明史卷六十九 志第四十五 選舉
選舉の四つの道――総論
- 人材登用の道はおおよそ四つある。學校、科目(科舉)、薦舉、銓選である(底本は「選舉之去大略有四」に作る。「道」の誤りか)。學校が教育し、科目が登用し、薦舉が別筋から人を招き、銓選が官職に配置する。天下の人材はこの四つで尽くされる。
- 明の制度では科目がもっとも盛んで、卿相はみなここから出た。學校は科目に応じるための人材を蓄える場であり、學校から直接に官籍に入る道も科目に次ぐものであった。それ以外は雜流である。
- ただし進士・舉貢・雜流の三つの道は並び用いられ、軽重の差はあっても一方を廃することはなかった。薦舉は國初に盛んだったが、のち科目に一本化されて廃された。銓選は官途に入る出発点で、これを措いて道はない。
- この四つの本末を明らかに記せば、二百七十年間の人材登用の得失の理由が見てとれる。
學校の二系統と監生の種別
- 科舉は必ず學校を経るが、學校から身を起こす者は科舉を経なくてもよい。學校には國學(國子監)と府州縣學の二つがある。府州縣學の諸生は國學に入って初めて官を得られ、入らない者は得られない。
- 國學に入った者を総称して監生という。舉人からの者を舉監、生員からの者を貢監、品官の子弟を廕監、財貨を納めた者を例監という。
- 同じ貢監でも嵗貢・選貢・恩貢・納貢の別があり、同じ廕監でも官生・恩生の別がある。
國子學の創設と初期の人材
- 國子學の設置は明初の乙巳の年(1365年)に始まる。洪武元年(1368年)、品官の子弟および民間の俊秀で文義に通じる者を学生に充てるよう命じた。國琦・王璞ら十余人を選んで宮中で皇太子の読書に侍らせ、謹身殿で対面させたところ、姿かたちが明秀で応対も詳雅だったので、太祖は喜んで厚く賜与した。
- 天下平定ののち、府州縣學の諸生を選んで國子學に入れ、さらに年少の舉人趙惟一ら、貢生董㫤らを選んで入学させ読書させ、衣服と帳を賜った。諸官司であらかじめ実務を習わせ、これを厯事という。
- 監生のうちとくに英敏な李擴らを文華堂・武英堂に入れて説書させ、小秀才と呼んだ。才学が豊かで聡明俊偉の士には群書を博く読ませ、道徳・経済の学を講明させて大用に備えさせ、老秀才と呼んだ。
監生の待遇と學規
- 初め應天府學を改めて國子學とし、のち鷄鳴山下に移して建てた。やがて學を改めて監とし、祭酒・司業および監丞・博士・助教・學正・學録・典籍・掌饌・典簿などの官を置いた。
- 六堂を分けて諸生を収容した。率性・修道・誠心・正義・崇志・廣業である。學の傍らに諸生を宿らせる建物を置き、號房と呼んだ。
- 廩餼を厚く給し、年ごとに布帛・文綺・襲衣・巾・鞾を賜り、正旦・元宵などの令節にはみな節錢を賞与した。孝慈皇后は監中に糧を積み、紅倉二十余舎を置いて諸生の妻子を養った。厯事生で未婚の者には婚礼の費用と女子の衣二襲、月々の米二石を賜った。
- 諸生が京師に長くいて父母が存命の者、あるいは父母が亡く祖父母・伯叔父母が存命の者は、みな帰省させ、一人に衣一襲と鈔五錠を道中の費用として賜った。優遇はこれほどであった。
- 教授の法。毎朝、祭酒・司業が堂上に坐し、属官は監丞以下、首領は典簿以下が順に立ち並ぶ。諸生は揖礼を終えて経史を質問し、拱手して命を聴く。休暇は朔望のみで、他の日は堂に上って会食し、會講・復講・背書・輪課を常とした。
- 学ぶところは四書と本経のほか、劉向『説苑』および律令・書・数、御製『大誥』に及んだ。毎月、経書義各一道、詔・誥・表・䇿・論・判のうち二道を試験した。毎日二百余字の書を習い、二王(王羲之・王献之)・智永・歐陽詢・虞世南・顔真卿・柳公權の諸帖を手本とした。
- 各班から一人を齋長に選び、諸生の課業を監督させた。衣冠・歩き方・飲食まで厳しく節度を守らせ、夜は必ず監に宿し、事情あって外出するときは必ず本班の教官に告げ、齋長が引率して祭酒に申し出させた。
- 監丞は集愆簿を置き、規則に従わない者を記録した。再三犯す者は笞罰、四度犯す者は遠地へ発遣・安置とした。學規の条目はたびたび改定され、寛厳が中庸を得た。堂宇・宿舎・飲饌・澡浴にもすべて禁例があった。省親や結婚で帰郷したときの期限は道のりの遠近によって差をつけ、期限を超えた者は遠方の典史に左遷し、吏に充てる罰もあった。
