明史卷七十二 志第四十八 職官
序――明代官制の沿革と得失
- 明の官制は漢・唐の旧制を受け継ぎ、そこに増減を加えたものである。洪武十三年(1380年)に丞相を廃して置かず、中書省の政務を分割して六部に帰属させ、尚書が天下の事を担当し、侍郎がその副となった。殿閣大學士は顧問に備えるだけの存在であった。
- 帝みずからが威権を握っていたため、学士が政務の決定に加わることはほとんどなかった。糾弾・弾劾は都察院に責を負わせ、上奏文は通政使を経由して届き、冤罪の平反には大理寺が加わった。これも漢の九卿の制度の名残りである。
- 大都督府を分けて五軍都督府とし、軍の徴発・調動は兵部に隷属させた。地方には都司・布政司・按察司の三司を設けて兵事・刑事・銭穀を分掌させ、その考課は都督府と六部が審査した。この時期は吏部・戸部・兵部の三部の権限が重かった。
- 仁宗・宣宗の朝になると、大學士は太子の経書の師であったことから恩遇が累積して三孤にまで加えられ、その声望はいよいよ高まった。宣宗は内政の大小すべてを大學士楊士竒らに下して可否を審議させた。吏部の蹇義・戸部の夏原吉も召見されて各部の事に関与できたが、その機会はまばらで、士竒らの親密さには及ばなかった。これ以後、内閣の権限は日ごとに重くなり、たまに吏部・兵部の長官が一人二人と是非を争って抵抗しても、そのつど敗れ去った。
- 世宗の中葉には夏言・嚴嵩が交互に政務を執り、ついに堂々たる真の宰相となって六卿を圧制するに至った。
- しかし内閣の擬票(政策案の付箋)は、内監の批紅(朱筆による決裁)を経なければ決定できなかったため、宰相の権はかえって宦官の手に帰した。こうして朝廷の綱紀も、賢明な士大夫の進退も、ことごとく宦官の手で顛倒させられた。ご相伴にあずかるだけの大臣たちはその意向を汲むのに手一杯で、まれに賢明な輔弼の臣がいても、結局は目を痛めるほど憂慮するばかりで救うことができなかった。
- 当初、五都督府を統率したのはみな元勲・宿将であり、軍制は粛然としていた。永樂年間に内監を置いてその事を監督させたが、それでもまだ勝手放題にはならなかった。しかし数代を経るうちに、勲功の家柄の子弟・遊惰な貴公子が軍紀を司るようになり、日ごとに弛緩し崩れていった。やがて内監の増置がますます多くなり、辺境の要塞にはすべて巡視の宦官が置かれ、四方の大征伐にはすべて監軍が付くようになって、辺境の防衛は大いに損なわれ、明の国運は支えきれなくなった。
- その興亡治乱の由来をたどれば、人材登用の得失にこそあったのではないか。官を設け職を分け、体統が相互に支え合い、品級と格式が備わっていた次第は、以下に詳しく列記する。閲覧する者はこれによって知ることができよう。
職官志(本巻)の目次
- 宗人府/三公三孤/太子三師三少
- 内閣/吏部/戸部(總督倉場を附す)
- 禮部/兵部(協理京營戎政を附す)/刑部
- 工部(提督易州山厰を附す)
宗人府
- 宗人令一人、左宗正・右宗正各一人、左宗人・右宗人各一人(いずれも正一品)。
- 職掌は皇帝の九族の属籍(宗室の戸籍)を管理し、時期に応じて玉牒を修訂し、宗室の子女について嫡庶・名・封爵・嗣襲・生没・婚嫁・諡号・葬儀の事を記録することである。宗室から陳情があれば取り次いで上奏し、才能ある者を記録し、罪過を記録する。
- 当初、洪武三年(1370年)に大宗正院を置き、二十二年(1389年)に宗人府と改めて、親王にこれを統領させた。
- その後は勲戚の大臣が府の事務を代行して正規の官を備えず、その職掌もことごとく禮部に移された。
- 属官として經厯司があり、經厯一人(正五品)が公文書の出納を掌る。
三公・三孤
- 太師・太傅・太保を三公とし(正一品)、少師・少傅・少保を三孤とする(従一品)。天下を輔佐して陰陽を調え、国家を経営し教化を弘めることを掌る。その職責は極めて重く、定員はなく、専任の授職もない。
- 洪武三年(1370年)、李善長に大師(太師の誤りか)、徐達に太傅を授けた(それ以前に常遇春がすでに太保を追贈されていた)。三孤を兼領する者はいなかった。
- 建文・永樂年間には公孤の官を廃止し、仁宗が復設した(永樂二十二年八月〔1424年〕に三公・三少を復置)。
- 宣徳三年(1428年)、太師・英國公張輔、少師・吏部尚書蹇義、少傅・兵部尚書兼華蓋殿大學士楊士竒、少保兼太子少傅・戸部尚書夏原吉に勅して、それぞれ本来の担当職務を離れて左右に侍り、政事の諮問に応じさせた。公孤の官はほとんど専任に近い扱いであった。
- しかし蹇義・夏原吉が没し、楊士竒が閣務に戻ってからは、公孤はただの虚銜となり、勲戚や文武の大臣への加官・贈官に用いられるだけになった。文臣で生前に三公を加えられた者はなく、追贈されてはじめて得られるものとなった。嘉靖二年(1523年)に楊廷和へ太傅を加えたが、辞退して受けなかった。その後、文臣で三公を加えられたのは張居正ただ一人で、萬厯九年(1581年)に太傅、十年(1582年)に太師を加えられた。
太子三師・三少・賓客
- 太子太師・太子太傅・太子太保(いずれも従一品)は、道徳をもって太子を輔導し、慎重に護り助けることを掌る。太子少師・太子少傅・太子少保(いずれも正二品)は、太子に奉仕して三公の道徳を観察させ教え諭すことを掌る。太子賓客(正三品)は、太子に侍って礼儀を助け、過失を諫めることを掌る。いずれも東宮の大臣で、定員はなく専任の授職もない。
- 洪武元年(1368年)、太祖は親征に出るにあたり、太子の監国のために別に東宮の官僚を設ければ嫌隙が生じるのではないかと懸念し、朝廷の臣に東宮の職を兼ねさせた。李善長が太子少師、徐達が太子少傅、常遇春が太子少保を兼ね、治書侍御史の文原吉・范顯祖が太子賓客を兼ねた。
- 三年(1370年)、禮部尚書陶凱が、人を選んで東宮官を専任させ兼領を廃止すれば輔導の責任が明確になると請うた。帝は、漢の江充の事件こそ明らかな鑑であり、兼領させる立法は理由のないことではない、と諭した。これにより東宮の師傅は兼官・加官・贈官にとどまることとなった。
- ただ永樂年間に、成祖が北京に行幸した際、姚廣孝だけを専任の太子少師として留め、太子を輔けさせた。これ以後、明の一代を通じて東宮の師傅はすべて虚銜となり、太子輔導の実務とは関わりがなくなった。
内閣(殿閣大學士)
- 中極殿大學士(旧名は華蓋殿)・建極殿大學士(旧名は謹身殿)・文華殿大學士・武英殿大學士・文淵閣大學士・東閣大學士(いずれも正五品)。
- 職掌は、可否について献策し補正し、規範と訓誨を陳述し、上奏文を点検し、票擬(政策案の付箋)と批答を作成して庶政を公平・妥当ならしめることである。
