明史卷六十五 志四十一 輿服一
篇目
- 大輅・玉輅・大馬輦・小馬輦・歩輦・大凉歩輦・板轎・耕根車・后妃車輿・皇太子親王以下車輿・公卿以下車輿・繖盖・鞍轡。
序――車服の沿革
- 有虞氏は天下を御めるにあたり車服をもって功に酬い、夏は黻冕によって美を致し、商は大輅によって儉を示した。成周には巾車・典輅・弁司・司服の職があり、天子はこれをもって萬邦の表式とし、車服の五乗は下は臣民にまで及んだ。
- 漢は秦の制を承け、金根車を御して乗輿とし、袀元の服を着て大祀に臨んだ。東都(後漢)に至ってようやく九斿・雲罕・旒冕・絇屨の儀物ができ、事を踵いで華を増し、日ごとに新しく代ごとに異なった。
- 江左の偏安(東晉・南朝)では玉輅に寶鳯を棲ませ、采旄に金龍を銜ませ、その冕服には翡翠・珊瑚・雜珠を飾ることもあった。これがどうして古にいう法駕・法服であろうか。
- 唐の武徳年間に車輿・衣服の制を著し、上は下を兼ねうるが下は上を擬してはならないとした。宋の初めには衮冕に珠玉を綴らず、政和年間に詔して車輅を修め、あわせて旂常を建て、議禮局が釐定したものを成憲とした。
- 元の制では郊祀には玉輅に駕し衮冕を服し、巡幸にはあるいは象轎に乗り、四時の質孫の服はそれぞれ宜しきに随った。
- 明の太祖は天下を有つやいなや邦礼を考定し、車服は質を尚び、古を酌み今に通じ、礼の意に合致させた。世宗に至っては、耤田のために耕根車を造り、燕居には燕弁の服、講武には武弁を用い、さらに忠靖冠を作って位にある者を風し、保和冠を作って宗藩に親しんだ。これもまた一王の制である。
- 前代の繖・扇・鞍・勒の儀、門㦸・旌節の類は、いずれも等威を別けるもので、宋に至って密になった。
- 明の初めは儉徳をもって基を開き、宮殿が落成しても文石を用いて地を甃かず、これによって民を防いだ。それでも武臣には牀幔に金龍を飾り、馬廐に九五の間数を用いる者があり、豪民にも金を鎔かして酒器とし金玉珠で飾る者があった。太祖はみなその弊を重く懲らし、儒臣に命じて古を稽え礼を講じ、官民の服舎・器用の制度を定めた。歴代これを守り、次々に禁例が設けられた。
- ここではさらに、朝家の冊寶、中外の符信、および宮室・器用の等差を後に付して叙べる。
天子車輅
- 明の初め、大朝会には拱衛司が五輅を奉天門に設けた。玉輅が中央、左に金輅、次いで革輅、右に象輅、次いで木輅である。駕が出るときは玉輅に乗り、後に腰輿があって八人でこれを載せた。
- その後、太祖は周礼の五輅を考えて儒臣に諮り、「玉輅は太だ侈である。ただ木輅だけを用いてはどうか」と言った。博士の詹同は「孔子は殷の輅に乗ると言いました。すなわち木輅です」と答えた。太祖は「玉で車を飾るのは古くはただ天を祀るときだけに用いた。常乗には殷の輅を用いるのがよい。ただし天を祀る際に玉輅が備わっていなければ、木輅でも不可ではあるまい」と言った。参政の張昶が「木輅は戎輅ですから、天を祀るのに用いてはなりません」と言うと、太祖は「孔子は四代の礼楽を斟酌して万世の法とした。木輅がどうして祀に用いられないことがあろう。祀は誠敬にあるのであって、どうして儀文に泥むのか」と言った。
- 洪武元年(1368年)、有司が「乗輿の服御は金で飾るべきだ」と奏したが、詔して銅を用いさせた。有司が「費用は小さく惜しむに足りません」と言うと、太祖は「朕は四海を富有している。どうしてこれを恡もう。ただ儉約は身をもって先んじなければ下を率いることはできない。しかも奢泰の習いは、小より大に至らぬものはないのだ」と言った。
