明史卷七十 志第四十六 選舉二

科目の制度――試験の方式

  • 科目は唐宋の旧制を承けてやや変え、士を試す法として四子書(四書)と易・書・詩・春秋・禮記の五経から題を出して試験した。太祖と劉基が定めたものである。
  • その文はおおよそ宋の経義に倣うが、古人の語気を代弁して書き、体裁は排偶を用いる。これを八股といい、総称して制義という。
  • 三年に一度の大比で諸生を試す。直隷・諸省で行うのを鄉試といい、合格者を舉人という。翌年、舉人を京師で試すのを會試といい、合格者は天子が親しく廷で策問する。これを廷試、また殿試という。
  • 一甲・二甲・三甲に分けて名次とする。一甲は三人のみで、状元・榜眼・探花といい、進士及第を賜る。二甲は若干人で進士出身を賜り、三甲は若干人で同進士出身を賜る。
  • 状元・榜眼・探花の名は制度で定められたものである。士大夫はさらに、鄉試第一を解元、會試第一を會元、二甲・三甲の第一を傳臚と通称した。
  • 子・午・卯・酉の年に鄉試、辰・戌・丑・未の年に會試を行う。鄉試は八月、會試は二月で、いずれも初九日を第一場とし、三日おいて第二場、さらに三日おいて第三場とする。
  • 科舉を初めて設けたときは、初場に経義二道・四書義一道、二場に論一道、三場に策一道を試し、合格の十日後にさらに騎・射・書・算・律の五事を試した。
  • のち科舉の定式を頒布した。初場は四書義三道・経義四道。四書は朱子『集註』を主とし、易は程氏『傳』と朱子『本義』、書は蔡氏『傳』および古註疏、詩は朱子『集傳』、春秋は左氏・公羊・榖梁の三傳および胡安國・張洽の傳、禮記は古註疏を主とした。永樂の間に『四書五經大全』を頒って註疏を廃し、のち春秋も張洽傳を用いず、禮記は陳澔『集説』だけを用いた。二場は論一道・判五道・詔誥表内科一道。三場は経史時務策五道。廷試は三月朔日に行う。
  • 鄉試は直隷では京府、各省では布政司で行い、會試は禮部で行う。鄉試・會試とも主考は二人、同考は鄉試四人・會試八人。提調一人は、中央では京官、地方では布政司の官、會試では禮部の官が当たる。監試二人は、中央では御史、地方では按察司の官、會試では御史。供給・收掌試卷・彌封・謄録・對讀・受卷および巡綽・監門・搜檢懐挾にはいずれも定員があり、それぞれの職を執った。

受験資格と場内の規則

  • 受験できるのは、國子生および府州縣學の生員で学業の成った者、まだ仕えていない儒士、流内に入らない官である。いずれも有司が性質敦厚で文行の称すべき者を申し出て応じさせる。
  • 學校の訓導で専ら生徒を教える者、罷免・閑職の官吏、倡優の家の者、父母の喪に服する者は、いずれも受験を許されない。
  • 答案の巻首には三代の姓名、本貫、年齢、修めた本経を書き、所司が印を押す。試験当日の入場では、質問や身代わりを禁じた。日が暮れても提出できない者には燭三本を与えた。文中では御名・廟號を避け、自らの門地を叙することを許さない。彌封して番号を編み、三合の字を作る。
  • 受験者が墨で書いたものを墨卷といい、朱で謄写したものを硃卷という。試験の場所を貢院、諸生の座席の小屋を號房といい、一人につき兵一人が守るのを號軍という。試官が入院すると内外の門戸を封鎖する。外にいる提調・監試などを外簾官、内にいる主考・同考を内簾官という。
  • 廷試では翰林および朝臣で文学の優れた者を讀卷官とし、対策を共同で閲して名次を擬定し、天子の臨軒を待つ。擬定のとおりにすることもあれば、更定することもある。制を伝えて唱第する。
  • 状元は修撰、榜眼・探花は編修を授かる。二甲・三甲で庶吉士に選ばれた者はみな翰林官となる。その他は給事中・御史・主事・中書・行人・評事・太常博士・國子博士、あるいは府の推官・知州・知縣などを授かる。
  • 舉人・貢生で及第せず入監して選ばれた者は、小京職、または府の佐貳・州縣の正官、あるいは教職を授かる。以上が明一代の取士の大略である。
  • 明の世を通じて文を右にし武を左にしたが、武科も設けて人を収めたので、附して列することができる。