祭酒の人選と進士題名碑
- 教育を司る官には必ず耆宿を選んだ。宋訥・吴顒らは儒士から祭酒に抜擢された。訥はとくに名師と称された。
- 歴代の科の進士は多く太學から出た。戊辰の年(洪武二十一年、1388年)に任亨泰が廷対第一となったとき、太祖は訥を召して褒賞し、題名記を撰して監門に石を立てさせた。辛未の年(洪武二十四年、1391年)の許觀にも同じようにした。進士題名碑はこれ以来続いて絶えない。
- 毎年、天下の按察司が生員のうち二十歳以上で重厚端秀な者を選んで監に送り、考試して留めた。會試に落第した舉人も監に入れて学業を終えさせた。諌官の闗賢の上奏によって定例となった。
- 府州縣學は毎年生員各一人を貢し、翰林が経書義各一道・判語一条を試験した。合格者のうち一等は國子監に入れ、二等は中都に送り、不合格者は還して提調の教官には廩禄停止の罰を課した。
- こうして直隷・諸省の士子が都に雲集した。雲南・四川にはいずれも土官生があり、日本・琉球・暹羅の諸国もみな官生を監に入れて読書させ、そのつど厚く賜与し、従者にも支給した。永樂・宣徳の間は絶え間なく続き、成化・正徳の頃まで琉球の学生が来ることがあった。
中都國學と南北二監
- 中都に國學を置いたのは洪武八年(1375年)から二十六年(1393年)までで、そののち廃して師生を京師に併合した。
- 永樂元年(1403年)に北京國子監を設け、十八年(1420年)の遷都によって、もとの京師國子監を南京國子監とした。太學生に南監・北監の別が生じたのはこれによる。
武臣・勲臣子弟の入監
- 太祖は武臣の子弟が武事ばかり習って学問を知らないことを考え(底本は「太祖應武臣子弟」に作る。「慮」等の誤りか)、大都督府に選ばせて國學に入れ、鳯陽にいる者は中都で学ばせた。韓國公李善長らに教官・生員の高下を考定させて班次を分け、曹國公李文忠に監事を領させて取り締まらせた。
- 以後、勲臣の子弟が多く監に入って読書した。嘉靖元年(1522年)には、公・侯・伯でまだ任事を経ていない三十歳以下の者を監に送って読書させ、まもなく既に任じている者も送らせた。年少の勲戚は入学を栄誉と競うようになった。
六堂の積分法
- 司業二員が左右に分かれて各三堂を提調した。四書に通じてまだ経に通じない者は正義・崇志・廣業に居らせ、一年半以上たって文理が条暢な者を修道・誠心に昇らせ、さらに一年半して経史に兼ね通じ文理ともに優れた者を率性に昇らせる。率性に昇って初めて積分となる。
- その法は、孟月に本経義一道、仲月に論一道および詔・誥・表・内科一道、季月に経史策一道と判語二条を試験する。毎回、文理ともに優なら一分、理は優で文が劣れば半分、紕繆なら無点。年内に八分を積めば及格として出身を与え、及ばない者はなお堂に坐して学業を続ける。才学がとくに卓越した者は奏請して上裁を仰いだ。
洪武の大量登用と監生の地位の変遷
- 洪武二十六年(1393年)、監生の劉政・龍鐔らあわせて六十四人をことごとく抜擢して、行省の布政使・按察使および参政・参議・副使・僉事などの官とした。一朝にしてこれほど重用したのであり、四方の大吏となった者は数えきれない。
- 李擴らは文華・武英から御史に抜擢され、擴はまもなく給事中に改められ齊相府録事を兼ねた。台諌の選もまた太學から出たのである。通常の任用では府州縣の六品以下の官とされた。
- 初め、北方は戦乱の後で学問を知る者が少なかったので、國子生の林伯雲ら三百六十六人を派遣して各郡で教えさせ、のち他省にも及ぼし、壮年で文を能くする者を教諭などの官とした。
- 太祖は科舉を時おり行ったものの、監生と薦舉の人材を併用することが多かったので、当時、中央・地方に列した者は太學生がもっとも多かった。
- 一、二代のちには進士が日ごとに重んじられ、薦舉は廃され、舉貢は日ごとに軽んじられた。積分・厯事の初法は改めなかったが、南北の祭酒陳敬宗・李時勉らが意を用いて引き締めても、すでに次第に当初に及ばなくなった。
- 衆人の志向はもっぱら甲科に集まり、官途の浮沈は謁選の日に決まる。監生は上第を得られず、奮起して自ら励んでも成し遂げられない。積み重なった勢いがそうさせたのである。