- 洪武六年(1373年)、礼官に命じて五輅の制を考えさせ、木輅二乗を作った。一つは丹漆で祭祀に用い、一つは皮鞔で行幸に用いる。この冬、大輅が成った。さらに大輅一・象輅十・中宫輅一・後宫車十を造らせ、飾りはいずれも鳯を用いた。中立府に幸そうとして造ったもので、常制ではない。
- 洪武二十六年(1393年)、はじめて鹵簿・太駕の制を定めた。玉輅一・大輅一・九龍車一・歩輦一。後に九龍車は罷めた。
- 永樂三年(1405年)、鹵簿を定め改めた。大駕には大輅・玉輅・大馬輦・小馬輦・歩輦・大凉歩輦・板轎各一、具服幄殿各一がある。
大輅
- 高さ一丈三尺九寸五分、広さ八尺二寸五分。輅座は高さ四尺一寸あまり。上に平盤、前後の車櫺および雁翅、四垂の如意滴珠板がある。轅は長さ二丈二尺九寸あまり、紅髹で、鍍金銅の龍頭・龍尾・龍鱗の葉片で装釘する。
- 平盤の下の方箱は四周が紅髹の匡で、いずれも十二槅。内は緑地描金で獸六(麟・狻猊・犀・象・天馬・天禄)と禽六(鸞・鳯・孔雀・朱雀・翟・鶴)を描く。
- 左右の下に護泥板および車輪二・貫軸一がある。輪ごとに輻十八、その輞はみな紅髹に抹金銅鈒花の葉片で装釘し、輪内の周心には抹金銅鈒の蓮花瓣の輪盤で装釘する。軸の中に黄絨を纒めて轅を駕す諸索とする。
- 輅亭は高さ六尺七寸九分、四柱の長さ五尺八寸四分、檻座はみな紅髹。前の二柱は釴金し、柱首は寶相花、中は雲龍文、下は龜文錦。
- 前と後の右に門があり、高さ五尺一寸九分・広さ二尺四寸九分。四周に雕木沉香色描金の香草板十二片を装う。門の傍らの槅各二および門栨はみな紅髹で、抹金銅鈒花の葉片で装釘し、槅は黄線の絛で編む。
- 後は紅髹に抹金雕描金の雲龍、五彩髹板に戧金の雲龍一。屏の後の地は沉香色で、上の四槅に雕描金の雲龍四、その次の雲板も同数。下の三槅に雕描金の雲龍三、その次の雲板も同数。いずれも抹金銅鈒花の葉片で装釘する。
- 亭内は黄線の絛で編んだ紅髹の匡の軟座、下に蓮花の墜石、花毯と紅錦の褥席を施す。紅髹の坐椅は、靠背の上に雕描金の金雲龍一、下に雕雲板一、紅髹の福夀板一と褥。椅の中には黄織金の椅靠坐褥、四囲に椅裙、黄綺の帷幔を施す。亭の外には青綺緑邊の紅簾十扇。
- 輅頂と圓盤は高さ三尺あまり。鍍金銅の蹲龍の頂に仰覆蓮座を帯び、攀頂の黄線圓絛を垂れる。盤の上は紅髹、その下の外の四面は沉香色地に描金の雲、内の四角は青地に五采の雲を繪き、青で輅蓋を飾る。
- 亭内は貼金の斗栱が紅髹の匡を承け、寶蓋は八つに鬬み、黄綺で冒う。これを黄屋という。中と四周に五彩の雲龍九を繡う。
- 天輪は三層、みな紅髹。上に雕木貼金邊の耀葉板八十二片を安じ、内は緑地に雕木貼金の雲龍文三層、間に五彩の雲を繪いた襯板八十一片。
- 盤の下の四周は黄銅の釘で装い、黄綺の瀝水三層を施す。層ごとに八十一摺、間に五彩の雲龍文を繡う。四角に青綺の絡帶を垂れ、それぞれ五彩の雲と升龍を繡う。圓盤の四角は輅座の板に連ね、攀頂の黄線圓絛と貼金の木魚を用いる。
- 輅亭の前に左右転角の闌干二扇、後に一字帶左右転角の闌干一扇がある。みな紅髹で雕木貼金の龍を嵌め、間に五彩の雲を置く。三扇で合わせて十二柱、柱はみな雕木貼金の蹲龍と線金五彩の蓮花抱柱。闌干の内の四周に花毯を布く。
- 亭の後に太常旂二を樹てる。黄線羅で作り、いずれも十二斿、斿ごとに内外に升龍一を繡う。左の旂は腰に日月・北斗を繡い、竿首に鍍金銅の龍首を用いる。右の旂は腰に黻の字を繡い、竿首に鍍金銅の㦸を用いる。それぞれ抹金銅の鈴二を綴り、紅纓十二を垂れる。纓の上に抹金銅の寶蓋を施し、下に青線の帉錔を垂れる。
