明史卷七十一 志第四十七 選舉三

太祖の求賢――薦舉の始まり

  • 太祖は金陵を下すと儒士の范祖幹・葉儀を招き、婺州を取ると儒士の許元・胡翰らを召して日々に経史と治道を講じさせ、處州を取ると耆儒の宋濓・劉基・章溢・葉琛を徴した。建康に至って禮賢館を作ってこれを置き、濓を江南等處儒學提舉、溢・琛を營田僉事とし、基は帷幄に留めて謀議に与からせた。
  • 甲辰(1364年)三月、中書省に敕して言った。今、領土は日ごとに広がり文武をともに用いる。卓犖奇偉の才がこの世にないはずはなく、山林に隠れ、あるいは兵士の中に埋もれている。上に立つ者が導き引き抜かなければ自ら現れることはない。今より、上書して治道を述べる者、武略の衆に出た者は、参軍および都督府がその名を報告せよ。文章は書けなくとも識見の取るべき者は、闕に詣でて面と向かって陳べるのを許す。郡縣の官で五十歳以上の者は、政事に練達していても精力は衰えている。有司に民間の俊秀で二十五歳以上、資性が明敏で学識・才幹のある者を選ばせて中書に召し、年老いた者と併せ用いよ。十年ののち老いた者は退職し、若い者はすでに事に習熟していよう。こうすれば人材は乏しくならず、官に人を得る、と。有司にこの意を宣布させた。
  • そこで州縣は毎年、賢才および武勇・謀略・天文に通暁する士を挙げ、時には書と律に兼ね通じる者にも及んだ。やがて選舉の禁を厳しくし、濫りに挙げる者は逮えて処罰した。
  • 吴元年(1367年)、起居注の吴林・魏觀らを遣わし、幣帛をもって四方に遺賢を求めさせた。
  • 洪武元年(1368年)、天下の賢才を京に徴して守令を授けた。その年の冬、さらに文元吉・詹同・魏觀・吴輔・趙夀らを分け遣わして天下を巡り賢才を訪ね求めさせ、それぞれに白金を賜って遣わした。
  • 三年(1370年)、廷臣に諭した。六部は天下の政務を総領するので、学問が博洽で才徳を兼ね備えた士でなければ居るに足りない。山林に隠居し、あるいは下僚に屈している者があろうから、有司に心を尽くして推し訪ねさせよ、と。
  • 六年(1373年)、ふたたび詔した。賢才は国の宝である。古の聖王が賢を求めるのに労を惜しまなかったのは、高宗が傅説を、文王が呂尚を得たごとくである。あの二君は智が足りなかったのか。版築や鼓刀の徒にまで熱心だったのは、賢才が備わらなければ治めるに足りないからである。鴻鵠が遠く飛べるのは羽翼があるから、蛟龍が騰躍できるのは鱗鬛があるからで、人君が治を致せるのは賢人が輔けるからである。山林の士で徳行・文藝の称すべき者は、有司が採り挙げ、礼を備えて京に送れ。朕は任用して至治を図る、と。
  • この年、ついに科舉を罷め、別に有司に賢才を察挙させた。徳行を本とし、文藝を次とし、その名目は聰明正直・賢良方正・孝弟力田・儒士・孝亷・秀才・人才・耆民といった。みな礼をもって京師に送り、次第を問わず抜擢した。各省の貢生もまた太學を経て進んだ。
  • こうして科舉を罷めること十年、十七年(1384年)に至って科舉を復活したが、薦舉の法もあわせて行われて廃されなかった。

薦舉によって登用された人々

  • 当時、中外の大小の臣工はみな推挙でき、下は倉庫・司局の諸雜流に至るまで、文学・才幹の士を挙げさせた。薦されて至った者にはさらに人を転じて薦めさせたので、山林・巌穴・草茅の窮居からも上に達しない者はなく、布衣から大官に登った者は数えきれない。
  • 耆儒の鮑恂・余詮・全思誠・張長年らは九十余歳で京に徴され、そのまま文華殿大學士に任じられた。儒士の王本・杜斆・趙民望・吴源は特に四輔官に置かれ、太子賓客を兼ねた。
  • 賢良の郭有道、秀才の范敏・曾泰、税戸人才の鄭沂、儒士の趙翥は家より起こって尚書となった。儒士の張子源・張宗徳は侍郎となった。耆儒の劉堉・闗賢は副都御史となった。明經の張文通・阮仲志は僉都御史となった。人材の赫從道は大理少卿となった。孝亷の李徳は府尹となった。儒士の吴顒は祭酒となった。
  • 賢良の欒世英・徐景昇・李延中、儒士の張璲・王亷は布政使となった。孝弟の李好誠・聶士舉、賢良の蔣安素・薛正言・張端、文學の宋亮は參政となった。儒士の鄭孔麟・王徳常・黄桐生、賢良の余應舉・馬衛・許安・范孟宗・何徳忠・孫仲賢・王福・王清、聰明の張大亨・金思存は參議となった。
  • 顕著な抜擢はこのとおりであり、次第に貴顕の官に昇った者はさらに数えきれない。
  • かつて禮部に諭した。経に明るく行いを修め時務に練達した士で京師に徴された者のうち、六十歳以上七十歳以下は翰林に置いて顧問に備え、四十歳以上六十歳以下は六部および布政・按察の両司で用いよ、と。
  • 当時は仕進に他の道がなかったので、急に貴顕となる者が往々にして多く、吏部が薦舉によって除官すべしと奏した者は多い年には三千七百余人、少ない年でも千九百人に達した。
  • また富戸や耆民にも進見を許し、奏対が旨に叶えば良い官を与えた。會稽の僧郭傳は宋濓の薦めによって翰林應奉に抜擢された。これらはみな考えうる事跡である。

