明史卷七十七 志第五十三 食貨一

序――明一代の理財の得失

  • 財は地から取り、その方法は天に取る、と『記』はいう。国を富ませる根本は農業と養蚕にある。明の初めは元の制度を引き継いで銭が流通せず鈔(紙幣)を用い、さらに民間で銀を用いた取引を禁じた。一見民に不便な仕組みだが、洪武・永楽・洪熙・宣徳のころは民が豊かで官の蔵も満ちあふれていた。
  • それは、農を勧めて開墾に努め、荒れ地を残さず民が本業に励んだうえ、屯田を開き中塩の法によって辺境の軍を養い、兵糧を中央官庁の輸送に頼らずに済んだからである。上下ともに足り、軍も民もゆとりがあった。
  • その後、屯田は有力者の兼併によって壊れ、財政担当の臣が塩法を変えたため、辺境の兵はすべて太倉の米に頼るようになり、輸送はしばしば追いつかなくなった。
  • 世宗(嘉靖帝)以後は財を浪費する道が広がり、国庫は底をついた。神宗(万暦帝)はそこで賦を加え、税を重くし、鉱税の徴収使を各地に派遣し、本来の正規の貢納を私的な内庫(左蔵)に振り向けた。宦官とその取り巻きの小人どもが横暴に取り立てて民から搾り取ったので、民の多くは農を捨てて商いに走り、田はついに荒れた。役人は民をいたわることができず、かえって重ねて搾り取ったため、天下は疲弊し、備蓄はますます空になった。
  • 事情に暗い者は「鈔法を復活させれば国を富ませられる」としばしば説くが、建国当初の豊かさは農桑に励んだことによるのであって、鈔法を行ったからではない。本業を強くし費用を節約することこそ財を治める要である。明一代の理財の道について、初めに得た理由と最後に失った理由を、その本末を整理してこの篇に記す。

  • 本篇の項目は次のとおり――戸口/田制(屯田・荘田)。

戸口――戸帖と黄冊

  • 太祖は天下の戸口を戸籍に登録し、戸帖を設けた。戸籍には姓名・年齢・居住地を詳しく書き、戸部に上申し、戸帖の方を民に交付した。役所は毎年その増減を集計して報告した。郊祀のときには中書省が戸籍を祭壇の下に並べて天に供え、祭りが終わると収蔵した。
  • 洪武十四年(1381年)、天下に賦役黄冊を編むよう詔した。その仕組みは次のとおり。
  • 一百十戸を一里とする。丁数と糧(納税額)の多い十戸を里長とし、残りの百戸を十甲に分け、一甲は十人。毎年、里長一人と甲首一人が一里一甲の事務を担当する。順番は丁糧の多寡による。十年で一巡し、これを「排年」という。
  • 城内を坊、城の近くを廂、郷村を里という。里ごとに冊子を編み、冊の巻頭に総括の一図を置く。
  • 鰥(やもめ男)・寡(やもめ女)・孤(みなしご)・独(身寄りのない老人)で役に堪えない者は十甲の後に付し、「畸零」とする。僧・道士には度牒を給し、田を持つ者は民と同じく冊に編み、田のない者もまた畸零とする。
  • 十年ごとに役所が冊を改め、丁糧の増減によって等級を上下させる。冊は全部で四部作り、一部は戸部に上げ、残る三部は布政司・府・県が一部ずつ保管する。戸部に上げる分は表紙が黄色の紙なので黄冊と呼ぶ。年末に進呈して後湖の東西二庫に収蔵し、毎年、戸科給事中一人・御史二人・戸部主事四人に命じて誤りを校訂させた。
  • その後、黄冊は形式だけのものとなり、役所は徴税や徭役の編成には別の冊子を用いた。これを白冊という。
  • 戸は三等――民・軍・匠。民には儒・医・陰陽があり、軍には校尉・力士・弓舗兵があり、匠には厨役・裁縫・馬船の類がある。海辺には塩竈(製塩の戸)、寺には僧、道観には道士があり、いずれも生業によって籍に登録した。人の身分は籍で決まり、複数の姓が一戸に合わさることを禁じ、口を漏らしたり戸を脱けたりした者は自ら申告することを許した。