- 踏梯一は紅髹で抹金銅鈒花の葉片で装釘する。行馬架二は紅髹で、上に黄絨の匾絛があり、抹金銅の葉片で装釘する。黄絹の幰衣(すなわち遮塵)、油絹の雨衣、青氊衣、および紅油の合扇梯・紅油の托义各一がある。輅は二頭の象で駕す。
玉輅
- これも二頭の象で駕す。制は大輅に同じだが、平盤の下の十二槅の飾りがない。
- 輅亭の前の二柱は摶換貼金の升龍で飾る。屏風の後には上の四槅の雲龍および雲板の飾りがない。天輪の内は青地に雕木で玉色の雲龍文を飾る。太常旂および踏梯・行馬の類はことごとく大輅と同じ。
大馬輦
- 古くは輦は人がこれを輓いた。周礼の巾車には后の五輅があり、その一つが輦車で組で輓く。しかし縣師に車輦の稽があり、黍苗の詩に「我れ任し我れ輦す」とあるから、臣民が乗るものでもあった。秦に至ってその輪を去り、制はここに尊くなった。
- 明の諸輦のうち輪があるものは馬で駕し、歩輦と区別する。
- その制は高さ一丈二尺九寸九分、広さ八尺九寸五分。轅は長さ二丈五寸あまり、輦座は高さ三尺四寸あまり、他は大輅と同じ。
- 輦亭は高さ六尺四寸あまり、紅髹の四柱は長さ五尺四寸あまり、檻座の高さは輅と同じ。四周は紅髹の絛環板。前と左右に門があり、高さ五尺あまり・広さ二尺四寸あまり。門の傍らの槅各二、後の槅三および明栨はみな紅髹で抹金銅鈒花の葉片で装釘し、槅の心は黄線の絛で編む。
- 亭内の制は大輅と同じだが、軟座の上に花毯を用いず紅毯を用いる。亭の外は紅簾十二扇を用いる。
- 輦の頂と圓盤は高さ二尺六寸あまり。上下ともに紅髹で、青で輦蓋を飾る。その銅龍・蓮座・寶蓋・黄屋および天輪・輦亭の制はことごとく大輅と同じ。太常旂・踏梯・行馬の類も大輅と同じ。八頭の馬で駕し、鞍・韉・鞦・轡・鈴・纓を備える。
小馬輦
- 大馬輦に比べて高さも広さもいずれも一尺減じ、轅は長さ一丈九尺あまり、他は大馬輦と同じ。
- 輦亭は高さ五尺五寸あまり、紅髹の四柱は長さ五尺四寸あまり。檻座は紅髹、四周は絛環板。前と左右に門があり、高さ五尺・広さ二尺二寸あまり。門の傍らの槅各二および明栨、後の屏風・壁板はみな紅髹で、抹金銅鈒花の葉片で装釘する。
- 亭の底は紅髹で、上に紅の花毯・紅錦の褥席を施す。外は紅簾四扇を用いる。四頭の馬で駕し、他は大馬輦と同じ。
歩輦
- 歩輦は古の歩輓である。明の制では高さ一丈二尺二寸あまり、広さ八尺二寸あまり。
- 輦座は高さ三尺二寸あまり。四周に雕木五彩の雲と渾貼金の龍板十二片を置き、間に渾貼金の仰覆蓮座を挟み、下に雕木線金五彩の雲板十二片を置く。
- 轅は四本で紅髹。中の二轅は長さ三丈五尺九寸、左右の二轅は長さ二丈九尺五寸あまり。いずれも鍍金銅の龍頭・龍尾で装釘する。
- 輦亭は高さ六尺三寸あまり、四柱は長さ六尺二寸あまり。檻座は紅髹、四周に雕木沉香色描金の香草板十二片を置き、抹金銅鈒花の葉片で装釘する。
- 前と左右に門があり、高さ五尺七寸あまり・広さ二尺四寸あまり。門の傍らに紅髹の十字槅各二扇、雕飾は沉香色描金の龍板八片、下の雲板も同数。後は紅髹の屏風で、上に雕木沉香色描金の雲龍五、屏の後に雕沉香色描金の雲龍板三片、また雲板も同数。いずれも抹金銅鈒花の葉片で装釘する。
- 他は馬輦と同じだが、紅簾だけは十扇を用いる。輦の頂と圓盤は高さ二尺六寸あまり。その蓮座・輦蓋・天輪・幰衣の類は馬輦と同じ。
大凉歩輦