薦舉の衰退

  • 科舉が復設されてのちも両途を併用し、軽重の偏りはなかった。建文・永樂の間には、薦舉から身を起こして中央では翰林、地方では藩司を授かる者がなおあった。楊士竒は処士から、陳濟は布衣から、たちまち『太祖實録』の総裁官に命じられた。資格に拘らないことはこのとおりであった。
  • その後は科舉が日ごとに重んじられ、薦舉は日ごとに軽んじられた。文を能くする士はみな科場から進むことを栄とし、有司はたびたび求賢の詔を奉じても、人材はすでに衰えており、ただ形式を繕うだけとなった。
  • 宣宗はかつて御製の「猗蘭操」および「招隠詩」を諸大臣に賜って励ましを示したが、実際に応ずる者は少なく、人情もともにこれを軽んじた。
  • 正綂元年(1436年)、行在の吏部が、宣徳の間に天下の布政・按察の二司および府州縣官に賢良方正各一人を挙げさせる詔があり、今なお挙げ続けているので止めるべきだと言った。帝は、朝廷の求賢は止めてよいものではない、今後は来た者を六部・都察院・翰林院の堂上官が考試し、合格者を採用し不合格者は退けよ、と命じた。薦舉はいよいよまれになった。
  • 天順元年(1457年)、詔して、処士のうち学が天人を貫き才が経済に堪え、高く身を持して世に出ることを求めない者は、所司が実情を具して奏聞するよう命じた。御史陳迹が崇仁の儒士吴與弼の学行を奏したので、江西巡撫韓雍に礼をもって招いて京に赴かせた。至ると召見して左諭徳に任じたが、與弼は病を理由に辞して受けなかった。帝はまた李賢に命じて文華殿に引見させ、心安く顧問して「卿の学行を重んじて特に宮僚を授ける。煩わしいが太子を輔けてほしい」と言ったが、與弼は固辞した。文華殿で宴を賜り、賢に命じて陪席させ、敕を降して褒め賜い、行人に送らせて帰した。これは格別の待遇である。
  • 成化十九年(1483年)に至ると、廣東の舉人陳獻章が薦されて翰林院檢討を授かったが、そのまま帰るに任せた。典礼は大いに減った。
  • のち𢎞治中の浙江の儒士潘辰、嘉靖中の南直隷の生員文徴明、永嘉の儒士葉幼學は、いずれも薦めによって翰林院侍詔を授かった。萬厯中、湖廣の舉人瞿九思もまた待詔を授かり、江西の舉人劉元卿は國子監博士、江西の処士章潢はわずかに順天府訓導を遥授されただけであった。直隷の処士陳繼儒、四川の舉人楊思心らも、みな薦されはしたが禮部に下されただけであった。
  • 崇禎九年(1636年)、吏部がふたたび孝亷の挙用を議し、祖宗の朝ではみな時おり一度行っただけで定制はなかったが、今は直省に通行させ、意を用いて人を探させ、真に孝亷で才を懐き徳を抱き、経に明るく行いを修めた士があれば、司道から巡按に達し、覆核して疏聞し、試験して採用すべきだと言った。当時は薦舉が天下に紛々としたが、みな荒廃した郡縣を授けられ、ついに大きな効果はなかった。
  • 十七年(1644年)に至って、豫(河南)・楚(湖廣)の陥落した州縣の欠員は、すべて撫按の官に招いて選ばせ改め置かせ、科目・雜流・生員などに拘らないよう命じた。これは危急に迫られての求賢であって、太平の世の取士の典ではない。
  • なお、正徳四年(1509年)、浙江の大吏が餘姚の周禮・徐子元・許龍、上虞の徐文彪を薦めた。劉瑾は四人がみな謝遷の同郷であり、詔草が劉健の手から出たことを咎めて、旨を偽って禮らを鎮撫司に下し、辺衞に謫戍し、布政司の林符・邵寶・李賛および參政・參議・府縣の官十九人に米二百石の罰を課し、あわせて健と遷の官を削り、さらに餘姚の人は京官に遷ることを許さないと令に著した。これは薦舉によって禍を得た例で、また変則である。

