孝孺らに連座した者はみな取り調べて放免するよう命じた。
- 帝の性は仁柔であったが、ひとり諫言する者を憎み、十二年から三十四年(1606年)までに内外の官で杖され、戍され、庶民に落とされた者は百四十人に上った。のちには朝に出なくなり、刑罰はまれにしか用いられず、死囚はしばしば停免された。
熹宗・莊烈帝
- 天啓のころの酷刑は多く別に述べるので、ここでは詳しく論じない。
- 莊烈帝は即位すると魏忠賢を誅し、崇禎二年(1629年)に逆案を欽定して六等に分け、天下は快とした。しかし当時は神宗の廃弛と熹宗の昏乱の後を承けており、鋭意事を綜べ理めたため刑の運用はすこぶる急で、大臣にも下獄する者が多かった。
- 崇禎六年(1633年)の冬、囚を論ずるにあたって素服して建極殿に出御し、閣臣を召して商議した。しかし温體仁は何一つ平反しなかった。陝西の華亭知縣である徐兆麒は着任七日で城が陥ちたため死に坐した。帝は心では憐れんだが、體仁は救おうとしなかった。
- 崇禎十一年(1638年)、南京通政の徐石麒が鄭三俊を救う疏を上げ、あわせて言った。皇上が位に即かれて以来、罪籍に載せられた諸臣は数千人に及び、牢獄は満杯である。たとえ情と法がすべて協っていたとしても憐れむべきなのに、まして威厳の下に怯えている者には、上意に従うだけで挽回するところがなく、揣摩するだけで補い救うところがない。株連が蔓延して九死に一生を得る有様は、どうして聖人の「ただ刑をこれ恤む」の意にかないましょうか、と。帝は容れることができなかった。
- この年の冬、彗星が現れたため停刑したが、封疆にかかわる事および銭糧・剿寇にかかわる事は、刑部に五日以内に獄を具えるよう詔した。
- 崇禎十二年(1639年)、御史の魏景琦が西市で囚を論じ、御史の髙欽舜、工部郎中の胡璉ら十五人が斬られようとしたとき、にわかに中官の本清が命を奉じて馳せ来って免じ、十一人が釈された。翌日、景琦は回奏して責められ錦衣獄に下された。帝は囚に冤を訴える者があったので停刑して旨を請わせたのに、景琦が慌てて弁えなかったために罪を得たのである。
- 崇禎十四年(1641年)、大學士の范復粹が獄を清めるよう疏請し、「獄中の文武の繋がれた臣は百四十余人に及び、大いに痛ましい」と言ったが、返答はなかった。
- このころ国事は日に日に切迫し、ただ重法によって群臣を縛るばかりで、過ちを救う暇もなく、ついに乱亡を救うことはできなかった。