明史卷九十一 志第六十七 兵三

九邊の成立

  • 元人は北へ帰ったのちもしばしば復興を謀り、永樂に北平へ遷都すると三面が塞に近く、正統以後は敵の患が日ごとに多くなったので、明の世を通じて辺防はきわめて重んじられた。東は鴨緑に起こり西は嘉峪に至って万里に亘り、地を分けて守禦した。
  • 初め遼東・宣府・大同・延綏の四鎮を置き、続いて寕夏・甘肅・薊州の三鎮を置いた。太原の總兵は偏頭に治し、三邊制府は固原に駐して、これも二鎮と称した。これを九邊という。

洪武・永樂の邊備

  • 洪武二年(1369年)、大將軍徐達らに山西・北平の辺備を命じ、それぞれ方略を上らせた。淮安侯華雲龍の言により、永平・薊州・宻雲から西へ二千余里、闗隘百二十九にみな戍守を置き、紫荆闗および蘆花嶺に千户所を設けて守禦させた。また山西都衛に詔して、雁門闗・太和嶺ならびに武州・朔州の諸山谷の間、計七十三の隘にみな戍兵を置かせた。
  • 九年(1376年)、燕山前後等の十一衛に敕して兵を分け、古北口・居庸闗・喜峰口・松亭闗の烽堠百九十六か所を守らせ、南北の軍士を交えて用いた。
  • 十五年(1382年)、また北平都司の管轄する闗隘二百に各衛の卒を置いて守戍させ、塞に近い諸王には毎年秋に兵を勒して辺を巡らせるよう詔した。
  • 十七年(1384年)、徐達に北平の将校・士卒を籍上させ、また将に命じて遼東の定遼等九衛の官軍を調べさせた。以後は毎度、諸公侯を遣わして沿辺の士馬を調べ籍を上らせた。
  • 二十年(1387年)、北平行都司を大寕に置いた。その地は喜峰口の外、もとの遼西郡で、遼の中京大定府である。西は大同、東は遼陽、南は北平にあたる。馮勝が納哈出を破って還ったときここに城を築き、都司および營州の五屯衛を置き、皇子権を封じて寕王とし、各衛の兵を調えて守らせた。
  • これより先、李文忠らが元の上都を取り、開平衛および興和等の千户所を設け、東西それぞれ四駅を置いて、東は大寕に接し西は独石に接した。
  • 二十五年(1392年)、また東勝城を河州の東、受降城の東に築き、十六衛を設けて大同と相望ませ、遼以西の数千里が声勢を連絡した。
  • 建文元年(1399年)、文帝(成祖)が兵を起こして大寕を襲い陥れ、寕王権と諸軍を率いて帰った。即位すると寜王を江西に封じ、北平行都司を大寕都司と改めて保定に徙し、營州五屯衛を順義・薊州・平谷・香河・三河に調え、大寕の地を兀梁哈に与えた。これより遼東と宣府・大同の声援は絶えた。また東勝は孤立して遠く守り難いとして、左衛を永平に、右衛を遵化に調え、その地を空しくした。
  • これより先、興和も廃され、開平は独石に徙されたので、宣府がついに重鎮と称された。
  • しかし帝は辺備にきわめて謹み、宣府から西、山西に至るまで、沿辺はみな高い垣と深い濠を設けて烽堠が相接し、隘口のうち車騎の通じるところは百户が守り、樵牧の通じるところは甲士十人が守った。武安侯鄭亨が總兵官に充てられ、その敕書には、各処の烟墩は必ず高く厚く築き増し、上に五か月分の糧と柴薪・薬弩を貯え、墩の傍に井を開き、井の外に囲いの墻を墩と同じ高さに築いて外から見れば一つに見えるようにせよ、とあった。門を重ねて暴に備える心はつねに厳しかった。

洪熙・正統から景泰まで

  • 洪熙改元(1425年)、朔州の軍士白榮が東勝・高山等の十衛を旧地に還すよう請い、興州の軍士范濟も、朔州・大同・開平・宣府・大寕はみな藩籬の要地でその土は耕せるから、将を遣わし兵を率いて城堡を修め屯種を広げるべきだと言ったが、いずれも用いられなかった。
  • 正統元年(1436年)、給事中朱純が塞垣の修築を請うたが、總兵官譚廣は、龍門から独石および黒峪口まで五百五十余里は工事が難しく、墩臺を増して瞭望させる方がよいと言い、赤城等の堡の烟墩二十二を増した。
  • 寕夏總兵官史昭は、管轄の屯堡がみな河外にあり、河から東の察罕納爾を経て綏徳州に至るまで沙漠が広く守備がないとして、花馬池に哨馬營を築くよう請うた。大同總兵官方政も馬營を請い、半嶺・紅寺兒の廃營を修築しようとした。宣大巡撫都御史李儀は、大同は平坦で巡哨を謹むべきだとして、副總兵に東路、㕘將に西路を主らせ、迤北は總兵官・都指揮に属させるよう請い、いずれも議のとおり行われた。
  • 後三年(正統四年、1439年)、紫荆闗の諸隘口を塞ぎ守備の軍を増すよう詔した。当時ヲイラトが次第に強くなっており、成國公朱勇の請によるものである。
  • ほどなく額森が塞に入り、英宗は土木で陥り、景帝が即位した。十余年の間、索来・毛里孩・阿羅出の輩が相次いで侵入し、安んずる年がなかった。