- 上から下へ達する文書には、詔・誥・制・冊文・諭・書・符・令・檄があり、いずれも起草・進畫して諸官庁に下す。下から上へ達する文書には、題・奏・表・講章・書狀・文冊・揭帖・制對・露布・譯があり、いずれも審査・署名・上申・復査して修正し、妥当であれば施行する。
- 天子の車駕が郊祀・巡幸するときは扈従し、御筵では經筵を主管し、あるいは同知經筵事となる。東宮が出閤して講読するときはその事を統括し、官を序列して職務を授ける。冠礼・婚礼では賓賛および納徴などの使者を務める。実録や史書・志書の編纂では総裁官を務める。春秋の上丁の日に先師を釈奠するときは祭事を代行する。会試では考試官、殿試では読巻官を務める。進士の題名にあたっては、大學士一人が撰文して太學に石碑を立てる。
- 大典礼・大政事については、九卿と科道官の会議で結論が出た後、典制に照らし時宜を見て可否を裁量し、斟酌して上奏する。詔を頒布するときは捧持して禮部に授ける。勅を発するときはその経緯を調べたうえで請う。宗室の命名・封爵の請願、諸臣の諡号の請願は、いずれも案を作成して上奏する。
- 大内で食事を給され、常に天子に殿閣の下で侍したため、宰相の名を避けて「内閣」とも呼ばれた。
- これより先、太祖は前代の制度を受け継いで中書省を設け、左右丞相(正一品)、平章政事(従一品)、左丞・右丞(正二品)、參知政事(従二品)を置いて諸職を統轄させた。属官には左右司郎中(正五品)、員外郎(正六品)、都事・檢校(正七品)、照磨・管勾(従七品)、參議府參議(正三品)、參軍、斷事官(従一品)、斷事經厯(正七品)、知事(正八品)、都鎮撫司都鎮撫(正五品)、考功所考功郎(正七品)を置いた。
- 洪武九年(1376年)、平章政事・參知政事を削減した。十三年(1380年)正月、丞相胡惟庸を誅殺し、ついに中書省を廃止した(その属官もすべて廃され、中書舎人だけが残った)。同年九月、四輔官を置き、儒士の王本らをこれに充てた。しかしこれもほどなく廃止された。
- 十五年(1382年)、宋の制度に倣って華蓋殿・武英殿・文淵閣・東閣の諸大學士を置いた(禮部尚書邵質を華蓋殿、檢討呉伯宗を武英殿、翰林學士宋訥を文淵閣、典籍呉沉を東閣とした)。また文華殿大學士を置いて(老儒の鮑恂・余詮・張長年らを徴して充てた)太子を輔導させた。秩はいずれも正五品である。
- 二十八年(1395年)、群臣に勅諭を下した。国家は丞相を廃して府・部・院・寺を設けて庶務を分掌させ、その立法はきわめて周到である。後嗣の君主は丞相の設置を議論してはならず、臣下でこれを奏請する者は極刑に処する、と。
- この当時は、翰林院と春坊が諸官庁の奏啓を詳細に点検し、不当な文書を差し戻す職務を兼ねており、大學士はとくに左右に侍って顧問に備えるだけであった。
- 建文年間に大學士を學士と改めた(諸大學士をすべて廃してそれぞれ學士一人を設け、また謹身殿を正心殿と改めて正心殿學士を設けた)。
- 成祖が即位すると、特に觧縉・胡廣・楊榮らを選んで文淵閣に宿直させ、機密の政務に参与させた。閣臣が政務に関与するのはここに始まる。ただし当時、内閣に入った者はみな編修・檢討・講読の官であり、属官を置かず、諸官庁を統制することもできず、諸官庁が奏事にあたって内閣に通知することもなかった。
- 仁宗は、楊士竒・楊榮が東宮時代の旧臣であることから、士竒を禮部侍郎兼華蓋殿大學士、榮を太常卿兼謹身殿大學士に昇進させた(謹身殿大學士は仁宗が初めて設置した)。閣職は次第に高まっていった。
- その後、士竒・榮らはみな尚書の職に選ばれ、官は内閣にあっても必ず尚書の職をもって尊しとした。
- 景㤗年間、王文が初めて左都御史から吏部尚書に進んで内閣に入った。以後、誥勅房・制勅房のいずれにも中書舎人が置かれ、六部は内閣の意向を承って統轄されないところがなくなり、閣権はますます重くなった。
- 世宗の時、三殿が完成し、華蓋殿を中極殿、謹身殿を建極殿と改めたため、閣臣の官銜もこれに従って改まった。嘉靖以後は、朝廷の席次がいずれも六部の上に列するようになった。
吏部
- 吏部尚書一人(正二品)、左侍郎・右侍郎各一人(正三品)。属官に司務㕔司務二人(従九品)、文選・騐封・稽勲・考功の四清吏司にそれぞれ郎中一人(正五品)・員外郎一人(従五品)・主事一人(正六品。洪武三十一年〔1398年〕に文選司主事一人を増設、正統十一年〔1446年〕に考功司主事一人を増設)。
- 尚書は天下の官吏の選任・授職・封爵・叙勲・考課の政令を掌り、人材を見分けて天子の統治を助ける。古の冢宰の職にあたり、他の五部と比べてとりわけ重い。侍郎がその副となる。
- 司務は督促、遅滞の点検、帳簿の消込みと文書の管理を掌る(明初は主事・司務各四人を首領官とし、主事の印があった。洪武二十九年〔1396年〕に主事を司官と改め、司務二人を削減した。各部とも同様である)。
- 文選司は官吏の班位・秩級・昇進・改任・調動の事を掌り、尚書を補佐する。文官の品は九品あり、それぞれ正・従に分かれて十八級となる。九品に達しないものを「未入流」という。
- 選任には毎年、大選・急選・遠方選・歳貢就教選があり、その間に㨂選・挙人乞恩選がある。選任される者はみな資格簿に登録され、その流品を整理し、銓衡・注記を公平にして順次昇進させる。
- 昇進には必ず考満(任期満了の考課)を要する。欠員があって補充すべきときに考満を待たないものを「推陞」という。類推は上位一人、単推は上位二人を挙げる。三品以上・九卿および僉都御史・祭酒は廷推して二人または三人を挙げ、内閣および吏部・兵部の尚書は廷推して二人を挙げる。
- 王府の官は外任に転じさせず、王家の姻戚は内官に任じず、大臣の一族は科道官に任じない。同僚が同族の場合は下位の者が上位の者を避ける。外官は才能と赴任地が相応しくなければ、繁忙・閑散を按配して互いに交換する。特命による昇進や昇進の請願があった場合も、いずれも異議を上奏できる。署職・試職・実授によって職を定め、年功によって新設・統廃合・兼務を定めて繁閑に適合させ、推薦によって廃官を起用し徴召して埋もれた人材を振るい起こし、帯俸・添注によって恩恵による余剰の官を処置し、降格・除名によって罪過に対処し、任期の規程によって吏治を監督し、休暇の制度によって人情に配慮する。
