明史卷八十一 志第三十七 食貨五

  • 本篇は錢鈔・坑冶(鐡冶・銅場を附す)・商税・市舶・馬市の五目からなる。

錢鈔――洪武の銅錢

  • 錢幣の起こりは九府の圜法にあり、歴代これを用いた。鈔は唐の飛錢、宋の交㑹、金の交鈔に始まり、元は世を通じて鈔を用い、錢はほとんど廃れた。
  • 太祖ははじめ寳源局を應天に置き、大中通寳錢を鋳て歴代の錢と併用した。四百文を一貫、四十文を一兩、四文を一錢とした。陳友諒を平らげると江西行省に貨泉局を置かせ、大中通寳錢の大小五等の錢式を頒った。
  • 即位して洪武通寳錢を頒った。その制は五等、當十・當五・當三・當二・當一である。當十錢は重さ一兩あまりで、順に下って重さ一錢に止まる。各行省にみな寳泉局を設け、寳源局とともに鋳させ、私鋳の禁を厳しくした。
  • 洪武四年(1371年)、大中・洪武通寳の大錢を改めて小錢を鋳た。もともと寳源局の錢は背に「京」の字を鋳ていたが、のちに鋳らないものが多くなり、民間では京の字のないものが通用しなかったので、小錢に改鋳して便を図ったのである。まもなく私鋳の錢は廃銅として官に送らせ、錢で償うこととした。この頃、有司は民に銅の供出を責め、民は器皿を壊して官に納め、かなりこれを苦にした。商賈は元以来の慣習で鈔を用い、錢を使うのを不便とする者が多かった。

大明寳鈔の発行

  • 七年(1374年)、帝は寳鈔提舉司を設け、翌年はじめて中書省に大明寳鈔を造らせ、民間に通行させた。桑の穰を材料とし、その形は縦一尺・横六寸、地は青色、外側に横文の花欄をめぐらせ、上部に「大明通行寳鈔」と題した。内側の上両脇にはさらに篆文八字「大明寳鈔天下通行」を置き、中央に錢貫を図し、十串を一貫とした。その下に「中書省奏凖印造大明寳鈔 與銅錢通行使用 偽造者斬 告捕者賞銀二十五兩 仍給犯人財産」と記した。五百文なら錢文を五串描き、以下同様に減らした。
  • 等級は六つ、一貫・五百文・四百文・三百文・二百文・一百文。鈔一貫は錢千文・銀一兩に相当し、四貫が黄金一兩に相当した。民間が金銀や物貨で交易することを禁じ、違反者は罪とした。金銀を鈔に換えることは許した。こうして寳源局・寳泉局を廃した。
  • 二年後、寳泉局を再置して小錢を鋳させ、鈔と併用した。百文以下は錢だけを用い、商税は錢鈔を兼ねて収め、錢三・鈔七の割合とした。
  • 十三年(1380年)、鈔が古くなって傷むため倒鈔法を立て、各地に行用庫を置いて軍民商賈が古鈔を庫に納めて新鈔に換えることを許し、工墨代を量って収めた。ちょうど中書省が廃されたので、鈔の製造を户部に、錢の鋳造を工部に属させ、寳鈔の文中の「中書省」を「戸部」に改め、旧鈔と併用した。
  • 十五年(1382年)、户部に寳鈔廣源庫・廣惠庫を置き、収入は廣源が、支出は廣惠が掌った。在外の衛所の軍士の月鹽はみな鈔で給し、各鹽場には工本鈔を給した。
  • 十八年(1385年)、天下の有司の官の祿米はみな鈔で給し、二貫五百文を米一石に当てた。
  • 二十二年(1389年)、詔して錢式を改め、生銅一斤で小錢百六十を鋳、折二錢はその半分とし、當三から當十まではこれに準じて差を設けた。さらに十文から五十文までの小鈔を造った。
  • 二十四年(1391年)、専売の税を扱う官吏に諭し、鈔に字と貫が判別できるものは破れ傷んでいても問わず受け取って京に解送させ、抑留したり偽物を混ぜたりする者は罪とした。
  • 二十五年(1392年)、寳鈔行用庫を東市に設けた。三庫あり、それぞれ鈔三萬錠を鈔本として与え、旧鈔を回収して内府に送った。大明寳鈔を歴代の錢と併用させ、鈔一貫を錢千文に当てた。提舉司は三月のうちに印造し十月には止め、造った鈔は内府に送って賞賚に充てた。
  • 翌年、行用庫を廃し、また寳泉局を廃した。当時、兩浙・江西・閩廣の民は錢を重んじ鈔を軽んじ、錢百文や十文を鈔一貫に折る者もあった。これによって物価は高騰し、法はいよいよ壊れて行われなくなった。三十年(1397年)、あらためて金銀を用いた交易の禁を申し渡した。

永樂・洪熙・宣徳

  • 成祖の初め、違反者は姦悪として論じたが、首飾りや器皿を作ることは禁じなかった。永樂二年(1404年)、詔して違反者を死罪から免じ、一家を興州に移して戍らせることとした。陜西都司僉事張豫は官鈔を換えたことに坐して江夏に戍らせられ、父の葬儀の道具を銀で調えた民が辺境の戍に当たったときは、帝は葬儀に迫られたもので法を弄んだのではないとして特に赦した。
  • 都御史陳瑛が「近年、鈔法が通じないのは朝廷が鈔を出しすぎて回収の法がなく、物が重く鈔が軽くなったからだ。しばらく戸口食鹽法を行うにしくはない。天下の人民は千萬户を下らず、官軍は二百萬家を下らない。口数を計って鈔を納めて塩を食べさせれば五千餘萬錠を収められる」と言った。帝は户部に群臣を集めて議させ、大口は月に塩一斤を食べて鈔一貫を納め、小口はその半分とし、その議に従った。
  • 北京にも寳鈔提舉司を設け、税糧・課程・贓罰をみな鈔に折って収め、その値は洪武初年の十分の一に減らした。のちには鹽官に旧鈔を納めて塩の支給を受けさせ、南京の抽分場の積薪、龍江提舉司の竹木を軍民に売ってその鈔を収め、應天で年ごとに調える蘆柴も十分の八を鈔で徴した。
  • 帝が即位した当初、户部尚書夏原吉は鈔板の篆文を「永樂」に改めることを請うたが、帝は旧のままとするよう命じ、以後、明の世を通じて洪武の年号を用いた。
  • 仁宗は監国のとき、笞杖に当たる罪を犯した者に鈔を納めさせた。即位すると鈔が通じないことを原吉に問うた。原吉は「鈔は多ければ軽く、少なければ重い。民間で鈔が通じないのは、出すのが多く収めるのが少ないからだ。法を設けて収めるべきである。市肆の門攤の諸税に軽重を量って課程を加え、鈔を官に入れ、官は傷んだものをすべて焼却する。今後、官の鈔は少なく出すようにすれば、民間で鈔を得るのが難しくなり、自然に重くなる」と言った。そこで「増した門攤の課程は、鈔法が通じたらもとに復する」と令を下し、金銀・布帛による交易もしばらく禁じた。
  • しかしこの頃、民はやはり鈔を軽んじ、宣徳の初めには米一石に鈔五十貫を用いるほどになった。そこで布帛・米麥の交易の禁を緩め、金銀で交易する者と物を隠して値を吊り上げる者は鈔で罰することとした。府縣・衛所の倉糧が十五年以上積まれている所では鹽糧をすべて鈔で収め、秋糧も三分を鈔に折った。門攤の課鈔は五倍に増し、塌房の家屋は月に鈔五百貫を納めさせ、果園と驢車にも鈔を納めさせた。
  • 户部が「民間の交易はもっぱら金銀を用い、鈔は滞って行われない」と言ったので、いっそう禁を厳しくし、銀一錢で交易した者は鈔千貫を罰し、銀一兩を受け取った贓吏は鈔萬貫を追徴し、罪を免れるための鈔も同額とした。