成化・𢎞治・正徳の邊防

  • 成化元年(1465年)、延綏總兵官張傑が、延慶等の境は広袤千里、管轄の二十五營堡はそれぞれ僅か一、二百人で敵に応じ難いとして、精鋭九千を選んで六哨とし、府谷・神木の二県、龍州・榆林の二城、高家・安邊の二堡に分屯させるよう請い、また鄜州・慶陽の防秋軍二千余人を沿辺の要害に分布させるよう請うて、聴された。
  • 七年(1471年)、延綏巡撫都御史余子俊が大いに辺城を築いた。これより先、東勝に衛を設けて守りは河外にあり、榆林は綏徳に治した。のち東勝が内に遷って険を失い、米脂・魚河の地ほぼ三百里を捨てた。正統年間、鎮守都督王禎が初めて榆林城を築き、沿辺の營堡二十四を建て、毎年延安・綏徳・慶陽の三衛の軍を調えて分戍させた。天順中、阿羅赤が河套に入って駐牧し、たびたび諸部を率いて内に侵した。ここに至って子俊は治所を榆林に徙し、黄甫川から西は定邊營まで千二百余里、墩堡が相望んで套口を横に断ち、内にはさらに山を塹り谷を埋めて夾道と称した。東は偏頭に抵り、西は寕夏・固原に終わる。風土は勁悍で将は勇み士は力あり、北人はこれを槖駝城と呼んだ。
  • 十二年(1476年)、兵部侍郎滕昭・英國公張懋が辺備を条上した。居庸闗・黄花鎮・喜峰口・古北口・燕河營には團營の馬歩軍一万五千人が戍守しているが、さらに軍五千を増して永平・宻雲に分駐させ遼東に策応させたい。凉州・鎮番・莊浪・賀蘭山より西、雪山から河を渡り、南は靖虜に通じ臨洮・鞏昌に至るまではみな敵の侵入路だから、陜西の官軍を調え、甘州・凉州・臨洮・鞏昌・秦州・平凉・河州・洮州の兵を加えて安定・會寕に戍らせ、警あらば截撃し、凉州の鋭士五千を要地に屯駐させて彼此に策応させたい、と。詔して可とされた。
  • 二十一年(1485年)、各辺の軍士に毎年九月から翌年三月まで常に操練し、操した軍馬および風雪で免じた日数を奏報するよう敕したので、辺備はかなり整った。
  • 𢎞治十四年(1501年)、固原鎮を設けた。これより先、固原は内地で、備えるところは靖虜だけであったが、火篩が河套に入り拠ってから敵の要衝となった。そこで平凉の開成縣を固原州と改めて四衛を隷し、總制府を設けて陜西三邊の軍務を統べさせた。当時、陜辺では甘肅がやや安らかであったが、哈宻はしばしば土魯番に擾されたので、嘉峪闗を修めるよう敕した。
  • 正徳元年(1506年)春、總制三邊都御史楊一清が、東勝を回復し、河をもって固めとし、東は大同に接し西は寕夏に属させ、河套千里の沃壌を我が耕牧に帰させれば陜右は肩を休められると請い、定邊營の修築等の六事を上った。帝はその奏を可としたが、まもなく中官劉瑾に忤って罷められ、築いた塞垣は僅か四十余里にとどまった。
  • 武宗は武を好み、辺将の江彬らが寵を得て、遼東・宣府・大同・延綏の四鎮の軍が多く内に調えられ、また京軍六千と宣府軍六千を春秋に番換した。
  • 十三年(1518年)、宣府・大同・延綏の三鎮の応援の節度を定めた。敵が河を渡らなければ延綏は宣・大の調に聴き、河を渡れば宣・大が延綏の調に聴く。兵部尚書王瓊の議によるものである。
  • 初め大寕を棄てたとき、その地を朶顔・福餘・泰寕の三衛に与えた。烏梁海の帰附者である。ほどなく従わなくなり、宣宗はかつて田猟にかこつけて自ら師を率いてこれを破った。以後は畏れ服したので、喜峰・宻雲には都指揮を置いて鎮守させるだけであった。土木の変では三衛が逆を助けたとかなり伝えられ、のち太監・㕘將等の官を添設した。ここに至って朶顔だけが盛んになり、その情は測りがたかった。
  • 嘉靖の初め、御史邱養浩が小河等の闗を外地に復して要を扼するよう請い、また火器を多く鋳て沿辺の州縣に給し、商を募って粟を糴い各辺の衛所を実らせるよう請い、詔していずれも行われた。

邊儲と糧餉

  • 初め太祖のとき、辺軍の屯田では足りないので商を召して辺に粟を輸させ塩を与えた。富商大賈はみな自ら財力を出して民を募り塞下に田を墾いたので、辺の貯えは乏しくならなかった。𢎞治のとき戸部尚書葉淇が初めて法を変え、商に銀を太倉に納めさせて各辺に分給したので、商はみな業を撤して帰り、辺地は荒蕪して米粟は高騰し、辺軍は日に日に困窮した。
  • 十一年(嘉靖十一年、1532年)、御史徐汝圭が辺防の兵食を条上した。延綏は石州・保徳の粟を黄河をさかのぼって漕すべきで、楚の粟は鄖陽から、汴の粟は陜州・洛陽から、沔の粟は漢中から陜右に達させる。宣府・大同は二麦を産するから多方に糴い集める。紫荆・倒馬・白羊等の闗は商を招いて車を賃り運ばせる。また宣府の遊兵を右衛・懐來に駐して大同を援け、遊兵を選び補って順聖西城に置き臨機の応援とし、永寕等処の遊兵は宣府を衛って調遣に備え、直隸八府で勇敢の者を召募して団練し辺に赴かせ、闗の遠近と警急に応じて榆林・山西陜西の遊兵は本処で策応させる、と。報可されたが、これも行われなかった。