  • 里には老人を置き、年配で衆望のある者を選んで、民を善に導き郷里の争訟を裁かせた。
  • 民戸の移動には四つの呼び名がある。
  • 徭役を避けて逃げた者を「逃戸」。
  • 飢饉や兵乱を避けて他所へ移った者を「流民」。
  • 事情があって外へ出て仮住まいする者を「附籍」。
  • 朝廷が移した民を「移徙」。
  • 逃戸について。明初は本籍に帰らせて生業に復させ、一年の免除を与えた。老弱で帰れない者や帰りたがらない者は、現在地で籍に登録して田を授け、賦を納めさせた。正統年間には「逃戸周知冊」を作り、その丁と糧を調べた。
  • 流民について。英宗は流民を調べて籍に編み、甲を組ませて互いに保証させ、現地の甲長の管轄に属させた。撫民の佐貳官(次官)を置き、本籍へ帰る者はねぎらい落ち着かせ、牛・種・食糧を給した。また河南山西巡撫の于謙の言を容れて、生業に復した流民の税を免じた。
  • 成化の初め、荊襄で流民百万人がからむ騒乱が起きた。項忠・楊璿が湖広巡撫として追い立てを命じ、従わぬ者は辺境に送り、死者は数え切れなかった。祭酒の周洪謨は「流民説」を著し、東晋のときの僑置郡県の法を引いて、近くの者は現地の籍に入れ、遠くの者には州県を設けて治めるべきだと説いた。都御史の李賓がその説を上申し、憲宗は原傑に命じて撫民に当たらせ、流民十二万戸を招き集めて空き地を給し、鄖陽府を置き、上津などの県を立ててこれを統治させた。河南巡撫の張瑄も西北の流民を集めたいと請い、帝はこれに従った。
  • 附籍について。正統年間、老疾で退官した者や死亡した官の家族で本籍から千里以上離れている者は現地籍への編入を許し、千里に及ばない者は送り返した。景泰年間には、民籍の者は現地で籍に入れ、軍・匠・竈の役にありながら民籍を偽った者は送り返すこととした。
  • 移徙について。
  • 明初、蘇州・松江・嘉興・湖州・杭州の田を持たない民四千余戸を臨濠へ移して耕させ、牛・種・車・食糧を給して送り出し、三年間その税を徴収しなかった。
  • 徐達が沙漠を平定すると、北平山後の民三万五千八百余戸を移して諸府・諸衛に分け置き、軍籍に入れた者には衣糧を、民には田を給した。
  • また沙漠の遺民三万二千八百余戸を北平で屯田させ、屯二百五十四を置き、千三百四十三頃を開墾した。
  • さらに江南の民十四万を鳳陽へ移した。
  • 戸部郎中の劉九皋が「古来、土地の狭い郷の民は広い郷へ移すのを許した。土地に余す利がなく、人に失う生業がないようにするためである」と言上し、太祖はその議を採って山西の沢州・潞州の民を河北へ移した。以後たびたび浙西と山西の民を滁州・和州・北平・山東・河南へ移し、また登州・莱州・青州の民を東昌・兗州へ移し、さらに直𨽻・浙江の民二万戸を京師へ移して倉庫の運搬夫に充てた。
  • 民を移すことは太祖の時代が最も多く、その中には罪により移された者もあった。建文帝は武康伯の徐理に命じて北平へ行かせ、土地を測って人を配置させた。成祖は太原・平陽・沢州・潞州・遼州・沁州・汾州の、丁が多く田の少ない家や田のない家を調べ、その丁口を分けて北平を充実させた。これ以後、移住はまれになった。
  • 太祖ははじめ養済院を設けて訴えるすべのない者を収容し、月ごとに食糧を給した。漏沢園を設けて貧民を葬り、天下の府州県に義塚を立てた。また養老の政を行い、民で八十歳以上の者に爵を賜り、さらに詔を下して兵乱に遭った民を手厚く恤んだ。