太祖の科舉開設

  • 初め太祖は挙兵にあたってまず賢才を集めた。吴元年(1367年)、文武二科で士を取る令を設け、有司に民間の秀士および智勇の人を勧め諭させ、時をみて学に励ませ、科挙開設の年に京師へ貢するよう命じた。
  • 洪武三年(1370年)、詔した。漢・唐・宋の取士にはそれぞれ定制があったが、文学を貴ぶだけで徳と芸の全きを求めなかった。前の元は士を厚遇したが、権豪・勢要がしきりに奔競の人を受け入れ、縁故に阿附して仕禄を掠めたので、才を懐き道を抱く者はこれと並び進むのを恥じ、山林に隠れて出なかった。風俗の弊はここまで至った。今年八月から特に科舉を設け、経に明るく行いを修め、古今に博通して名実の相称う者を取る。朕は親しく廷で策問し、高下を定めて官に任じ、中外の文臣をみな科舉から出させる。科舉によらぬ者は官に与からせない、と。
  • こうして京師と行省でそれぞれ鄉試を行った。貢額は直隷百人、河南・山東・山西・陜西・北平・福建・江西・浙江・湖廣はみな四十人、廣西・廣東はみな二十五人。才が多いか足りない場合は額に拘らない。高麗・安南・占城には、その国の士子が本国で鄉試を受けて京師に貢し赴くことを許した。
  • 翌年の會試で百二十名を合格させた。帝は自ら策問を作り、奉天殿で試み、吴伯宗を第一に抜擢した。午門外に黄榜を掲げ、奉天殿で宣諭し、中書省で宴を賜った。伯宗に禮部員外郎を授け、その余は順に官を授けた。
  • 当時は天下が定まったばかりだったので、各行省に三年続けて試験を行わせ、また官に欠員が多かったので、舉人にはみな會試を免じて京に赴き選を待たせた。
  • さらにその年少で俊異な者、張唯・王輝らを翰林院編修に、蕭韶を秘書監直長に抜擢し、宮中の文華堂に入って学業を修めさせ、太子賛善大夫の宋濓らを師とした。帝は聴政の余暇にしばしば堂中に行幸してその文字の優劣を評し、日ごとに光禄の酒饌を給し、食事のたびに皇太子・親王が代わる代わる主人役を務めた。白金・弓矢・鞍馬および冬夏の衣を賜り、寵遇はきわめて厚かった。
  • やがて帝は、取った者に後生の少年が多く、学んだところを実行に移せる者が少ないと考え、有司に賢才を察挙させるだけにして科舉を廃し用いなかった。
  • 洪武十五年(1382年)に復設し、十七年(1384年)に初めて科舉の式を定め、禮部に命じて各省に頒行させ、以後これを永制とした。そして薦舉は次第に軽んじられ、久しくして廃されて用いられなくなった。

進士・庶吉士・觀政進士の始まり

  • 洪武十八年(1385年)の廷試で、一甲進士の丁顯らを翰林院修撰、二甲の馬京らを編修、吴文を檢討に抜擢した。進士が翰林に入るのはこれに始まる。
  • 進士に諸司で政を観させ、翰林・承敕監などの衙門にいる者を庶吉士といった。進士が庶吉士となるのもこれに始まる。六部・都察院・通政司・大理寺などの衙門にいる者はなお進士觀政と称した。觀政進士の名もこれに始まる。
  • その後、合格の定額に増減があり、条例に変更があり、考官に内外・軽重があり、試験の運営に是非得失があった。細かなことは論じないが、国是に関わるものは述べないわけにいかない。

鄉試・會試の定額

  • 鄉試の定額。洪武十七年(1384年)の詔では額数に拘らず実情に従って貢させた。洪熙元年(1425年)に初めて定額を設けた。のち次第に増え、正綂の間には南北の直隷を百名、江西を六十五名とし、他省は五から順に減じて雲南の二十名が最少であった。
  • 嘉靖の間に四十まで増え、貴州も二十名となった。慶厯・啟禎の間(底本は「慶厯」に作る。「隆萬」の誤りか)には両直隷はさらに百三十余名まで増え、他省も次第に増えたが百名を超えるものはなかった。交阯は開いた当初は十名を額としたが、その地を棄てるに及んで止んだ。
  • 會試の定額。国初は定めがなく、少ないときは三十二人、多いときは洪武乙丑(洪武十八年、1385年)・永樂丙戌(永樂四年、1406年)のように四百七十二人に達した。のちは百名、二百名、二百五十名、三百五十名と増減一定せず、いずれもその時ごとに奏請して決めた。
  • 成化乙未(成化十一年、1475年)以後はおおむね三百名を取り、題請や恩詔によって五十名または百名を広げることもあったが、恒例の制ではない。