嘉靖の邊防

  • 十八年(1539年)、三邊制府を花馬池に移した。当時、俺答の諸部は強横で、たびたび大同・太原の境に深く入り、晉陽の南北は人煙が絶えた。巡撫都御史陳講が、兵六千で老營堡と東界の長峪を戍らせ、山西の兵で大同の三闗を守らせるよう請うた。形勢としては寕武が中路でその要は神池、偏頭が西路でその要は老營堡にあるからいずれも㕘將に改め置き、雁門は東路でその要は北樓の諸口にあるから把總指揮を増設し、神池の守備を利民堡に、老營堡の游擊を八角所に移して、それぞれ軍を増し備えを設ける、と。帝はことごとく許した。規画は綿密だったが、兵将はおおむね怯弱で、健なる者でようやく自守できる程度であった。
  • 二十二年(1543年)、宣府の兵に塞に乗るよう詔した。旧制では總兵が夏秋の間に辺堡に分駐し、これを暗伏といった。ここに至って有司が、秋に入ればことごとく辺に赴かせて地を分け拒み守り、九月中に罷めて帰らせ帑金で犒うよう建議した。久しくして労費のため罷めた。
  • 二十四年(1545年)、巡按山西御史陳豪が、敵が三たび山西を犯して傷残は百万、餉銀六十億を費やしながら尺寸の功もないとして、計を定めて決戦し套地をことごとく回復するよう請うた。翌年、敵が延安を犯し、總督三邊侍郎曽銑が復套を強く主張して十八事を条上し、帝はこれを嘉奨した。しかし大學士嚴嵩が帝の意を窺い、兵を憚り、かつ旧閣臣の夏言を殺そうとして曽銑を弾劾し、夏言もろとも誅死させた。これより辺事を言おうとする者はいなくなった。
  • 二十九年(1550年)、俺達が古北口を攻め、間道の黄榆溝から入って東直門に迫ったが、諸将は敢えて戦わず、敵は退いた。大將軍仇鸞が貢市の議を強く主張し、翌年に大同で馬市を開いたが、冦掠はもとのままで、さらに翌年、馬市は罷められた。
  • これより先、翁萬達が宣府・大同を總督したとき辺事を詳しく籌り、こう言った。山西の保徳州の河岸から東は老營堡の尽きるところまで二百五十四里。西路の了角山から北へ、東に中路・北路を歴て東路の東陽河・鎮口臺まで六百四十七里。宣府西路の西陽河から東へ中路・北路を歴て東路の永寕・四海冶まで一千二十三里。いずれも大敵に逼り険が外にあるもの、いわゆる極邊である。老營堡から南へ転じ東に寕武・雁門・北樓を歴て平刑闗の境まで約八百里。また南に転じ東は保定界となり、龍泉・倒馬・紫荆・吳王口・插箭嶺・浮圖峪を歴て沿河口まで約一千七十余里。また東北は順天界で、高崖・白羊を歴て居庸闗まで約百八十余里。いずれも峻嶺・層岡で険が内にあるもの、いわゆる次邊である。敵が山西を犯すには必ず大同から入り、紫荆を犯すには必ず宣府から入る。外辺を経ずして内辺に入れる者はない、と。そこで宣府・大同の辺墻千余里と烽堠三百六十三か所の修築を請うた。のち通市のため防がなくなり、半ばは敵に毀たれた。ここに至って兵部が辺将に修補を敕するよう請い、科臣はまた垣の上に高臺を築き廬を建てて火器を置くべきだと言い、聴された。
  • 当時、俺答はますます強く、朶顔三衛がその嚮導となって、遼・薊・宣・大は連年兵を被った。三十四年(1555年)、總督軍務兵部尚書楊博が大同右衛の囲みを解いたのち牛心の諸堡を築き、烽堠二千八百余を修めたので、宣府・大同の間はやや安らいだが、薊鎮の患は止まなかった。
  • 薊が鎮と称されたのは二十七年(1548年)からである。当時は鎮の兵が練れていないので、各辺の入衛の兵を戍らせるよう詔した。ついで兵部が、大同の三邊、陜西の固原、宣府の長安嶺、延綏の夾墻はみな重険に拠るのに薊だけそれがない、渤海所の南は山陵、東は蘇家口から寨籬村まで七十里は地形が平漫だから、墻を築き臺を建て兵を置いて守らせ京軍と挟み制すべきだと言い、報可された。
  • 当時は兵力が弱く、警があれば四方から徴召するばかりで、議する者は険に拠ることだけを事とし、戦を言う者はなかった。その後、薊鎮の入衛の兵はみな宣府・大同の督撫の調遣に聴くこととなり、防禦はいよいよ疎かになって、朶顔は虚に乗じて毎年侵入した。
  • 三十七年(1558年)、諸鎮が、各々本鎮の戍卒を練れば徴発の費を十分の六省けると建議した。しかし戍卒は選愞で戦に堪えず、毎年の練兵も一万余を費やし、事に臨めば徴発は従来どおりであった。
  • 隆慶年間、總兵官戚繼光が薊遼を總理して練兵の事に任じ、浙兵三千人を調えて勇敢を倡えるよう請うた。到着して郊で命を待つあいだ、朝から日中まで雨が降ったが軍士は半歩も動かず、辺将は大いに驚いた。以後、薊の兵は精整と称された。
  • 俺答はすでに貢を通じて順義王に封ぜられ、その子孫は代々封を襲いだ。萬厯の末になると西部はふるわなくなったが、土蠻の部落の虎燉兎・炒花・宰賽・煖兎の輩が東西で煽動し、将士は奔命に疲れて枕を安んじる時がなかった。