- 高さ一丈二尺五寸あまり、広さ一丈二尺五寸あまり。四面は紅髹の匡に雕木五彩の雲板二十片を装い、間に貼金の仰覆蓮座を挟み、下に紅髹の如意絛環板を同数置く。
- 紅髹の轅は六本。中の二轅は長さ四丈三尺五寸あまり、左右の二轅は長さ四丈あまり、外の二轅は長さ三丈六尺五寸あまり。前後ともに雕木貼金の龍頭・龍尾で飾る。
- 輦亭は高さ六尺五寸あまり、広さ八尺五寸あまり、四柱は紅髹。前と左右に門があり、高さ五尺八寸あまり・広さ二尺五寸あまり。四周に描金の香草板十二片。門の傍らの槅各二、後の槅三および明栨はみな紅髹で、黄線の絛で編む。
- 亭の底の上には墊氊を施し、紅錦の鎒と席を加える。紅髹の坐椅一は四周に雕木沉香色描金の寶相花を施し、靠背・褥・裙・帷幔は馬輦と同じ。
- 内に紅髹の桌二、紅髹の闌干香桌一を設ける。闌干の四柱の首はいずれも雕木貼金の蹲龍。鍍金銅の龍蓋の香爐一と香匙・箸・瓶、紅錦の墩二。外は紅簾三扇。
- 輦の頂は高さ二尺七寸あまり。さらに鍍金銅の寶珠の頂に仰覆蓮座を帯び、高さ一尺三寸あまり、攀頂の黄線圓絛四を垂れる。頂は丹漆を用い、上に紅氊を冒い、四垂は黄氊で如意雲を作り、黄氊で絛を縁どる。四周に綺の瀝水三層を施し、層ごとに百三十二の黄摺、間に五彩の雲龍文を繡う。あるいは大紅羅で頂を冒い、黄羅で如意雲と縁條を作り、瀝水にも黄羅を用いる。
- 頂の下の四周は紅氊を帷とし、黄氊で絛を縁どり、四角に鍍金銅の雲四を置く。
- 亭内の寶蓋には五龍を繡い、頂は紅髹の木匡に紅綺を冒って黄屋とし、頂の心と四周にそれぞれ雲龍一を繡う。輦亭の内の角から輦座に至るまで攀頂の黄線圓絛四と貼金の木魚を用いる。
- 輦亭の前に左右転門の闌干二扇、後に一字帶転角の闌干一扇。みな紅髹で、雕木渾貼金の龍の間に五彩の雲板を挟む。闌干の内の四周に席を布く。その闌干十二柱の飾りおよび踏梯の類はいずれも馬輦と同じ。
板轎
- 轎とは肩で行く車である。宋の中興以後、皇后がかつて龍肩輿に乗り、また征伐の道路が険阻であったため、百官に轎に乗るよう詔した。これを竹轎子といい、また竹輿ともいう。元の皇帝は象轎を用い、二頭の象で駕した。紅板轎を用いるのは明から始まったものである。
- その制は高さ六尺九寸あまり。頂は紅髹、頂に近く圓匡の蜊房窗を装い、鍍金銅の火燄寶帶と仰覆蓮座、四角に鍍金銅の雲朶。
- 轎の扛は二本、前後に鍍金銅の龍頭・龍尾で装釘し、黄絨の墜角索がある。四周は紅髹の板、左右に門二、鍍金銅の釘鉸を用いる。
- 轎の内は紅髹の匡の坐椅一、福夀板一と褥。椅の内は黄織金綺の靠坐褥、四周に椅裙、下に席と踏褥を鋪く。黄絹の轎衣・油絹の雨衣各一、青氊衣、紅氊の縁條、雲子がある。
- 嘉靖十三年(1534年)の謁廟では、帝および后妃はいずれも肩輿に乗って宮を出、奉天門に至って輿を降り輅に升った。
- 隆慶四年(1570年)、郊祀の慶成宴を設けたとき、帝は板輿に乗り、歸極門から出て皇極門から入り、殿上に至って輿を降りた。
具服帷殿(黄帳房)
- 車駕の出御には具服帷殿がある。周官の大次・小次を按ずるに、木で架し葦で障とし、上下四旁を帷帟で周らせて宮室に象る。
- 明の鹵簿に載る具服幄殿の儀仗には黄帳房があり、元の制に従ったものである。帳と帷幕は黄の木棉布で作り、上に獸吻を施し、柱竿は紅髹、竿の首は彩装の蹲獅と氊の頂。
耕根車
- 耕根車は世宗の朝にはじめて造った。漢に耕車があり、晉に耕根車があった。いずれも天子が親耕するときに用いるものである。