正統以降――銀への傾斜

  • 英宗が即位すると、賦を収めるのに米麥を銀に折る令が出て、鈔を納めさせる規定を減らし、米・銀・錢を鈔に当てさせ、銀を用いる禁を緩めた。朝野はおおむね銀を用い、小額には錢を用い、ただ官俸を折るのにだけ鈔を用いたので、鈔は滞って行われなかった。十三年(1448年)、ふたたび禁令を申し渡し、鈔を阻む者は一萬貫を追徴し一家を辺境に戍らせた。天順年間になってはじめてその禁を緩めた。
  • 憲宗は内外の課程を錢鈔兼収とし、官俸・軍餉も錢鈔を兼ねて支給させた。この頃、鈔一貫は錢一文の値もなかったのに、鈔で計って徴収するときは一貫あたり銀二分五釐を徴したので、民は大いに困窮した。
  • 𢎞治元年(1488年)、京城の税課司と順天・山東・河南の戸口食鹽はいずれも鈔で収め、各鈔関はみな錢鈔を兼ねて収めた。その後はみな銀に折って収めるようになった。洪武・永樂・宣徳の錢が積まれたまま使われていなかったので、詔してこれを放出し、歴代の錢と併用させた。户部が鋳造を請い、ふたたび局を開いて錢を鋳た。贖罪の納入や税の徴収では歴代錢と制錢を半分ずつ収め、制錢がなければ旧錢二を一に当てて収めた。制錢とは本朝の錢である。
  • 旧制では工部が鋳た錢は太倉の司鑰の二庫に入り、諸関の税錢も司鑰庫に入って、合わせて数千百萬の錢を貯え、中官がこれを掌り、京衛の軍の秋糧をここから支給した。七百文で銀一兩に当てた。
  • 武宗の初め、部臣が横領の調査を請い、また錢で俸糧に当てると銀額の三分の一にしかならないとして、承運庫から銀を給することを請うたが、中官がまさに権を用いていた時で、いずれも聴かれなかった。まもなく司鑰庫太監の龎瑮が「𢎞治年間から関税を銀に折って承運庫に入れているため錢鈔が欠乏し支給が足りない。成化の旧制に従って錢鈔を兼ねて収めたい」と言い、従われた。
  • 正徳三年(1508年)、太倉の積錢で官俸を給し、十分を率として錢一・銀九とした。また太監張永の言によって天財庫および户部・布政司庫の錢を放出し、関の徴収では七十文ごとに銀一錢を徴させ、あわせて私鋳の禁を申し渡した。
  • 嘉靖四年(1525年)、宣課分司が税を収めるにあたり、鈔一貫を銀三釐、錢七文を銀一分に折るよう令した。この頃、鈔は久しく行われず、錢も大いに滞り、いよいよもっぱら銀を用いるようになった。

嘉靖の鋳錢と錢価の混乱

  • 明初は洪武錢を鋳、成祖の九年(1411年)に永樂錢、宣徳九年(1434年)に宣徳錢、𢎞治十六年(1503年)以後に𢎞治錢を鋳た。世宗の嘉靖六年(1527年)には嘉靖錢を大いに鋳、一文の重さを一錢三分とし、あわせて歴朝で鋳られなかった分を補鋳した。三十二年(1553年)には洪武から正徳までの九つの年号錢を鋳、各号百萬錠、嘉靖錢は千萬錠とした。一錠は五千文である。
  • 税課や抽分の諸厰がもっぱら嘉靖錢を収めたので民は錢の不足に苦しみ、内庫の新旧の錢八千一百萬文を放出して俸糧に折って給した。また歴代の錢を通行させ、新旧の錢を鋳つぶす者、銅で像や器を造る者は盗鋳に準じて罰することとした。
  • これより先、民間には粗悪な錢が行われ、おおむね三、四十錢で銀一分に当たっていたが、のちにはいっそう鉛・錫を混ぜて薄く劣り形をなさず、六、七十文で銀一分に当たるまでになった。楮を切って中に挟んでも見分けがつかなかった。
  • 給事中李用敬は「制錢と前代の雑錢を併用し、上品はいずれも七文で銀一分、その他は錢の良否によって三等に分け、下は二十一文で銀一分とし、私造の粗悪な錢はことごとく禁じて行わせず、犯した者は法に処すべきだ」と言った。しかし小錢は久しく行われていたので急に廃すると民は不便を訴えた。また内庫の錢を出して文武官の俸に給したが、新旧良否を問わずすべて七文で折算し、俸錢で物を買う者もみな七文で押し通したので、民も騒然とした。折しも凶作が数年続き、四方の流民が京師に食を求め、死者が折り重なった。論者は錢法が通じないためだとした。
  • そこで御史何廷鈺が条奏して、民が小錢を六十文で銀一分に当てて用いることを許すよう請うたが、户部は承知しなかった。廷鈺は尚書方鈍および郎中劉爾牧を訐奏し、帝は怒って爾牧を斥け、廷鈺の議を採って民の便に従わせた。かつ嘉靖錢七文、洪武以下の諸錢十文、前代の錢三十文で銀一分に当てると定めた。しかし粗悪な小錢は当初の禁が厳しかったため、命令が行われても間々流通するにとどまり、ついに用いられなくなった。一方で民間は競って嘉靖通寳錢を私鋳し、官錢と並び行われた。
  • 給事中殷正茂は「兩京では銅価が甚だ高く、錢を鋳っても費用に見合わない。雲南の銅を採って岳州に運び鋳造すべきである。工本銀三十九萬を費やせば錢六萬五千萬文を得られ、銀九十三萬餘兩に相当し、国家の急を助けるに足りる」と言った。户部は覆奏して「雲南は土地が辺鄙で事も簡である。山に即して鋳るのが便宜だ」と言い、巡撫に敕して鹽課銀二萬兩を工本とさせた。まもなく巡撫王昺が「廃するものが多く入るものが少ない」として鋳造の停止を乞うたが、帝は小費を惜しむべきでないとしてなお行わせた。数年後、巡按王諍がまた鋳造の停止を言った。部議は「錢法が滞るのは、宣課司が税を収めるのに七文を一分に当てるため、姦民が機に乗じて阻むからだ。錢が多ければ粗悪なものを混ぜて欺き、錢が少なければ値を吊り上げて利を貪る。禁が繁くなるほど錢は滞る。今後は換算を民の便に任せ、文数を定める必要はない。課税と官俸はともに銀を用いよ」とし、そこで雲南の鋳錢を罷めて户部の議に従った。
  • 当時鋳られた錢には金背・火漆・鏇邉があった。鋳錢の困難と工匠の労費を理由に鏇車を廃して鑢鐋を用いたところ、鋳工は競って鉛・錫を混ぜて削りやすくし、輪郭は粗く色沢は黒ずんだ。姦偽の者がこれに倣って盗鋳が日ごとに増え、金背錢はかえって滞って行われず、死罪を日ごとに報告してもついに止められなかった。帝はこれを憂えて大學士徐階に問い、階は五つの害を陳べて寳源局の鋳錢を停め、錢で支給すべきものはすべて銀で与えるよう請うた。帝は工匠が材料を横領し工を減じた罪を糺し、鋳造を停めた。以後、税課は銀で徴して錢では徴せず、民間はただ制錢を用いて古錢を用いなくなり、私鋳する者が多くなった。