邊軍の番戍

  • 初め太祖が沿辺に衛を設けたときは土着の兵と罪あって謫戍された者だけで、警があれば他衛の軍を調えて戍らせ、これを客兵といった。永樂年間に初めて内地の軍を番戍させ、これを邊班といった。その後、占役・逃亡の数が多くなり、召募・改撥・修守の民兵・土兵が現れて、辺防は日に日に壊れた。
  • 洪武のとき宣府の屯守官軍はほぼ十万であったが、正統・景泰の間にはすでに額に足りず、𢎞治・正徳以後は官軍の実数は僅かに六万六千九百余で、しかも召募と土兵がその半ばを占めた。他の鎮もおおむねこれに準ずる。
  • 正統の初め、山西・河南の班軍が偏頭・大同・宣府の塞を守って交代を得られなかった。巡撫于謙が、毎年九月から二月までは水が冷え草が枯れて敵騎が出没するから障に乗る卒は多い方がよいが、三月から八月までは辺の守りは自ずと足りるから、両班の軍を毎年一班ずつ期どおり放ち遣わすよう言った。甘肅總兵官蔣貴もまた、沿辺の墩臺の守瞭軍には交代の例があるのに、罪により遣わされた者だけは許されず甚だ困苦しているとして、例どおり踐更させるよう乞い、ともに聴された。
  • 五年(正統五年、1440年)、山西總兵官李謙が偏頭闗の守備軍を大同の例のように半年で交代させるよう請い、部議は一番を十月としたが、戍卒はなお一年を期とするのが常で、久しくして遣わされる者もあった。
  • 𢎞治中、三邊總制秦紘が、延綏を備禦する官軍は十二月に辺に赴いて一年を経て翌年二月にようやく交代を得るので在軍の日数が多いとして、毎年一度、交代の上り下りをともに三月の初めにするよう請い、辺軍はこれを便とした。
  • 嘉靖四十三年(1564年)、巡撫延綏胡志䕫が、戍軍を三年免じ、一軍につき銀五両四銭を徴して募兵に用いるよう請うた。
  • 萬厯の初めに至り、大同の督撫方逢時らが修築の費を請うたので、河南が応ずべき戍班軍を四年から六年まで一律に免じ、班価をことごとく扣えて発給するよう詔した。これを折班という。班軍はこれによって減った。久しくして徴収も届かず、寕山・南陽・潁上の三衛は延綏鎮の折班銀を五万余両滞納した。以後、諸辺の財力はことごとく尽き、疲弊は極まった。
  • 初め辺政が厳明であったころは官軍にみな定職があった。總兵官は鎮の軍を統べて正兵とし、副總兵は三千を分領して竒兵とし、游擊は三千を分領して往来防禦して游兵とし、㕘將は各路を分守して東西に策応して援兵とした。營堡・墩臺は極衝・次衝に分けて置く軍の多寡を定め、平時の走陣・哨探・守瞭・焚荒の諸事に怠る者はなく、少しでも制に違えば軍法で処断した。その後はみな廃れ壊れた。