- 嘉靖十年(1531年)、帝が耤田を耕そうとして耕根車の製造を詔した。礼官が上言していう。「大明集礼を考えるに、耕耤は宋の制を用い、玉輅に乗り、耕根車に耒耜を載せて同行させる。今の儀注では順天府の官が耒耜および穜稑の種を奉じて五彩の輿に置き、祭の二日前に先んじて出す。いま耕根車を用いて耒耜を載せるのであれば、車を造らせ、祭祀の日の早朝に進呈して耒耜を置き、玉輅に先んじて行かせるべきである。ただし諸礼書を稽えると図式があるだけで高さ・広さの尺寸がない。今の車の式に依りつつやや小さくし、通じて青質を用いるのがよい」。許された。
皇后輅
- 皇后の輅は一乗。高さ一丈一尺三寸あまり。平盤の前後の車櫺および雁翅、四垂の如意滴珠板があり、轅は長さ一丈九尺六寸。いずれも紅髹で、轅は抹金銅の鳯頭・鳯尾・鳯翎の葉片で装釘する。
- 平盤の左右に護泥板を垂れ、輪二・貫軸一。輪ごとに軸(輻の誤りか)十八、みな紅髹。輞は抹金鈒花の銅葉片で装釘し、輪内の車轂は抹金銅鈒の蓮花瓣の輪盤で装釘する。軸の中に黄絨を纒めて轅を駕す諸索とする。
- 輅亭は高さ五尺八寸あまり、紅髹の四柱と檻座、上に沉香色描金の香草板十二片。前と左右に門があり、高さ四尺五寸あまり・広さ二尺四寸あまり。門の傍らに沉香色線金の菱花槅各二、下に絛環板、明栨があり、抹金銅鈒花の葉片で装釘する。
- 後は紅髹の五山屏風に戧金の鸞鳯雲文。屏の上は紅髹の板に戧金の雲文、中に木の渾貼金の鳯一を装釘する。屏の後は紅髹の板で、いずれも抹金銅鈒花の葉片で装釘する。
- 亭の底は紅髹、上に紅の花毯・紅錦の褥席を施す。紅髹の坐椅一は靠背に雕木綿金五彩装の鳯一、上下に香草雲板各一、紅の福夀板一と褥。椅の中は黄織金綺の靠坐褥、四周に椅裙、黄綺の帷幔(あるいは黄線羅)を施す。外は紅簾十二扇。前の二柱は戧金で、上は寶相花、中は鸞鳯雲文、下は龜文錦。
- 輅と圓盤の盤は高さ二尺あまり。抹金銅の立鳯の頂に仰覆蓮座を帯び、攀頂の黄線圓絛四を垂れる。盤の上は紅髹、下の四周は沉香色描金の雲文、内は青地に五彩の雲文で、青で輅蓋を飾る。
- 内の寶蓋は紅髹の匡を八つに鬬み、黄綺で冒い、頂の心および四周に鳯九と五彩の雲文を繡う。
- 天輪は三層、紅髹。上に雕木貼金邊の耀葉板七十二片、内は青地に雕木五彩の雲鸞鳯文三層を飾り、間に五彩の雲を繪いた襯板七十二片。内の四周は黄銅で装釘し、上に黄綺の瀝水三層を施し、間に鸞鳯文を繡う。青綺の絡帶を垂れ、鸞鳯を繡った褥各一。
- 圓盤の四角は輅座の板に連ね、攀頂の黄線圓絛四を用いる。輅亭の前後に左右転角の闌干各二扇、内に絛環板を嵌め、みな紅髹。合わせて十二柱、柱の首は雕木の紅蓮花に線金青緑装の蓮花抱柱。その踏梯・行馬の類は大馬輦と同じ。
皇后安車
- 安車はもと周礼の后の五輅の一つである。應劭の漢の鹵簿の図には五色の安車があり、晉の皇后は雲母の安車に乗り、唐の皇后の安車は制が金輅のようであった。明の皇后の安車はひとり簡素である。
- その制は高さ九尺七寸あまり。平盤の前後の車櫺および雁翅板、轅は二本で長さ一丈六尺七寸あまり。いずれも紅髹で、抹金銅の鳯頭・鳯尾・鳯翎の葉片で装釘する。平盤の左右に護泥板を垂れ、輪二・貫軸一。輪ごとに輻十八、みな紅髹。軸の中に黄絨を纒めて轅を駕す諸索とする。
- 車亭は高さ四尺四寸、紅髹の方柱四。上に五彩の五板十二片を装う。前と左右に門があり、高さ三尺七寸あまり・広さ二尺二寸あまり。門の傍らに紅髹の十字槅各二、後は三山の屏風、屏の後の壁板はみな紅髹で、抹金銅鈒花の葉片で装釘する。