  • ただし元末に豪強が貧弱者を侮ったことに懲りて、立法は貧を助け富を抑える方に傾いた。かつて戸部に命じて浙江など九布政司と応天十八府州の富民一万四千三百余戸を籍に載せ、順次召し出してその家を移し京師を充実させた。これを「富戸」という。成祖のときにも応天・浙江の富民三千戸を選んで北京の宛平・大興二県の廂長に充て、京師に附籍させたが、なお本籍の徭役も務めさせた。
  • 日が経つと富戸は貧しくなって逃亡し、そのたびに本籍の裕福な戸を選んで補充した。宣徳年間には、逃げた者は辺境へ送って軍に充て、役所や隣里で隠匿した者もともに罪に問うと定めた。𢎞治五年(1492年)、はじめて逃亡中の富戸を送り届ける義務を免じ、一戸につき銀三両を徴収して廂の民に与え役の助けとした。嘉靖年間には二両に減らし、辺境の軍糧に充てた。
  • 太祖の立法の趣旨はもともと漢が富民を移して関中を充実させた制にならったものだが、後には長く続いた分だけ弊害が生じ、ついに害の階段となった。
  • 戸口の数は増減が一様でないが、確かめられるものは次のとおり。
  • 洪武二十六年(1393年)――戸一千六百五万二千八百六十、口六千五十四万五千八百十二。
  • 𢎞治四年(1491年)――戸九百十一万三千四百四十六、口五千三百二十八万一千一百五十八。
  • 万暦六年(1578年)――戸一千六十二万一千四百三十六、口六千六十九万二千八百五十六。
  • 太祖の時代は戦乱の直後でありながら戸口は最も盛んで、その後は太平が長く続いたのにかえって及ばなかった。靖難の兵が起きて淮河以北は草の茂る荒野となったのに、そのときの民数はかえって以前より増えている。のち次第に減って天順年間が最も衰え、成化・𢎞治で盛りが続き、正徳以後にまた減った。
  • 戸口が減った理由について、周忱は「有力な家に身を寄せたり、匠籍を偽って両京に紛れ込んだり、通行証を偽って四方に商いに出たり、一家をあげて舟に住んで足跡をたどれなくなるからだ」と述べている。要するに、戸口の増減は政令の緩急によるものである。宣宗もかつて群臣と歴代の戸口を論じ、「盛んになるのは休養と生殖に基づき、衰えるのは土木と戦乱による」と述べた。まことに的確な議論である。

田制――官田と民田

  • 明の土地の制度は二等――官田と民田。当初、官田はすべて宋・元の時代に官に収められた田地であった。その後、還官田・没官田・断入官田・学田・皇荘・牧馬草場・城壖(城壁ぎわの地)・苜蓿地・牲地・園陵墳地・公占隙地、諸王公主や勲戚・大臣・内監・寺観への賜田や請願による荘田、百官の職田、辺境の臣の養廉田、軍屯・民屯・商屯の田が加わり、これらを総称して官田といい、それ以外を民田とした。
  • 元末の争乱で戸籍・地籍の多くが失われ、田賦に基準がなかった。明の太祖は即位すると周鋳ら百六十四人を派遣して浙西の田畝を調査し、その賦税を定め、さらに戸部に命じて天下の土地を実地に調べさせた。
  • ところが両浙の富民は徭役を避けようと、たいてい田産を他人の戸に付け替えた。これを「鉄脚詭寄」という。
  • 洪武二十年(1387年)、国子生の武淳らに命じて州県を分担して回らせ、糧に応じて区を定め、区ごとに糧長四人を置いた。田畝を測って形を写し、字号の順に所有者の名と田の丈尺を書き並べ、分類して冊に編んだ。形が魚の鱗のようなので「魚鱗図冊」と呼ぶ。
  • これに先立ち、天下に黄冊を編ませていた。黄冊は戸を主とし、旧管(前回の登録)・新収・開除・実在の四項目(四柱式)を詳しく記す。魚鱗図冊は土地を主とし、高台・堤・小高い地・低湿地、肥えた地・痩せた地・砂地や塩害地の別まですべて備える。魚鱗冊が経(たて糸)となって土地の訴訟の判断のよりどころとなり、黄冊が緯(よこ糸)となって賦役の法が定まった。