- 納粟の例が開かれると人の品が次第に混じり、庶民までが生員の例を援用して入監できるようになった。これを民生といい、また俊秀ともいい、監生はいよいよ軽んじられた。
- そこで同じ太學にいながら、舉貢は府の佐貳や州縣の正官になれ、官生・恩生は部院・府衞・司寺の小京職に選ばれてなお正途とされたのに対し、例によった監生は州縣の佐貳と府の首領官に選ばれるにとどまった。京職に授けられても光禄寺・上林苑の属であり、遠方を望む者は雲南・貴州・廣西および各辺境省の軍衞・有司の首領、衞學・王府教授の欠員に用いられ、終身異途のままとなった。
舉人の入監
- 舉人の入監は永樂中に始まる。會試に落第すると翰林院にその優れた者を記録させ、入学させて次の科を待たせ、教諭の俸を給した。当時、會試には副榜があり、おおむね教官に署されたので、入監した者にもその禄を食ませたのである。
- 宣徳八年(1433年)、禮部尚書胡濙と大學士楊士竒・楊榮に副榜の舉人龍文ら二十四人を選ばせて監に送り進学させ、翰林院が三月に一度その文を考査した。庶吉士と同じ扱いで、かなり優遇を示したものである。
- のち別試を行わなくなり、副榜のうち二十五歳以上の者に教職を授け、年齢に達しない者は依親(親元に寄る)か入監読書とした。やがて年齢を問わず依親・入監とも希望に任せた。依親の者は帰郷して読書し、依親のまま学業を修めた。丁憂・成婚・省親・幼子の送りもみな依親の例に倣い、期限を切って復班させた。
- 正統中、天下の教官に欠員が多かったが、舉人はその地位の低さを嫌って就任を望まなかった。十三年(1448年)、御史萬節が禮部に多く副榜を取って教職に充てるよう命じることを請うた。部臣は、依親・入監を望む舉人が十のうち七、教職を望む者はわずか十のうち三であり、それぞれの希望に従うべきだとして、その請を退け行わなかった。
- 成化十三年(1477年)、御史胡璘が、天下の教官はおおむね嵗貢出身で言行・文章が人の師範たるに足りないとして、舉人を多く選用して貢生の選任をやめるよう請うた。部議は、嵗貢は旧のままとし、舉人の教官にはなお會試を許すこととした。以後、教職に就く者も次第に増えた。
- 嘉靖中、南北の國學がともに空虚となり、落第した舉人をすべて入監させ、期限を立てて促そうと議した。しかし入監を望まない舉人を強いることはできず、生員の嵗貢のほかに、しきりに選貢を行って國學を充たさざるをえなかった。
貢生の入監――嵗貢
- 貢生の入監は初め生員からの選抜によったが、のち各學に毎年一人を貢させたので嵗貢という。その例もたびたび改まった。
- 洪武二十一年(1388年)、府州縣學に一年・二年・三年の差を定めた。二十五年(1392年)、府學は年二人、州學は二年に三人、縣學は年一人と定めた。
- 永樂八年(1410年)、州縣で戸数が五里に満たないところは、州は年一人、縣は隔年一人とした。十九年(1421年)、嵗貢を洪武二十一年の例に照らすよう命じた。宣徳七年(1432年)、洪武二十五年の例に戻した。
- 正統六年(1441年)、府學は年一人、州學は三年に二人、縣學は隔年一人と改めた。𢎞治・嘉靖の間に、なお府學は年二人、州學は二年に三人、縣學は年一人と定め、そのまま永制となった。
- のち孔・顔・孟の三氏および京學・衞學・都司・土官、四川・雲南・貴州の諸遠省については、年ごとの貢の法にも増減があった。
選貢の始まり
- 嵗貢は初め必ず学行が端荘で文理の優れた者を選んで充てたが、のちにはただ廩米を受けて年数を経た者を取るだけになった。
- 𢎞治中、南京祭酒章懋が上言した。洪武・永樂の間は國子生が数千を数えたが、今は監にある科貢あわせてわずか六百余人にすぎない。嵗貢は順番に昇るだけで、衰えて振るわぬ者が十のうち八九。舉人は坐監にも多く時を費やし、差撥(諸司への派遣)にも足らず、教養の効果はまれである。近年、増貢の措置があったがそれも順番による人選で、資格に拘束されて英才が多く滞っている。
- そこで、常貢のほかに提學に選貢の法を行わせ、廩膳生・増廣生を区別せず一律に考選し、学行ともに優れ年若く力の強い、累試で優等の者を貢に充てる。天下全体でおよそ五、六百人を取り、以後三年から五年に一度行えば人材は往年に近づけよう、と請うた。部議に下して行われた。これが選貢の始まりである。
