明史卷五十七 志第三十三 禮十一(軍禮)

軍禮の構成

  • 五禮の四番目が軍禮である。親征を筆頭に置き、遣將がこれに次ぐ。出師にあたっては禡祭の禮があり、帰還すれば受降・奏凱獻俘・論功行賞の禮がある。平時には閲武(大閲)と大射の禮があり、救日伐鼓の制も同類として付載する。
  • 本巻が扱う項目は、親征・遣將・禡祭・受降・奏凱獻俘・論功行賞・大閲・大射・救日伐鼔の九つである。

親征

  • 洪武元年(1368年)閏七月、詔して軍禮を定めさせた。中書省の臣が儒臣と会議して奏した論旨は、天子の親征は天に応じ人に順い、残虐を除いて天下を安んじるためのもので、黄帝が干戈を習用して不享の者を征したのがその始まりだ、というものである。
  • 併せて古制を挙げる。周制では天子が親征するとき、上帝に類祭し、大社に宜祭し、祖廟に造祭し、征伐する土地で禡祭し、通過する山川をも祭った。師が還れば廟社に奏凱・獻俘した。後魏には宣露布の制があり、唐は旧典をそのまま用い、宋も折々これを行った。そこで舊章を厯考して親征の禮を定め、奏上した。
  • 定められた儀は次のとおり。あらかじめ日を択んで天地・宗社に祭告する。皇帝は武弁を服し、革輅に乗り、六軍を偹え、牲幣を具え、樂を作し、いずれも三獻の禮を行う。その儀式は大祀と同じである。
  • また国の南の神祠で禡祭の禮を行う。通過する山川・嶽鎮・海瀆には太牢を用い、その次には少牢、さらに次には特牲を用いる。行軍が速く時間がなければ酒脯だけで祭り、祭器は籩・豆各一とする。前期に一日斎戒し、皇帝は通天冠・絳紗𫀆で省牲し自ら滌ぎ、祭の当日は武弁を服して一獻の禮を行う。
  • 凱旋のときは宗社を祭り、禮は出師のときと同じである。廟社に獻俘し、露布をもって天下に詔し、そののち論功行賞を行う。
  • 永樂・宣徳・正統の間は、おおむねこの制に従って行われた。
  • 正徳十四年(1519年)、帝が宸濠を親征した。禮部が祭告の儀注を旧例どおりに上ったが、帝は祭祀をすべて官を遣わして代行させよと令じた。さらに官を遣わすことを請う上疏に対しても、遣わすなという㫖が下った。頒詔だけは旧制のとおりとした。
  • 翌年(正徳十五年、1520年)十一月、凱旋を控えて禮臣が言上した。宸濠の悖逆に対し皇上が親しく六師を統べてその罪を正したのは、宣徳年間に漢庻人髙煦を親征した故事と同じであるが、その際の一切の禮儀は稽考しようがない。そこで師還の日、聖駕は正陽門から入り、官を遣わして天地・廟社に告謝し、駕は奉先殿・几筵殿に詣でて謁見し、終えて皇太后に朝見する。翌日の早朝に午門樓に御し、百官が朝見して獻俘の禮を行い、日を択んで天下に詔告する、という案である。
  • 十二月、帝が京師に還った。百官は正陽門外に迎え、帝は戎服で馬に乗って入城した。

遣將

  • 洪武元年(1368年)、中書省の臣が官を集めて議して奏した。王者が將を遣わすのは有罪を討ち民の害を除くためである。書経は大禹の徂征を称し、詩経は南仲の北伐を美とし、史記は兵書を引いて「古の王者が將を遣わすときは跪いて轂を推した」という。漢の高祖は韓信に命じて將とし、壇を設けて禮を具えた。北齊では親しく斧鉞を授け、唐は廟社に告げ、さらに太公廟にも告げた。宋は朝堂で旌節を授け、次に廟社に告げ、また黄帝に禡祭した。
  • こうして遣將の禮を定めた。皇帝は武弁服で奉天殿に御し、大將軍が入って丹墀に就いて四拜し、西陛から殿に入って再拜して跪く。承制官が制を宣し、節鉞を大將軍に授ける。大將軍はこれを受けて執事者に渡し、俯伏して起ち、再拜して出て、陛を降り位に復して四拜する。駕が宮に還ると、大將軍は午門外に出て所部の將士を勒し、旗幟を建て金鼓を鳴らし、行列を正し、節鉞を擎げ、樂を奏して前導させ、百官が順次に送り出す。
  • 造廟・宜社の禮は、大將軍に牲幣を具えさせて一獻の禮を行わせ、官を遣わして廟社に祭告する儀と同じにする。
  • 武成王廟に告げる儀は、二日前に大將が省牲し、祭日に大將が幕次で祝版に署名して入り位に就き、再拜し、神位前に詣でて上香・奠帛して再拜し、進熟・酌獻して祝を読み、再拜し、位に詣でて再拜し、飲福・受胙してまた再拜し、徹豆・望燎する。配位もまた大將が禮を行い、両廡の陪祀は諸將が分獻する。