隆慶・萬厯の錢法

  • 隆慶初年、錢法が行われなかった。兵部侍郎譚綸は「民を富ませようとすれば布帛菽粟を重んじて銀を賤しくすべきで、銀を賤しくするには錢法を整えて銀の不足を補うべきである。いま錢は天下に行き渡っているのに上に納められないから、その権は市井にある。民が錢で官に納められるようにすれば錢法は自ずと通じる」と言った。そこで課税銀三兩以下はふたたび錢で収め、民間の交易は一錢以下は錢だけを用いることを許した。当時は錢八文を銀一分に折り、民が勝手に高下させることを禁じた。
  • 直𨽻巡按楊家相が年号を記さない大明通寳錢の鋳造を請うたが、部議に阻まれて行われなかった。高拱がふたたび相となって「錢法は朝に議して夕に改め、ついに定説がない。小民は今日得た錢が明日には使えないことを恐れる。だから改めるほど乱れ、禁じるほど疑う。すべて民の便に従い、制を多く設けて人の耳目を乱すな」と言い、帝は深くもっともとした。錢法はふたたびやや通じるようになった。
  • 寳鈔は用いられなくなって百餘年、課程でも鈔を収めることはまれになり、ただ俸錢だけが従来どおり鈔で支給されていた。四年(1570年)、はじめて新鋳の隆慶錢を京官の俸に給した。
  • 萬厯四年(1576年)、户部・工部の二部に命じて嘉靖の錢式に準じて萬厯通寳を鋳させた。金背および火漆錢は一文の重さ一錢二分五釐、鏇邉錢は一文の重さ一錢三分とし、天下に頒行し、俸糧はみな銀と錢を兼ねて給した。
  • 雲南巡按郭庭梧は「国初は京師に寳源局、各省に寳泉局があったが、嘉靖年間から省の局が廃されて民の用が乏しくなった。滇中は銅を産するのに鋳造を行わず、かえって高値で海□を買っている。利ではない」と言い、そこで局を開いて錢を鋳た。
  • まもなく十三布政司にみな局を開いて採らせるよう命じた。工部は「五銖錢を基準とし、四火の黄銅で金背を、二火の黄銅で火漆を鋳、粗悪なものは罪とすべきだ」と言った。費用が多く利が少なければ私鋳は自然にやむ、というのである。
  • 久しくして户部が「錢の軽重は一定せず、軽ければ収め、重ければ放出するから、滞りも欠乏も生じない。鋳造の初めは金背十文で銀一分だったが、いまは萬厯の金背五文、嘉靖の金背四文でそれぞれ銀一分になり、火漆・鏇邉も同様である。わずか十年あまりで軽重が倍近く違う。錢が重くて物価が騰貴しているから、庫の貯えを出して値を平らげるべきだ」と言い、従われた。
  • 当時、王府はみな私錢を鋳ていたが吏は摘発できず、古錢は滞って行われず、国用も足りなかった。そこで南北の寳源局に命じて場所を広げ炉を増して鋳させたが、北の錢は南の錢より値が三分の一高く、南の鋳は総じて軽薄だった。それでもそれぞれ旧に従って併行し、廃されなかった。

天啟・崇禎の錢法

  • 天啟元年(1621年)、泰昌錢を鋳た。兵部尚書王象乾が當十・當百・當千の三等の大錢を、龍文を用いて白金三品の制にならって鋳ることを請い、こうして兩京でみな大錢を鋳た。のちに大錢の弊を言う者があり、詔して南京の大錢の鋳造を停め、大錢を回収して局に発し改鋳させた。
  • この頃、局は天下に遍く開かれ、錢の利息を重く課した。崇禎元年(1628年)、南京は鋳本七萬九千餘兩で息銀三萬九千あまりを得、户部の鋳錢は息銀二萬六千あまりを得た。鋳った錢はみな五十五文で銀一錢に当てた。息を計って銀を取ったので、工匠の弁償と流通での目減りに人々は堪えられなくなった。
  • 寳泉局の銅本は四十萬兩で、旧例では錢が出来上がれば太倉に本を返し、翌年また借りていたが、ここに至って永く鋳本とするよう令した。
  • 三年(1630年)、御史饒京が「鋳錢の開局はもと天下に通行させるためだが、いまは利がないことに苦しんで開いてはすぐ罷める。南北の両局のほかは湖廣・陜西・四川・雲南および宣府・密雲の二鎮が残るだけで、しかも鋳の利は朝廷にすべて帰さず、鋳本のないことに苦しんでいる。銅を買っていて銅を採っていないからである。洪武初年および永樂九年・嘉靖六年の例に従い、官を各省に遣って錢を鋳させ、産銅の地で銅を採り、官吏を置き兵を駐め、銀鉱の法にならって十分の三を取るべきだ。銅山の利は朝廷が専らにし、小民が採ったものはなお代価を与えて買い上げよ」と言い、帝は従った。
  • この頃、鋳厰が一斉に開かれて銅を用いることが多くなり、銅の到来はかえって減った。南京户部尚書鄭三俊が専任の官を置いて銅を買うことを請い、户部は「もとから産銅の地の者を籍に付け、鎮遠・荆・常など銅と鉛の集まる所に駐めるのが、いわゆる産銅の地で銅を採るということだ」と議し、帝はいずれも従った。
  • ついで絳・孟・垣曲・聞喜の諸州縣で銅・鉛を採った。荆州抽分主事の朱大受は「荆州は上は黔・蜀に接し、下は江・廣に連なり、銅鉛の商販がことごとく集まる。一年に四度鋳造でき、四度の鋳の利は南の二倍、北の三倍になる」と言い、便宜四事を陳べたので、大受にこれを専督させた。
  • そこで錢式を定め、一文の重さ一錢、千文で銀一兩とした。南都の錢は軽薄で、しばしば旨を下して厳しく戒め、一文の重さを八分と定めた。
  • 当初は嘉靖錢が最も精巧で、隆慶・萬厯の錢はさらに半銖重かった。天啟・崇禎の新鋳が出ると旧錢はことごとく打ち捨てられたが、日ごとに粗悪で薄くなり、大半に鉛と砂が混じり、百枚重ねても一寸に満たず、投げつければ砕けた。末年に當五錢の鋳造を敕したが、鋳るに至らずして明は亡んだ。
  • 当初の制では歴代の錢と制錢は併用されていたが、神宗の初めに僉都御史龎尚鵬の議に従って、古錢は民間で行うことだけを許し、納税と贖罪はいずれも制錢を用いることとした。天啟・崇禎の頃に錢を広く鋳るようになると、古錢を掻き集めて廃銅に充てはじめ、民間の売買でも古錢は排斥されて用いられなくなった。
  • 莊烈帝が即位した当初、平臺で召対したとき、給事中黄承昊の疏に古錢を鋳つぶすという語があった。大學士劉鴻訓は「北方はみな古錢を用いている。急に廃すれば民に不便である」と言い、帝も常々そう思っていた。ところがのちに御史王燮の言によって旧錢を回収して鋳つぶし新錢だけを行わせたので、古錢は焼き尽くされた。隋のとき古錢を鋳尽くして以来、これが再度の出来事だという。
  • 鈔法は𢎞治・正徳の頃から廃れた。天啟年間に給事中惠世揚がふたたび造行を請い、崇禎末には蔣臣という者がその説を敷衍して户部司務に抜擢され、部を掌っていた倪元璐が力を入れて主張したが、結局行われ得ずに終わった。