南北中卷の分割

  • 初めの制では禮闈の取士に南北を分けなかった。洪武丁丑(洪武三十年、1397年)、考官の劉三吾・白信蹈が取った宋琮ら五十二人はみな南方の士であった。三月の廷試で陳䢿を第一に抜擢したところ、帝はその偏りに怒り、侍讀の張信ら十二人に覆閲を命じ、䢿もこれに加わった。帝はなお怒りやまず、信蹈および信・䢿らをことごとく誅し、三吾を辺境に流し、自ら答案を閲して任伯安ら六十一人を取った。六月にふたたび廷試して韓克忠を第一とし、みな北方の士であった。
  • しかし永樂の間まで地域を分けて取ることはなかった。洪熙元年(1425年)、仁宗が楊士竒らに命じて取士の額を南人十六・北人十四と定めた。
  • 宣徳・正統の間には南・北・中の三巻に分け、百人を基準として南五十五名・北三十五名・中十名とした。
  • 景泰初、詔書で永樂間の例に従うよう命じた。二年辛未(1451年)、禮部がまさに奉行しようとしたとき、給事中李侃が争って、部臣は文詞を専らにして南人を多く取ろうとしていると言い、刑部侍郎羅綺も侃を助けた。事は禮部に下されて覆奏させたが、部臣は詔書を奉じたのであって私請ではないと答えた。景帝は詔書に従うよう命じ、侃の議には従わなかった。
  • まもなく給事中徐廷章がふたたび正綂の間の例によるよう請うた。五年甲戌(景泰五年、1454年)の會試で禮部が裁定を奏請し、そこでふたたび廷章の言に従って南北中の巻に分けた。南巻は應天および蘇州・松江の諸府、浙江・江西・福建・湖廣・廣東。北巻は順天・山東・山西・河南・陜西。中巻は四川・廣西・雲南・貴州および鳯陽・廬州の二府、滁州・徐州・和州の三州である。
  • 成化二十二年(1486年)、萬安が国政を執り周洪謨が禮部尚書であったが、ともに四川の人であったので、布政使潘稹の請によって南北からそれぞれ二名を減らして中に加えた。𢎞治二年(1489年)に旧制に戻し、以後はそのまま改めなかった。
  • ただ正徳三年(1508年)、給事中趙鐸が劉瑾の意を承けて河南・陜西・山東・山西の鄉試の額を広げるよう請い、陜西を百、河南を九十五、山東・山西をともに九十に増やした。そして會試の南北中巻の分けが不均等だとして、四川の額十名を増やして南巻に併せ、その余は北巻に併せ、南北から均しく百五十名を取ることとした。瑾は陜西の人、閣臣の焦芳は河南の人で、票旨で互いに阿附し、それぞれ私を通したのである。瑾と芳が失脚するとまもなく旧に復した。

鄉試の考官

  • 初めの制では両京の鄉試の主考にはみな翰林を用い、各省の考官は事前に儒官・儒士のうち経に明るく公正な者を招いて任じた。そのため朝列にないまま何度も文衡を執る者があった。
  • 景泰三年(1452年)、布政・按察の二司と巡按御史が、現任の教官で年五十以下三十以上、文学があり廉謹な者を推挙して考官に招くよう命じた。教官が試験を主宰することが定例となった。
  • のち有司が私に招いて人を得なかったり、監臨官がその職掌を侵奪することも往々あった。成化十五年(1479年)、御史許進が各省も両京の例にならって翰林を主考に特命するよう請うたが、帝は禮部に私弊を厳しく戒めるよう諭しただけでその請には従わなかった。たびたび外簾官に主考の権を奪わないよう戒め、考官が不適当なら推挙者を連坐させ、また提學に教官の等第を考定させて招聘に備えさせた。しかし久しい慣習は改めがたかった。
  • 𢎞治十四年(1501年)、國子監を掌る謝鐸が言った。考官はみな御史や地方長官が招いた者で、職分が卑しく指図に従うほかない。外簾官が去就をあらかじめ定めるのは、防閑と称して実は闗節であり、科舉の法は壊れた。両京の大臣にそれぞれ部属などの官で文望のある者を挙げさせ、一省につき二員を主考として派遣すれば弊は革められよう、と。当時は従われなかった。
  • 嘉靖七年(1528年)、兵部侍郎張璁の言により、各省の主試にはみな京官または進士を遣わし、一省につき二人を馳せ向かわせた。当初は両京の房考もみな教職から取っていたが、このとき各省に科・部の官一員を加えた。二科を閲したのち、両京の房考はふたたび科・部の官を遣わすのをやめ、各省の主考にも京官を遣わさなくなった。
  • 萬厯十一年(1583年)、詔して科場の事宜を定めた。部議はふたたび張璁の説を挙げ、当時は主考と監臨官の礼節の小さな行き違いのために二科だけ行って止めたのだが、今はやはり廷臣を遣わすべきだと言った。これにより浙江・江西・福建・湖廣にはみな編修・檢討を用い、他省には科・部の官を用い、同考にも甲科を多く用いて、教職はわずか一、二人を取るだけとなった。
  • そもそも嘉靖二十五年(1546年)、給事中萬虞愷の言により、各省の鄉試には教官を精選し、足りなければ他省の推官・知縣を招いて補うこととした。四十三年(1564年)、南京御史の奏により、両京の同考には京官の進士を用い、易・詩・書は各二人、春秋・禮記は各一人とし、その余に教官を参用することとした。萬厯四年(1576年)、両京の同考で老衰した教官は帰らせ、北京は觀政進士と候補の甲科から補い、南京は近くの知縣・推官から取ることとした。ここに至って教官はいよいよ減った。