  • 田土を売買するときは税糧の科則(課税基準)を必ず書き添え、官がこれを記録して、田が去っても税だけが残って民の害となることのないようにした。
  • また中原に荒れ地が多いので、大臣に命じて民に田を授ける方法を議させ、司農司を設けて河南に役所を開き、この仕事を担当させた。臨濠の田は丁の労力を調べて畝数を計算して給し、兼併を許さなかった。北方の城の近くの地は耕されていない所が多かったので、民を募って耕させ、一人あたり十五畝と野菜用地二畝を給し、租を三年免じた。
  • 毎年、中書省が天下の開墾した田数を奏上したが、少ない年でも千畝単位、多い年は二十余万に達した。官が牛と農具を給した分は税を取り、それ以外の開墾地は永久に課税しないこととした。
  • 洪武二十六年(1393年)、天下の土地を調べたところ総計八百五十万七千六百二十三頃。荒れ地はほとんど無くなろうという勢いであった。
  • 田は城郭に近いものを上地、遠いものを中地・下地とする。五尺を一歩、二百四十歩を一畝、百畝を一頃とする。
  • 太祖は元の里社の制をそのまま用い、河北の諸州県では土着の者は社によって里甲を分け、移民が分かれて屯した地は屯によって里甲を分けた。社の民は先に占めたので畝が広く、屯の民は新たに占めたので畝が狭い。そこで屯の地を「小畝」、社の地を「広畝」といった。
  • 宣徳年間になると、永久に課税しないとした開墾地や、低湿・塩害で糧のかからない地までみな賦の対象に組み入れたので、数が旧額を超えてしまった。役所はそこで大畝を小畝に見立てて旧額に合わせ、数畝を一畝と数える所さえ出た。歩と尺がまちまちで、人が思うままに伸縮させ、土地の均しからざること北方に及ぶ所はなかった。
  • 貴州の田には頃畝の帳簿がなく、すべて土官から徴収した。
  • 各地の土地は年月を経て大いに乱れ、黄冊と合わなくなった。𢎞治十五年(1502年)、天下の土地はわずか四百二十二万八千五十八頃で、官田は民田の七分の一であった。
  • 嘉靖八年(1529年)、霍韜が命を受けて会典を修めた際に言上した。「洪武から𢎞治までの百四十年で天下の額田はすでに半分以上減っている。なかでも湖広・河南・広東の欠額がとくに多い。王府に割き与えたのでなければ、ずるい民が隠しているのだ。広東には藩府がないのだから、隠すか、賊のために放棄されたかである。国の会計をつかさどる者は心して究めねばならない」。
  • このころ桂萼・郭𢎞化・唐龍・簡霄が前後して田畝の実地調査を上疏し、顧鼎臣が畝を踏んで測量することを請うた。丈量(測量)の議はここから起こった。
  • 江西の安福、河南の裕州が最初に実施したが、方法が詳しく定まっていないので疑い憚る者が多かった。その後、福建の諸州県が経・緯の二冊を作り、その方法はかなり詳しくなったが、おおむね土地を主としたので、田の多い者はなお細工の余地があった。神宗の初め、建昌知府の許孚遠が「帰戸冊」を作り、田を人に従わせたので、法は簡にして密となった。
  • 万暦六年(1578年)、帝は大学士張居正の議を用い、天下の田畝を一律に測量し、三年を期限として完了させることとした。開方法(面積計算法)を用い、径と周で乗除し、端数は削って補い合わせた。これによって、ずるい者は隠せなくなり、里甲は肩代わりの負担を免れ、小民に架空の税がなくなった。総計は七百一万三千九百七十六頃で、𢎞治のときより三百万頃多い。