坑冶――金銀鉱の弊

  • 坑冶の課は金・銀・銅・鐵・鉛・汞・硃砂・青緑である。なかでも金銀の鉱は最も民の害となった。
  • 徐達が山東を下したとき、近臣が銀場を開くことを請うたが、太祖は「銀場の弊は官の利は少なく民の損は多い。開いてはならない」と言った。のちに陝州の銀鉱を開くことを請う者があると、帝は「土地の産するものには限りがあるのに、年ごとの課は額が定まり、際限なく銀を徴する。利を言う臣はみな民を害する賊だ」と言った。臨淄の丞が山海の蔵を発いて財源を通じることを乞うと、帝はこれを退けた。成祖は河池の民で採鉱を言う者を斥け、仁宗・宣宗の代も引き続き禁止し、番禺の坑洞を埋め、嵩縣白泥溝を罷めた。
  • しかし福建尤溪縣の銀屏山では錫場局・爐局四十二座が洪武末年に始まっており、浙江の温・處・麗水・平陽など七縣にも場局があって、年課はいずれも二千餘兩だった。
  • 永樂年間には陝州商縣の鳯皇山に銀坑八所を開き、官を湖廣・貴州に遣って金銀の課を採らせ、さらに中官と御史を遣ってこれを検分させた。また福建浦城縣の馬鞍などの坑三所を開き、貴州太平溪、交阯宣光鎮の金場局、葛溪の銀場局、雲南大理の銀冶を設けた。金銀を産しない所も廃止されることがしばしばあったが、福建の年額は三萬餘兩に増え、浙江は八萬餘に増えた。宣宗の初めに福建の課をやや減らしたが、その後四萬餘に増え、浙江も九萬餘に増えた。
  • 英宗は詔を下して坑穴を封じ閘辦を撤し、官民は大いに息をついたが、年額は除かれなかった。嵗辦はみな洪武以来の旧額、閘辦は永樂・宣徳に新たに増したものである。
  • やがて永煎を禁じ廃したところ、姦民が私かに坑穴を開いて殺し合い、厳禁しても止まず、詔して赦しても改まらなかった。言者がふたたび銀場を開けば利は上に帰し盗む者も居場所を失うと請い、侍郎王質を遣って経理させ、年課を福建は銀二萬餘、浙江はその倍と定めた。また御史曹祥・馮傑を分遣して提督させたが、供応が過ぎて公の税は民を困らせ、盗はいよいよ増えた。鄧茂七・葉宗留の徒が浙・閩に害毒を流し、久しくしてようやく鎮まった。
  • 景帝はかつて封鎖したが、ほどなく鉱を盗む者が多いため、兵部尚書孫原貞が浙江の銀場を開き、あわせて福建も開いて、中官戴細保に提督させた。
  • 天順四年(1460年)、中官の羅永を浙江に、羅珪を雲南に、馮讓を福建に、何能を四川に遣った。課額は浙・閩はおおむね旧のごとく、雲南は十萬兩あまり、四川は一萬三千あまり、総計十八萬三千あまりだった。
  • 成化年間、湖廣の銀場を武陵など十二縣に開き、全部で二十一場、年に民夫五十五萬を役し、死者は数知れなかったが、得た金はわずか五十三兩。そこでふたたび閉じた。浙江の銀鉱も額が欠けたため量って減らし、雲南は開いては停める繰り返しだった。
  • 𢎞治元年(1488年)、はじめて雲南を二萬兩、温・處を萬兩に減じ、残りは浦城の廃坑の銀冶を罷めた。十三年(1500年)、雲南巡撫李士實が「雲南の九場のうち銀の四場は鉱脈が久しく絶えている」としてその課の免除を乞い、認められた。四川・山東の鉱穴も前後して封鎖された。
  • 武宗の初め、中官秦文らの奏によって浙・閩の銀鉱をふたたび開いた。まもなく浙江の守臣が「鉱脈はすでに絶えた」と言ったので、年に銀二萬兩を進めさせることとし、劉瑾が誅されてようやく止んだ。
  • 世宗の初め、大理の礦場を閉じた。その後、薊・豫・齊・晉・川・滇の各地から鉱砂・金銀が進められ、大工事を助けるために採鉱の再開が議された。玉旺峪の礦銀を得ると、帝は閣臣に諭して広く採らせ、户部尚書方鈍らは四川・山東・河南の撫按に属所を厳しく督して一つ一つ探させ、天地の降した瑞祥に応えるよう請うた。こうして公私こぞって鉱の利に走り、浙江・江西では鉱を盗む者が徽・寧を劫掠するに至り、天下は次第に多事となった。
  • 隆慶の初め、薊鎮の採鉱を罷め、開かれていた南中の諸鉱も石に刻んで禁止した。