禡祭

  • 親征の場合、あらかじめ皇帝および大將・陪祭官はみな一日斎戒する。前日、皇帝は通天冠・絳紗𫀆で省牲し、神厨に詣でて鼎鑊の洗浄を検分する。
  • 執事は廟中の北に軍牙と六纛を設ける。軍牙が東、六纛が西である。籩豆は十二、簠簋は各二、鉶・登・爼は各三。瘞坎の位を神位の西北に設け、坎の前に席を設けて酒碗五・雄雞五を置く。その他の陳設は常の儀のとおり。
  • 祭日には牙旗と六纛を神位の後ろに建てる。皇帝は武弁を服して左南門から入り、廟廷の南の正中に至って北向して立つ。大將および陪祭官は文武に分かれ、重なって後ろに班する。
  • 迎神して再拜し、幣を奠じて初獻の禮を行う。まず軍牙の神位前に詣で、次に六纛の神位前に詣で、いずれも再拜する。亞獻・終獻も同様。ただし初獻でだけ祝を読み、飲福の位に詣でて再拜し、飲福・受胙してまた再拜する。掌祭官が徹豆し、贊禮が送神を唱えてまた再拜する。執事官が各々祝と幣を、掌祭官が饌を取って祭所に詣でる。太常が望燎を奏請し、執事が雞を殺してその血を酒碗に刺し入れて神に酧し、半ば燎いたところで禮畢を奏し、駕が還る。
  • 將を遣わす場合は、旗纛廟の壇で三獻の禮を行う。初獻は大將、亞獻・終獻は諸將が行う。

受降

  • 洪武四年(1371年)七月、蜀夏の明昇の降表が京師に至った。太祖は中書に受降の禮を集議させた。省部は、宋の太祖が蜀主孟昶の降を受けた故事に倣うことを請うた。
  • その案は次のとおり。明昇が朝見する日、皇帝は奉天門に御する。昇らは午門外に跪いて待罪の表を進め、侍儀使が表を捧げて入り、宣表官が読み上げる。終わると承制官が出て制を𫝊え、昇らはみな地に俯伏する。侍儀舍人が昇を掖えて起こし、その属官もみな起って跪き、宣制を聴いて罪を釈される。昇らは五拜して三たび万歳を呼ぶ。承制官が制を𫝊えて衣服・冠帯を宣賜し、侍儀舍人が昇を引いて丹墀の中に入れて四拜させる。侍儀使が㫖を𫝊え、昇は跪いて宣諭を聴き、俯伏して四拜し、三たび万歳を呼び、また四拜して退出する。百官が賀の禮を行う。
  • 帝は、孟昶は専ら国政を治めながら行いが奢縦であったのに対し、昇は年少で事はみな臣下から出たものだとして、叩頭・伏地して表を上り罪を請う部分を免じ、ただ昇とその官属の朝見、百官の朝賀だけを命じた。