會試の同考の増加

  • 初めの制では會試の同考は八人で、三人を翰林、五人を教職から用いた。景泰五年(1454年)、禮部尚書胡濙の請により、みな翰林と部曹を用いた。
  • のち房考は次第に増え、正徳六年(1511年)には十七人を用い、翰林十一人、科・部各三人とし、詩経房五、易経・書経各四、春秋・禮記各二に分けた。
  • 嘉靖十一年(1532年)、禮部尚書夏言が科場の三事を論じた。その一に、會試の同考は例により講讀官十一人を用いるが、今の講讀はわずか十一人しかいないので、全員を入場させてやっと足りる。部・科からさらに三、四人を選んで翰林の不足を補いたい、と。世宗は請のとおり命じた。しかし一度きり行われただけで、すぐ旧に戻った。
  • 萬厯十一年(1583年)、易の答案が多かったので書を一つ減らして易に加えた。十四年(1586年)、書の答案がまた多くなったので翰林一人を増やして書の欠を補った。四十四年(1616年)、給事中余懋孳の奏により、詩・易にそれぞれ一房を増やして合計二十房とし、翰林十二人、科・部各四人とした。明末まで変わらなかった。

庶吉士の選

  • 洪武の初め、諸進士に中書省で宴を賜った。宣徳五年(1430年)は中軍都督府で、八年(1433年)は禮部で宴を賜り、以後これを令とした。
  • 庶吉士の選は洪武乙丑(洪武十八年、1385年)に進士から選んだのに始まるが、専ら翰林に属したわけではない。
  • 永樂二年(1404年)、一甲三人の曽棨・周述・周孟簡らに官を授けたのち、さらに二甲から文学優等の楊相ら五十人、および書に善い湯流ら十人を選び、いずれも翰林院庶吉士とした。庶吉士が翰林に専属するのはこれによる。
  • さらに学士解縉らに才資英敏の者を選ばせて文淵閣で学ばせた。縉らは修撰の棨、編修の述・孟簡、庶吉士の相ら合わせて二十八人を選び、二十八宿の数に応じた。庶吉士の周忱が年少で学びたいと自ら申し出、帝は喜んで許し、忱を加えて二十九人とした。
  • 司禮監が月々に筆・墨・紙を給し、光禄が朝夕の食を給し、禮部が月々に膏燭と鈔を一人三錠ずつ給し、工部が近くの邸宅を選んで住まわせた。帝は時おり館に至り、召して試み、五日に一度の休沐には必ず内臣を随行させ、校尉と騶従を給した。
  • この年に選ばれた王英・王直・叚民・周忱・陳敬宗・李時勉らのうち、後世に名を伝えた者は十余人を下らない。
  • その後は科ごとに選ぶ数が多寡定まらなかった。永樂十三年乙未(1415年)は六十二人を選び、宣徳二年丁未(1427年)はわずか邢恭一人だけであった。恭が翰林院で四夷の訳書を久しく習っており、他の者は与かれなかったからである。
  • 𢎞治四年(1491年)、給事中涂旦が、幾科も庶吉士を選んでいないとして祖制どおり行うよう請うた。大學士徐溥が言った。永樂二年以来、一科おきに選ぶこともあり、続けて選ぶこともあり、数科選ばぬこともあり、三科を合わせて選ぶこともあって、初めから定めた限りがない。内閣が自ら選ぶことも、禮部が選び送ることも、禮部と共同で選ぶこともあり、年齢を限ることも、地方に拘ることも、名声で採ることも、廷試の答案から取ることも、別に題を出して試験することもあって、これも定制がない。古来、帝王は館閣に才を蓄えて教養してきたが、本朝で蓄え養う道は及第の進士のほか庶吉士の一途のみである。それが選ばれたり選ばれなかったりし、才ある者が必ず選ばれるわけでも、選ばれた者が必ず才あるわけでもない。さらに地方や年齢に拘れば、すでに成った才を多く棄てて用いないことになる。今後は定制とし、一度科を開けば一度選用したい。新進士に平素作った論・策・詩・賦・序・記などの文字を十五篇以上録して禮部に呈させ、翰林に送って考訂させる。年少で新作五篇のある者にも投試を許す。翰林院がその詞藻文理の取るべき者を選んで番号によって取り、禮部が糊名した答案を用意し、閣臣とともに題を出して東閣で試験する。答案が投じた文と釣り合っていればそのまま予選に収める。一科の選は二十人を超えず、一選で留める者は三人か五人を超えないようにすれば、将来の成就に頼るに足る者があろう、と。
  • 孝宗はその請に従い、内閣が吏・禮の二部とともに考選することを常例とした。
  • 嘉靖癸未(嘉靖二年、1523年)から萬厯庚辰(萬厯八年、1580年)までの間に九科は選ばれなかった。神宗はしばしば一科おきの選を命じたが、禮部侍郎吴道南は不可とした。崇禎甲戌(崇禎七年、1634年)・丁丑(崇禎十年、1637年)もまた選ばず、その余はみな例に遵った。
  • 選ばれた者を館選といい、翰林・詹事の官で位が高く資深な者一人がこれを教えるのを教習という。三年で学が成り、優れた者は翰林に留めて編修・檢討とし、次の者は出して給事中・御史とする。これを散館という。通常の任用で選を待つ官とは体格がまったく異なった。