萬厯の礦税

  • 萬厯十二年(1584年)、姦民がしばしば鉱の利で上の心を得ようとしたが、諸臣が力を尽くしてその弊を陳べ、帝は従ったものの不満であった。
  • 二十四年(1596年)、張位が政を執っていたとき、前衛の千户仲春が採鉱を請い、位は止められなかった。採鉱の端が開かれると、失職の武弁や無頼の徒で鉱や銅を献じる者が日ごとに至り、こうして開かれない土地はなくなり、中使が四方に出た。
  • 昌平は王忠、真保・薊永・房山・蔚州は王虎、昌黎は田進。
  • 河東の開封・彰徳・衛輝・懐慶・葉縣・信陽は魯坤。
  • 山東の濟南・青州・濟寧・沂州・滕・費・蓬萊・福山・棲霞・招逺・文登は陳增。
  • 山西の太原・平陽・潞安は張忠。
  • 南直の寧國・池州は郝隆・劉朝用。
  • 湖廣の徳安は陳奉。
  • 浙江の杭・嚴・金・衢・孝豐・諸暨は曹金(のち劉忠が代わった)。
  • 陜西の西安は趙鑒・趙欽。四川は邱乘雲。遼東は高淮。廣東は李敬。廣西は沈永夀。江西は潘相。福建は高寀。雲南は楊榮。
  • いずれも関防を与え、あわせて最初に奏請した官も同行させた。鉱脈は細く得るものがないと、民に弁償させた。姦人は採鉱の名を借り、駅伝を用いて民の財をほしいままに取り立て、州縣を踏みにじった。民を憐れむ有司は妨害の罪に問われて逮問・罷黜された。
  • 当時、中官の多くが横暴だったが陳奉がとりわけひどく、富家や大族には鉱を盗んだと誣告し、良田美宅は「下に鉱脈がある」と指し、人を率いて取り囲んで捕らえ、辱めは婦女にまで及び、はては人の手足を断って川に投げ込んだ。その酷虐はこのとおりだったが、帝は放任して問わなかった。二十五年(1597年)から三十三年(1605年)まで、諸々の宦官が進めた礦税銀はほぼ三百萬兩に及んだ。小人どもは勢いを借りて誅求し、その数倍を取り立てたので、民は生きるすべを失った。
  • 雲南巡撫魏允貞が上言した。「いま水旱の災を告げ、天が鳴り地が震え、星が流れ気が射すことを四方が日ごとに報じている。中外は軍事を起こして百姓は疲れ果てているのに、利を貪る小人が採鉱にかこつけて貪り食っている。もし内から釁が起これば、鉱夫や冗役が禍をなすことはとりわけ激しかろう。そうなってから珠を投げ璧を捨てる説を用いても遅い」。
  • 河南巡按姚思仁もまた「採鉱の弊で大いに憂うべきものが八つある」と言った。鉱の盗が徒党を組んで集まり乱を招きやすいのが一、鉱頭が積み重なる負担に窮して土崩の勢いをなすのが二、鉱夫が残害され逼迫されて流亡するのが三、雇った民の糧が欠けて飢えて騒ぎ立てるのが四、鉱洞をあまねく開いて益なく浪費するのが五、鉱砂に銀が少ないので民に強制的に買わせるのが六、民がみな鉱を開いて農桑の業を失うのが七、奏官が横暴で刑を濫用し変を激発するのが八である。「いま鉱頭は弁償の重なりで死に、平民は強制的な買い取りで死に、鉱夫は崩落で死に、争闘で死ぬ。いま止めなければ、府庫の蔵を傾け天下の力を尽くしても存亡には何の助けにもならない」。疏を上ったが、いずれも顧みられなかった。識者は明の滅亡はここに兆したと考えた。

鐵冶所

  • 鐵冶所は洪武六年(1373年)に置いた。江西の進賢・新喻・分宜、湖廣の興國・黄梅、山東の萊蕪、廣東の陽山、陜西の鞏昌、山西の吉州二か所と太原・澤・潞に各一つ、合わせて十三所である。年に鐵七百四十六萬餘斤を輸した。河南・四川にも鐵冶があった。
  • 十四年(1381年)、茶陵を加えた。十五年(1382年)、廣平の吏の王允道が「磁州は鐵を産し、元のとき官を置いて年に百餘萬斤を収めた。旧に復したい」と言ったが、帝は民生がようやく落ち着いたばかりで、再置すれば必ず大きな煩わしさになるとして、杖を加えて海外に流した。
  • 十八年(1385年)、各布政司の鐵冶を罷めた。まもなく工部が「山西交城は雲子鐵を産し、旧は十萬斤を貢して兵器を修理していた。他所にはない」と言ったのでふたたび設け、やがて武昌・吉州も順次復した。末年、工部の言によってすべて開き、民が自ら採り錬えることを許し、三十分の二を取ることとした。
  • 永樂年間、四川龍州と遼東都司三萬衛に鐵冶を設けた。景帝の代、辦事の吏が陜西寧逺の鐵礦の再開を請い、工部が違法として弾劾して獄に下したが、給事中張文質が言路を塞ぐべきでないとし、釈された。
  • 𢎞治十七年(1504年)、廣東歸善縣が鐵冶を開くことを請うたが、有司が課のほかに賄賂を求めたため、唐大鬢らが乱を起こし、都御史劉大夏が討ち平らげた。
  • 正徳十四年(1519年)、廣州に鐵厰を置き、鹽課提舉司に領させ、私販を鹽法と同じく禁じた。嘉靖三十四年(1555年)、建寧・延平の諸府の鐵冶を開いた。隆慶・萬厯以後はおおむね旧制に従い、特に開くことはなかった。

銅場・水銀・青緑

  • 銅場は明の時代には江西の徳興・鉛山だけであった。その後、四川の梁山、山西の五臺、陜西の寧𦍑・畧陽および雲南でみな採った。
  • 水銀と青緑については、太祖のとき亷州の巡檢が「州境の西戎に水銀の坑冶および青緑・紫泥がある。兵を得てその地を取りたい」と言ったが、帝は許さなかった。ただ貴州大萬山長官司に水銀・硃砂の場局があり、四川東川府の㑹川衛の山は青銀・銅緑を産したが、外番と境を接するため軍民がひそかに採って事を起こすことを憂え、特に禁じ戒めた。
  • 成化十七年(1481年)、雲南路南州の銅坑を封鎖した。𢎞治十八年(1505年)、板坑の水銀場局を裁革した。正徳九年(1514年)、軍士の周達が雲南路南の諸銀鉱を開くことを請い、あわせて銅・錫・青緑にも及び、詔して認められ、順次開採された。嘉靖・隆慶・萬厯の間は鋳造のためにしばしば雲南の諸所の銅場を開いたが、久しくして得るものは次第に少なくなり、崇禎の頃には古錢を掻き集めて炉冶に供するに至った。

商税――制度の大要

  • 関市の徴収は宋元ではかなり煩瑣だったが、明初は簡約に努めた。その後、次第に増置された。行商も定住の商も、通る所・止まる所それぞれに税があり、その品目を細かく分けて官署に掲示し、これに照らして徴収した。ただ農具・書籍およびその他、市で売らないものは算えなかった。徴収すべきなのに隠した者はその半分を没収した。田宅や家畜を売買するときは必ず契本を投じ、別に紙価を納めさせた。すべて税を納める土地には店厯を置き、止まった商民の名と品目・数量を記した。
  • 官司には都税があり、宣課があり、司・局・分司・抽分場局・河泊所があった。収める税課には本色と折色があった。税課司局は京城の諸門および各府州縣の市集に多くあり、全部で四百餘所あったが、のちに順次十分の七を裁併した。
  • 抽分および南京にあるものは龍江・大勝港、北京にあるものは通州・白河・盧溝・通積・廣積、外にあるものは真定・杭州・荆州・太平・蘭州・廣寧。また軍衛にも自ら場を設けて柴薪を収め貯えさせた。河泊所は大河以南にだけあり、河北では鹽山縣だけであった。
  • 税課は商賈の物貨に徴し、抽分は竹木・柴薪に科し、河泊は魚課を取った。また門攤の課鈔があり、有司が領した。