奏凱獻俘

  • およそ親征から師が還ると、皇帝は諸將を率い、廟の南門外と社の北門外に凱樂と俘馘を陳ね、廟社に告祭して三獻の禮を行う。儀は出師のときと同じ。祭が畢わると俘馘を刑部に付し、恊律郎が樂を導いて退く。皇帝は通天冠・絳紗袍で午門樓に升り、露布をもって天下に詔する。百官は朝服でこれを聴く。儀は詔赦を開読するのと同じである。
  • 大將の奏凱の儀は次のとおり。あらかじめ大都督が露布を奏聞し、内使監が午門樓上の前楹に御座を陳ねる。奏凱樂の位を樓前に、協律郎の位を奏凱樂の北に、司樂の位を協律郎の南に設ける。また獻俘の位を樓前のやや南に、獻俘する將校の位をその北に、刑部尚書の奏する位を將校の北に設け、いずれも北向とする。さらに刑部尚書が俘を受ける位を獻俘位の西に東向で設け、露布の案を内道の中央に南向で、露布を受ける位を案の東に、承制の位を案の東北に設けていずれも西向とし、露布を宣する位を文武の班の南に北向で設ける。
  • 当日の清晨、まず凱樂と俘馘を廟社の門外に陳ねるが歌曲は奏さない。告祭の禮が畢わるのを待って、あらためて樂を午門樓前に陳ね、將校が俘を引いて兵仗の外に侍立し、百官が入って侍立の位に就く。皇帝が常服で樓に升り、侍衛は常儀のとおり。大將が樓前の位に就いて四拜し、諸將もこれに従い、退いて侍立の位に就く。
  • 奏凱樂を贊すると、協律郎が麾を執って樂工を位に引き、司樂が跪いて奏凱樂を奏請し、協律郎が麾を挙げて鼓吹が振作し、樂曲を編奏して樂が止む。
  • 宣露布を贊すると、承制官が露布を受露布官に付し、引禮が案の前に導いて跪いて受けさせ、中道を南行して宣露布官に授ける。読み終えると中書省に付して天下に頒示する。
  • 將校が俘を位に引き、刑部尚書が跪いて「某官某が某処で捕えた俘を献じます。有司に付されるよう請います」と奏し、終えて退いて位に復する。刑に就く者は西廂に立って東向し、刑官に付す。罪を宥される者については、樓上の承制官が「敕あり、縛を釈け」と㫖を宣し、樓下がこれを承けて釈く。終わると贊禮が、釈された俘に謝恩させ、みな四拜して三呼する。將校は釈された俘を引いて退く。賜物があればその場で㫖を宣して賜う。大將以下は拜位に就き、舞蹈・山呼して常儀のとおりにし、班の前にやや進み出て跪いて称賀の詞を述べる。終わって百官がまた四拜し、禮畢わって還る。
  • 洪武三年(1370年)六月、左副將軍李文忠が北征して大㨗し、官を遣わして俘とした元の孫の買的里八刺および宝冊を京師に送った。百官が獻俘の禮を行うよう請うたが、帝は許さなかった(事は本紀に詳しい)。ただ本俗の服を着せたまま朝見させ、終わって中国の衣冠を賜い、その場で謝させた。また省臣に、故国の妃が君に朝するのはもとよりこの禮があるが、それを真似る必要はないと言い、同じく本俗の服で中宮に入見させ、中国の服を賜って謝させた。
  • 同年十月、大將軍徐逹および文忠らの師が還った。車駕は江上まで出て労った。翌日、逹が諸將を率いて平沙漠の表を上り、帝は奉天殿に御し、皇太子・親王が侍り、百官が朝服で陪列した。逹と文忠が表を奉って賀し、禮が成って西階から退き、皇太子・親王が入って賀した。
  • のちに定めて、大㨗のときは日を択んで宣露布し、その日は奏事せず、百官は吉服で賀し、当日に官を遣わして郊廟に薦告する。中㨗以下は㨗を宣するだけで祭告・慶賀は行わない、とした。
  • 永樂四年(1406年)に定めて、㨗があれば兵部の官が露布を奏聞し、大將が軍中にあるときは進露布官が禮を行い、翌日に開読の禮、苐三日に慶賀の禮を行い、あとは前の儀のとおりとした。
  • 武宗が宸濠を征して還ったとき、禮部が獻俘の儀を上ったが、帝の不豫に当たって行われなかった。
  • 嘉靖二十三年(1544年)十月、叛賊の王三が幾度も吉囊を導いて大同に侵入したのを官軍が謀って擒えた。官を遣わして南郊・北郊・景神殿・大社稷に謝し、日を択んで獻俘し、百官が表で賀した。
  • 天啟二年(1622年)、四川が逆犯の樊友邦らを、山東が逆犯の徐鴻儒らを献じた。いずれも官を遣わして郊廟に告祭し、帝は樓に御して獻俘を受けた。