海防

  • 沿海の地は、廣東の樂會が安南の界に接するところから五千里で閩に抵り、さらに二千里で浙に抵り、さらに二千里で南直隸に抵り、さらに千八百里で山東に抵り、さらに千二百里、寶坻・盧龍を踰えて遼東に抵り、さらに千三百余里で鴨緑江に抵る。島冦・倭夷が至るところに出没したので、海防もまた重んじられた。
  • 呉元年(1367年)、浙江行省平章李文忠の言により、嘉興・海鹽・海寕にみな兵を置いて戍守させた。
  • 洪武四年(1371年)十二月、靖海侯呉禎に命じて、方國珍の部下の溫州・台州・慶元三府の軍士および蘭秀山の田糧なき民、あわせて十一万余人を籍して各衛に隷し軍とし、あわせて沿海の民が私に海に出るのを禁じた。当時、方國珍・張士誠の残党の多くが島嶼の間に逃れ、倭を誘って冦をなしていた。
  • 五年(1372年)、浙江・福建に海舟を造らせ倭に備えさせた。
  • 翌年、徳慶侯廖永忠の言により、廣洋・江隂・横海・水軍の四衛に多櫓の快船を増置し、事なきときは巡邏し、冦に遇えば火船で迫って戦い快船で追わせた。呉禎を總兵官に充てて四衛の兵を領させ、京衛および沿海の諸衛の軍もみな節制に聴かせ、毎年春に舟師を率いて海に出て路を分け倭を防ぎ、秋になって還らせた。
  • 十七年(1384年)、信國公湯和に命じて海上を巡視させ、山東・江南北・浙東西の沿海の諸城を築かせた。
  • 後三年(洪武二十年、1387年)、江夏侯周徳興に命じて福建の福州・興化・漳州・泉州の四府の三丁に一人を抽き沿海の戍兵とさせ、一万五千人を得た。衛所を要害の地に移し置き、城十六を築いた。あわせて定海・盤石・金鄉・海門の四衛を浙に、金山衛を松江の小官場に復置し、青村・南滙嘴に城二千户所を置いた。また臨山衛を紹興に置き、三山・瀝海等の千户所を置いた。寕波・溫州・台州の海に沿う地には先に八千户所を置いており、平陽・三江・龍山・霩□・大松・錢倉・新河・松門といい、みな兵を屯して守りを設けていた。
  • 二十一年(1388年)、また湯和に閩・粤を視察させ、城を築き兵を増した。福建沿海の指揮使司五を置き、福寕・鎮東・平海・永寕・鎮海といい、千户所十二を領させ、大金・定海・梅花・萬安・莆禧・崇武・福全・金門・高浦・六鰲・銅山・元鍾といった。
  • 二十三年(1390年)、衛卒陳仁の言により蘇州・太倉衛の海舟を造り、ついで濵海の衛所の百户ごとおよび巡檢司にみな船二艘を置いて海上の盗賊を巡らせた。のち山東都司周彦の言により五總寨を寕海衛に建て、萊州衛の八總寨と合わせて小寨四十八を轄させた。さらに重臣・勲戚である魏國公徐輝祖らに沿海を分巡させた。帝はもとより日本の詭譎を厭ってその貢使を絶ったので、洪武・建文の世を通じて患とならなかった。
  • 永樂六年(1408年)、豐城侯李彬らに命じて沿海で倭を捕らえさせ、また島人・蜑户・賈䜿・漁丁を招いて兵とし、防備はいよいよ厳しくなった。
  • 十七年(1419年)、倭が遼東を冦したが、總兵官劉江が望海堝でこれを殲滅した。以後、倭は大いに畏れ、百余年の間、海上に大きな侵犯はなく、朝廷は数年に一度大臣に巡警させるだけであった。
  • 嘉靖中に至って倭患が次第に起こり、初めて浙江を巡撫し福建の海道を兼管する提督軍務都御史を置いた。のち巡撫を巡視に改めたが、まもなく倭冦がいよいよ猖獗となったので、金山㕘將を増設して蘇松の海防を分守させ、ついで副總兵に改め、江南北・徐州・邳州の官兵・民兵を調え募って戦守に充て、杭州・嘉興・湖州にも㕘將および兵備道を増した。
  • 二十三年(1544年。三十三年の誤りか。張經が總督南直軍務であったのは嘉靖三十三年)、山東の民兵および青州の水陸の槍手千人を調撥して淮陽に赴かせ、總督南直軍務都御史張經の調用に聴かせた。当時、倭は杭州・嘉興・蘇州・松江を縦横に掠め、柘林城に拠って巣窟とし、大江の南北はみな擾された。監司任環がこれを破り、張經も王家涇の捷を得たので、倭は海に逃れ出たが、また蘇州を犯した。
  • そこで南京御史屠仲律が五事を言った。その海口を守る策は、平陽港・黄花澳を守って海門の険に拠り溫州・台州を犯させない、寕海闗・湖頭灣を守って三江の口を遏し寕波・紹興を窺わせない、鱉子門・乍浦の峽を守って杭州・嘉興に近づかせない、呉淞・劉家河・七了港を守って蘇州・松江を襲わせない、というもの。あわせて海舟を修め、大小を比べて百艘あるいは五十艘を連ねて一䑸とし、水工に慣れた者を募って領させ、原額の水軍を充て、諸海口に緩急を量って防を置くべきだとし、部はこの議を是とした。
  • まもなく兵部もまた、浙直・通州泰州の間は水戦が最も有利で、往時は沙船を多く用いて賊を破ったから厚く賞して招き寄せるべきだと言った。防禦の法は海島を守るのが上策で、太倉・崇明・嘉定・上海の沙船および福倉・東莞等の船で普陀・大衢・陳錢山を守るべきだとした。これが浙・直の路を分ける初めである。狼山・福山の二山は首尾を約束して江洋に交接する要害の地だから水師を督して固守すべきだとし、報可された。