- 選貢には英才が多く、入監しての課試でも上等に居り、諸司に撥厯されても幹局があった。嵗貢は老衰して勢いが日ごとに衰え、教職に就くことだけを望んで入監を望まなくなった。
- 嘉靖二十七年(1548年)、祭酒程文徳が、廷試を経た嵗貢のうち即選する者だけを吏部に留め、その余はことごとく入監させるよう請い、許された。ところが嵗貢の諸生はそれぞれ家が貧しく親が老いていることを理由に入監を望まないと訴え、禮部はふたたびその希望に従い、代わりに舉人をすべて入監させるよう請い、これも許された。
- 舉人の入監が期日どおりに進まないので、南京祭酒潘晟は重罰を設けて必ず赴かせるよう請うたほどであった。こうして舉人・選貢・嵗貢の三者は交互に盛衰し、國學の充実も一定しなかった。
- 萬厯中、工科の郭如心が、選貢は祖宗の制ではなく、初めは嵗貢の不足を補うためだったのが、のちには嵗貢の道を妨げているとして停止を請い、神宗はもっともとした。崇禎の時にはまた行われた。
恩貢・納貢
- 恩貢とは、国家に慶典があるとき、あるいは登極の詔書によって、その年に貢すべき者をこれに充てるものである。その次の者がそのまま嵗貢となる。
- 納貢は例監よりやや優遇されるが、実際は似たようなものである。
廕子の入監――官生と恩生
- 明初は前代の任子の制によって、文官は一品から七品までみな一子に廕を与えて禄を世襲させた。のち次第に制限され、在京三品以上でなければ廕を請えなくなった。これを官生という。特恩によるものは官品を問わず、これを恩生という。ある者は即座に職事を与えられ、ある者は監に送られて読書した。
- 官生を必ず三品の京官の子に限ったのは、成化三年(1467年)に助教李伸の言に従ったものである。当時、給事中李森が不可としたが、帝はその刻薄を責め、ただ任官の年久しく政績の顕著な者でなければ濫りに推挙してはならぬと命じたにとどまった。
- 廕を得た者は提學官の考査を経て部試に送られ、貢生の例と同じく入監させた。
- 当時、内閣の吕原の子㦂が廕監から中書舍人に補された。七年辛卯(成化七年、1471年)、順天の鄉試を受けたいと請い、部はこれに従うよう請うた。給事中芮畿が不可としたが、帝は㦂の請を許し、ただし前例とはしないとした。しかしその後、廕によって舍人を授かった者はみな科挙に応じられるようになった。
- 嘉靖・隆慶以後は、宰相の子で初任からすぐ尚寶司丞となり、そのまま本司の少卿に転じ、光禄・太常を経て九列に昇る者があり、また軍功によって錦衣衞に廕せられる者もあった。往々にして太學を経ていない。その他はみな入監した。
- 恩生の始まりは建文元年(1399年)、吴雲の子黼を國子生に録したことによる。雲が雲南で節に死んだからである。正徳十六年(1521年)、文武官で忠諌のために死んだ者は一子を入監させると定例化した。のちには守土の官で節に死んだ者もみな子に廕を得た。
- また𢎞治十八年(1505年)、東宮の侍従官で講読の年久しく輔導に功のあった者は、没後に子孫が恩を乞い、禮部が奏請して上裁を仰ぐと定めた。正徳元年(1506年)、その祖父の年労がすでに三年に及ぶ者は一子に試中書舍人を授けて習字させ、三年に及ばない者は一子を監に送って読書させると定めた。八年(1513年)、東宮の侍班官で三年の者は一子を入監させると定めた。萬厯十二年(1584年)、三品の日講官は考満していなくても一子を入監させると定めた。
例監
- 例監は景泰元年(1450年)に始まる。辺境の事態が急迫していたため、天下の粟を納め馬を納めた者を入監して読書させ、千人を限りとした。四年行って廃止された。
- 成化二年(1466年)、南京が大飢饉となり、守臣が官員・軍民の子孫に粟を納めさせて監に送ることを建議した。禮部尚書姚䕫が、太學は人材を育てる場であるのに、近ごろ直隷・諸省から送られる四十歳の生員や草・馬を納めた者が万を数え、濫りにすぎる。天下に財貨をもって賢士とみなさせれば士風は日ごとに卑しくなる、と言い、帝はもっともとして守臣の議を却けた。
- しかしその後も、凶作、辺境の警報、大規模な工事のたびに前例を援いて行われ、ついに止められなかった。