論功行賞

  • およそ凱旋のときは、中書省が大都督府と兵部に移文して諸將の功績を具さにさせ、吏部に勲爵と職名を、戸部・禮部に賞格を具さにさせる。中書が六部を集めて功賞を論定し、奏して上裁を仰ぐ。
  • あらかじめ御座と香案を奉天殿に陳ね、宝案と詔書案を殿中に、誥命案を丹陛の正中の北に、宣制案を誥命案の北に設ける。吏・戸・禮三部の尚書の位を殿上の東南に、大都督・兵部尚書の位を殿上の西南に設ける。受賞すべき官の拜位を丹墀の中に、序立の位を丹墀の西南に、受賞の位を誥命案の南に、受賞執事の位を受賞官の序立位の西に設ける。官ごとに誥命と禮物を捧げる者を各一人ずつ置き、いずれも北向とする。その他の陳設は常儀のとおり。
  • 当日、鼓が三たび厳しく鳴ると執事官が各々位に就く。皇帝が衮冕で座に陞り、皇太子と諸王は衮冕で殿の東門から入って侍立する。受賞官が入って拜位に就き、四拜する。承制官が跪いて制を承け、殿の中門から出る。吏・戸・禮の尚書は殿の西門から出て誥命案の東に立つ。承制官が南向して「制あり」と称すると受賞官はみな跪く。制を宣していわく、「朕は某らが国のために功を建てたことを嘉し、爵賞を加えるべきである。いま某の職を授け、某の物を賜う。つつしんで朕の命を承けよ」。
  • 宣し終えると受賞官は俯伏して起ち、再拜する。行賞を唱えると、受賞官の第一の者が案の前に詣でて跪き、吏部尚書が誥命を、戸部尚書が禮物を捧げて各々受賞官に授ける。受賞官はこれを左右の者に渡し、俯伏して起ち位に復する。他の官も順次に受賞する。終わると承制官・吏部尚書らがみな御前に至って復命し、退いて位に復する。受賞官はみな再拜し、三たび舞蹈・山呼し、俯伏して起ち、また四拜して禮畢わる。
  • 皇帝が宮に還ると、各官は出て午門外に至り、誥命と禮物を龍亭に置き、儀仗と鼓楽で各々本邸まで送り届ける。翌日、表を進めて謝すること常儀のとおり。

大閲

  • 宣徳四年(1429年)十月、帝が郊外で閲武しようとして、都督府に兵を整えさせ、文武の堂上官各一員・属官各一員を扈従させた。正統年間には近郊や西苑で閲することもあったが、令に著されなかった。
  • 隆慶二年(1568年)、大学士張居正が、祖宗の時には大閲の禮があったとして親臨・校閲を乞い、兵部が宣宗・英宗の故事を引いて実施を請うた。翌年八月に挙行するよう命が下った。
  • 期日に及んで禮部が定めた儀は次のとおり。前日、皇帝は常服で内殿に告げ、出郊の儀のように四拜の禮を行う。司設監が将台の上に御幄を設け、総督・協理の戎政大臣と巡視の科道が将領・軍兵を督率して、あらかじめ教場を粛清する。当日早朝、官を遣わして教場で旗纛の神を祭る。三大営の官軍は甲仗を具え、将官四員が馬兵千を統べて扈駕する。
  • 扈従するのは、文臣では各堂上官・科道の掌印官・禮科と兵科の両科・禮部儀制司・兵部四司の官・紏儀・監射御史・鴻臚寺の供事官、武臣では都督以上および錦衣衛の堂上官と南鎮撫司の掌印・僉書官である。いずれも大紅の便服で、扈従の牙牌を関領して懸帯し、先に教場に詣でる。当日は朝を免じ、錦衣衛が鹵簿を偹える。
  • 皇帝は常服で輦に乗り、長安左門から出る。官軍が導従し、鉦鼓が振作して安定門を出、閲武門外に至る。総督・協理の戎政官が大小の将佐を率い、戎服で跪いて迎え、将台の下に入って北向して序立する。駕が閲武門内に進むと中軍が号砲を三たび挙げ、各営の鉦鼓が振作する。扈従官は行宮の門外に序立し、駕が門に至って輦を降りると兵部官が導いて行宮に入り、金を鳴らして鼓を止める。升座を候って扈従官が一拜の禮を行い、酒飯を𫝊賜され、各官は謝恩して出て、将台の下の東西に序立する。
  • 兵部官が大閲を奏請し、兵部・鴻臚寺の官が駕を導いて台に登らせる。砲を三たび挙げると京営の将士が叩頭し、終わって東西に侍立する。総督・協理の戎政官は扈従官の北に、諸将は従官の南に列する。兵部尚書が各軍に人馬を整搠させるよう請い、台上で号笛を吹き黄旗を麾くと、総督・協理の戎政および将佐らは各々所部に帰る。
  • 兵部尚書が閲陣を請い、砲を三たび挙げると、馬歩の官軍が常法どおり陣を演じる。演じ終えるとまた号笛を吹き黄旗を麾いて将士はみな営に帰る。
  • しばらくして兵部尚書が閲射を請い、総督・協理の戎政官以下および射を聴く公・侯・駙馬・伯・錦衣衛らの官はみな台下で較射する。馬上は三矢、歩射は六矢で、的に中った者には鼓を鳴らして報じ、御史と兵部官が監視・紀録する。把総以下および家丁・軍士の射は、府部の大臣ならびに御史・兵部官が東西の㕔で較閲する。鎗・刀・火器などの技藝は、総戎政官の裁量で一隊を取り、御前で呈験させる。
  • 終わると兵部尚書が大閲畢わりを奏す。台下で号旗を挙げ、総督・協理の戎政官および諸将領がみな台下に詣でて北向して聚立する。鴻臚寺官が𫝊制を奏し、贊して跪かせ、制を宣し終えて贊して叩頭させる。各官が先に門外へ退き、贊して扈従官が叩頭の禮を行う。禮畢わって駕は行宮に回り、しばし憩う。
  • 扈従等の官が門外に趨って立ち、皇帝が輦に升ると中軍が砲を三たび挙げ、各営はみな鼓吹し、鹵簿と馬兵が来たときの儀のように導従し、鉦鼓が大楽と相応じて振作する。総督・協理の戎政以下は駕の到着を候って叩頭して退く。馬兵は長安左門外まで、鹵簿と大楽は午門外までで止まる。駕が還ると、また内殿に詣でて前の儀のように参謁する。扈従しない百官は各々官服で承天門外の橋の南に序立して恭しく駕を送り、迎えるときも同様にする。
  • 翌日、総督・協理の戎政官以下が表で謝し、百官が侍班して称賀の禮を行うこと常儀のとおり。兵部は将士の優劣、中箭の多寡、教練の等第を奏聞する。三日を越えて皇帝は皇極門に御し、敕を賜って将士を勉励する。総督・協理の戎政官がこれを捧げて彩輿に至らせ、将士が迎え導いて教場に至り、開読して禮を行うこと儀のとおり。この日ただちに賞賚を行い、併せて戒罰にも差等をつける。翌日、総督・協理の戎政官が将佐を率いてふたたび謝恩し、詔して議のとおり行わせる。駕が還るときには武成の典の楽を奏する。
  • 萬厯九年(1581年)の大閲は隆慶の故事のとおりに行われた。