- 騐封司は封爵・襲廕・封贈・吏員の年功計算の事を掌り、尚書を補佐する。爵は社稷への功か軍功でなければ封じない。封号は特旨がなければ与えず、世襲であるかないかを問わず、いずれも誥券を給する。衍聖公および外戚の恩沢による封には券を給さない。券は左右各一枚で、左は内府に収蔵し、右は功臣の家に給する。封を襲うときは誥券を徴し、功過を調べ、宗族の系統を確認して、世襲・降格・除爵の等級を定める。土官については襲うべきか否かを勘案し、文選司に文書を移して任命案を作らせる(宣慰司・宣府〔宣撫司の誤りか〕・安撫司・長官司の諸司で土兵を統領する者は兵部に隷属する)。
- 廕叙については、明初は一品から七品まですべて一子を廕して禄を世襲させることができた。後には次第に制限が加えられ、京官三品以上で考満して功績が顕著な者が初めて一子を廕することができるようになり、これを「官生」といった。特別の恩恵によるものを「恩生」といった。
- 封贈については、公・侯・伯の追封はいずれも一等を繰り上げる。三品以上で政績が際立って優れた者、および諫死・殉節・戦死した者はみな贈官を得る。現任の者にはまず散階を初授する。京官が一度の考課を満たし、外官が一度の考課を満たして最優秀と報告された者には、いずれも本人の誥勅を給する。七品以上はみな祖先に恩を及ぼすことができる。五品以上には誥命、六品以下には勅命を授ける。曾祖・祖・父はみなその子孫の官と同じ品に准ずる。公・侯・伯は一品に准じ、外命婦・内命婦は夫または子の品に准ずる。生存者に与えるのを「封」、死者に与えるのを「贈」という。もし以前に罪を問われていれば給付を停止する。
- 文官の散階は四十二あり、考課の履歴によって差をつける。
- 外命婦の号は九つある(公の妻は某國夫人、侯の妻は某侯夫人、伯の妻は某伯夫人、一品は夫人(後に一品夫人と称する)、二品は夫人、三品は淑人、四品は恭人、五品は宜人、六品は安人、七品は孺人)。子孫によって封じられた者には「太」の字を加えるが、夫が存命であれば加えない。
- 封贈の回数は、七品から六品までで一回、五品で一回(当初の制度では四品で一回があったが、後に省いた)、三品・二品・一品でそれぞれ一回とする。三人の母を並べて封ずることはせず、二重の封があるときは高い品に従う。父の官職が子より高ければ一階を進める。父が給付停止に当たる場合、および子が他家の養子となった場合は、いずれも封を他へ移すことができる。嫡母が存命であれば生母を封じない。生母がまだ封じられていなければ、先にその妻を封じない。妻への封は嫡妻一人・継妻一人に限る。封贈を受けた後に汚職で失脚した者は、これを追奪する。
- 稽勲司は勲級・名籍・喪と養親の事を掌り、尚書を補佐する。文官の勲は十ある(正一品は左右柱國、従一品は柱國、正二品は正治上卿、従二品は正治卿、正三品は資治尹、従三品は資治少尹、正四品は賛治尹、従四品は賛治少尹、正五品は修正庶尹、従五品は協正庶尹)。五品以上は再度の考課を経てはじめて勲を授けられる。百官の任免・降格・調動にはみな生年・本貫・出身を記載する。毎年十二月に貼黄し、春秋には清黄して、いずれも内府に送る。事故があれば掲げて除去する。父母が七十歳で兄弟がいない者は帰郷して養うことができる。三年の喪には官を解いて服喪する。喪を奪う者、喪を隠す者、喪を短縮する者を摘発する。ただし欽天監の官だけは奔喪三か月で復職する。
- 考功司は官吏の考課・黜陟の事を掌り、尚書を補佐する。内外の官は履歴を提出し、三年で初考、六年で再考し、いずれも引見・上請する。九年で通考して奏請し、称職・平常・不称職を総合して昇降を定める。昇進は二等を超えず、降格は三等を超えない。はなはだしい者は罷免し処罰する。京官は六年に一度考察し、考察は己亥の年に行う。五品以下は考察して不適格の者を降格・処罰し差をつける。四品以上は自ら進退を陳述して裁可を仰ぐ。外官は三年に一度入朝し、入朝は辰・戌・丑・未の年に行う。あらかじめ巡撫・巡按の官に文書を移し、それぞれ属官の三年間の功過の状を総合して考課を記し、まとめて送って再審査し、黜陟を定める。倉場・庫官は一年で考課、廵檢は三年で考課、教官は九年で考課し、府・州・県官の考課は土地の繁閑によって差をつける。吏の考課は三年・六年で満期となれば騐封司に移して配属し、九年満期でさらに試験して官を授ける。ただし王府の官および欽天監・御用監などの官は考課しない。内外官への弾劾文書についてはその功過を調べ、進退の案を立てて上裁を請う。推薦や留任の請願があれば、その政績を検証して顕彰する。
- 沿革。明初は中書省に四部を設けて銭穀・礼儀・刑名・営造の事務を分掌させた。洪武元年(1368年)に初めて吏・禮・兵・刑・工の六部を置き(原文は「六部」とするが戸部が列挙から脱している)、尚書・侍郎・郎中・員外郎・主事を設けた(尚書は正三品、侍郎は正四品、郎中は正五品、員外郎は正六品、主事は正七品)。なお中書省に隷属した。
- 六年(1373年)、各部に尚書二人・侍郎二人を設け、吏部には總部・司勲・考功の三属部を設け、部ごとに郎中・員外郎各一人、主事各二人を置いた。
- 十三年(1380年)、中書省を廃止し、周官の六卿の制に倣って六部の秩を昇し、それぞれ尚書・侍郎各一人を設けた(ただし戸部侍郎のみ二人)。部ごとに四属部に分け、吏部の属部には司封を加え、属部ごとに郎中・員外郎・主事各一人を置いた。ほどなく侍郎一人を増設した。
- 二十二年(1389年)、總部を選部と改めた。二十九年(1396年)、文選・驗封・稽勲・考功の四司と定め、他の五部の属部も合わせてすべて清吏司と称した。
- 建文年間、六部尚書を正一品とし、左右侍中(正二品)を設けて侍郎の上に位置づけ、諸司から「清吏」の字を除いた。成祖の初め、すべて旧制に復した。
- 永樂元年(1403年)、北平を北京とし、北京行部尚書二人・侍郎四人を置き、その属官として六曹清吏司を置いた(吏・戸・禮・兵・工の五曹には郎中・員外郎・主事各一人、刑曹には郎中一人・員外郎一人・主事四人、照磨・檢校各一人、司獄一人。ほどなく戸曹にも主事三人を増設した)。後にはまた六部を分置し、それぞれ「行在某部」と称した。
- 十八年(1420年)、都を北京に定め、行部および六曹を廃し、六部の官属をこれに移して北京では「行在」と称さず、南京に留まる官には「南京」の字を加えた。洪熙元年(1425年)、各部の官属を南京に復置して「南京」の字を除き、北京にある官に「行在」の字を加え、なお行部を置いた。宣徳三年(1428年)、また行部を廃した。正統六年(1441年)、北京では「行在」の字を除き、南京ではなお「南京」の字を加えることとし、これが定制となった。
- 景㤗年間、吏部に一時二人の尚書を置いたが、天順初(1457年)にその一人を廃した。