  • ついで直隸の呉淞江・劉家河・福山港・鎮江・圌山の五總に游兵を添設し、金山副總兵の調度に聴かせた。
  • 当時、胡宗憲が總督となり、海賊の徐海・汪直を誅したが、汪直の部下三千人がまた倭を誘って侵入し、閩・廣はいよいよ騒がしくなった。
  • 三十七年(1558年)、都御史王詢が請うた。福建の福州・興化を一路として㕘將に領させ福寕に駐し、水防は流江・烽火門・俞山・小埕から南日山まで。漳州・泉州を一路として㕘將に領させ詔安に駐し、水防は南日山から浯嶼・銅山・元鍾・走馬溪まで。安邊館の水陸の兵はみな節制に聴かせる。福建の省城は南北の間にあり海を去ること僅か五十里だから、さらに㕘將を設け精鋭を選募して哨船を部領させ、主客の兵と相応援させたい、と。部が覆奏して聴された。廣東の惠州・潮州にも㕘將を増設して掲陽に駐した。
  • 福建巡撫都御史游震得は、浙江の溫州・處州は福寕と接壌して倭の出没するところだから、戚繼光を副總兵に進めて守らせ、福寕守備を増設して繼光に隷し、漳州の月港にも守備を増設して總兵官俞大猷に隷し、延平・建寧・邵武は八閩の上流だから兵を募って緩急に備えるべきだと言い、みな許し行われた。
  • ほどなく胡宗憲が逮えられて總督の官を罷め、浙江巡撫趙炳然が軍事を兼任した。炳然は、定海總兵を浙江に属させ、金山總兵を南直に属させ、ともに水陸の軍務を兼理して互いに策応させるよう請うた。
  • その後、莆田の倭冦が平らぐと五水寨の旧制を復した。五寨とは、福寕の烽火門、福州の小埕澳、興化の南日山、泉州の浯嶼、漳州の西門澳(銅山ともいう)で、景泰三年(1452年)に鎮守尚書薛希璉が奏して建てたものだが、のち廃れていた。ここに至って巡撫譚綸が、五寨は外洋を守り扼して法がすこぶる周到だから旧に復すべきだと疏し、烽火門・南日・浯嶼の三䑸を正兵、銅山・小埕の二䑸を游兵とし、寨に把總を置いて汛地を分け、斥堠を明らかにし會哨を厳しくし、三路の㕘將を守備に改め、新たに募った浙兵を二班に分けて各九千人、春秋に番上させ、各県の民壯はみな精悍な者を補用し、府ごとに武職一人に領させ、兵備使者が時に閲視する、とした。帝はみなこれを是とした。
  • 狼山にはもと副總兵を置いていたが、ここに至って鎮守總兵官に改め、大江の南北を兼轄させた。
  • 隆慶の初めに至って倭は次第に患とならなくなったが、諸々の小冦はしばしばあった。
  • 萬厯三年(1575年)、廣東の南澳に總兵官を置いた。漳州・泉州の要害を扼するからである。
  • 久しくして倭が朝鮮を冦し、朝廷は大いに兵を発して援けること前後六年に及び、そこで天津に巡撫官を置いて畿甸を防がせた。
  • 後十余年、南直巡按御史顔思忠の言により淮安大營の兵六百を分けて廖角嘴を守らせ、福建巡撫丁繼嗣の言により、浙から閩に入る三江および劉澳に兵を置き、海澄の團練營の土着軍を浙兵と易えた。
  • 天啓中、澎湖に城を築き、游撃一・把總二を置いて兵三千を統べさせ、礮臺を築いて守らせた。これより先、萬厯中に許孚遠が閩を撫して福州の海壇山に城を築くよう奏し、あわせて澎湖の諸嶼に及び、また浙東沿海の陳錢・金塘・玉環・南麂の諸山もみな経理すべきだと言った。そこで南麂に副總兵を置いたが、澎湖には手が回らなかった。その地は遥かに海中に峙ち、逶迤として長蛇のようで、岐港・零嶼が多く、その中は空闊で巨艘を蔵せる。初めは紅毛に占拠されていたが、ここに至って巡撫南居益の言により奪って守った。
  • 世宗の世に倭患が起こって以来、沿海の大都會にはみな總督・巡撫・兵備副使および總兵官・㕘將・游擊等の員を置いた。諸所の防禦は、廣東では東・中・西の三路に分けて三㕘將を置き、福建では五水寨があり、浙では六總があった。すなわち一は金鄉・盤石の二衛、一は松門・海門の二衛、一は昌國衛および錢倉・爵溪等の所、一は定海衛および霩□・大嵩等の所、一は觀海・臨山の二衛、一は海寕衛で、これを四㕘將に分統させた。
  • 南直隸では乍浦以東の金山衛に㕘將を置き、黄浦以北の吳淞江口に總兵を置いた。淮揚では總兵が通州に駐し游擊が廟灣に駐し、また揚州に陸兵の游撃を置いて調遣を待たせた。山東では登州・萊州・青州の三府に、海道を巡察する副使、民兵を管理する㕘將、沿海の兵馬を總督して倭に備える都指揮を置いた。薊遼では大沽の海口に重兵を宿して副總兵に領させ、宻雲・永平の両游擊を応援とし、山海闗の外では廣寕中前等の五所の兵が各汛を守って寕前㕘將を応援とし、金州・復州・海州・盖州の諸軍はみな防海に任じ、三岔以東の九聨城の外に鎮江城を創り、游擊を置いて兵千七百を統べさせ海上を哨させ、北は寛奠㕘將の陸營と相接した。合わせて七鎮、守備・把總で分守・巡邏・會哨する者は数百員を下らなかった。三・四・五月を大汛、九・十月を小汛とした。倭に遭うことが甚だひどかったので、防備の設けも最も綿密であった。
  • 日本の地は閩と相対し、浙の招寳闗はその貢道に当たる。ゆえに浙・閩が最も要衝であった。南から冦すれば廣東、北から冦すれば江を経て留都・淮揚を犯す。ゆえに海を防ぐほかに江を防ぐことが重んじられた。