- 以上が舉・貢・廕・例の諸種の監生の始末の大要である。
監生の厯事
- 監生の厯事は洪武五年(1372年)に始まる。建文の時に考覈の法を定め、上・中・下の三等とした。上等は選用し、中・下等はなお一年厯事させて再考し、上等となった者は上等の例で用い、中等は品級にかかわらず才に応じて任用し、下等は監に帰して読書させた。
- 永樂五年(1407年)、監生三十八人を選んで翰林院に属させ四夷の訳書を習わせた。九年辛卯(1411年)、鍾英ら五人が進士となり、みな庶吉士に改められた。壬辰・乙未以後、訳書から會試に合格する者が多く、みな庶吉士に改めるのが常となった。厯事生の名声と恩遇はこれほどであった。
- 仁宗の初政のとき、中軍都督府が監生七人の吏事勤慎を奏して注選・授官を請うたが、帝は許さず、なお入学させて科舉によって進ませた。他の厯事者も監に帰るのを望まない者が多く、通政司が六科で辦事する監生二十人について、満期には例により監に帰るべきだがなお六科の辦事を望んでいると奏した。帝はふたたび二十人を召して進学を諭した。当時、六科給事中に欠員が多く、諸生がそれを得ようと望んだのを帝は察知していたので、官を授けなかったのである。
- 宣宗は教官の欠員が多かったので監生三百八十人を選用した。程富らは都御史顧佐の推薦により各道で三か月の厯政をさせて選任した。いわゆる試御史である。
撥厯の順序をめぐる争い
- 監生の撥厯(諸司への派遣)は初め入監の年月の先後によったが、丁憂や省祭で七、八年も在家のまま留まる者があり、入監するとすぐ撥厯を得た。陳敬宗・李時勉が前後して、一律に坐監の年月の深浅によるよう請うた。
- のちには、京の貯えを節約するための依親就学の在家年月も坐堂の日数に算入し、患病その他の事故の期間だけを虚曠として扱った。諸生は互いに年月と順序を争い、それぞれに条文を持ち出した。
- 成化五年(1469年)、祭酒陳鑑が双方の言い分を具申し、禮部に酌中の制を定めさせるよう請うたが、禮科に論駁された。鑑がさらに互いの争いを奏したので、部に下して覆議させ、一つ一つ精査し、なお地理の遠近と水路の日数を計算して基準とするよう請うた。しかし文書のやり取りは紛糾し、上下の伸縮に弊害が多く、ついに統一できなかった。
- 初めは監生が廣業から率性に昇って初めて積分・出身を得るとされ、天順以前は監に十余年いてのち諸司に撥厯された。厯事は三か月、なお一年留めて吏部に送って銓選した。兵部の清黄および御史に随行して出巡する者は三年を基準とした。
- のち監生の滞留が多くなり、しばしば撥厯の年月を減らして疎通をはかり、毎年、優れた者を選んで撥厯し、一年に満たない者もあった。
- 𢎞治八年(1495年)、監にある監生は少ないのに吏部の聴選者は万余人に達し、十余年も官を得られない者があった。祭酒林瀚は坐班の人数が少なく撥厯に足りないとして科貢を開くよう請うた。禮部尚書倪岳は覆奏して、科舉にはすでに定額があり増やせないとし、ただ嵗貢の人数を増やし、諸司の厯事は必ず日数を満たしたのちに交替させ、諸生の坐監をやや長くすれば選人も滞らないと請うた。
- 嘉靖十年(1531年)に至って、監にある監生は四百人に満たないのに、諸司の厯事の年額は千を数えた。禮部尚書李時が倪岳の前議を引いて言った。岳の権宜の二法は、一に年額を増やして坐班の生徒を足すこと、二に差厯を議して坐班の年月を長くすることであった。そこで府州縣學は一年二貢・二年三貢・一年一貢の差を設けて四年行って止めた。諸司の厯事は三か月の考勤ののちなお一年、その他は寫本一年、清黄・寫誥・清軍・清匠は三年、出巡などはみな旧例の日数どおりとする。今の國學の人不足は𢎞治の間よりひどいので、前の事例を参酌して行いたい、と。いずれも許されたが、ただ貢額の増加だけは認められなかった。
- まもなく祭酒許誥と提學御史胡時善の請により、詔して倪岳・李時の前議どおり貢額を増やした。
- 隆慶・萬厯以後は学校が次第にたるみ、一切が旧例をなぞるだけとなった。