- 按ずるに、吏部尚書は百官を率い庶官を進退させる銓衡の要地であり、その礼遇は特別で並ぶものがない。永樂初、翰林官を選んで内閣に宿直させ、その後大學士楊士竒らは三孤に至って尚書の官銜を兼ねたが、品級の序列では尚書の蹇義・夏原吉の下に列した。景㤗年間、左都御史王文が吏部尚書兼學士に昇進して内閣に入ったが、その席次はなお元の官銜を基準とした。𢎞治六年二月(1493年)の内宴からは、大學士邱濬が太子太保・禮部尚書の身で太子太保・吏部尚書王恕の上位に着いた。その後は、侍郎や詹事から入閣した者の席次もみな六部の上に列するようになった。
戸部
- 戸部尚書一人(正二品)、左侍郎・右侍郎各一人(正三品)。属官に司務㕔司務二人(従九品)。
- 浙江・江西・湖廣・陜西・廣東・山東・福建・河南・山西・四川・廣西・貴州・雲南の十三清吏司。各司に郎中一人(正五品。宣徳以後、山西司に郎中三人、陜西・貴州・雲南の三司に郎中各二人、山東司に郎中一人を増設)、員外郎一人(従五品。宣徳七年〔1432年〕に四川・雲南二司の員外郎中各二人を増設したが、その後廃した)、主事二人(正六品。宣徳以後、雲南司に主事七人、浙江・江西・湖廣・陜西・福建・河南・山西の七司に主事各二人、山東・四川・貴州の三司に主事各一人を増設)。
- 照磨所に照磨一人(正八品)、檢校一人(正九品)。
- 所轄の官庁と定員は次のとおり。
- 寳鈔提舉司 提舉一人(正八品)、副提舉一人(正九品)、典史一人(後に副提舉・典史ともに廃止)
- 抄紙局 大使・副使各一人(後に副使を廃止)
- 印鈔局 大使・副使各一人(後にともに廃止)
- 寳鈔廣惠庫 大使一人(正九品)、副使二人(従九品。嘉靖中に廃止)
- 廣積庫 大使一人(正九品)、副使一人(従九品)、典史一人(嘉靖中に副使・典史ともに廃止)
- 贓罰庫 大使一人(正九品)、副使二人(従九品。嘉靖中に廃止)
- 甲字・乙字・丙字・丁字・戊字の五庫 大使五人(正九品)、副使六人(従九品。丁字庫のみ二人。嘉靖中に一人を廃し、あわせて乙字・戊字二庫の副使を廃止)
- 廣盈庫 大使一人(従九品)、副使二人(嘉靖中に廃止)
- 外承運庫 大使二人(正九品)、副使二人(従九品。後に大使・副使ともに廃止)
- 承運庫 大使一人(正九品)、副使一人(従九品。嘉靖中に廃止)
- 行用庫 大使・副使各一人(後にともに廃止)
- 太倉銀庫 大使・副使各一人(嘉靖中に副使を廃止)
- 御馬倉 大使一人(従九品)、副使一人
- 軍儲倉 大使一人(従九品)、副使一人(後に大使・副使ともに廃止)
- 長安門・東安門・西安門・北安門の各倉 副使各一人(東安門倉はもと二人、萬厯八年〔1580年〕に一人を廃止)
- 張家灣鹽倉・檢校批騐所 大使各一人(隆慶六年〔1572年〕にともに廃止)
- 尚書は天下の戸口・田賦の政令を掌り、侍郎がその副となる。版籍を調べ、毎年賦役と実徴の数を集計して担当官庁に下し、十年ごとに黄冊を編纂させ、その戸を上下・畸零の等に区分して増減を把握する。田土の侵占・投獻・詭寄・影射を禁じ、人戸の隱漏・逃亡・朋充・花分を禁じ、継嗣・婚姻が法令に従わないことを禁じ、いずれも綜合的に審査して糾正する。天子が耕耤の礼を行うときは尚書が耒耜を進める。
- そのほかの施策は次のとおり。荒地の開墾によって貧民に生業を与え、戸籍への編入によって流民を定着させ、田地の制限によって異端の民を裁き、図帳によって土地兼併の民を抑え、樹芸によって農官を課し、飼料地の支給によって馬牧に給し、小作の募集によって地の利を尽くし、帳消しによって賠償の累積を清算し、支給によって恩沢を広め、給付・免除・優遇・復除の制度を用い、鈔錠によって賞賜を節し、法令の読み聞かせによって吏民を訓し、度量衡によって市糴を調え、時価の査定によって物価を平らかにし、備蓄の政によって民の困窮を恤み、山沢・陂池・関市・坑冶の政によって国家を助け、軍への輸送を賄い、支兌・改兌の規定によって漕運を利し、蠲減・振貸・均糴・捕蝗の令によって災荒を憐れみ、輸転・屯種・糴買・召納の法によって辺境の備蓄を充実させ、禄廩の制によって貴賤を統御する。
- 十三司はそれぞれ担当の省の事務を掌り、あわせて分担する両京直隸の貢賦および諸司・衛所の禄俸、辺鎮の糧餉、ならびに各倉場・鹽課・鈔関を兼領する。
- 事務は四科に分かれる。民科は所属の省・府・州・県の地理・人物・図志・古今の沿革・山川の険易・土地の肥瘠寛狭・戸口・物産の多寡と増減の数を掌る。度支科は夏税・秋糧の会計、存留と起運、および賞賜・禄秩の経費を掌る。金科は市舶・魚鹽・茶鈔・税課および贓罰の収納・折納を掌る。倉科は漕運・軍儲・出納・料糧を掌る。
- 派遣には三等がある。吏部が選任するものを「註差」といい、名を挙げて上請する。「題差」は劄によって委任する。「部差」もあり、三年、あるいは一年、あるいは三か月で交替する。
- 沿革。当初、洪武元年(1368年)に戸部を置いた。六年(1373年)、尚書二人・侍郎二人を設け、一科・二科・三科・四科・總科の五科に分け、科ごとに郎中・員外郎各一人、主事四人を設けた。ただし總科のみ郎中・員外郎各二人、主事五人であった。
- 八年(1375年)、中書省が戸部・刑部・工部の三部は事務が繁多であると奏したため、戸部の五科それぞれに尚書・侍郎各一人、郎中・員外郎各二人、主事五人を設け、内には會總科主事六人、外には牽照科主事二人、司計四人、照磨二人、管勾一人を置いた。また在京行用庫を置いて戸部に隷属させた(大使一人・副使二人・典史一人・都監二人を設けた)。
- 十三年(1380年)、部の秩を昇し、尚書一人・侍郎二人を定設し、總部・度支部・金部・倉部の四属部に分けた。部ごとに郎中・員外郎各一人、總部は主事四人、度支部・金部は主事各三人、倉部は主事二人。ほどなく在京行用庫を廃した。
- 二十二年(1389年)、總部を民部と改めた。二十三年(1390年)、さらに四部を分けて河南・北平・山東・山西・陜西・浙江・江西・湖廣・廣東・廣西・四川・福建の十二部とした(四川部が雲南を兼領)。部ごとに郎中・員外郎各一人、主事二人を設け、それぞれ一布政司の戸口・銭糧などの事を担当させ、繁閑を量って京畿を帯管させた。各部の中はさらに四科に分けて管理させた。また照磨・檢校各一人を置いて文書の出入りの数を調べ督促させた。
- 十九年(1386年)、寶鈔提舉司を復置した。
- 二十六年(1393年)、浙江・江西・蘇州・松江の出身者は戸部に任じてはならないと令した。二十九年(1396年)、十二部を十二清吏司と改めた。建文年間はなお四司とした(その他は吏部の条を見よ)。成祖が旧制に復した。