任官の制――吏部と三途並用

  • 任官の事は文は吏部、武は兵部に帰し、吏部の職掌がとりわけ重い。吏部には四司があり、文選が銓選を、考功が考察を掌り、その職はとくに要である。
  • 選ばれる人は、進士・舉人・貢生のほか、官生・恩生・功生・監生・儒士があり、さらに吏員・承差・知印・書算・篆書・譯字・通事などの諸雜流がある。進士を一途、舉人・貢生などを一途、吏員などを一途とし、いわゆる三途並用である。
  • 京官の六部主事・中書・行人・評事・博士、外官の知州・推官・知縣は進士から選ぶ。外官の推官・知縣および學官は舉人・貢生から選ぶ。京官の五府・六部の首領官、通政司・太常寺・光禄寺・詹事府の属官は官生・廕生から選ぶ。州縣の佐貳、都司・布政司・按察司の三司の首領官は監生から選ぶ。外府・外衞・鹽運司の首領官、中外の雜職で流内に入る官・入らない官は吏員・承差などから選ぶ。おおよそこのとおりで、食い違いのある部分は推して知られる。
  • 初任を聴選、昇任を陞遷という。選人の法は、毎年、吏部が六考六選を行う。引選六類、選六、遠方選二である。聴選および考定によって昇降する者は双月の大選、順序が単月に定まる改授・改降・丁憂・候補の者は単月の急選である。㨂選は三年に一度行い、舉人の乞恩と歳貢の就教には定期がない。
  • 昇任・選任には必ず考満を要するが、欠員があって補うべく満期を待たない場合を推陞という。
  • 内閣大學士・吏部尚書は廷推または特旨による。侍郎以下および祭酒は、吏部が三品以上の官と会同して廷推する。太常卿以下は部推、通政・參議以下は吏部が𢎞政門で會選する。詹事は内閣から、各衙門は各掌印から出す。
  • 地方官では督撫のみ廷推で、九卿がともに与かり吏部が主宰する。布政・按察の欠員は三品以上の官が會舉し、監司は順序によって遷す。防邊・兵備などはおおむね選択・保舉によって敕書を与える。辺境の府および佐貳にも敕書を与える。
  • 薊遼の昌平・薊州など、山西の大同・河曲・代州など、陜西の固原・静寧など、合わせて六十一処はみな辺境の欠員とし、選任にとくに慎重を期した。功のある者は次を越えて抜擢し、封疆を誤った者は罪して赦さない。
  • 内地の監司はおおむね順序によって遷したが、のちには次を越える昇進も多く、一年のうちに四、五度遷って僉事から參政に至る者もあった。監司は額外の増置が多く、守巡のほかにしばしば別の官銜を数種立てて、統一できなかった。
  • 地方の府州縣の正官・佐官、中央の大小九卿の属員はみな常選の官で、選授・遷除は一切吏部が行う。初めは拈鬮の法を用い、萬厯の間に掣籤に変わった。二十九年(1601年)、文選員外郎倪斯蕙が銓政十八事を条上し、その一に掣籤を議したので、尚書李戴が実施を擬して許され、孫丕揚がこれを継いで行った。のちにその失を譏る者もあったが、明の世が終わるまで改まらなかった。
  • 洪武の間に南北更調の制を定め、南人は北に、北人は南に官とした。のち官制が次第に定まると、學官のほかは本省の官となることを許さず、南北の区別も設けなくなった。

資格の重視と三途並用の衰え

  • 初め、太祖はかつて奉天門に御して官を選び、資格に拘るなと諭した。選ばれてただちに侍郎を授かる者もあり、監司にはとくに多かった。進士・監生および薦舉の者を混ぜ用い、給事中・御史も初任と昇進が半ばずつであった。
  • 永樂・宣徳以後は次第に資格に従うようになったが、台省にはなお初任が多かった。𢎞治・正徳ののちに資格の拘束が始まった。
  • 舉人・貢生は進士と並んで正途と称されたが、軽重・高下の差は天地ほどになった。隆慶中、大學士高拱が言った。国初は舉人から八座に昇って名臣となった者が甚だ多かったが、のちには進士が偏重され舉人は甚だ軽んじられ、今に至って極まった。今後は授官ののちはただ政績を考えるだけで出身を問わないようにしたい、と。しかし勢いはすでに積み重なって元に返らなかった。
  • 崇禎の間、言う者がしばしば三途並用の説を申し立て、時おり一、二の舉人、たとえば陳新甲・孫元化のような者を要地に置いたが、ついに失敗して覆えった。武舉の陳啟新を給事中に用いたのも声名は潰れた。そこで朝廷はまた、資格に従うにしかずと考えるようになった。しかし甲榜出身で国を誤った者もまた少なくはないのである。