- 亭の底は紅髹の板、上に紅の花毯・紅錦の褥を施し、四周に黄綺の帷幔を施す。外は紅簾四扇。
- 車蓋は紅髹を用い、抹金銅の寶珠の頂に蓮座を帯び、高さ六寸。四角に抹金銅の鳯頭、攀絛四と紅髹の木魚を用いる。蓋には黄綺の瀝水三層を施し、銷金の龍鳯文を置く。鳯頭の下に紅の帉錔を垂れる。その踏梯・行馬・幰衣は輅と同じ。
行障・坐障
- 行障・坐障は唐・宋からある。皇后の重翟車には後にみな行障六・坐障三があり、左右から車を夾んで宮人がこれを執った。ただし唐書・宋史にはその制を載せない。金史では行障は長さ八尺・高さ六尺、坐障は長さ七尺・高さ五尺とある。
- 明では皇后の用いる行障・坐障はいずれも紅綾で作り、升降する鸞鳯と雲文を繪く。行障は瀝水に瑞草を繪き、坐障は頂に雲文を繪く。
太皇太后・皇太后の輿
- 太皇太后・皇太后の輅および安車・行障・坐障の制は皇后と同じ。
皇妃車(鳯轎)
- 皇妃の車を鳯轎という。歴代とは名を異にする。
- その制は青の頂、上に抹金銅の珠頂、四角に抹金銅の飛鳯各一、銀の香圓と寶蓋、綵結を垂れる。轎の身は紅髹の木匡で、三面は篾織の文簟に翟の文を繪き、抹金銅鈒花の葉片で装釘する。紅髹の掆は抹金銅の鳯頭・鳯尾で飾る。青の銷金銅緑邊の紅簾と看帶。内は紅の交牀と坐踏の褥。
- 紅の銷金羅の轎衣一は、頂に銷金の寶珠文、瀝水に香草文を用い、看帶と幃はみな鳯文。紅油絹の雨轎衣一。
- 皇后以下はみな行障二・坐障一を用い、ただ彩繪で区別する。皇妃の行障・坐障はいずれも紅綾で作り、雲と鳯を繪く。行障の瀝水には香草を繪く。
皇太子金輅
- 高さ一丈二尺二寸、広さ八尺九寸あまり、轅は長さ一丈九尺五寸、輅座は高さ三尺二寸あまり。平盤・滴珠板・輪輻・輪輞はことごとく玉輅と同じ。
- 輅亭は高さ六尺四寸あまり、紅髹の四柱は長さ五尺四寸。檻座の上の四周に線金五彩の香草板。前と左右に門があり、高さ五尺・広さ二尺四寸あまり。門の傍らの槅各二は紅線の絛で編み、明栨とともにみな紅髹。
- 後は五山の屏風、青地の上に雕木貼金の龍五、間に五彩の雲文。屏の後は紅髹の板で、みな抹金銅鈒花の葉片で装釘する。
- 紅髹の匡の軟座、紅絨の墜座の大索四、下に蓮花の墜石を垂れ、上に紅毯・紅錦の褥席を施す。紅髹の椅一、納板一と褥。椅の中は紅織金綺の靠坐褥、四周に椅裙、紅羅の帷幔を施す。外は青綺縁邊の紅簾十二扇。椅には雕貼金の龍と彩雲、下に線金彩雲の板一。亭内は紅線の絛で編む。
- 輅の頂と圓盤は高さ二尺五寸あまり。さらに鍍金銅の寶珠の頂、線絛の覆蓮座は高さ九寸、攀頂の紅線圓絛四を垂れる。盤の上は丹漆、下は内外ともに青地に雲文を繪き、青で輅蓋を飾る。
- 亭内の周囲は青の斗拱が丹漆の匡を承け、寶蓋は八つに鬬み、紅綺で冒う。頂の心に雲龍を繡い、他は五彩の雲文を繡う。
- 天輪は三層、みな紅髹。上に雕木貼金邊の耀葉板七十二片、内は青地に雕木貼金の雲龍文三層を飾り、間に五彩の雲を繪いた襯板七十二片。四周は黄銅で装釘し、上に紅綺の瀝水三層を施し、層ごとに七十二摺、間に五彩の雲龍文を繡う。四角の飾りは大輅と同じだが、圓絛だけは紅線を用いる。
- 輅亭の前に一字の闌干一扇、後に一字帶転角の闌干一扇、左右に闌干二扇。内に五彩の雲板を嵌め、みな丹漆。合わせて十四柱、柱の首の制は大輅と同じ。
- 亭の後に紅旂二を建てる。紅羅で作り、九斿、斿ごとに内外に升龍一を繡う。左の旂は腰に日月・北斗を繡い、竿に抹金銅の龍首を用いる。右の旂は腰に黻の字を繡い、竿に抹金銅の㦸を用いる。珠金銅の鈴二を綴り、紅纓を垂れる。