翰林から内閣へ――進士偏重の確立

  • 成祖の初年、内閣の七人のうち翰林でない者が半ばを占め、翰林の纂修にも諸種の出身が参用されていた。天順二年(1458年)、李賢の奏によって纂修は専ら進士から選ぶと定められた。
  • これにより進士でなければ翰林に入らず、翰林でなければ内閣に入らず、南北の禮部尚書・侍郎および吏部右侍郎も翰林でなければ任じられなくなった。庶吉士は初めて進むときからすでに「儲相」と目された。
  • 明一代の宰輔百七十余人を通計すると、翰林出身が十のうち九である。科舉が前代より盛んであったうえに、翰林の盛んなことは前代に絶えてなかったことである。

輔臣の子と科場

  • 輔臣の子弟は国初には及第する者が少なかった。景泰七年(1456年)、陳循と王文は、その子が北闈に落第したことから主考の劉儼を力攻し、台省は騒然としてその失を論じた。帝はしかたなく二人の意に従って、その子に會試を同様に受けさせたが、内心では二人を軽んじた。
  • 正徳三年(1508年)、焦芳の子黄中が會試に合格した。芳は嫌疑を避けて讀卷しなかったが、黄中は二甲の首に置かれた。芳はなお不満で、諸翰林を降調して憤りを晴らすまでに至った。
  • 六年(1511年)、楊廷和の子慎が廷試第一となった。廷和もこのとき嫌疑を避けて讀卷しなかったが、慎は高才で及第したので誹る者はなかった。
  • 嘉靖二十三年(1544年)の廷試で、翟鑾の子汝儉・汝孝がともに合格者に入った。世宗は二人が濫りに首甲に入ったことを疑い、第一に擬された者を抑えて第三とし、第三の者を三甲に置いた。ところが封を開くと、擬された第三の者がまさに汝孝であった。帝は大いに疑った。
  • 給事中の王交・王堯日が、會試考官の少詹事江汝璧および諸房考の朋党・私通・収賄を弾劾し、さらに順天鄉試の考官秦鳴夏・浦應麒が鑾に阿附した罪をも追論した。汝璧らは鎮撫司の獄に下され、裁きが定まると、詔して汝璧・鳴夏・應麒に杖を加えて革職・閑住とし、鑾父子を民に落とした。
  • 神宗の初め、張居正が国政を執った。二年甲戌(萬厯二年、1574年)、その子が禮闈に落第したので居正は喜ばず、庶吉士を選ばなかった。五年(1577年)にはその子嗣修が一甲第二人で及第し、八年(1580年)にはその子懋修が一甲第一人で及第した。次輔の吕調陽・張四維・申時行の子もみな前後して進士となった。御史魏允貞が時弊を疏陳して輔臣の子は合格すべきでないと言うと、帝は允貞を貶謫した。
  • 十六年(1588年)、右庶子黄洪憲が順天の試を主宰し、王錫爵の子衡が榜首となった。禮部郎中高桂が舉人李鴻らを弾劾し、あわせて衡にも及んで言った。もと宰相の子が一時に並び進んでから、大臣の子は天下に信を得られなくなった。今、輔臣錫爵の子衡はもとより多才と称され、青雲は自ずから至るはずだが、人はなお疑いと信を半ばにしている。同様に覆試して大臣の心跡を明らかにすべきだ、と。
  • 錫爵は激怒して奏を具え、申し立てる言葉が過激であった。刑部主事饒伸がさらに抗疏して論じた。帝は桂を外に貶し、伸を獄に下してその官を削り、弾劾された舉人を覆試させたが、なお衡が第一で、一人も落とされなかった。
  • 二十年(1592年)の會試で李鴻が合格した。鴻は大學士申時行の婿である。榜を出そうとするとき、房考の給事中某が、宰相の婿を合格させるべきでないと主張した。主考官の張位が十八房の考官に公平に閲させたところ、みな文字は取るに足ると言った。それでも給事は承知しなかったので、位は怒って「試験で文字によらずして何によって決めるのか。私がその咎を引き受けよう」と言い、鴻はようやく収められた。
  • 王衡は弾劾されたのち、錫爵が在位の間は禮闈を受けず、二十九年(1601年)に一甲第二人で及第した。以後、輔臣が国政を執っている間はその子が及第することもなくなった。