- 永樂元年(1403年)、北平司を北京司と改めた。十八年(1420年)、北京司を廃し、雲南・貴州・交趾の三清吏司を設けた。宣徳十年(1435年)、交阯司を廃し、十三司と定めた。
- その後、職掌を統合した。宗室・勲戚・文武官吏の廩禄は陝西司が兼領し、北直隸の府・州・衛所は福建司が兼領し、南直隸の府・州・衛所は四川司が兼領し、天下の鹽課は山東司が兼領し、関税は貴州司が兼領し、漕運および臨清・徳州の諸倉は雲南司が兼領し、御馬倉・象房の諸倉は廣西司が兼領した。
- 明初にはかつて司農を置いたが、ほどなく廃した。後に判録司を置いたが、これも廃した。いずれも戸部には隷属しない。
總督倉場
- 一人。在京および通州などの倉場の糧食備蓄を監督することを掌る。
- 洪武初、軍儲倉二十か所を置き、それぞれ官を設けてその事を司らせた。永樂中に北京へ遷都すると、京倉および通州の諸倉を置き、戸部の司員にこれを管理させた。
- 宣徳五年(1430年)、初めて李昶を戸部尚書としてもっぱらその事を監督させ、これが定制となった。以後は尚書または侍郎が任じられ、いずれも部の事務は執らない。
- 嘉靖十五年(1536年)、さらに西苑の農事を兼督させた。隆慶初、兼務を廃した。
- 萬厯二年(1574年)、別に戸部主事一人を割いて庫に陪席させ、毎日、管庫主事とともに銀両を出納させ、季末に交替させた。九年(1581年)に裁革して本部侍郎に分掌させ、十一年(1583年)に復設した。
- 二十五年(1597年)、右侍郎張養䝉に遼餉の監督を命じた。四十七年(1619年)、督餉侍郎を増設した(崇禎年間には督遼餉・督冦餉・督宣大餉があり、三、四人を増設した)。天啟五年(1625年)、さらに督理錢法侍郎を増設した。
禮部
- 禮部尚書一人(正二品)、左侍郎・右侍郎各一人(正三品)。属官に司務㕔司務二人(従九品)、儀制・祠祭・主客・精膳の四清吏司にそれぞれ郎中一人(正五品)・員外郎一人(従五品)・主事一人(正六品。正統六年〔1441年〕に儀制・祠祭二司の主事各一人を増設し、また儀制司主事一人を増設して駙馬の教習に当たらせた。𢎞治五年〔1492年〕に主客司主事一人を増設して會同館の管理に当たらせた)。所轄の鑄印局に大使一人・副使二人(萬厯九年〔1581年〕に一人を廃止)。
- 尚書は天下の礼儀・祭祀・宴饗・貢挙の政令を掌り、侍郎が補佐する。
- 儀制司は諸礼の文式、宗室の封爵、貢挙、学校の事を分掌する。天子の即位、天子の冠礼、大婚、皇太子・妃嬪・太子妃の冊立、慈宮への徽號奉上、朝賀、朝見、大饗宴、郷飲・大射、宴射には、いずれも儀注を挙げて条陳する。経筵・日講・耕耤・視学・策士・伝臚・巡狩・親征・進暦・進春・献俘・奏捷、皇太子の出閤と監国、親王の読書と就藩、皇子女の誕生と命名、および百官・命婦の朝賀、皇太子・后妃の礼、諸王国の礼については、いずれも儀式を諸官庁に頒布する。制誥の伝達、詔勅・表箋の開読、および上下の百官が往来させる公文書には、いずれも書式を授ける。
- 毎年、宗室の王・郡王・將軍・中尉・妃・主・君の封爵を請い、それぞれ親疎によって等級を分ける。百官は宗室の王に対して官名と実名を称するだけで臣とは称さず、王の臣だけがその王に対して臣と称する。宗室・駙馬都尉・内命婦・蕃王の誥命は吏部と会同して請う。諸官庁の印信はその制度を統轄し、摩耗すれば取り替えて給する。
- 祥瑞についてはその名称と品目を判別するだけで、封禅を請うて君主の心を蕩かすようなことはしない。学校の政によって士人を育て、貢挙の法によって賢才を網羅し、郷飲酒礼によって長幼の序と譲りを教え、養老によって高齢者を尊び、制度によって等級と威儀を定め、貧民の救恤によって仁政を広め、旌表によって勧励を示し、建言と会議によって利害を尽くし、自宮を禁じて奸民を抑える。
- 祠祭司は諸祀典および天文・国恤・廟諱の事を分掌する。祭に三種あり、天神・地祇・人鬼という。大祀・中祀・小祀を弁別して敬んで供える。壇壝・祠廟・陵寝を整え、しばしば点検する。犠牲・酒醴・玉帛・粢盛・羹・水陸の品・埋納と祓禳の品を選び、配侑・従食する功徳の上下を順序づけて挙行する。天下の神祇で祀典に載るものは法令を調べて担当官庁に伝え、時に応じて祀事を謹む。暦官を督して暦象を天下に頒布させる。日食・月食があれば内外の諸官庁に通達して救護させる。災異があれば直ちに奏聞し、甚だしいときは祭告と修省を請う。喪葬・祭祀は貴賤によって等があり、いずれもその規程を定めて頒行する。
- 諡は、帝は十七字、后は十三字、妃・太子・太子妃はいずれも二字、親王は一字、郡王は二字と、字数で差をつける。勲戚・文武の大臣が葬祭・追贈・諡号を請えば、必ず担当官庁に移して調査させ、公論を伝えて議を定めたうえで奏聞する。侍従の臣で勤労し、忠諫して死んだ者は、官品が諡に相当しなくてもみな特別に賜与される。帝后の忌日には陵で祀り、朝を休むが政務は廃さない。天文・地理・医薬・卜筮・師巫・音楽・僧道の者はみな籍に登録して統轄し、妖しげな説を興す者があれば罪して赦さない。
- 主客司は諸蕃の朝貢・接待・給賜の事を分掌する。諸蕃の朝貢には貢道・貢使・貢物、および遠近・多寡・豊約の数を弁別して、王または使者への迎送・宴労・宿営・食料の等級、賞賜の差を定める。貢物は必ず点検したうえで内府に納める。付随して積んできた物貨があれば代価を給する。蕃国が嗣封を請えば使者を遣わして冊をその国に頒布し、使者が還れば風土・産物の状況、贈遺と礼文の程度を上申する。諸蕃で辺塞を守る功があれば勅と印を授けて封ずる。各国の使人の往来には、誥勅があれば誥勅を検し、勘籍があれば勘籍を検して、無断で入境させない。土官の朝貢もまた勘籍を検し、帰るときは鏤金の勅諭をもって送り、必ず銅符と照合させる。言語を審らかにし、文字を翻訳し、送迎・接伴し、四夷館の訳字生・通事の能否を考査し、外部との交通や情報漏洩を禁じ戒める。朝廷の賜与の典例、各省の土産の貢献もすべてこれを掌る。
- 精膳司は宴饗・牲豆・酒膳の事を分掌する。御賜の百官への礼食には「宴」と「酒飯」があり、上・中・下の三等をその品秩に応じて用いる。蕃使・土官には宴と下程がある(宴には一次と二次があり、下程には常例と欽賜がある)。いずれもその等級を弁別する。親王の就藩、王・公・將軍の来朝およびその使人についても同様である。膳羞・酒醴の材料は光禄寺が供給し、その数を集計して出納を管理する。厨役は諸民から徴発して太常寺・光禄寺に給仕させ、年数を経た者は王府の典膳に選任される。毎年、氷を蔵し氷を出すときは担当官庁に清潔を保たせる。