科道――給事中と御史の考選

  • 給事中と御史を科道という。科は五十員、道は百二十員である。
  • 明初から天順・成化の間までは、進士・舉貢・監生がみな選補されえた。昇進する者は推官・知縣のほか、學官から出る者もあった。
  • のちには監生および新科の進士は与かれなくなり、庶吉士から改授されるか、内外の科目出身で三年の考満を経た者から考選するようになった。中央では両京の五部主事・中書・行人・評事・博士、國子監の博士・助教など、地方では推官・知縣である。推官・知縣から入る者を行取という。特別の推薦があれば俸が満ちていなくても与かれた。
  • 考選は科道の欠員の多寡を見て行い、定額はない。授職は吏部と都察院が協同して擬案を注する。給事中はみな実補だが、御史は必ず一年の試職を経て初めて実授される。庶吉士だけは例外である。
  • 嘉靖・萬厯の間には、部曹が科道に改まることを許さないとしばしば命じ、のちにも時おり行われた。舉貢・推知は例により進士と同じく考選に与かれたが、おおむね四分の一にすぎなかった。嘉靖の間には監生も選に与からせたが、まもなく罷めて行われなくなった。
  • 萬厯中は百度が廃弛した。二十五年(1597年)、台省の新旧の人数は定額の半ばにも足りなかった。三十六年(1608年)には科がわずか数人、道はわずか二人。南科は一人が九つの印を摂すること二年、南道もわずか一人であった。内台が空虚なので外の差遣も欠け、淮揚・蘇松・江西・陜西・廣東・廣西・宣大・甘肅・遼東の巡按および陜西の茶馬、河東の鹽課は、数年も欠員のままとなった。
  • 給事中陳治則が急ぎ考選するよう請うたが報がなかった。三十九年(1611年)、考選の疏を上ったが、また留中されて下されなかった。推官・知縣で台省への抜擢を擬された者は闕下で命を待ち、去るも留まるも自由にならなかった。
  • 四十六年(1618年)、河南道を掌る御史王象恒がふたたび言った。十三道の御史で班列にある者はわずか八人、六科給事中はわずか五人。しかも冊封・典試の諸差および内外の巡方で満期を報じ病を告げて交代を求める者が相次いでいる。急ぎ変通の法を議すべきだ、と。
  • 大學士方從哲もまた、考選された諸臣は六年も待って艱苦を嘗め尽くしていると言った。吏部は禮部・都察院に諮って順次に差遣を出すことを議したが、これは権宜の術であって、部推を特に許し諸臣に命を受けて職に就かせ政体を保つにはしかず、とした。しかしいずれも報がなかった。
  • 光宗の初めに至って、前後の考選の疏がみな裁可され、台省はたちまち人で満たされた。
  • 考選の例では、優れた者に給事中、次の者に御史、さらに次の者に部曹を授ける。臨時に考試するとはいえ、事前に訪単が九卿・台省の諸臣の手から出て、往々にしてこれによって高下が決まった。
  • 崇禎三年(1630年)、吏部が考選を終えて、給事中・御史に昇すべき者何人かを奏し、中書二人については訪単の可否が食い違うとして疏を具えて題請した。帝はその責任逃れを責め、さらに確かに議するよう命じたが、訪単そのものが体をなさぬことは責めなかった。
  • 京官は進士でなければ考選されず、推知は舉貢もみな行取された。しかし天下の守令は進士が十のうち三、舉貢が十のうち七であるのに、推知の行取では進士が十のうち九、舉貢はわずか十のうち一である。しかも舉貢の得るところは、おおむね台(御史)ばかりで省(給事中)がなく、南が多く北が少ない。御史王道純がこれを言上すると、帝は、人を用いるには才を論じるべきでもとより資格に拘るべきでないとして、所司に酌んで行わせた。
  • 初めの制では急に欠けた風憲の官は随時に行取したが、神宗の時に三年に一度と定めた。ここに至って毎年一度行うようになったが、帝は吏部尚書閔洪學の請に従い、なお三年を期とした。以上が言路を選ぶ大略である。