科場の弊と歴代の事件

  • 科場の弊竇は多く、議論も頻繁であった。太祖が劉三吾らを重罪に処してのち、永樂・宣徳の間はおおむね平穏であった。陳循・王文が劉儼を陥れようとしたときは、高榖がこれを抑えて儼も無事であった。
  • 𢎞治十二年(1499年)の會試では、大學士李東陽と少詹事程敏政が考官であった。給事中華㫤が、敏政が舉人の唐寅・徐泰に題を売ったと弾劾したので、東陽ひとりに文字を閲するよう命じた。給事中林廷玉がさらに敏政の疑わしい六事を挙げて攻めた。敏政は左遷され、寅・泰はともに斥けられ謫された。寅は江左の才士で、戊午(𢎞治十一年、1498年)の南闈第一であり、論者は多くこれを惜しんだ。
  • 嘉靖十六年(1537年)、禮部尚書嚴嵩が應天と廣東の試録の語を続けざまに摘み出して世宗の怒りを激発させ、應天の主考および廣東の巡按御史がともに逮問された。
  • 二十二年(1543年)、帝は自ら山東の試録に批して譏訕であるとし、御史葉經を逮えて闕下で杖死させ、布政以下をみな遠地に謫した。これも嵩の中傷によるものである。
  • 四十年(1561年)、應天の主考であった中允で無錫の人吴情が同邑から十三人を取り、弾劾されて副考の胡杰とともに外に謫された。南畿では翰林が應天の試を主宰できなくなった。
  • 萬厯四年(1576年)、順天の主考高汝愚が、張居正の子嗣修・懋修および居正の一派である吏部侍郎王篆の子之衡・之鼎を合格させた。居正の死後、御史丁此吕がその弊を追論し、さらに汝愚が「舜亦以命禹」を試題としたのは禅譲になぞらえて居正に阿ったものだと言った。国政を執る者は此吕を憎んで外に謫したが、議者の多くは汝愚を正しいとしなかった。
  • 三十八年(1610年)の會試で、庶子湯賓尹が同考官となり、各房と闈卷を互いに取り換えること合わせて十八人に及んだ。翌年、御史孫居相が、賓尹が韓敬に私し、取り換えはみな敬のためだったと弾劾した。当時、吏部はちょうど考察中で、尚書孫丕揚は賓尹と敬を察典に入れた。敬にはかなり文名があり、人々も敬を惜しんだが、宣黨であるとしてその斥けられるのを当然とした。
  • 四十四年(1616年)の會試で、吴江の沈同和が第一、同郷の趙鳴陽が第六となった。同和はもとより文を能くせず、文の多くは鳴陽の手から出たものだった。事が発覚し、二人とも謫戍された。
  • 天啟四年(1624年)、山東・江西・湖廣・福建の考官がみな策問で譏刺したとして諭を下して厳しく責めた。初めは貶調を命じ、やがて官籍を剥奪し、江西の主考丁乾學に至っては獄に下されて擬罪された。魏忠賢の怒りに触れたためである。
  • これに先立つ二年辛酉(天啟元年、1621年。底本は「二年辛酉」に作る。辛酉は天啟元年で、年次に食い違いがある)、中允錢謙益が浙江の試を主宰し、取った舉人錢千秋の答案七篇の大結に闗節の跡があった。榜の後に人から告発されたが、謙益は自ら検挙し、千秋は謫戍され、まもなく赦されて帰った。
  • 崇禎二年(1629年)、閣臣の會推に謙益が禮部侍郎として与かったが、尚書温體仁は与かれなかった。體仁は千秋の事を摘んで疏を出し謙益を攻めた。謙益はこれによって罷免され、明の世が終わるまでふたたび起用されなかった。
  • その他、科場の事を指摘した者は前後に一人ではなく、往々にして北闈がもっともひどく、他省がこれに次いだ。賄買・鑚營・懐挾・倩代・割卷・傳逓・頂名・冐籍と弊端は百出して窮めがたく、なかでも闗節が甚だしかった。事は曖昧に属し、恩讐の報復を晴らすものもまた確かにあった。その他の小さな得失は言うに足りない。