- その踏梯・行馬の類は玉輅と同じ。帳房は青の木棉布を用い、竿の首は青緑の蹲猊、他は乗輿の帳房と同じ。
東宫妃車
- 東宫妃の車もまた鳯轎という。小轎の制は皇妃と同じ。行障・坐障の制も同じ。
親王象輅
- その高さは金輅より六寸減じ、その広さは一尺減じ、轅の長さは大輅より一尺減ずる。輅座は高さ三尺あまり、他の飾りは金輅と同じ。
- 輅亭は高さ五尺二寸あまり、紅髹の四柱。檻座の上の四周は紅髹の絛環板。前と左右に門があり、高さ四尺五寸あまり・広さ二尺二寸あまり。門の傍らの槅各二および明栨、後の五山の屏風はみな紅髹で、抹金銅鈒花の葉片で装釘する。
- 亭の底は紅髹、紅の花毯・紅錦の褥席を施す。その椅・靠坐褥・帷幔・紅簾の制はいずれも金輅と同じ。
- 輅の頂と圓盤は高さ二尺四寸あまり、抹金銅の寶珠の頂を用い、他は金輅と同じ。
- 天輪は三層、みな紅髹。上に雕木貼金邊の耀葉六十三片、内は青地に雕木五彩の雲文三層を飾り、間に五彩の雲を繪いた襯板六十三片。四周は黄銅で装釘し、上に紅綺の瀝水三層を施し、層ごとに八十一摺、瑞草文を繡う。前に青綺の絡帶二を垂れ、いずれも升龍と五彩の雲文を繡う。
- 圓盤の四角は絡座の板に連ね、攀頂の紅線圓絛四と紅髹の木魚を用いる。
- 亭の前後の闌干は金輅と同じ。左右の闌干各一扇、内に絛環板を嵌め、みな紅髹。合わせて十四柱、柱の首は雕木の紅蓮花に線金青緑装の蓮花抱柱。前の闌干の内に花毯を布く。
- 紅旗二は金輅に樹てるものと同じだが、竿の上にはただ紅纓五を垂れるだけ。その踏梯・行馬の類も金輅と同じ。帳房は緑色の螭頭を用い、他は東宫と同じ。
親王妃車
- 親王妃の車もまた鳯轎という。小轎の制はいずれも東宫妃と同じ。ただし鳯轎の衣は木紅の平羅を用いる。小轎の衣は二つで、一つは礬紅の素紵絲、一つは木紅の平羅を用いる。行障・坐障の制は東宫妃と同じ。
公主車
- 宋では厭翟車を用い、明の初めはこれに因った。その後の定制では、鳯轎・行障・坐障は親王妃と同じ。
皇孫車
- 永樂年間に皇太孫の婚礼を定めたとき、儀仗は親王のようにし、皇太子より一等を降し、象輅を用いた。
郡王
- 郡王には輅がなく、ただ帳房があるだけで、制は親王と同じ。
郡王妃・郡主
- 郡王妃および郡主はいずれも翟轎を用いる。制は皇妃の鳯轎と同じだが、鳯を翟に易える。行障・坐障は親王妃と同じで、雲と翟の文を繪く。
公卿以下車輿(百官乗車の制)
- 洪武元年(1368年)、およそ車には龍鳯の文を雕り飾ることを禁じた。職官は一品から三品までは簡金飾銀の螭・繡帶・青縵を用い、四品・五品は素の獅頭・繡帶・青縵、六品から九品までは素の雲頭・青帶・青縵を用いる。轎も車の制に同じ。庶民の車および轎はいずれも黒油の齊頭平頂と皁縵を用い、雲頭を用いることを禁じた。
- 洪武六年(1373年)、およそ車轎に丹漆を用いることを禁じ、五品以上の車はただ素の縵だけを用いさせた。婦女は轎に坐すことを許し、官民で老疾の者もこれに乗ることができるとした。
- 景泰四年(1453年)、在京の三品以上は轎に乗ることができるとした。
- 宏治七年(1494年)、文武官で例により轎に乗るべき者は四人でこれを舁かせ、五府の管事、内外の鎮守・守備および公・侯・伯・都督などは老少を問わずみな轎に乗ってはならず、例に違えて轎に乗る者および擅に八人を用いる者は奏聞すると令した。