洪武・永樂の商税

  • 太祖ははじめ酒醋の税を徴し、官店錢を収めた。呉王の位に即くと官店錢の徴収を減らし、在京の官店を宣課司、府縣の官店を通課司と改めた。商税は三十分の一を取り、これを過ぎる者は令に違えたとして論じた。
  • 洪武初年、在京の兵馬指揮に市司を領させ、三日に一度、街市の度量衡を検査し、牙儈の物価を調べさせた。外の城門の兵馬にも市司を兼領させた。
  • 彰徳の税課司が蔬果・飲食・畜牧の諸物にまで税を課したので、帝はこれを聞いて退けた。山西平逺の主簿成樂が任期満了で来朝したとき、その考課に「よく商税を拡げて徴収した」とあった。帝は「税には定額がある。拡げて徴収するのを有能とするなら、それは下民を搾取して吏の職を失うことだ。州の考課は誤りである」と言い、吏部に文を移して糺させた。
  • 十年(1377年)、户部が「天下の税課司局で額に達しない所が百七、八十か所ある」と奏したので、中官・国子生および部の委官を各一人ずつ遣って実地を検分させ、定額を立てた。十三年(1380年)、户部が「税課司局で年に収める額米が五百石に満たない所が三百六十四か所ある。罷めるべきだ」と言い、認められた。
  • 胡帷庸が誅されると、帝は户部に諭して「かつて姦臣が斂め集め、税は細々としたものにまで及んだ。朕は甚だ恥じている。今後、軍民の嫁娶・喪祭の物、舟車・絲布の類はみな課税するな」と言い、天下の抽分竹木場を罷めた。翌年、野獣の皮を魚課として納めさせ、裘を作って辺卒に給した。
  • 当初、京師の軍民の住居はみな官が与えたもので、家々の間に空き地がなく、商貨は舟に置いたまま、あるいは城外に貯えるほかなく、仲買人が値を上下させて商人が困った。そこで帝は三山の諸門外の水辺に建物を作らせ、塌房と名づけて商貨を貯えさせた。
  • 永樂初年に制を定め、嫁娶・喪祭・時節の礼物、自ら織った布帛、農器、食品、および税を納め済みの物を買った場合、車船で運んだ済みの貨物、魚・蔬・雑果で市販でないものは、いずれも免税とした。南京の例にならって京城に官店・塌房を置いた。七年(1409年)、御史・監生を遣って課を収める所ごとに課程を扱わせた。
  • 二十一年(1423年)、山東巡按の陳濟が「淮安・濟寧・東昌・臨清・徳州・直沽は商販の集まる所で、京都北平の百貨は往時の倍である。その商税は人を遣って一年監督徴収させ、定額とすべきだ」と言い、帝は従った。

鈔關の設置と正統・景泰

  • 洪熙元年(1425年)、市肆の門攤の課鈔を増した。宣徳四年(1429年)、鈔法が通じないのは商が居ながらに商って課税されないためだとして、京・省の商賈が集まる地の市鎮・店肆の門攤税課を従来の五倍に増した。兩京の蔬果園には課さなかったが、官私に植えて売る者、塌房・庫房・店舎に商貨を置く者、騾・驢・車を雇われて荷を積む者にはすべて鈔を納めさせ、御史・户部・錦衣衛・兵馬司の官各一人を城門に委ねて検査・徴収させた。舟船を雇われて荷を積む者は積荷の多寡と道のりの遠近を計って鈔を納めさせた。鈔關の設置はここに始まる。勢いを頼んで隠して申告しない者は、物をすべて没官しさらに罪とした。
  • こうして漷縣・濟寧・徐州・淮安・揚州・上新河・滸墅・九江・金沙洲・臨清・北新の諸鈔關が置かれ、舟の大小・広狭を量ってその額に差をつけ、これを船料といい、その貨物には課税しなかった。ただ臨清・北新だけは貨税も兼ねて収め、それぞれ御史および户部主事を遣って監収させた。
  • 南京から通州まで、淮安・濟寧・徐州・臨清を経る間、船百料ごとに鈔百貫を納めさせた。侍郎曹𢎞が「塌房の月鈔五百貫は甚だ苦しく、子女を売って課を納める者がある」と言い、帝は免除させた。鈔法が通じるようになると、北京の蔬地の課鈔を半分に減じ、船料の百貫は六十貫に減じた。
  • 正統初年、詔して課程・門攤はみな洪武の旧額に従い、鈔法を口実にみだりに増してはならないとした。まもなく兵部侍郎于謙の奏によって直省の税課司局を廃してその税を有司に領させ、濟寧・徐州および南京上新河の船料鈔を罷め、漷縣の鈔關を河西務に移し、船料が六、七十貫だったものを二十貫に減らしたので、商民は便利とした。
  • 九年(1444年)、王佐が户部を掌り、彰義門に官房を置いて商税課鈔を収め、また直省の税課司の官を再置したので、徴収は次第に繁くなった。
  • 景泰元年(1450年)、于謙が国政を執り、船料を十五貫に減じ、張家灣および遼陽の課税を半減した。大理卿薛瑄が「抽分の薪炭などを隠して申告しない者を、舶商が番貨を隠した罪に準じてすべて没収するのは重すぎる。隠税の律に比するべきだ」と言い、帝は従った。

成化から嘉靖へ

  • 成化七年(1471年)、蕪湖・荆州・杭州の三か所に工部の官を増置した。当初、竹木の抽分は鈔だけを取っていたが、のちに銀に改め、ここに至って次第に数萬兩に増え、まもなく御史を遣って徴税させた。
  • 孝宗の初め、御史陳瑶が「崇文門の監税官は搾取を有能とし、国体にそぐわない」と言い、そこで客貨のほかは車輌を捜索して止めてはならないと命じた。また給事中王敞の言によって蕪湖・荆州・杭州の抽分御史を召し返し、府州の佐貳官に税を監収させた。十三年(1500年)、ふたたび御史を遣った。
  • 正徳十一年(1516年)、はじめて泰山碧霞元君祠の香錢を収めた。鎮守太監の言によるものである。十二年(1517年)、御史胡文静が新設の諸抽分厰の廃止を請うたが、一年たたぬうちに太監鄭璽が順徳・廣平への再設を請い、工部尚書李鐩が曖昧に両端を持したため、横暴な徴収の端がふたたび起こった。まもなく中官の李文・馬俊を湖廣・浙江の抽分厰に遣り、主事と分け合って徴税させた。
  • 世宗の初め、抽分の中官および江西・福建・廣東の税課司局を多く裁革し、また真定の諸府の抽印木植の中官と京城九門の税を廃した。
  • 𢎞治初年には年に鈔六十六萬餘貫・錢二百八十八萬餘文が入ったが、末年には数が大きく減った。正徳七年以後、鈔は四倍に増え、錢は三十萬増えた。嘉靖三年(1524年)、詔して𢎞治初年の例のようにし、さらに錢三十萬を減じた。
  • 直省の関税は成化以来、銀に折って収めていたが、その後ふたたび錢鈔で収め、八年(1529年)にまた銀に戻して定制とした。
  • 当初、鈔關は船料を見積もって税を定めていたが、料を見積もるのが難しいため、梁頭の広狭を基準とし、五尺から三尺・六尺まで差を設けた。帝は成尺を限りとし端数を科さないよう令した。
  • 太監李能が山海關での商税徴収を請い、数年行われたが、主事の鄔閲が「廣寧八里舖と前屯衛にすでに徴税場があり、重ねて徴すべきでない」と言って罷めた。その後、山海關の税を復し、八里舖の店錢を罷めた。
  • 四十二年(1563年)、各関に年額の定数のほかの余剰はすべて公帑に入れるよう令した。隆慶二年(1568年)、はじめて鈔關主事に関防と敕書を与えた。まもなく、鈔關が府に近い所は知府が収めて解送し、府から遠い所は佐貳官に府庫へ収め貯えさせ、季ごとに部に解送させ、主事は商が申告した物数を照合して税額を定めるだけとし、収めて解送する所を持たないこととした。
  • 神宗の初め、商貨を京に運ぶ者には河西務で紅單を与え、崇文門に行って正税・条税・船税の三税を併せて納めさせ、京に入らない者は河西務で正税だけを収めて条税・船税の二税を免じた。萬厯十一年(1583年)、天下で私に設けた名目の税課を廃した。しかし隆慶以来、橋梁・道路・関津で私かに徴税して利を貪り民を苦しめることは、詔をたびたび下して調査しても除けなかった。