歴代の科の特記事項

  • 永樂の初めは兵乱が慌ただしく、元年癸未(1403年)に初めて各省の鄉試を行わせ、二年甲申(1404年)に會試を行い、事変のために午年・未年の旧に従わなかった。
  • 七年己丑(1409年)の會試で陳燧ら九十五人が合格したが、成祖はちょうど北征中だったので、皇太子が國子監に送って進学させ、車駕の還京を待って廷試させた。九年辛卯(1411年)に至って蕭時中が第一に抜擢された。
  • 宣徳五年庚戌(1430年)、帝は臨軒して策を発し終えると、退いて武英殿に御し、翰林の儒臣に言った。士を取るには虚文を尚ばない。劉蕡・蘇轍の輩のように直言抗論する者があれば、朕はこれを顕彰し用いよう、と。そして「策士歌」を賦して讀卷官に示した。ところが第一に抜擢された林震には見るべきところがなかった。
  • 八年癸丑(1433年)の廷試第一の曹鼐は、江西泰和の典史から會試に合格した者である。正綂七年壬戌(1442年)には刑部の吏南昱、公陵驛丞の鄭温もみな合格した。
  • 十年乙丑(正統十年、1445年)の會試・廷試とも第一は啇輅であった。輅は淳安の人で、宣宗末年の乙卯(宣徳十年、1435年)の浙榜第一、三度の試験ですべて第一だったので、士子は「三元」と称えた。明代でただ輅ひとりである。
  • 廷試の讀卷にはみな甲科を用いたが、この年の兵部尚書徐晞と戸部侍郎余亨は吏員出身であった。天順元年丁丑(1457年)の讀卷官である左都御史楊善は譯字生の出身であった。当時はまだ出身の品目にさほど拘らなかった。のちには雜流で會試に与かり讀卷官となる者はなくなった。
  • 七年癸未(天順七年、1463年)、試験の日に場屋が火事となり、死者は九十余人。みな進士出身を贈られ、期日を八月の會試に改め、翌年甲申(1464年)三月に至って廷試した。当時すでに英宗は崩じており、憲宗は大喪がまだ一年を越えないとして西角門で策問した。
  • 正徳三年戊辰(1508年)、太監劉瑾が五十人の姓名を録して主司に示したので、五十名の額を広げた。
  • 十五年庚辰(正徳十五年、1520年)、武宗が南巡してまだ廷試に及ばず、翌年に世宗が即位して五月に西角門で策問し、揚維聰を第一に抜擢した。張璁もこの榜の進士である。六、七年の間に国政を執り、権勢は人主に並ぶほどとなった。
  • 嘉靖八年己丑(1529年)、帝は自ら廷試の答案を閲し、一甲の羅洪先・楊名・歐陽徳、二甲の唐順之・陳束・任瀚の六人の対策に自ら批して、それぞれに評奨を加えた。大學士楊一清らはそこで順之・束・瀚および胡經ら合わせて二十人を庶吉士に選び、その名を疏して官を命じ教習させるよう請うた。
  • ところが突然、諭が下った。吉士の選は祖宗の旧制で誠に善いことだが、近ごろ大臣が私に従って選び取り、恩を売り党を立てるのは国に益がない。今後は選び留める必要はない。唐順之らは一切除授せよ。吏・禮の二部および翰林院で会議して報告せよ、と。尚書方獻夫らは旨に阿って、順之らを留める必要はないとし、あわせて翰林の定員を限り、侍讀・侍講・修撰各三員、編修・檢討各六員として令とした。
  • そもそも順之らは張璁・霍韜の門から出たのに、内心では大礼の議を非として趨り附こうとしなかったので、璁がこれを憎んだ。璁はまた一清を陥れようとしていたので、立党の説をもって進言し、旧例はこれによって廃された。
  • 十一年壬辰(嘉靖十一年、1532年)には館選をやめていたが、九月にふたたび行った。
  • 十四年乙未(1535年)、帝は自ら策問を作り、手ずから批閲して韓應龍を第一に抜擢し、諭を下して一甲三人および二甲第一名の名次の前後の理由を論じた。禮部はそこで聖諭を『登科録』の巻頭に列し、十二人の対策も順に刊刻した。
  • 二十年辛丑(1541年)、庶吉士を考選する題は、文が「原政」、詩が「讀大明律」で、いずれも欽降であった。
  • 四十四年乙丑(1565年)の廷試から、帝は殿に御さなくなった。神宗の時には殿に御することがいよいよまれになった。
  • 天啟二年壬戌(1622年)の會試で、大學士何宗彦・朱國祚を主考に命じた。旧例では閣臣が試を主宰し、翰林・詹事の一人が副となる。当時すでに禮部尚書顧秉謙が推されていたが、特旨で國祚に命じた。國祚が疏して辞すると、帝は「今年は朕の最初の科であるから、特に輔臣二人を用いて重典を輝かせるのだ。卿は辞するに及ばない」と言った。以後、輔臣二人が試を主宰することを常例とした。
  • この年、宗科を開き、朱慎䤰が進士となった。宗彦・國祚の請により、そのまま中書舍人を授けた。
  • 崇禎四年(1631年)、朱綂鉓が進士となった。初め庶吉士に選ばれたが、吏部が、綂鉓は宗室であるから禁近の官には適さないとして中書舍人に改めるよう請うた。綂鉓が疏して争ったので、なお庶吉士を授けるよう命じた。
  • 七年甲戌(崇禎七年、1634年)、知貢舉の禮部侍郎林釺が、舉人顔茂猷は五経を兼ね二十三義を作ったと言上した。帝はその該博を賞して内簾へ送るのを許した。茂猷は副榜に入ったが、特に進士を賜り、その名を別に一行として試録の第一名の前に刻んだ。五経で合格する者はこれ以来相次いだ。