- 崇禎二年(1629年)、司業倪嘉善の言に従って積分法を復活した。八年(1635年)、祭酒倪元璐の言に従い、貢選を正流、援納を閏流とし、貢選は撥期を限らず積分の年満を基準とし、援納はもとの定めどおりの撥厯を基準とした。厯事は正・雜を分けず、ただ考定の等第によって厯期の長短を決め、諸司は政事を教えて猥雑な差遣には就かせず、満期の日に勤惰を比べて吏部に報告し、従わない者は監に帰して教習させることとした。しかし監規の頽廃は久しく、振るい起こすことはできなかった。
諸司の厯事の定員
- 正厯(三か月で上選、満期の日の増減は一定しない)。吏部四十一名、戸部五十三名、禮部十三名、大理寺二十八名、通政司五名、行人司四名、五軍都督府五十名。
- 雜厯(一年満期の日に上選)。諸司の寫本として戸部十名、禮部十八名、兵部二十名、刑部十四名、工部八名、都察院十四名、大理寺・通政司はいずれも四名。御史に随行して出巡する者四十二名。
- 諸色辦事。清黄百名、寫誥四十名、續黄五十名、清軍四十名、天財庫十名(初めは三年で長差といい、のち一年に改めて上選)、承運庫十五名、司禮監十六名、尚寶司六名、六科四十名(初めは短差としたが、のち一年で上選と定めた)。
- また御史に随行しての刷卷百七十八名、工部の清匠六十名は、いずれも事の終わった日に上選。
- また禮部の寫民情條例七十二名、光禄寺の刷卷四名、修齋八名、參表二十名、報訃二十名、齎俸十二名、錦衣衞四名、兵部の查馬冊三十名、工部の大木厰二十名、後府の磨算十名、御馬監四名、天財庫四名、正陽門四名、崇文門・宣武門・朝陽門・東直門はいずれも三名、阜城門・西直門・安定門・徳勝門はいずれも二名。これらは半年の満期の日に監へ帰る。
郡縣の學――創設と洪武二年の詔
- 郡縣の學は太學と相まって成り立つもので、創立は唐に始まり、宋は諸路・州に學官を置き、元もおおむねこれに従ったが、いずれも法は整っていなかった。明に至って天下の府・州・縣・衞所にみな儒學を建て、教官は四千二百余員、弟子は数えきれず、教養の法が備わった。
- 洪武二年(1369年)、太祖は國學を建てるにあたり中書省の臣に諭した。学校の教えは元に至って弊害が極まり、上下ともに崩れ、学校はあっても名ばかりで実がなかった。兵乱以来、人は戦いに慣れて武器を知るだけで礼器を知らない。国を治めるには教化を先とし、教化は学校を本とする。京師に太學はあっても天下の学校が興っていないから、郡縣にみな学校を立て、師儒を招いて生徒に授け、聖道を講論させ、日々に感化させて先王の旧に復させよ、と。
- こうして大いに学校を建てた。府に教授、州に學正、縣に教諭を各一人置き、いずれも訓導を置いた。府は四人、州は三人、縣は二人である。生員の数は府學四十人、州縣は順に十ずつ減らした。師生には月の廩食として一人米六斗、有司が魚肉を給し、學官の月俸には差があった。
- 生員は一経を専ら治め、礼・楽・射・御・書・数の科を設けて分けて教え、実才を求めた。頑なで従わぬ者は退けた。
- 洪武十五年(1382年)、學規を國子監に頒ち、さらに禁例十二条を天下に頒ち、彫って卧碑を立て明倫堂の左に置いた。従わない者は違制の罪に問うた。
- こうして学の設けられない地はなく、教えを受けない人はなく、庠序の音は規矩を重ね、辺鄙の邑や荒れた辺境、山かげ海べにも隔てはなかった。明代の学校の盛んなことは唐宋以来及ぶところがない。
生員の等級――廩膳・増廣・附學
- 生員は国初に定数があったが、まもなく増廣を命じて定額に拘らせなかった。宣徳中に増廣の額を定め、在京の府學六十人、在外の府學四十人、州縣は順に十ずつ減らした。
- 成化中に衞學の例を定めた。四衞以上は軍生八十人、三衞以上は軍生六十人、二衞・一衞は軍生四十人、有司の儒學は軍生二十人。土官の子弟は近くの儒學に入るのを許し、定額を設けなかった。
- 増廣が多くなったので、初めから廩米を受ける者を廩膳生員、増やされた者を増廣生員といい、久しくして人材がさらに増えると、額外に取って諸生の末に付け、附學生員と呼んだ。
- 初めて入学した者はみな附學にすぎず、廩膳・増廣は嵗試・科試の等第の高い者をもって補充した。廩生で年数を経た者でなければ嵗貢に充てられない。
- まだ入学していない士子を総称して童生という。大比の年には一人か二人、とくに敏くて三場ともに通じる者を選び、諸生と同じく入場させ、これを充塲儒士という。合格すればそのまま舉人となり、不合格ならなお提學官の嵗試を待って、合格して入学を許された。