保舉の制

  • 保舉は銓法の及ばぬところを補い、吏部の権を分けるものである。洪武十七年(1384年)、天下の朝覲の官に廉能な属吏を挙げさせたのに始まる。
  • 永樂元年(1403年)、京官の文職七品以上、外官は縣令に至るまで、それぞれ知る者一人を挙げさせ、才を量って抜擢することとした。のち貪汚が聞こえた場合は推挙者を連坐させた。おおむねこの法は時おり行われた。
  • しかし洪武・永樂の時は官の選任がすべて吏部の請によったのに対し、仁宗の初めに庶政を一新した。洪熙元年(1425年)、特に保舉の令を申し渡し、京官五品以上および給事中・御史、外官は布政・按察の両司の正官・佐官および府州縣の正官に、それぞれ知る者を挙げさせた。ただし現任の府州縣の正官・佐官および贓罪を犯したことのある者は推挙を許さない。その他の官および下僚に屈している者、軍民の中で廉潔公正で撫育の才ある者は、すべて名を報告させた。
  • 当時は京官の勢いがまだ重くなく、台省の考満は吏部が奏して地方長官・郡守に昇らせた。やがて制を定め、布政・按察の二司と知府に欠員があれば、三品以上の京官に保舉させることとした。
  • 宣徳三年(1428年)、况鍾・趙豫らが薦めによって蘇州・松江の諸府の守に抜擢され、敕を賜って事に当たった。十年(1435年)、郭濟・姚文らを知府に用いたのも同様であった。保挙された者は郎中・員外・御史および司務・行人寺副までみな与かり、通常の任用によらなかった。
  • のち政績を挙げる者が多かった。部曹および御史は堂上官の薦引によって、おおむねその官に能く堪えた。吏部の長であった蹇義・郭璡もたびたび敕諭を受けた。
  • 帝はまた、諸臣が連坐を恐れて挙げないことを心配し、大學士楊溥に、全才を得ることの難しさを語り、一言の推薦でどうしてその終身を保証できようか、賢才を得たいならなおさら教養の法を厚くすべきだ、と言った。そのため当時の吏治は盛んに栄えたと称された。
  • 英宗に及んでも旧を遵ったが、久しく行ううちに弊がないわけにいかなかった。挙げられる者は同郷・親旧・僚属・門下で平素から私に親しい者であることもあった。地方の大吏である方正・謝莊らは保舉によって罪を得た。また保挙する官がないため、中央では御史、地方では知府が往々にして九年も昇進しなかった。
  • 正統七年(1442年)、縣令を薦舉する制を罷めた。十一年(1446年)、御史黄裳が、給事中・御史は国初には奏して地方長官・郡守に遷ったが、近年は地方長官・郡守がおおむね廷臣の保陞によっている、給事中・御史は糾弾を職とするのにどうして誰にも忤らわずにいられよう、と言い、吏部に例により奏請して除授するよう命じることを乞うた。帝はその言を是として部に議して行わせた。
  • 翌年、給事中余忭がふたたび方正・謝莊らの失敗を指摘し、推挙者を連坐させるべきだとし、また地方長官・郡守に欠員があれば吏部が奏請して上裁を仰ぐべきだと言った。尚書王直、英國公張輔らは、地方長官・郡守の保舉による昇用は称職の者が多く、みだりに改めるべきでないと言った。英宗はやはり輔・直の言に従いつつ、忭の疏も採って言官の指弾を許した。
  • 十三年(1448年)、御史涂謙がふたたび、薦挙で地方長官・郡守を得るとたちまち以前の節操を改める弊を述べ、なお洪武の旧制に遵って内外の九年考満の官の中から選んで昇授するか、あるいは親しく朝臣で才望ある者を択んで任じるよう請い、詔して許された。大臣が官を挙げる例はここで罷められた。
  • 景泰中にふたたび保舉を行った。給事中林聰が推挙による急な昇進の弊を述べ、今、參政などの官が三十余員欠けているので、しばらく三品以上の官に保舉させるよう請うた。以後は布政・按察の両司のみ三品以上の官が連名で共に挙げ、その余はすべて吏部に付すこととし、詔していずれも従われた。
  • 成化五年(1469年)、科道の官がふたたび地方長官の保舉を請い、吏部はあわせて郡守にも及ぼした。帝は言官の請に従いつつ、知府の欠員はなお吏部の推挙に任せると命じた。翌年、會舉に不当が多いとして、地方長官についても吏部に二員を推して報告させるにとどめ、保舉の令を罷めた。
  • やがて都御史李賓が、在京五品以上の管事の官および給事中・御史にそれぞれ知る者を挙げさせて州縣に任じるよう請い、従われた。
  • 𢎞治十二年(1499年)、ふたたび詔して部院の大臣にそれぞれ地方長官・郡守を挙げさせた。吏部はそこで、往年、御史馬文升が按察使に遷り、屠滽が僉都御史に遷った例により、一、二人を超擢して激励を示し、まだ大臣の薦舉を経ていない者も併せ採るよう請い、いずれもその議に従われた。
  • このとき孝宗は治を求めることに意を鋭くし、吏・兵の二部に毎季、両京の府部の堂上および文武の地方官の履歴を揭帖にして奏覧させた。ただし保舉の法と兼ね行ったので、それだけに頼って治めたわけではない。
  • 正徳以後、揭帖の制は次第に廃れた。嘉靖八年(1529年)、給事中夏言がふたたび𢎞治の故事に循うよう請い、あわせて舉劾・賢否の略節を毎季の孟月に部臣から科に送って御前に達するよう請い、令とするよう命じられた。しかし地方長官・郡守を保舉する法は、明の世が終わるまでふたたび行われなかった。
  • なお、事に坐して斥免された者を、人材が急に要るために薦挙するのを起廢といい、家居のまま召され、欠員に備えてあらかじめ補するのを添註という。これらも銓法に詳しく定められておらず、中葉以後に時おり一度行われたものである。