武科

  • 武科は吴元年(1367年)に定められた。洪武二十年(1387年)、禮部の請を容れて武學を立て、武舉を用い、武臣の子弟を各直省で受験させた。
  • 天順八年(1464年)、天下の文武官に兵法に通暁し謀勇の衆に出た者を挙げさせ、各省の按撫・三司、直隷の巡按御史が考試し、合格者は兵部が總兵官とともに帥府で策略を試し、教場で弓馬を試すこととした。策二道に答え、騎射で四矢、歩射で二矢以上を的中した者を合格とし、騎射・歩射でその半分を中てた者を次とした。
  • 成化十四年(1478年)、太監汪直の請により武科を設け、鄉試・會試ともすべて文科の例に倣った。
  • 𢎞治六年(1493年)、武舉は六年に一度行い、先に策略、後に弓馬とし、策の合格しない者には騎射を許さないと定めた。十七年(1504年)、三年に一度の試験に改め、榜を出して宴を賜ることとした。
  • 正徳十四年(1519年)、初場は馬上の箭で三十五歩を基準、二場は歩射の箭で八十歩を基準、三場は策一道とし、子・午・卯・酉の年に鄉試を行うと定めた。
  • 嘉靖の初めに制を定め、各省で武舉に応じる者は巡按御史が十月に考試し、両京の武學は兵部が選び取り、いずれも兵部に送る。翌年四月に會試し、翰林二員を考試官、給事中・部曹四員を同考とした。鄉試・會試の場期はいずれもその月の初九日・十二日・十五日とし、起送・考驗・監試・張榜はおおむね文闈に倣ってこれを減じた。
  • その後は廃されたり復されたりし、また文闈の南北巻の例に倣って辺方と腹裏に分け、十名につき辺六・腹四を常例とした。
  • 萬厯三十八年(1610年)、會試の額を定め、進士の合格を百名を基準とした。のち詔によって三十名を増やしたこともあるが、恒常の制ではない。
  • 穆宗・神宗の時、議者はしばしば武科は技と勇を重んじるべきだと言った。萬厯の末には科臣が、特に將材武科を設け、初場に馬歩の箭および鎗・刀・劍・㦸・拳・摶・撃・刺などの法を試し、二場に營陣・地雷・火藥・戰車などを試し、三場にそれぞれ自分の熟知する兵法・天文・地理を述べさせるよう請うた。許可は下りたが実施されなかった。
  • 崇禎四年(1631年)、武會試の榜が出ると議論が沸騰した。帝は中允の方逢年・倪元璐に再試を命じ、翁英ら百二十人を取った。逢年・元璐は、時あたかも人材を要するとして殿試・傳臚をすべて文科の例どおりにするよう奏請し、王來聘らに及第・出身をそれぞれ賜った。武舉の殿試はこれに始まる。
  • 十四年(1641年)、諸部の臣に特に竒謀異勇科を開くよう諭したが、詔が下っても応じる者はなかった。