嵗考・科考と生員の削減
- 提學官は在任三年のうち二度、諸生を試験する。まず六等で諸生の優劣を試し、これを嵗考という。一等の上位者は廩膳生に欠員があれば順に補充し、その次は増廣生に補する。一等・二等はみな賞を給し、三等はそのまま、四等は笞責、五等は廩生・増生をそれぞれ一等降し附生は青衣に降し、六等は退学とする。
- 続いて一等・二等を科舉生員として鄉試に応じさせ、これを科考という。廩生・増生への補充と賞与は嵗試と同じである。等第はやはり六つに分けるが、おおむね三等に置くことが多い。三等は鄉試に応じられない。笞責・黜革される者は百に一人、ほとんど皆無に近かった。
- 生員・儒士の受験は、舉人一名につき科舉生員三十名を基準とした。舉人の定額がしばしば拡大されたので科舉の数も日ごとに増え、受験を求める者が多くなると、しばしば定額の外に加えて取り士心を収めた。督學の任にある者はおおむねそうであった。
- 嘉靖十年(1531年)、生員の淘汰の令が下されたが、御史楊宜が争って止めさせた。萬厯の時、張居正が国政を執り、天下の生員を削減した。督學の官が行き過ぎて奉行したため、一州縣で童生の入学がわずか一人という所もあった。科舉の減少ぶりも推して知るべきである。
提學官の設置と職掌
- 生員の入学は初め巡按御史・布政司・按察司および府州縣官が扱った。正統元年(1436年)に初めて提學官を特置し、専ら学政を提督させた。南北の直隷はいずれも御史、各省は副使・僉事を参用した。
- 景泰元年(1450年)に提學官を罷めたが、天順六年(1462年)に復設し、それぞれに敕諭十六条を賜って奉行させた。
- 直省に提學を置いたのち、管轄が広すぎたり地が極めて僻遠で年ごとの巡行が及ばない所は、便宜を酌んで分掌させた。口外および各都司・衞所・土官は分巡道員に属させ、直隷の廬州・鳯陽・淮安・揚州・滁州・徐州・和州は江北の巡按に属させ、湖廣の衡州・永州・郴州は湖南道に、辰州・靖州は辰沅道に、廣東の瓊州は海南道に、甘肅の衞所は巡按御史に属させ、いずれも専敕をもって事に当たらせた。
- 萬厯四十一年(1613年)、南直隷を上江・下江に、湖廣を南・北に分け、それぞれ提學一員を増置した。
- 提學の職は専ら学校を督するもので刑名を扱わない。受理した訴訟は重い者は按察司に送り、軽い者は有司に下し、直隷では巡按御史に転送した。督撫・巡按および布政・按察の二司も提學の職務を侵すことを許されなかった。
教官の考課と生員の懲罰
- 明初は師儒を優遇し、教官は給事中・御史に抜擢され、諸生で嵗貢する者は良い官を得やすかった。しかし取り締まりも甚だ厳しかった。
- 太祖の時、教官の考満にはその嵗貢生員の数も併せて考査した。のち嵗貢を学校の常例とした。
- 洪武二十六年(1393年)、學官の考課法を定め、もっぱら科舉の成績で優劣とした。九年の任期を満たして合格した舉人の数が、府は九人、州は六人、縣は三人に達した者を最上とし、その教官がさらに経に通じていれば昇進させた。舉人の少ない者は平等とし、経に通じていても昇進させない。舉人が極めて少ないか全くない者は最下とし、さらに経に通じなければ降格・免職とした。教官に対する厳しさはこのようであった。
- 生員で入学十年たっても成るところがない者、および大過のある者は、みな部に送って吏に充て、廩糧を追徴した。正統十四年(1449年)にその制を明示し、やや改めた。贓を受け、姦盜、冒籍、宿娼、居喪中の娶妻妾など、犯した事理の重い者は、直隷では國子監の膳夫に、各省では近くの儒學の膳夫・齋夫に充て、満期ののち民とし、いずれも廩米を追徴した。犯罪が軽くて吏に充てられる者は廩米を追徴しない。諸生への厳しさもまたこのようであった。
- しかしその後は教官の降格も生員の発遣も棚上げにされて行われず、卧碑さえ空文となった。
- 諸生のうち上の者は科挙に合格し、次の者は廩生として年を重ねて貢に充てられ、あるいは選抜されて貢生となった。たびたび受験して及第せず年五十を過ぎて退隠を願う者には冠帯を与え、身分の徭役を免じた。のち納粟・納馬による捐監の例ができると、諸生でこの例を援いて学を出る者も現れた。