萬厯の税監

  • 両宮三殿が焼け、造営の費用が莫大になると、はじめて採鉱と増税が行われた。天津の店租、廣州の珠の専売、兩淮の餘鹽、京口の供用、浙江の市舶、成都の鹽茶、重慶の名木、湖口の長江船税、荆州の店税、寳坻の魚葦および門攤の商税、油布の雑税――中官は天下に遍く、税を領さなければ鉱を領し、官吏を駆り立て脅して搾取に努めた。
  • 徴税の使は、二十六年(1598年)に千户の趙承勛が奏請したことに始まる。高寀は京口、暨祿は儀真、劉成は浙、李鳯は廣州、陳奉は荆州、馬堂は臨清、陳增は東昌、孫隆は蘇杭、魯坤は河南、孫朝は山西、邱乘雲は四川、梁永は陜西、李道は湖口、王忠は宻雲、張□は盧溝橋、沈永夀は廣西。あるいは市舶を徴し、あるいは店税を徴し、あるいは専ら税務を領し、あるいは採鉱を兼領した。
  • 姦民が中官に賄賂を納めれば指揮・千户の劄を与えられて手先とされ、水陸で数十里も行けばすぐ旗を立て厰を建て、商賈の弱い者を見ればほしいままに奪ってその全財産を没収し、背負い担いで行く者まで捜索された。また土商という名目を立て、辺鄙な村里の米・鹽・鶏・豕にまで税を納めさせた。行く先々でしばしば民変を招いたが、帝はおおむね庇って問わなかった。
  • 進める税は、あるいは遣税と称し、あるいは節省銀と称し、あるいは罰贖と称し、あるいは額外の贏餘と称した。また買辦・孝順の名を借りて金珠・寳玩・貂皮・名馬を雑然と進め、帝は有能とした。はては税監の劉成が災荒のため商税をしばらく緩めることを請うたのに、中旨でなお課四萬を徴させた。利を好むことはこのとおりであった。
  • 三十三年(1605年)、はじめて詔して採鉱を罷め、税務を有司に帰したが、税使は撤収しなかった。李道は「有司が頑なに拒む」と偽って従来どおりを乞い、帝はたちまち従った。また福府承奉の謝文銓が崇文門外に官店を設けて福邸に供することを聴し、户部尚書趙世卿がたびたび疏したが聴かれなかった。
  • 世卿はさらに言った。「崇文門・河西務・臨清・九江・滸墅・揚州・北新・淮安の各鈔關の税は本色・折色合わせておよそ三十二萬五千餘兩、萬厯二十五年(1597年)に銀八萬二千兩を増したのが定額である。ところが二十七年(1599年)以後、税は減り続け、二十九年(1601年)には総解が二十六萬六千餘兩になった。その理由を突き詰めれば、税使の苛斂によって来る商が少ないからだ。近年、税使が供したのはまさにこの各関の不足分にほかならない」。疏を上ったが顧みられなかった。
  • 寳坻の銀魚厰は永樂の頃に設けられ、穆宗の代には値を見積もって廟の祭祀と上供に備えるだけとしていたが、ここに至ってはじめて中官が居据わって採り、さらにその税を徴した。のちには武清など魚を産しない縣まで課し、葦網の諸税を増し、青縣・天津にまで及んだ。九門の税はとりわけ苛烈で、科挙の受験者も免れず、はては朝覲の吏を撃ち殺すに至った。事が聞こえて法司に処断させ、宦官どもは少しばかり収まった。
  • 四十二年(1614年)、李太后の遺詔によって天下の税額を三分の一減じ、近年の端数の小税を免じた。光宗が立つと、はじめて天下の額外の税をことごとく免じ、税監を撤回した。地畝・行户・人丁・間架に割り当てられたものも一律に免じた。

天啟・崇禎の商税

  • 天啟五年(1625年)、户部尚書李起元が水陸の要衝でふたたび徴税し、萬厯二十七、八年の例によって十分の一を量って徴することを請い、許された。
  • 崇禎初年、関税を一兩につき一錢増し、八関合わせて五萬兩を増した。三年(1630年)にはさらに二錢増したが、臨清だけは半分にとどめ、崇文門・河西務はともに旧のままとした。
  • 户部尚書畢自嚴が南京宣課司の税額を一萬から三萬に増すことを議したところ、南京户部尚書鄭三俊は宣課司が収める落地税はわずかだとして、蕪湖に課税して増額分に当てることを請うた。自嚴はそこで蕪湖に三萬兩を課すことを議し、宣課司にもなお一萬を増した。三俊は悔いて疏し争ったが止められなかった。
  • 九年(1636年)、ふたたび税課の款項を増すことを議し、十三年(1640年)には関税二十萬兩を増したので、商民はいよいよ困窮した。
  • およそ諸々の課程は、はじめは鈔で収め、間には米に折って収め、のちに錢と鈔を半々で収め、さらに後には銀に折って収めた。折色と本色は年ごとに交替で収め、本色は内庫に、折色は太倉に帰した。