  • ただし居正はもともと数字の締め上げを重んじ、額を超えることを功績としたので、役所は競って小さな物差しに改めて田を多く見せ、あるいは実在する田から絞り取って架空の額を埋めた。北直𨽻・湖広・大同・宣府では前後して超過分の田に応じて賦を増やしたという。

屯田――軍屯・民屯・商屯

  • 屯田の制は軍屯と民屯である。太祖は初め民兵万戸府を立て、兵を農に寓するこの方法を最も善しとした。また諸将に命じて竜江などで屯兵させたが、康茂才の成績が最もよかったので褒賞を下し、それによって将士全体を戒め励ました。
  • 洪武三年(1370年)、中書省が太原・朔州の屯卒に課税することを請うたが、徴収しないよう命じた。
  • 翌年(1371年)、中書省が言上した。河南・山東・北平・陝西・山西および直𨽻の淮安諸府の屯田は、官が牛と種を給した分は十分の五、自弁の分は十分の三の税とする。詔してひとまず徴収せず、三年後に一畝あたり一斗の租を収めることとした。
  • 六年(1373年)、太僕丞の梁埜僊帖木爾が「寧夏の境内および四川の、西南は船城から東北は塔灘まで八百里の間は土地が肥え、流亡した民を招き集めて屯田させるのがよい」と言上し、これに従った。
  • このとき鄧愈・湯和ら諸将を派遣して陝西・彰徳・汝寧・北平・永平で屯させ、山西・真定の民を移して鳳陽で屯させた。また海運で遼東へ食糧を送った際に溺死者が出たので、いっそう屯政に力を入れ、天下の衛所・州県で軍民ともに開墾に従事するようになった。
  • その制度は次のとおり。
  • 民を土地の広い郷へ移し、あるいは募集し、あるいは罪により移した者を民屯とし、いずれも役所の管轄とする。軍屯は衛所の管轄とする。
  • 辺境の地は三分が城の守備、七分が屯種。内地は二分が守備、八分が屯種。
  • 軍一人あたり五十畝を受け、これを一分とする。耕牛と農具を給し、植樹を教え、租賦を免じ、官を派遣して勧農し、侵害する悪吏を誅した。
  • 当初は一畝一斗の税。(洪武)三十五年(1402年)に基準を定め、軍田一分につき正糧十二石を屯倉に納めて本人が受け取り、余った糧はその衛所の官軍の俸糧に充てることとした。
  • 永楽の初め、屯田の官軍に対する賞罰の例を定めた。年に食う米十二石のほか、余糧六石を基準とし、それより多い者には鈔を賞し、足りない者は俸を罰した。
  • また田の肥痩が同じでないので法にも区別が必要だとして、軍官それぞれに見本の田(様田)を作らせ、その年の収量を比べさせた。太原左衛千戸の陳淮が作った様田は軍一人あたり余糧二十三石に達し、帝は重く賞した。寧夏総兵の何福は穀物の蓄積がとくに多く、勅書を賜って褒め称えられた。
  • 戸部尚書の郁新が「湖広の諸衛は収める穀物が一様でないので、米を基準にしたい」と言上した。粟穀・穈黍・大麦・蕎麦・穄はいずれも二石、稲穀・薥秫は二石五斗、穇・稗は三石をもって米一石に換算し、小麦・麻・豆は米と同等とする。これに従い、令として定めた。
  • また屯と守の割合を改めた。辺境に臨む要害では守を屯より多くし、辺鄙な地や糧の輸送が困難な所では屯を守より多くする。屯兵百名には百戸、三百名には千戸、五百名以上は指揮を置いて監督させた。
  • 屯には赤い札(紅牌)を立て、規定を書き並べた。六十歳以上の者と障碍のある者、年少の者は自分の食う分だけ耕させ、規定にしばられない。屯軍が公務のために農作業を妨げられた場合は子粒(収穫の納入)を免じ、衛所が屯軍を他の用に差し出すことを禁じた。
  • このころ、東は遼東、北は宣府・大同、西は甘粛、南は雲南・四川の果て、さらに交阯にまで及び、中原では黄河の南北いたる所で屯が興った。