- 沿革。当初、洪武元年(1368年)に禮部を置いた。六年(1373年)、尚書二人・侍郎二人を設け、總部・祠部・膳部・主客部の四属部に分け、部ごとに郎中・員外郎各一人、主事各三人を置いた。十三年(1380年)、部の秩を昇して尚書・侍郎各一人を設け、属部ごとに郎中・員外郎・主事各一人を置いた。ほどなくまた侍郎一人を増置した。二十二年(1389年)、總部を儀部と改めた。二十九年(1396年)、儀部・祠部・膳部を儀制・祠祭・精膳と改め、主客だけは旧のままとし、いずれも清吏司と称した。
- 按ずるに、周の伯宗(大宗伯の誤りか)の職は邦礼を掌ったとはいえ、司徒がすでに邦教を掌っていたので、いわゆる礼は鬼神の祠祀にとどまっていた。典楽・典教を合わせ、内は宗藩、外は諸蕃、上は天官から下は医師・膳夫・伶人の類にまで及んで兼ね総べるようになったのは、明から始まる。成化・𢎞治以後はおおむね翰林の儒臣をこれに充てたので、ここから公孤に登り輔導の任に当たった者は諸部の中でも最も多かった。
兵部
- 兵部尚書一人(正二品)、左侍郎・右侍郎各一人(正三品)。属官に司務㕔司務二人(従九品)、武選・職方・車駕・武庫の四清吏司にそれぞれ郎中一人(正五品。正統十年〔1445年〕に武選・職方二司の郎中各一人を増設、成化三年〔1467年〕に車駕司郎中一人を増設したが、萬厯九年〔1581年〕にいずれも廃止)、員外郎一人(従五品。正統十年に武選司員外郎一人を増設、𢎞治九年〔1496年〕に武庫司員外郎一人を増設したが、後にいずれも廃止。嘉靖十二年〔1533年〕に職方司員外郎一人を増設)、主事二人(正六品。洪武・宣徳の間に武選司主事三人、職方司主事四人を増設、正統十四年〔1449年〕に車馬〔車駕の誤りか〕・武庫二司の主事各一人を増設したが後に廃止。萬厯十一年〔1583年〕にまた車駕司主事一人を増設)。
- 所轄の㑹同館に大使一人(正九品)、副使二人(従九品)。大通関に大使・副使各一人(いずれも未入流)。
- 尚書は天下の武衛・官軍の選任・授職・訓練の政令を掌り、侍郎が補佐する。
- 武選司は衛所と土官の選授・昇進・調動・襲替・功賞の事を掌る。武官は六品までで、その勲は十二あり、散階は三十ある。
- 毎年六度の選任があり、世官と流官がある。世官は九等(指揮使・指揮同知・指揮僉事・衛鎮撫・正千戸・副千戸・百戸・試百戸・所鎮撫)で、いずれも襲職と替職があり、幼少の者には優給があり、世襲できない場合には減革がある。通革の制もある。流官は八等(左都督・右都督・都督同知・都督僉事・都指揮使・都指揮同知・都指揮僉事・正留守・副留守)で、世官からの昇進、あるいは武挙によって用い、いずれも世襲できない。世襲する者があれば特別の恩恵による。
- 真の授職でないものに、署職(署職は本職に一級を加えるが半級として扱い俸を支給しない。軍功がなければ実授を得られない)、試職(試職は一級として扱い半俸を支給し誥を給さない)、納職(納職は俸を帯びるが職務には就かない)がある。
- 戦功は二等で、奇功を上とし、頭功がこれに次ぐ。首功は四等で、迤北を最大とし、遼東がこれに次ぎ、西番・苗蠻がさらに次ぎ、内地の反冦がさらに次ぐ。
- 比試には旧官(洪武三十一年〔1398年〕以前を旧とする)と新官(成祖以後を新とする)がある。
- 軍政は五年に一度考選し、あらかじめ巡撫・巡按の官が功過の状を上申し、審査して進退を決める。五府・錦衣衛の堂上官および各総兵官はみな自ら陳述して裁可を仰ぐ。推挙は二人を挙げ、都指揮以下は一人を挙げる。
- 土司の官は九級、従三品から従七品までで、いずれも歳禄がない。その子弟・族属・妻女、あるいは婿や甥の襲替はすべてその土地の習俗に従う。辺塞に付属する官は都督から鎮撫まで十四等あり、いずれも詔勅によって偽称・冒称を弁別する。贈官は、王事に死んだ者は二等、戦陣に死んだ者は三等を加える。
- 中旨から出た任命は必ず覆奏してから施行する。貼黄によって図状を徴し、初任の実績によって誥勅を徴し、功の実効によって将領を課し、比試によって兵卒を練り、優養によって恩恵を絶やさず、褒恤によって決死の戦いを励まし、寄禄によって恩倖を統御し、殺降・失陥・避敵・激叛の法によって軍機を粛正し、典刑によって人倫を敗り略奪し陣を退いた科を処断して世禄を断つ。
- 職方司は輿図・軍制・城隍・鎮戍・訓練・征討の事を掌る。天下の地理の険易・遠近、辺境と内地の境界にはみな図本があり、三年に一度報告し、官軍と馬匹の数を併せて上申する。
- 軍制は内外が相互に牽制し、武官が勝手に符を下して徴発することはできない。都督府・都指揮司・留守司、内外の衛・守禦・屯田・群牧千戸所・儀衛司・土司・諸番の都司衛所は、それぞれの官軍と部落を統べて征調・守衛・朝貢・保塞の令に従い、時に応じて城池を修浚して閲視する。
- 鎮戍の将校は五等で、鎮守・協守・分守・守備・備倭という。いずれも事に応じて増置し、土地の要害を見て兵を置き屯戍させる。
- 京営の操練は文武の大臣が統率し、いずれも科道官が巡視する。将軍営の練兵、将軍四衛営の練兵、および勇士・幼官・舎人などの営の練兵については、その軍の実数を検討し、什伍を調べ、在籍・逃亡や閑否を察して、起居進退・緩急疎密の節度、金鼓と旗の合図を教える。
- 征討して将を命じ出師するよう請うときは、賞罰を懸け、兵と食糧を調え、功過を記して昇降を行う。堡塞によって辺境を防ぎ、烽火によって情報を伝え、関津によって間諜を詰問し、捕縛によって盗賊を鎮め、快壮の制によって郷民を選び、勾解・収充・抽選・併豁・疏放・存恤の法によって軍伍を整える。
- 車駕司は鹵簿・儀仗・禁衛・駅伝・厩牧の事を掌る。鹵簿は、大駕を大典礼と大朝会に用い、丹陛駕を常朝に用い、武陳駕は世宗の南巡のときに用いた。いずれも物の数を弁別して担当官庁に授ける。慈宮・中宮の鹵簿、東宮・宗藩の儀仗も同様である。
- 侍衛は、御殿では全直、常朝では番直とする。守衛の親軍衛は前後左右の四門を四行に分けて日夜巡警する(皇城の守衛は、前は午門を一行、後は元武門を一行、左は東華門を一行、右は西華門を一行とする)。
- 郵伝は京師では㑹同館といい、地方では駅・遞運所といい、いずれも符験と関券によって行う。
- 馬政はもっぱら太僕寺・苑馬寺が管理し、その簿籍を調べて時に応じて増減を報告させる。ただし内廐は集計しない。
- 武庫司は武器・符勘・尺籍・武学・薪隸の事を掌る。内外の官軍が出征するときは工部に移して器仗を給し、籍にその数を記録する。制勅を各辺に下して徴発するとき、および使人が関を出るときは必ず勘合を検査する。軍伍に欠員があれば諸省・府・州・県に下して補充させ、追捕・記録・戸の開設・除籍・停止の法によって処理する。召募・垜集・罪謫・改調・営丁の尺籍の数を検査する。武職の幼官および子弟でまだ官を嗣いでいない者は武学で学業を習わせ、主事一人がこれを監督し、学官の賢否と学習の勤惰を考査して報告する。諸官庁には供応として柴薪を扱う下僕、直衙の皁隸があり、官品に応じて差をつける。