江防

  • 洪武の初め、都城の南の新江口に水兵八千を置き、のち一万二千に増し、舟四百艘を造り、また北岸の浦子口に陸兵を置いて犄角をなした。管轄する沿江の諸郡は、上は九江・廣濟・黄梅から下は蘇州・松江・通州・泰州に至り、中に安慶・池州・和州・太平を包む。盗賊および私塩を販ぐ者をみな巡捕させ、あわせて倭に備えた。
  • 永樂のとき、特に勲臣を帥に命じて操江を視させ、その後は都御史も兼ね用いた。
  • 成化四年(1468年)、錦衣衛僉事馮瑤の言により、江兵に地に応じて防を設けさせ、𤓰洲・儀真・太平に将領を置いて鎮守させた。
  • 後六年(成化十年、1474年)、守備定西侯蔣琬が建陽・鎮江の諸衛の軍を調えて江兵の欠伍を補うよう奏した。
  • 十三年(1477年)、武の大臣一人を択んで操江を職とし、營務を兼ねさせないよう命じた。
  • また五年後(成化十八年、1482年)、南京都御史白昂の言により、沿江の守備官が互いに応援するよう敕し、あわせて闗防を給して令とした。
  • 𢎞治中、新江口の両班軍を京營の例のようにし、首班が休めば次班が操することとした。
  • 嘉靖八年(1529年)、江隂の賊侯仲金らが乱を起こし、給事中夏言が鎮守江淮總兵官を置くよう請うた。まもなく冦が平らぐと總兵は罷めて置かなかった。
  • 十九年(1540年)、沙賊黄艮らが再び起こったので、帝は兵部に總兵を罷めた理由を詰り、そこで再び設けて旗牌・符敕を給し沿江の上下を提督させた。のちまた裁いて罷めた。
  • 三十二年(1553年)、倭患が熾んになったので、金山衛に副總兵を復置して沿海から鎮江までを轄させ、狼山副總兵と水陸相応じさせた。当時、江北はみな倭を被ったので、九江・安慶の官軍を量って調え、京口・圌山等の地を守らせた。
  • 久しくして給事中范宗吳が言った。故事では操江都御史が江を防ぎ、應天・鳳陽の二巡撫が海を防ぐ。のち倭警のため鎮江以下の通州・常州・狼山・福山の諸処をこれに隷したので、二撫臣はその責を人に委ね、操江もまた元来自分の属兵でないから遥かに制し難いとして漠然と視ている。委任責成の意ではない。圌山・三江會口を操江と巡撫の分界とすべきだ、と。報可された。
  • その後、上下両江の巡視御史を増して有司・将領を挙劾させ、南京僉都御史に操江を兼理させて別に設けないこととした。
  • これより先、水兵六千を増募していたが、隆慶の初め、都御史吳時來の請により四分の一を留めて残りはみな罷め遣わし、あわせて中軍・把總等の官を裁いた。ついで汛を分けて守りを置き、上下・南北が互いに策応する責を負わせ、また都御史宋儀望の言により、諸軍はみな江上に分駐して城市に居させないこととした。
  • 萬厯二十年(1592年)、倭警のため、言者が京口總兵の復置を請うたが、南京兵部尚書衷貞吉らは吳淞總兵があるから両方を設けるべきでないとし、兵備使者を置いて春汛ごとに備倭都督を調え、衛所の水陸の軍を統べて鎮江に赴かせた。
  • 後七年(萬厯二十七年、1599年)、操江耿定力が、長江千余里のうち上江は營五・兵備臣三、下江は營五・兵備臣二だから、これに簡閲・訓練を委ね、その精否をもって兵備の殿最とすべきだと奏し、部議もそのとおりとした。
  • 故事では南北の總哨官が五日に一度、中間の地で會哨し、将領官も月に二度江上に至って會哨した。その後は多く行われず、崇禎中はまた勲臣が操江に任じたが偷惰が習いとなり、會哨・巡邏はみな虚名で実がなかった。

民壯と土兵

  • 衛所のほか、郡縣には民壯があり、辺郡には土兵があった。太祖が江東を定めると元の制に循って管領民兵萬户府を立て、のち山西行都司の言により、辺民が自ら軍械を備え団結して辺を防ぐことを聴した。閩・浙が倭に苦しんだとき、指揮方謙が民で丁の多い者を籍して軍とするよう請うたが、まもなく郷里の患となるとして閩・浙の民を互いに徙すよう詔した。当時すでに民兵を用いていたが、召募ではなかった。
  • 正統二年(1437年)、初めて所在の軍餘・民壯で自ら効を願う者を募り、陜西で四千二百人を得、一人に布二匹・月糧四斗を給した。
  • 景泰の初め、使を遣わして直隸・山東・山西・河南の民壯を分募し、山西の義勇を撥いて大同を守らせ、紫荆・倒馬の二闗にも民兵を用いて防守させ、事が平らぐと免じて帰らせた。
  • 成化二年(1466年)、辺警のため二闗の民兵を復し、御史に敕して延安・慶陽に赴かせ、精壯を選び伍に編ませて五千余人を得、土兵と号した。延綏巡撫盧祥が、辺民は驍果で練えば兵となり、田里と妻子を守らせられると言ったので、この命があった。
  • 𢎞治二年(1489年)、僉民壯の法を立てた。州縣の七、八百里以上は里ごとに五人、五百里は四人、三百里は三人、三百里以上は二人を僉し、有司が訓練し、警あれば調発して行糧を給し、役占・放買の弊を禁じた。富民が望まなければ官に銀を上納し、官が自ら募る。あるいは機兵と称し、巡檢司にある者は弓兵と称した。
  • のち越境しての防冬は策でないとして、大同巡撫劉宇がその班操を免じ、銀糧を徴して大同に輸し、威逺の屯丁・舎餘で役を補うよう請い、給事中熊偉も応募の民を附近の衛所に編するよう請い、ともに聴された。
  • 十四年(𢎞治十四年、1501年)、西北の諸辺で募った土兵が多く五千に満たなかったので、使を遣わして銀二十万および太僕寺の馬價銀四万を齎して募らせた。指揮・千百户は募った兵の多寡によって差をつけ、遷級を得、官を失った者は復職を得て、そのまま募った兵を統べさせた。
  • ついで兵部が、侍郎李孟𤾉の軍伍を実らせる疏を議覆した。天下の衛所の官軍は原額二百七十余万だが年久しく逃亡・死亡があり、かつて民壯三十余万を選び、また衛所の舎人・餘丁八十八万を調べ、西北の諸辺で召募した土兵はおよそ数万である。孟𤾉の奏のとおり、有司で民壯を操練せず私に雑差に役す者は、軍人を役占した罪と同様に処すべきだ、と。報可された。
  • 正徳中、流賊が山東を擾し、巡撫張鳳が民兵を選んで自ら馬を買わせ団操させたので、民はその煩わしさに堪えず、兵部侍郎楊潭がこれを言った。都御史寗杲の募った者は無頼の子が多く、御史張璿に弾劾された。
  • 嘉靖二十二年(1543年)、州縣の民壯の額を増し、大は千人、次は六、七百人、小は五百人とした。
  • 二十九年(1550年)、京師が新たに冦を被り、民兵を募って二万を目安とし、毎年四月末に京の近くに赴いて防禦させることを議した。
  • 後五年(嘉靖三十四年、1555年)、兵部尚書楊博が、老弱を汰して精鋭を存し、外にある者は各道に発して民兵とし、京にある者は巡捕㕘將に隷し、逃げた者は補わないよう請うた。帝は影占の数が多く糧を耗して無用だとして、官を遣わして調べ、罷めるべきもの・還すべきものを報告させた。
  • 隆慶中、張居正・陳以勤がまた畿甸の民兵を籍するよう請うた。直隸八府は人が多く健悍だから、戸籍を総べ按じて単丁・老弱の者を除き、父子三人なら一子、兄弟三人なら一弟を籍する。州および大県は千六百人、小県は千人を得られる。これを中分して正兵・竒兵とし、名を尺籍に登せて撫臣に隷して操練させ、年に三月を過ぎず、月に三度を過ぎず、練り終えれば農に帰らせて身を復し、年の操練のほかは別に遣わさない、と。所司に議行を命じた。
  • しかし嘉靖以後、山東・河南の民兵で薊門に戍る者はおおむね銀を徴して召募に充て、萬厯の初めには山東の徴銀は五万六千両に至り、貧民は大いに困窮した。
  • 治河の役では、給事中張貞觀がさらに土兵を募って淮・揚・徐・邳を捍がせるよう請うた。畿南に盗が起こると、給事中耿隨龍が民壯の旧制を復して専ら賊盗を捕らえさせるよう請うた。
  • 播州の乱では、工部侍郎趙可懐が土着を練るよう請い、兵部はこれにより、天下で兵のないのは蜀だけではない、各省の官軍・民壯はみな老いた者・幼い者を罷めて健卒に易え、軍操は印官に属し、操官の民操は正官・捕官に属し、郡守・監司は牽制せず、營を立て伍を分けて調発に備えるべきだと言い、前後いずれも議行された。
  • 末年には募兵と餉の調達がいよいよ急となり、南京職方郎中鄒維璉が調募の害を陳べ、山西㕘政徐九翰はとりわけ民兵を調えてはならないと極言した。
  • 崇禎のとき中原の盗が急となり、兵部尚書楊嗣昌が州縣に責めて土着を訓練し兵とするよう議したが、工部侍郎張慎言はその不便な点を数事挙げ、御史米壽圖もその害が十あると言い、民兵を簡練し民壯・快手を増して地方を備禦する方がよいとした。のち嗣昌が死ぬと練兵も行われなかった。