  • 宣宗の世には、たびたび各屯を調査し、征戍のために耕作をやめた者や、官の有力者・権勢家が占拠して隠した分については余糧を半分に減らした。北方から帰順して屯に就いた者には車・牛・農具を給した。遼東各衛の屯軍を三等に分け、丁と牛の両方をもつ者を上、丁か牛の一方をもつ者を中、どちらもない者を下とした。
  • 英宗は軍田の正糧を倉に納めるのを免じ、余糧六石だけを徴収した。のちにまた辺境で開いた田の官軍の子粒を免じ、各辺の屯田の子粒を差をつけて減らした。
  • 景帝のとき、辺境で事が多かったので、兵を二番に分け、六日は守備、六日は耕作とさせた。
  • 成化の初め、宣府巡撫の葉盛が官牛千八百頭を買い、あわせて農具を備え、軍を派遣して屯させ、収めた糧を銀に換えて官馬の損耗の補填に充てた。辺境の人はこれを便としてよろこんだ。
  • 正統以後は屯政がやや緩んだが、屯糧はなお三分の二が保たれていた。その後、屯田の多くが内監や軍官に奪われ、法はすっかり壊れた。憲宗の世にかなり回復が議されたが、以前の収入の十分の一にも及ばなかった。
  • 𢎞治には屯を開いても糧はいよいよ軽く、一畝わずか三升という所さえあった。正徳に及ぶと、遼東の屯田は永楽のころと比べて田は一万八千余頃多いのに、糧はかえって四万六千余石少なかった。
  • そもそも永楽のころ、屯田の米は常に三分の一余っていた。常時操練する軍十九万を屯軍四万で支え、しかも支えられる側も辺外で自ら耕せたので、軍に月々の糧を出さずとも辺境の兵糧は常に足りた。ところがこのころには屯軍の多くが逃亡・死亡し、常操軍は八万に減ってみな倉に頼るようになり、辺外はたびたび騒がれて耕作が放棄された。
  • 劉瑾が政を専らにすると、官を分けて派遣し、田を測って未納を責め立てた。瑾の意に迎合する者は田数を偽って増やし、むごく搾り取った。戸部侍郎の韓福はとくに厳しく苛酷で、遼東の兵は堪えかね、脅されて群れをなして乱を起こし、慰撫してようやく鎮まった。
  • 明初は塩商を各辺境に募って中(納入)を開かせた。これを商屯という。𢎞治のなかごろ、葉淇が法を変えて開中が壊れはじめ、淮の商人はみな事業をたたんで西北へ帰り、西北の商人も多くが家を淮へ移したので、辺地は空き地となり、米一石が銀五両にもなって辺境の備蓄は空っぽになった。
  • 世宗のとき、楊一清が改めて商を召して中を開くことを請い、また古の「民を募って辺塞の下を充実させる」趣旨にならい、隴右・関西の民を招いて辺境で屯させるよう請うた。
  • その後、周沢・王崇古・林富・陳世輔・王畿・王朝用・唐順之・呉桂芳らが競って屯政を論じ、龐尚鵬は江北の塩と屯を総理し、ほどなく九辺へ移って総督の王崇古とともに前後して屯政の計画をきわめて詳しく立てた。しかし、このころには因循が長く続いており、実効はほとんど上がらなかった。
  • 給事中の管懐理が言った。「屯田が興らないのには四つの弊がある。国境が厳戒下にあることが一。牛と種が給されないことが二。働き盛りの丁が逃げ散っていることが三。田が敵の側にあることが四。それなのに屯を管理する者は、なお帳簿どおりに賦を増やそうとして、月糧から差し引くか、丁割りで穴埋めさせるかしているのだ」。
  • 屯糧の軽さは𢎞治・正徳で極まり、嘉靖のなかごろから次第に増え、隆慶年間には再び一畝一斗を収めるようになった。しかし屯丁の逃亡はいよいよ多く、管糧郎中は屯田の有無を問わず月糧を半分しか給さなかった。辺境の屯地は塩害地や砂礫地に変わった所もあるのに糧額は減らされず、屯田御史はさらに額外に本色・折色を増やしたので、屯軍はますます堪えられなくなった。