- 沿革。当初、洪武元年(1368年)に兵部を置いた。六年(1373年)、尚書一人・侍郎一人を増し、總部・駕部および職方の三部を置き、郎中・員外郎・主事を吏部と同数設けた。十三年(1380年)、部の秩を昇して尚書・侍郎各一人を設け、さらに庫部を加えて四属部とし、部ごとに郎中・員外郎・主事各一人を置いた。十五年(1382年)、侍郎一人を増設した。二十二年(1389年)、總部を司馬部と改めた。二十九年(1396年)、四部を武選・職方・車駕・武庫の四清吏司に改めた(職方だけは旧名のまま)。景㤗年間、尚書一人を増設して部務を協理させたが、天順初に廃した。隆慶四年(1570年)、侍郎二人を添設したがほどなく廃し、萬厯末年に復置した。
協理京營戎政
- 一人(尚書、あるいは侍郎、あるいは右都御史を充てる)。京営の操練の事を掌る。
- 永樂初、三大営を設け、武将がこれを統べた。景㤗元年(1450年)、初めて提督團營を設け、兵部尚書于謙に兼領させたが、後に廃した。成化三年(1467年)に復設し、おおむね兵部尚書または御史が兼ねた。
- 嘉靖二十年(1541年)、初めて尚書官の劉天和に命じて部務を離れさせ、別に関防を給して専ら戎政を管理させた。二十九年(1550年)、總督京營戎政の印を仇鸞に与え、代わりに兵部侍郎を協理戎政として設け、関防は給さないこととした。
- 萬厯九年(1581年)に裁革し、十一年(1583年)に復設した。天啟初に協理一人を増設したがほどなく廃した。崇禎二年(1629年)にまた一人を増し、庶吉士の劉之綸を兵部侍郎としてこれに充てた。
刑部
- 刑部尚書一人(正二品)、左侍郎・右侍郎各一人(正三品)。属官に司務㕔司務二人(従九品)、浙江・江西・湖廣・陜西・廣東・山東・福建・河南・山西・四川・廣西・貴州・雲南の十三清吏司にそれぞれ郎中一人(正五品)・員外郎一人(従五品)・主事二人(正六品。正統六年〔1441年〕に十三司すべてに主事一人を増設、成化元年〔1465年〕に四川・廣西二司の主事各一人を増設したが後に廃止。萬厯中にまた湖廣・陜西・山東・福建の四司の主事各一人を廃止)。照磨所に照磨(正八品)・檢校(正九品)各一人。司獄司に司獄六人(従九品)。
- 尚書は天下の刑名および徒隸・勾覆・関禁の政令を掌り、侍郎が補佐する。十三司はそれぞれ担当の省、および分担する京府・直隸の刑名を掌る。
- 照磨・檢校は文書の点検と贓贖の計上・記録を掌る。司獄は獄吏を率いて囚徒を管理する。
- 軍民の官吏および宗室・勲戚で法に触れた者については、その供述を糾明し、実情の真偽を察し、律例に照らして罪の軽重を議して裁可を請う。詔獄も必ず爰書(供述調書)に拠るべきで、上意に迎合してはならない。特旨・別勅・詔例・榜例で、軽々しく議を請うて令甲としたものでないものは、引用して類推してはならない。
- 死刑は即決も秋後決もともに三度覆奏する。両京と十三布政司の死罪の囚は毎年審理して公平を期す。五年ごとに勅を請い官を遣わして冤罪や滞留の案件を審査する。霜降には重囚を記録し、五府・九卿・科道官が会同して記録する。矜恤・疑わしい者は辺境に戍らせ、申し立てのある者は担当官庁に回して再審させ、律に照らすべき者は監候とする。夏の熱審では笞刑を免じ、徒・流を減じ、軽い者は釈放し重い者は繋ぐ。斬・絞・雑犯・徒で末減された者には贖を収めることを許し、祭祀のときは刑を止める。贖罪は罪の軽重に応じて定める(原文はここで「斬絞雜犯徒末減者聴收贖」の句を重ねて記す)。
- 訴訟は必ず下から上へと進める。事が重大で急を要する場合は登聞鼓を撃つことを許す。地方に大きな獄事があれば命を受けて赴き審問する。地方で囚を決するときは司官二人を遣わして立ち会わせる。
- 断獄は毎年その件数を上申して奏聞し、これを「歳報」という。毎月その拘留・釈放・生死の数を上申し、これを「月報」という。獄が成立すれば大理寺に移して覆審させ、必ず公平を期す。
- 提牢は毎月主事一人を交替させ、牢獄を修繕し、施錠を厳重にし、過酷・濫用を省き、衣類と食糧を給する。囚が病めば家人の見舞いと械の解除を許し、医薬の記録簿を作る。俘囚や配流・没収された官私の奴婢はみな籍に記録する。官吏に過失があればみな記録し、年末にこれを洗い流すことを請う。
- 名例によって科条を統べ、八つの字(以・准・皆・各・具・及・即・若)によって議論の言い回しを括り、五服によって人情と法を参酌し、入れ墨によって盗賊を識別する。財産を没収しても塋墓は含めず、財を籍しても支度の分は含めず、宗室の者は市で刑せず、宮人は獄に下さず、幼少・老耄・重病の者は訊問しない(詳しくは刑法志に見える)。
- 沿革。洪武元年(1368年)に刑部を置いた。六年(1373年)、尚書・侍郎各一人を増し、總部・比部・都官部・司門部を設け、部ごとに郎中・員外郎各二人(ただし都官は各一人)、總部・比部には主事各六人、都官・司門には主事各四人を置いた。
- 八年(1375年)、部の事務が繁多であるとして四科を増設し、科ごとに尚書・侍郎・郎中各一人、員外郎二人、主事五人を設けた。
- 十三年(1380年)、部の秩を昇して尚書一人・侍郎一人を設け、なお四属部に分け、部ごとに郎中・員外郎各一人、總部・比部には主事各四人、都官・司門には主事各二人を置いた。ほどなく侍郎一人を増した(ここで左右侍郎に分かれる)。
- 二十二年(1389年)、總部を憲部と改めた。二十三年(1390年)、四部を分けて河南・北平・山東・山西・陜西・浙江・江西・湖廣・廣東・廣西・四川・福建の十二部とした(浙江部が雲南を兼領)。部ごとの官の設置は戸部の制に同じ。二十九年(1396年)、十二清吏司と改めた。
- 永樂元年(1403年)、北平を北京とした。十九年(1421年)、北京司を廃し、雲南・貴州・交阯の三司を増置した。宣徳十年(1435年)、交阯司を廃し、ついに十三清吏司と定めた。
工部
- 工部尚書一人(正二品)、左侍郎・右侍郎各一人(正三品)。属官に司務㕔司務二人(従九品)、營膳・虞衡・都水・屯田の四清吏司にそれぞれ郎中一人(正五品。後に都水司郎中四人を増設)、員外郎一人(従五品。後に營膳司員外郎二人、虞衡司員外郎一人を増設)、主事二人(正六品。後に都水司主事五人、營膳司主事三人、虞衡司主事二人、屯田司主事一人を増設)。