市舶

  • 明初は東に馬市があり西に茶市があって、いずれも辺境を御して守備の費用を省くためであった。海外の諸国が入貢するときは、方物を積んで来て中国と貿易することを許し、そのために市舶司を設け提舉官を置いて領させた。夷情を通じ、姦商を抑え、法禁を施す所を得させ、それによって釁隙を消すためである。
  • 洪武初年、太常・黄渡などに設けたが罷め、ふたたび寧波・泉州・廣州に設けた。寧波は日本に、泉州は琉球に、廣州は占城・暹羅・西洋の諸国に通じた。琉球・占城の諸国はみな恭順で、その時々に来るに任せ、日ごとに貢したが、日夲だけは叛服が定まらなかったので、独りその期を十年に限り、人数を二百、舟を二艘に限り、金葉の勘合と表文をもって検証し、偽りや侵犯を防いだ。
  • のち市舶司はしばらく廃してはすぐ復し、沿海の住民および守備の将卒が私かに海外の諸国と通じることを厳禁した。
  • 永樂初年、西洋剌泥國の回回である哈只馬哈没奇らが来朝し、胡椒を積んできて民と交易した。有司がその税の徴収を請うと、帝は「商税とは国家が末業の民を抑え退けるためのものである。どうして利を得るためであろうか。いま夷人が義を慕って遠来したのに、その利を侵しては、得るところはいかほどもなく、大体を損ない辱めることの方が多い」と言い、聴かなかった。
  • 三年(1405年)、諸番の貢使が増えたので、福建・浙江・廣東の三市舶司に駅を置いて宿らせた。福建は來逺、浙江は安逺、廣東は懷逺という。まもなく交阯・雲南に市舶提舉司を設け、西南諸国の朝貢を受けた。
  • 当初は貢の海舟が着くと有司が封印して奏報を待ち、しかるのちに運送していたが、宣宗は到着次第すぐ奏し、報せを待たずに京へ送り届けるよう命じた。
  • 武宗の代、提舉市舶太監の畢真が「旧制では泛海の諸船はみな市舶司が専ら管掌したが、近ごろは鎮巡および三司の官が領している。旧に復するのが便宜である」と言った。禮部は「市舶の職掌は進貢の方物であって、泛海の客商および風で流された番船は敕旨に載る所ではなく、例として関与すべきでない」と議したが、中旨で熊宣の旧例のとおり行わせた。宣は先任の市舶太監である。かつて滿剌加の諸国の番舶の抽分に関与できないとして兼理を奏請し、禮部に弾劾されて罷められた者だが、劉瑾が真に私して誤って先例としたのだという。
  • 嘉靖二年(1523年)、日夲の使者の宗設と宋素卿が道を分けて入貢し、互いに真偽を争った。市舶中官の頼恩が素卿の賄を受けて素卿に味方したので、宗設はついに寧波を大いに掠奪した。給事中夏言が「倭患は市舶から起こる」と言い、そこで市舶を罷めた。
  • 市舶が罷められると、日本の海商は自在に往来し、海上の姦豪がこれと通じたので法禁の施しようがなく、転じて寇賊となった。
  • 二十六年(1547年)、倭寇の百艘が久しく寧・台に泊まり、数千人が上陸して焼き掠めた。浙江巡撫朱紈は、船主がみな貴官・大姓で、番貨を買うのにみな虚偽の値をつけて転売して利を貪り、しかも代金を時に応じて払わないためにこの乱が構えられたと知り、海禁を厳しくし大船を焼き払い、大姓を戒める諭を刻むよう奏請したが、報じられなかった。
  • 二十八年(1549年)、紈はさらに「長澳の諸大侠の林恭らが夷舟を引き入れて乱をなし、大姦がこれと通じて利を射んと嚮導となり、我が海浜を踏みにじっている。正しく刑に処すべきだ」と言った。部は覆奏して許さなかったが、紈は番と通じた大悪人を独断で誅した。御史陳九徳が「紈の処置は道理に外れ、専殺して釁を開いた」と弾劾し、帝は紈を逮えて取り調べさせた。紈が退けられると姦徒はいよいよ憚る所がなくなり、外と交わり内で訌り、禍患が醸された。汪直・徐海・陳東・麻葉らが起こり、海上に安寧の日はなくなった。
  • 三十五年(1556年)、倭寇が福建・浙直を大いに掠め、都御史胡宗憲は食客の蔣洲・陳可願を倭に遣って宣諭させた。復命では倭が貢市を通じることを望んでいたが、兵部の議で不可とされ、沙汰やみとなった。
  • 三十九年(1560年)、鳳陽廵撫唐順之が三市舶司の再置を議し、部議も従った。四十四年(1565年)、浙江は巡撫劉畿の言によってなお罷め、福建は開いてはまた禁じられた。萬厯年間にふたたび福建の互市を通じ、ただ硝黄の売買だけを禁じた。まもなく二つの市舶司はすべて復し、従来どおり中官が職を領した。

馬市

  • 永樂年間に馬市を三つ設けた。一つは開原南關で海西を待ち、一つは開原城東五里、一つは廣寧で、いずれも三衛を待った。値を四等に定め、上等は絹八疋・布十二、次はその半分、下の二等はそれぞれ一を減じていった。まもなく城東と廣寧の市はともに廃され、開原南關の馬市だけが残った。
  • 大同の馬市は正統三年(1438年)に始まる。巡撫盧睿が軍民に平価で駝馬を市うことを請い、達官の指揮李原らに言葉を通訳させ、兵器・銅鉄の売買を禁じ、帝は従った。
  • 十四年(1449年)、都御史沈固が山西行都司の庫銀を出して馬を買うことを請うた。折しも也先が馬を貢して互市したとき、中官の王振がその馬価を値切ったため、也先が大挙して侵入し、ついに土木の変を招いた。
  • 成化十四年(1478年)、陳鉞が遼東を撫し、三衛の馬市を再開した。通事の劉海・姚安がほしいままに搾取したので諸部は怨みを抱き、廣寧を騒がせて市に来なくなった。兵部侍郎王越が参將と布政司の官各一員に監督させて搾取させないよう請い、海・安の二人を処罰した。まもなく海西および三衛が市に入るのを、開原は月に一度、廣寧は月に二度と定め、互市の税を撫賞に充てた。
  • 正徳の頃、市に入る者を検分して通し、期日どおり境を出させ、弓矢を帯びさせず、互市の日でなければ塞の垣に近づかせないこととした。
  • 嘉靖三十年(1551年)、總兵仇鸞の言によって宣府・大同に馬市を開くよう詔し、侍郎史道に総理させた。兵部員外郎の楊繼盛が諫めたが従われず、ほどなく侵入を受けた。大同の市を掠めれば宣府を寇し、宣府の市を掠めれば大同を寇し、幣がまだ境を出ないうちに警報が届いた。帝ははじめて悔い、道を召し還した。しかし諸部は馬市の利を好んで大挙を公言しようとせず、辺臣もまた多くは畏れ憚って互市で懐柔した。翌年、大同の馬市を罷めたが宣府はなお絶やさず、掠奪がやまなかったのでともに絶った。
  • 隆慶四年(1570年)、孫の把が降ってきた。そこで封貢・互市の議が起こり、宣府・大同の互市がふたたび開かれて辺境はやや静まった。しかし撫賞は甚だ厚く、朝廷は客兵の餉を省くため哨銀を減らしてこれに充てたが、毎年賞を加えるほど要求はいっそう激しくなり、事に当たる者もまた中間で着服したので、辺境の費用はかえって過大になった。
  • 遼東義州の木市は萬厯二十三年(1595年)に開かれた。事は李化龍の伝に詳しい。二十六年(1598年)、巡撫張思忠の奏によって罷め、あわせて馬市も罷めた。その後、總兵李成梁が力めて再開を請い、薊遼總督の萬世徳もまた朝廷に疏した。三十九年(1611年)、馬市・木市の二市をふたたび開き、以後これを常とした。