  • 万暦のとき、屯田の数は六十四万四千余頃で、洪武のときより二十四万九千余頃少ない。田は日ごとに減るのに糧は日ごとに増える。弊害はこの通りである。
  • このころ、山東巡撫の鄭汝璧は登州の海北・長山などの島の田を開くよう請い、福建巡撫の許孚遠は閩の海壇山の田を開墾し、成功するとさらに南日山・澎湖を開くことを請い、また「浙江の海に臨む諸島、陳銭・金塘・補陀・玉環・南麂はみな経営できる」と述べた。天津巡撫の汪応蛟は天津で屯を興すことを請うた。しかしこれらは奏上が留め置かれて裁可されないか、裁可されても長続きせず廃れた。
  • 熹宗の世、巡按の張慎言が改めて天津の屯田を議し、御史の左光斗は管河通判の盧観象に命じて水田の利を大いに興させ、太常少卿の董応挙もそれに続いて行った。光斗はさらに河間・天津に屯学を設け、騎射を試して武生とし、田百畝を給した。李継貞も天津巡撫として屯務に力を尽くしたが、続けて旱魃と蝗害の年に当たり、成果を挙げるには至らなかった。

荘田――皇荘と諸王・勲戚・中官の荘田

  • 明の時代、草場(牧草地)が民の生業を奪うことが多かったが、民の害となったものとしては皇荘および諸王・勲戚・中官の荘田が最もひどい。
  • 太祖は勲臣の公・侯・丞相以下に荘田を賜い、多い者で百頃、親王の荘田は千頃であった。また公侯および武臣に公田を賜い、百官にも公田を賜ってその租収入を俸禄に充てた。指揮で戦死した者にはみな公田を賜った。
  • 勲臣の荘園の小作人の多くが権勢を笠に着て禁令を犯したので、帝は諸臣を召して戒め諭した。その後、公侯には改めて年俸を支給し、賜田は官に返させた。
  • 仁宗・宣宗の世には請願が次第に広がり、大臣も没収された荘や家屋を請い受けられるようになった。しかし寧王権が灌城を庶子の牧地として請うたときは、帝は書を賜って祖法を引き、これを拒んだ。
  • 英宗のときには、諸王・外戚・中官が各地で官田・私田を占め、あるいは逆に民が占拠していると訴えて取り調べを請う例もあった。調べて事実が明らかになり、帝が民に返すよう命じた例は一度ではない。そこで詔を下して民田を奪うことと畿内の土地を請願することを禁じた。それでも権貴や宗室の荘田・墓地は、賜与されたものも請願によるものも数えきれなかった。
  • 復辟(英宗の重祚)ののち、御馬太監の劉順が薊州の草場を献上した。献上(進献)はここから始まる。宦官の田は尹奉・喜寧に始まる。
  • はじめ洪熙のとき仁寿宮荘があり、その後さらに清寧宮荘・未央宮荘があった。天順三年(1459年)、諸王がまだ独立せず費用がかさむとして、東宮・徳王・秀王の荘田を立て、二王が藩国へ赴任すれば地は官に返すこととした。
  • 憲宗が即位すると、没収した曹吉祥の地を宮中の荘田とした。皇荘の名はここから始まる。その後、荘田は郡県に広がった。給事中の斉荘が「天子は四海を家とするもの、なぜ荘田を設けて貧民と利を争うのか」と言上したが、容れられなかった。
  • 𢎞治二年(1489年)、戸部尚書の李敏らが災異に託して言上した。「畿内の皇荘は五か所、あわせて一万二千八百余頃。勲戚・中官の荘田は三百三十二か所、あわせて三万三千余頃。荘を管理する官と兵は小人どもを集め、荘頭・伴当と称して土地を占め、財物を取り立て、婦女を辱めている。少しでも言い返せばたちまち誣告され、官兵に縛られて一家が驚き恐れる。民心の痛みは骨に達し、災異の生ずるゆえんである。どうか荘の管理人を廃し、小民に耕作させ、一畝あたり銀三分を徴収して各宮の費用に充てられたい」。帝は荘戸を戒め慎ませよと命じた。