- 所轄の官庁と定員は次のとおり。
- 營膳所 所正一人(正七品)、所副二人(正八品)、所丞二人(正九品)
- 文思院 大使一人(正九品)、副使二人(従九品)
- 皮作局 大使一人(正九品)、副使二人(従九品。後に廃止)
- 鞍轡局 大使一人(正九品)、副使一人(従九品。隆慶元年〔1567年〕に大使・副使ともに廃止)
- 寶源局 大使一人(正九品)、副使一人(従九品。嘉靖間に廃止)
- 顔料局 大使一人(正九品。後に廃止)
- 軍器局 大使一人(正九品)、副使二人(後に一人を廃止)
- 節慎庫 大使一人(従九品。嘉靖八年〔1529年〕に設置)
- 織染所・雜造局 大使一人(正九品)、副使一人(従九品)
- 廣積・通積・蘆溝橋・通州・白河の各抽分竹木局 大使各一人、副使各一人
- 大通橋提舉司 提舉一人(正八品。萬厯二年〔1574年〕に廃止)、副提舉二人(正九品)、典史一人(後に副提舉・典史ともに廃止)
- 柴炭司 大使一人(従九品)、副使一人
- 尚書は天下の百官(百工の誤りか)と山沢の政令を掌り、侍郎が補佐する。
- 營繕司は経営・興作の事を典る。宮殿・陵寝・城郭・壇場・祠廟・倉庫・廨宇・営房・王府の邸第の工事では、工匠を集め材木を調達し、時に応じて監督する。鹵簿・儀仗・楽器は内府および担当官庁に移してそれぞれの職務で処理させ、時に応じて堅牢さと清潔さを点検し、粗悪な仕事を取り締まる。獄具を作るときは必ず律の定めどおりにする。
- 工匠は二等ある。輪班は三年に一度の使役で、期間は三か月を超えず、みなその家の課役を免除する。住坐は月に十日の使役で、稍食(手当)が支給される。工役も二等あり、罪人の労役に充てるもので、正工と雑工という。雑工三日を正工一日に相当させ、いずれも工事の大小に応じて按配する。
- 物料の備蓄には、神木厰・大本厰で材木を蓄え、黒窯厰・琉璃厰で瓦器を焼き、臺基厰で薪と葦を貯える。いずれも数を記録して修造の用に供する。
- 虞衡司は山沢の採捕・陶冶の事を典る。鳥獣の肉・皮革・骨角・羽毛で、祭祀・賓客・膳羞の需要や礼器・軍需の用に供しうるものは、毎年諸官庁に下して採捕させる。水課は禽十八・獣十二、陸課は獣十八・禽十二である。いずれも時期を守り、冬春の変わり目には網を川沢に施さず、春夏の変わり目には毒薬を野に施さない。苗が盛んなときは踏み荒らすことを禁じ、穀が実れば焼き払うことを禁ずる。害獣であれば落とし穴で捕らえることを許し、捕獲量に応じて賞に差をつける。
- 諸陵の山麓では斧を入れ、窯や製錬所を開き、墓を設けることを許さない。帝王・聖賢・忠義の人、名山・岳鎮・陵墓・祠廟で民に功徳のあったものは、樵採と放牧を禁ずる。山林・園林の利は民に採取を許して軽く課税する。
- 軍装・兵器は担当官庁に下して造らせ、兵部と共同で検査し、必ず堅牢・精緻を期す。陶器の製造には歳供・暫供・停減があり、その数を記録し収入を集計して、軽々しく毀って民を費やさない。諸々の鋳造では材を整え鋳型を審らかにして担当官庁に付す。銭は必ず銖両を正確にして内府に進め、そこから頒布する。牌符と火器は内府で鋳造し、その仕様を外部に漏らすことを禁ずる。顔料はその土地の産物でなければ徴発しない。
- 都水司は川沢・陂池・橋道・舟車・織造・券契・度量衡の事を典る。水利には転漕と灌田がある。毎年、金石・竹木・卷埽を備蓄し、時に応じて閘・壩・洪・淺・堰・圩・堤防を修め、蓄水と放水を慎重に行って旱魃・水害に備え、田畑・家屋・墳墓を損なわせない。まだ収穫していない田、舟運、水車や碾臼は灌漑と利を争ってはならず、灌漑は転漕と利を争ってはならない。
- 諸水の要衝には京官を派遣して専管させ、担当官庁を督させる。民を使役するときは必ず農閑期を用い、農閑期まで待てない場合は人を集めて速やかに完成させる。道路と橋梁は時に応じて修繕する。巡幸および大喪・大礼があれば修繕して検分・比較する。
- 舟車の制は、黄船は御用に供し、遮洋船は海路の漕運、淺船は河川の漕運、馬船・風快船は官物の輸送、備倭船・戰船は寇賊の防禦に用い、ほかに大車・獨轅車・戰車がある。いずれも費用を集計し、多寡・遠近・労逸を酌んで均等に配分する。
- 織造では冕服・誥敕・制帛・祭服・淨衣・諸幣布を内府および南京・浙江の諸処に移し、その数を把握して慎重に節減する。公・侯・伯の鉄券はその高さと幅に差をつける(制式は詳しくは礼志に見える)。祭器・冊宝・乗輿・符牌・雑器はみな内府で規格を定める。度量衡は校正を慎重に行って頒布し、市に規格を掲げて基準に合わない者を罰する。
- 屯田司は屯種・抽分・薪炭・夫役・墳墓の事を典る。軍馬が駐屯する地で輸送が足りなければ屯田を設けて軍儲を増やす。営造の木材・城磚・軍営の官舎および戦衣・器械・耕牛・農具の類の調達を規画する。抽分は諸商から徴収し、その財物に応じて差をつける。薪炭は南では洲や汀に取り、北では山麓に取り、あるいは民から徴し、本色と折色があり、多寡を酌んで節減する。夫役による伐採と運搬はみな雇役による。墳塋および堂・碑碣・石獣の制は、宗室・勲戚・文武官の等級に応じて差を定める(墳塋の制度は詳しくは礼志に見える)。
- 沿革。洪武初に工部および官属を置き、將作司をこれに隷属させた。六年(1373年)、尚書・侍郎各一人を増し、總部・虞(虞部)・都水部および屯田を四属部とし、總部には郎中・員外郎各二人、他は各一人、總部には主事八人、他は各四人を置いた。また營造提舉司を置いた。
- 八年(1375年)、四科を増設し、科ごとに尚書・侍郎・郎中各一人、員外郎二人、主事五人、照磨二人を設けた。十年(1377年)、將作司を廃した。十三年(1380年)、官制を定め、尚書一人・侍郎一人を設け、四属部(屯田部を屯部とする)にそれぞれ郎中・員外郎一人、主事二人を置いた。十五年(1382年)、侍郎一人を増した。二十二年(1389年)、總部を營部と改めた。二十五年(1392年)、營繕所を置いた。二十九年(1396年)、また四属部を營繕・虞衡・都水・屯田の四清吏司に改めた。嘉靖以後、尚書一人を添設して専ら大工事を監督させた。
提督易州山厰
- 一人。御用の柴炭の調達を監督することを掌る。
- 明初は沿江の蘆洲および龍江・瓦屑の二場から柴炭を取った。永樂間に北京へ遷都してからは、白羊口・黄花鎮・紅螺山などで調達した。
- 宣徳四年(1429年)、初めて易州山厰を設け、専任の官が総理した。景㤗間に平山へ移し、さらに満城へ移した。相次いで工部の尚書または侍郎が厰の事を監督した。天順元年(1457年)、また易州へ移した。嘉靖八年(1529年)、これを廃し、主事を設けて管理させることに改めた。