考滿と考察

  • 考滿と考察の二つは相輔って行われる。考滿は一身の経てきた俸を論じ、その項目に三つある。稱職・平常・不稱職で、上中下の三等とする。
  • 考察は天下の内外の官を通じて計り、その項目に八つある。貪・酷・浮躁・不及・老・病・罷・不謹である。
  • 考滿の法は、三年の在職を給由して初考、六年を再考、九年を通考といい、職掌の事例によって考覈して昇降する。諸部・諸寺の属官は初めは署職にとどまり、考滿して初めて実授される。地方官はおおむね順次に考えて審査を待つ。雜考は一、二年、あるいは三年・九年のこともある。郡縣の繁簡が官と釣り合わないときは互いに官を換え、これを調繁・調簡という。
  • 洪武十一年(1378年)、吏部に朝覲の官の成績を課させた。稱職で過失のない者を上とし、坐って宴に与からせる。過失があっても稱職の者を中とし、宴に与かるが坐らせない。過失があって不稱職の者を下とし、宴に与からせず門に序立させ、宴が終わってのち退かせた。これが朝覲考覈の始まりである。
  • 十四年(1381年)、その法がやや定まった。在京の六部で五品以下は本衙門の正官にその行いと能力を察し勤怠を検めさせる。四品以上および一切の近侍官、御史のように耳目・風紀を司る者、および太醫院・欽天監・王府の官で常選にない者は、任満の黜陟を上裁に取る。直隷の有司の首領官および属官は本司の正官が考覈し、任満ののち監察御史が覆考する。各布政使司の首領官はみな按察司が考覈する。茶馬・鹽馬・鹽運・鹽課提舉司の軍職首領官はみな布政司が考覈し、なお按察司に送って覆考させる。布政司の四品以上、按察司・鹽運司の五品以上は任満の黜陟を上裁に取る。内外の入流および雜職の官は九年の任満で給由して吏部に赴き、考覈して例により黜陟する。特に殊勲・異能で同輩を超える者は上裁に取る。
  • また事の繁簡と歴任の成績を参照し合わせて等第の昇降とした。繁簡の例は、地方では府は田糧十五万石以上、州は七万石以上、縣は三万石以上、あるいは王府に親臨する所、都司・布政司・按察司の三司のある所、軍馬の守禦や駅道に当たる所、辺方の要衝で供給のある所は、いずれも事繁とする。府で糧が十五万石に及ばず、州で七万石に及ばず、縣で三万石に及ばない所および僻静の所は、いずれも事簡とする。在京の諸司はみな繁の例による。
  • 十六年(1383年)、京官の考覈の制をやや加減し、いずれもその長官が具して部に送って考覈させることとした。
  • 十八年(1385年)、吏部が、天下の布政・按察・府・州・縣の朝覲官は合わせて四千百十七人で、稱職は十のうち一、平常は十のうち七、不稱職は十のうち一、貪汚闒茸もあわせて十のうち一である、と言上した。帝は、稱職の者を昇進させ、平常の者を復職させ、不稱職の者を降し、貪汚の者を法司に付して罪し、闒茸の者は免じて民とせよ、と命じた。
  • 永樂・宣徳の間には、中央・地方の官でこれまで例のなかった者をやや加え入れた。また部議に従い、初考が稱職で次考が未考覈、今考が稱職の者、および初考が平常で次考が未考覈、今考が稱職の者は、いずれも稱職の例により昇用することとした。
  • 以後はおおむね旧制を遵って行い、その間の利弊は枚挙にいとまがないが、法に大きな変更はなかった。