  • また御史の言により仁寿宮荘を廃して草場に戻し、あわせて牧地を侵した者はすべて元に返すよう命じた。さらに、土地を王府に献上した者は辺境送りとする制を定めた。奉御の趙瑄が雄県の地を献じて皇荘としようとしたので、戸部尚書の周経が制に反すると弾劾し、瑄を詔獄に下した。諸王の輔導官に対しても、王に請願を奏させた者は罪とすると勅した。
  • それでも当時の献上は絶えず、請願はいよいよ繁くなった。徽・興・岐・衡の四王の田は七千余頃に達し、会昌・建昌・慶雲の三侯が田を争うと、帝はそのつど賜与した。
  • 武宗は即位して一月余りで皇荘七か所を建て、その後三百余か所に増えた。諸王・外戚の請願や民田の奪取は数えきれない。
  • 世宗は初めに給事中の夏言らに命じて皇荘の田を調べさせた。夏言は皇荘が民の害となることを極言し、これによって正徳以来の献上・侵奪の地はかなり民に返された。だが宦官・外戚の輩がまた横やりを入れた。戸部尚書の孫交が作った皇荘の新しい帳簿は額が旧より減っていたので、帝は先年の頃畝数を調べて報告させ、名称を「官地」と改めて皇荘とは呼ばなくなった。担当官に銀を徴収して戸部へ納めるよう詔したが、多くは宦官の懐に入り、未納が数十万に積もるのが常態となった。
  • このとき、勲戚が奏請することと奸民が献上することを禁じ、また王府が請うていた山林・湖沼を取り上げた。徳王が斉・漢二庶人の遺した東昌・兗州の間の田を請い、さらに白雲などの湖を請うたとき、山東巡撫の邵錫は新令に照らしてこれを退け、言葉はきわめて厳しかった。徳王は四度も争ったので、帝はついに戸部の議に従い、藩に封じられた当初に請うた荘田だけを残し、その後に奏請したものは認めないこととした。また、公主・国公の荘田は代が遠くなった者は十分の三を残すと定めた。
  • 嘉靖三十九年(1560年)、御史の沈陽を派遣して隠し名義の荘田一万六千余頃を調べて取り上げた。
  • 穆宗は御史の王廷瞻の言に従い、改めて代ごとに減らす上限を定めた。勲臣は五代で田二百頃、外戚は七百頃から七十頃まで差を設けた。
  • はじめ世宗のとき、承天の六荘二湖の地は八千三百余頃で中官が管理していたが、校舎(軍校)が兼併するのを黙認して八百八十頃増え、十二荘に分かれていた。このときはじめて役所の管理とし、兼併した分は民に返した。
  • また、宗室が田を買って役を負担しない場合は官に没収する、皇親の田はいずれも勲臣の例にならって役所が徴収する、と令に定めた。請願は絶えなかったものの、賜与の額に定めがあり徴収にも制があったので、民の害はいくらか衰えた。
  • ところが神宗に至って賜与は度を越し、求めるものは何でも与えられた。潞王・寿陽公主への恩がとりわけ厚く、福王の分封では河南・山東・湖広の田を括って王荘とし、四万頃に達した。群臣が力を尽くして争い、ようやく半分に減らした。王府の官や宦官が土地を測って税を取り立て、道は往来でごった返した。召し使いや下働きに食を給する者は万を数え、むごい取り立ては聞くに堪えず、駕帖(逮捕状)で民を捕らえ、荘の小作人を撲殺し、いたる所が騒然となった。給事中の官応震・姚宗文らがたびたび諫めたが、いずれも取り上げられなかった。
  • このとき勲戚の荘田を代ごとに減らす法も改められ、旧制よりやや緩くなった。その後、減らすべきものは、そのつど「しばらく留め置け」との詔が下り、ついに改められなかった。
  • 熹宗のときには、桂王・恵王・瑞王の三王および遂平・寧国の二公主の荘田がややもすれば万を数え、魏忠賢一門への理不尽な賜与はとくにひどかった。要するに、中葉以後の荘田による民の生業の侵奪は、国の滅亡と終わりをともにしたのである。