鄉兵

  • 鄉兵とは、その風土の得意とするところに随って応募し、調えられて軍旅の緩急を佐けるものである。
  • 軍籍に隷する者では浙兵といい、義烏を最上とし、處州がこれに次ぎ、台州・寕波がまたこれに次ぐ。狼筅を善くし、間々叉・槊を用いる。戚繼光が鴛鴦陣を作って倭を破り、薊門を守って最も名があった。また川兵といい遼兵といい、崇禎のときこれを多く調えて流賊を剿した。
  • 軍籍に隷さない者は至るところにある。河南の嵩縣には毛葫蘆といい、短兵を習い山を走るのに長ける。嵩縣および盧氏・靈寳・永寕にはまた礦兵が多く、角腦といい打手ともいう。山東には長竿手、徐州には箭手、井陘には螞螂手があり、石を運ぶのに巧みで遠く百歩に及ぶ。閩の漳州・泉州は鏢牌を習い水戦を最上とし、泉州の永春の人は技擊に長ける。正統年間、郭榮六らが沙縣・尤溪の賊を破って功があった。
  • 商竈の鹽丁は私販を業とし勁果な者が多い。成化の初め、河東の鹽徒千百輩が自ら火礮・强弩・車仗を備えて官軍に交じり冦を追い、松江の曹涇の鹽徒は嘉靖中に倭を追って島上に至りその舟を焼いた。のち倭は民家に鹺囊があるのを見ると手を振って互いに戒めたという。
  • 粤東の雜蠻・蜑は長牌・斫刀を習い、新會・東筦の産がその大半を占める。
  • 延綏・固原には辺外の土着で騎射を善くする者が多く、英宗はこれを簡練して秋防に備えさせた。大籐峽の役では韓雍がこれを用いて、猺・獞の牌刀を用いる者を摧いた。
  • 莊浪の魯家軍は旧く隨駕に隷し、洪熙の初めに土指揮に領させた。萬厯年間、部臣はその驍健が敵に畏れられるとして、鼓舞して辺用に備えるべきだと称した。
  • 西寕の馬户八百はかつて自ら騎械を備えて敵に赴いたが、のち欵貢によって裁かれた。萬厯十九年(1591年)、經畧鄭雒がその旧に復すよう請うた。
  • また僧兵には少林・伏牛・五臺がある。倭乱のとき少林の僧で応募した者は四十余人、戦えばまた多く勝った。
  • 西南の辺服には各土司の兵がある。湖南の永順・保靖の二宣慰の部下、廣西の東蘭・那地・南丹・歸順の諸狼兵、四川の酉陽・石砫の秦氏・冉氏の諸司が最も力を尽くした。末年、辺事が急になると有司はもっぱら三省の土司を調えるのを長策としたが、その利害は常に半ばしていたという。