考察の法――京察と外察

  • 考察の法は、京官は六年に一度、己・亥の年に行う。四品以上は自陳して上裁を仰ぎ、五品以下は致仕・降調・閒住・為民に区別して差をつけ、冊を具えて奏請する。これを京察という。
  • 𢎞治の時から、地方官は三年に一度の朝覲を定め、辰・戌・丑・未の年に察典がこれに伴った。これを外察という。州縣は月ごとに計って府に上げ、府はその考を上下して年ごとに計って布政司に上げ、三年に至って撫按が属官の事状を通核し、冊を作って報告し、八法に照らして処分する。察の例に四つあるのは京官と同じである。
  • 明初から行われて廃されず、これを大計という。計によって処分された者はふたたび叙用しないと定めて永制とした。
  • 洪武四年(1371年)、工部尚書朱守仁に山東の萊州の諸郡の官吏を廉察させた。六年(1373年)、御史臺の御史および各道の按察司に、有司の官に過犯があるかを察挙して奏報し黜陟させた。これが考察の始まりである。
  • 洪熙の時、御史に地方官の考察を命じたが、命を奉じる者に私がないとは限らないので、吏部尚書蹇義に厳しく戒飭し、務めて至公を尽くすよう諭した。
  • 景泰二年(1451年)、吏部と都察院の考察で黜退すべき者が七百三十余人に上った。帝はその当否を心配し、なお諸大臣を集めて改めて考えさせ、三分の一を留めた。
  • 成化五年(1469年)、南京吏部右侍郎章綸と都察院右僉都御史高明が庶官を考察した。帝は各衙門の掌印官が連署していないことから当を得ていないのではないかと疑い、侍郎葉盛と都給事中毛𢎞に公平に体勘させ、改定するところもあった。
  • 𢎞治六年(1493年)、考察で罷めるべき者が合わせて千四百員、さらに雜職が千百三十五員に上った。帝は、地方長官・知府については必ず実跡を指し示し、虚文や漠然とした言葉で人を枉げないよう諭し、府州以下で任期がまだ三年に満たない者も通核して奏せと命じた。
  • 尚書王恕らが具さに陳べて請い、府州縣の官で貪鄙にして民を害する者は年浅くとも黜けねばならないとした。帝はしかし人材を得がたいとして、諄々と諭を降して多くを許し宥した。黜けるべきなのに留められた者が九十余員に上った。給事中・御史はさらに交々章を上って、遺漏された者および退けるべきなのに留められた者の黜退を請うた。ふたたび吏部に実跡を指し示すよう命じたので、恕は各官の考語および本部が訪察したところを疏して報告した。それでも帝は考語が実でないとして復核を命じた。恕は言が用いられず、また中傷する者があるかと疑って、ついに強く辞職を求めた。
  • 十四年(1501年)に至って、南京吏部尚書林瀚が言った。地方の司・府以下の官はみな三年に一度考察し、両京および地方の武職の官も五年に一度考選するのに、両京の五品以下の官だけは十年たって初めて一度考察する。法があまりに大まかである、と。旨が吏部に下されて瀚の言のとおり覆請され、京官を六年に一度察する例が定まった。
  • 京察の年には、大臣が自陳して去留が定まったのち、在官のまま行いに落ち度のある者を給事中・御史が糾劾する。これを拾遺という。拾遺で攻撃された者に免れる者はなかった。
  • 𢎞治・正徳・嘉靖・隆慶の間は、士大夫が廉恥をもって自ら重んじ、察典に引っかかることを終身の汚点とした。萬厯の時に至ると、閣臣が庇うところがあって、一、二を留めて察典を撓めることもあった。群臣の水火の争いは辛亥(萬厯三十九年、1611年)・丁巳(萬厯四十五年、1617年)の事より甚だしいものはない。事は各伝の中に記す。党派の局面が成ってからは互いに報復し合い、国が亡ぶに至ってようやく已んだ。