- 提學官は嵗試の校文のほかに、教官に諸生の品行の優劣な者を一、二人挙げさせて賞罰し、勧懲とした。おおよそ以上のとおりである。
舉業の文体の変遷
- 諸生の受験の文を総称して舉業という。四書義は一道二百字以上、経義は一道三百字以上で、書の趣旨が明晰であればよく、華麗さを尊ばなかった。のち新奇を標榜して当初から離れていった。
- 萬厯十五年(1587年)、禮部が言った。唐の文は初め靡麗を尚んで士は浮薄に趨き、宋の文は初め鉤棘を尚んで人は険譎に慣れた。国初の舉業には六経の語を用いる者があったが、のち『左傳』『國語』を引き、さらに『史記』『漢書』を引き、『史記』が尽きると六子を用い、六子が尽きると百家を用い、はなはだしきは仏典・道蔵を摘んで用いる。弊害はどこまで行くか分からない。𢎞治・正徳・嘉靖初年の合格文字は純正典雅であるから、その優れたものを選んで学宮に刊布し、向かうべき方向を知らせたい、と。そこで合格文字百十余篇を取って刊布を奏請した。
- しかし当時は新奇を尊び先人の規矩を薄んじる風で、士子の好みに従って趨き、上意には従わなかった。
- 天啓・崇禎の間には文体がいよいよ変わり、経史百家に出入りすることを高しとし、放恣に流れる者も多かった。詭異・険僻の禁をたびたび申し渡しても、勢いは重く返らず、ついに従わせられなかった。
- 論者は明の舉業の文字を唐人の詩になぞらえ、国初を初唐、成化・𢎞治・正徳・嘉靖を盛唐、隆慶・萬厯を中唐、天啓・崇禎を晩唐に比したという。
宗學・社學・武學
- 儒學のほかに宗學・社學・武學があった。
- 宗學の設けは、世子・長子・衆子・將軍・中尉で弱冠に達しない者がみな与かる。その師は王府の長史・紀善・伴讀・教授などの官のうち学行の優れた者を選んで任じた。
- 萬厯中、宗室の子で十歳以上の者はみな宗學に入ると定めた。宗子が多い場合は数人の師を置き、あるいは宗室の中から一人を推して宗正としてその事を領させた。学生には『皇明祖訓』『孝順事實』『為善隂隲』の諸書を誦習させ、四書・五経・通鑑・性理も兼ねて誦読させた。まもなく宗副二人を増した。
- 入学した子弟は毎年、提學官のもとで考試を受け、衣冠は生員と同じとした。のちには同様に鄉試を受け、合格することも許された。宗學は次第に増え、両榜に及第して翰林から身を起こす者もかなりあった。
- 社學は洪武八年(1375年)から師を招いて民間の子弟を教え、あわせて御製『大誥』および本朝の律令を読ませた。正統の時に儒學生員への補充を許した。𢎞治十七年(1504年)、各府州縣に社學を建て、明師を選んで、民間の幼童十五歳以下の者を入れて読書させ、冠・婚・喪・祭の礼を講習させるよう命じた。しかしその法は久しく廃れ、次第に行われなくなった。
- 武學の設けは洪武の時、大寧などの衞に儒學を置いて武官の子弟を教えたのに始まる。正統中、成國公朱勇が、驍勇な都指揮などの官五十一員と騎射に熟達した幼官百員を選ぶよう奏し、初めて両京に武學を建てて訓誨させた。まもなく都司・衞所の襲職すべき子弟で十歳以上の者は、提學官が選んで武學に送り読書させ、武學のない所は衞學または近くの儒學に送ることとした。
- 成化中、所司に命じて年末に武生の入学者を考試し、十年以上たって見るべき学のない者は廩米を追徴して官に還し、営に送って操練させた。
- 𢎞治中、兵部尚書馬文升の言により、五経・七書を刊行して両京の武學および襲職すべき舍人に分け与えた。
- 嘉靖中、京城東の武學を皇城西隅の廃寺に移し、大小の民官の子弟および勲爵を新たに襲いだ者をそこで学ばせ、文武の重臣を用いて教習させた。
- 萬厯中、兵部が、武庫司は専ら主事一員を設けて武學を営理していたが近ごろ裁去されたので、ふたたび専設し、教官が堂に升れば都指揮は弟子の礼を執ることとし、『會典』の例に遵って程式を立てるよう請い、詔してみな議のとおりとした。
- 崇禎十年(1637年)、天下の府州縣學にみな武學生員を設け、提學官が同様に考取するよう命じた。さらに『會典』の事例を申し渡し、功能を簿に記し、次を越えた抜擢、退けて操練に送る処分など、奨罰激励の法を定めた。しかし時局はまさに危急で、益するところはなかった。