- そもそも太祖は勲臣が騎射を廃することを望まず、上公であっても出るときは必ず馬に乗った。永樂元年(1403年)、駙馬都尉の胡觀が制を越えて晉王濟熺の朱轑㯶轎に乗り、給事中の周景に弾劾された。詔があって胡觀を宥し、濟熺には書を賜って切責した。文職の大臣だけが轎に乗り、庶官もまた馬に乗った。
- また文臣はみな車に乗ることを許され、大臣は安車に乗ることができたが、後に久しく廃されて用いられなくなった。
- 正徳四年(1509年)、礼部侍郎の劉機が「大明集礼では公卿大臣は安車に乗ることができる」と言い、これによって轎・扇・繖蓋の品級の等差を定めるよう請うた。帝は京城内では安車・繖蓋が久しく行われていないとしてその請を却け、轎と扇はいずれも例のとおり行うよう命じた。
- 嘉靖十五年(1536年)、礼部尚書の霍韜が「礼儀の定式では京官三品以上が轎に乗ることになっているが、近ごろは文官がみな肩輿を用い、あるいは女轎に乗っている。礼制を申明して臣下に遵守すべきところを持たせていただきたい」と言った。そこで四品以下は轎に乗ることを許さず、また肩輿を用いてもならないと定めた。
- 隆慶二年(1568年)、給事中の徐尚が應城伯の孫文棟らが轎に乗って出入りし、驕り僭して無状であると弾劾した。帝は孫文棟らの俸を奪うよう命じ、両京の武職は特恩を奉じた者でなければ轎に乗ることを許さず、文官の四品以下で帷輪を用いる者は例のとおり禁ずると諭した。
- 萬厯三年(1575年)、勲戚および武臣は帷轎・肩輿ならびに交牀での上馬を用いてはならないと奏定した。
- 格を破った特別の典としては、宣徳年間に少保の黄淮が西苑の陪遊にあたり肩輿に乗って禁中に入ったことがある。嘉靖年間には嚴嵩が詔を奉じて苑に直し、年が八旬に及んだので出入りに肩輿に乗ることができた。武臣では郭勛・朱希忠が特に命じられて肩輿に乗り、南巡の蹕に扈従した。後にはついに常に乗ることを賜わった。いずれも制ではない。
繖蓋の制
- 洪武元年(1368年)、庶民は羅絹の凉繖を用いてはならず、ただ油紙の雨繖だけを用いることを許した。
- 洪武三年(1370年)、京城内では一品・二品は繖蓋を用い、その他は雨繖を用いさせた。
- 洪武十六年(1383年)、尚書・侍郎・左右都御史・通政使・太常卿・應天府尹・國子祭酒・翰林學士には繖蓋を張ることを許した。
- 洪武二十六年(1393年)に定める。一品・二品の繖は銀の浮屠の頂を用い、三品・四品は紅の浮屠の頂を用い、いずれも黒色または茶褐の羅を表に紅絹を裏にした三簷のもの。雨繖は紅油絹を用いる。五品は紅の浮屠の頂、青羅を表に紅絹を裏にした両簷のもの、雨繖は四品と同じ。六品から九品までは紅の浮屠の頂、青絹を表に紅絹を裏にした両簷のもので、雨繖はいずれも油紙を用いる。
- 三十五年(1402年)、官員の繖蓋には金繡・朱丹の装飾を用いてはならないとした。公・侯・駙馬・伯は一品・二品と同じ。
- 成化九年(1473年)、両京の官は雨に遇えば油繖を任意に用いてよいが、凉繖は京城で張ることを許さないと令した。
鞍轡の制
- 洪武六年(1373年)、庶民は描金を用いてはならず、ただ銅・鉄の装飾だけを用いさせた。
- 洪武二十六年(1393年)に定める。公・侯および一品・二品は銀鋄の鉄の事件を用い、䩞には描銀を用いる。三品から五品までは銀鋄の鉄の事件を用い、䩞には油畫を用いる。六品から九品までは擺錫の鉄の事件を用い、䩞には油畫を用いる。
- 三十五年(1402年)、官民の人等の馬の頷の下の纓および鞦・轡はいずれも黒色を用い、紅纓および描金・嵌金・天青・朱紅の装飾を許さない。軍民は鉄の事件と黒緑油の䩞を用いる。