武職の選――兵部の武選

  • 兵部には四司があり、武選が除授を、職方が軍政を掌り、その職はとくに要である。
  • 武職は、中央では五府・留守司、地方では各都司・各衞所および三宣六慰である。流官は八等で、都督および同知・僉事、都指揮使・同知・僉事、正副の留守。世官は九等で、指揮使および同知・僉事、衞所の鎮撫、正副の千戸、百戸、試百戸である。
  • 直省の都指揮使は二十一、留守司は二、衞は九十一、守禦・屯田・羣牧の千戸所は二百十一。このほか苗蠻の土司はみな兵部の選任に従った。
  • 永樂初から三大營を増設し、それぞれ管操官を置き、各哨には分營坐營官・坐司官があった。景泰中に團營十を設け、のちに二を増やし、それぞれ坐營官があったが、いずれも親信の大臣を特に命じて提督させ、兵部の銓選するところではなかった。
  • 大選には色目・狀貌・才行・封贈・襲廕がある。その道は四つ、世職・武舉・行伍・納級である。
  • 初め、武職はおおむね勲旧によった。太祖はその不服従を慮って『武士訓戒録』『大誥武臣録』を頒った。のちには將材を参用し、三年に武舉、六年に會舉、毎年の薦舉があり、いずれも兵部が除授を掌った。
  • 久しくして法紀は崩れ、選用は紛雑となった。正徳の間には功を偽って昇授された者が三千余に上った。
  • 嘉靖中、詹事霍韜が言った。成化中には太祖の時の軍職の四倍に増え、今はさらに幾倍にもなった。錦衣は初めの定額が二百五員だったが、今は千七百員に至り、およそ八倍に増えた。洪武の初め、軍功による襲職の子弟は二十歳で比試し、初試に合格しなければ襲職して署事し半俸を食み、二年後の再試に合格すれば全俸を食み、なお合格しなければ軍に充てた。その法が極めて厳しかったので官職は冗長にならず俸も給しやすかった。永樂ののちは新任の官は試験を免れ、旧任の官が比試しても賄賂によって合格しない者がない。これが軍職の日ごとに濫れる理由である。永樂の交阯平定では賞するだけで昇進させなかったのに、近ごろは敵の首を得た者が昇るのみならず、奏帶や妖言の摘発・捕盗の者まで昇進しない者がない。これが軍職のいよいよ冗長になる理由である。大臣に命じ、清黄の例に循って内外の武職一切について功労を差次し、その祖宗の相承、叔姪・兄弟の継承、洪武・永樂年間の功か宣徳以後の功か、内監の弟姪の恩廕か、勲戚・駙馬の子孫か、武舉の合格かをそれぞれ数等に分け、ひそかに汰省の法を寓し、あるいは世襲を許し、あるいは終身を許し、あるいは継承を許し、あるいは許さないとして、それぞれ冊籍を具えて明白に示し、激励とすべきである、と。
  • そこで給事中夏言らに濫りな加官の査覈を命じた。言らはその弊を指陳して言った。鎮守官の奏帶は旧くはわずか五名だったのが今は三、四百名に至る。一人でありながら数か所で奏帶される者もあり、一時に数か所で功を得る者もある。そのほかにも巧みに名目を立て、記録と検証に審覈を加えず、銓選にも駁勘がない。改正・重陞・併功・加授の類など弊端は百出しているから、ことごとく革めて神断を明らかにすべきである、と。部は議のとおり査覈し、恩倖による冗濫は数千を数えて汰され、久しい弊害が一掃された。
  • 萬厯十五年(1587年)、ふたたび詔して厳しく察核させ、また提督・鎮守および科道が兵部と会同して、品・年・資・課・技藝を序して薦剡を三等に分けることを命じ、これを公選と名づけた。しかし虚名を飾るだけで実効はほとんどなかった。

武官の襲替と會推

  • 武官の爵は六品までである。その職は、死んだ者は襲がせ、老病の者は替え、代を経て絶えれば旁支に継がせ、年六十の者は子に替えさせる。
  • 明初の定例では、嫡子に襲替させ、長幼の順に次を及ぼす。絶えれば嫡子の子・庶子の子の順に及ぼす。それも絶えれば弟に継がせる。
  • 永樂ののちは官舎・旗軍・餘丁でかつて戦功を経た者を取り、もとの帯俸および管事のまま襲替させ、いずれもこれに従った。降級された者の子孫はなお降された職事のまま替えさせた。
  • 𢎞治の時、旁支は級を減じて承襲させることとした。正徳中、旁支は總旗に入れることとした。嘉靖の間、旁支で功のない者は保送を許さないこととした。
  • 昇進した職の官舎は父の職と同じとする。陣没して襲を保証された者は流官の一等とする。襲替する官舎はみな騎射で試験する。おおむね世職は査覈しにくいので条例はとくに詳しいが、弊が長じて奸が群がることもまた少なくなかった。
  • 官の大なる者は必ず會推する。五軍都督府の掌印に欠員があれば現任の公・侯・伯から一人を取り、僉書に欠員があれば帯俸の公・侯・伯および在京の都指揮、地方の正副總兵官から二人を推す。錦衣衞の堂上官および前衞の掌印の欠員は五府の例に准じて二人を推す。都指揮・留守以下は一人を上申する。
  • 正徳十六年(1521年)、五府および錦衣衞は必ず都指揮でしばしば勲功を顕した者から昇授するよう命じた。諸衞の官は世襲でなく、ただ錦衣だけが武を世襲した。

軍政――武職の考察

  • 軍政は文の考察に当たるものである。成化二年(1466年)、五年に一度行うこととし、現任の掌印・帶俸・差操および初襲の官を一律に考覈することとした。十三年(1477年)、両京を通じて考えるのを常とした。
  • 五府の大臣および錦衣衞の堂上官は自陳して旨を待ち、直省の總兵官も同様とする。中央の五府の属官および直省の衞所の官は、みな巡視官および部官が註して送る。地方の都司・衞所の官は撫按が冊を作って部に納める。副參以下、千戸以上は都司・布政司・按察司の三司が察して註し送り、撫が部に咨って考舉し題奏する。
  • 錦衣衞で戎務を管する者は倍して厳しく考え、南北の鎮撫がこれに次ぐ。各衞所および地方の守禦、ならびに各都司で巡撫に隷する者も例は同じである。ただ漕運を管する者だけは考察に与からない。