大射

  • 大射の禮は後世に称するに足るものが少なく、ただ宋史がこれを嘉禮に列している。明集禮に至って軍禮の中に付され、会典もこれに従った。
  • その制は洪武三年(1370年)に定まった。およそ郊廟の祭祀にはあらかじめ大射の禮を行い、工部が射候などの器を製する。
  • 射鵠は七種ある。虎鵠は五采で天子が用いる。熊鵠は五采で皇太子が用いる。豹鵠の五采は親王が用い、豹鵠の四采は文武一品・二品の者が用いる。糁鵠は三采で三品から五品が用いる。狐鵠は二采で六品から九品が用いる。布鵠は采がなく、文武官の子弟および士民の俊秀が用いる。
  • 射のときは鵠の右に乏を置く。乏はまたの名を容といい、周禮の大司馬・服不氏の職に見え、旗を執る者や獲を侍する者が身を蔽うためのものである。福を設けて射のときに前に置き、矢を揃える。
  • 射中は五種を設ける。皮樹中は天子の大射に用い、閭中は天子の宴射に用い、虎中は皇太子・親王の射に用い、兕中は一品から五品の文武官が用い、鹿中は六品から九品および文武官の子弟・士民の俊秀が通用する。
  • 職事は次のとおり。司正官二人は、射る者の品級の尊卑と人力の強弱を検分して耦を定め、中否を算に記す。兵部の官がこれに当たる。司射二人は、まず強弓で鵠を射て射を誘い、衆の気を鼓する。武職の官が充てられる。司射器官二人は、弓力の強弱を弁じて三等に分け、人の力の強弱を験して授ける。工部の官がこれに当たる。舉爵者は馬潼を的中した者に授けて飲ませる。光禄寺の官がこれに当たる。請射者は耦を定めて射させ、射が畢わるとまた某の耦に射るよう請う。侍儀司がこれに当たる。侍獲者は矢を司射器者に納め、𨽻僕をもってその役に供する。執旗者六人は容の後ろで五色の旗を執る。射る者が的に中れば紅旗を挙げて応じ、采に中れば采旗を挙げて応じ、西に偏れば白旗、東に偏れば青旗、鵠を過ぎれば黄旗、鵠に及ばなければ黒旗を挙げる。軍士二人がこれに当たる。引禮二人は文武官の進退を引導する。侍儀司の舍人がこれを執る。
  • 太祖はまた、先王の射禮が久しく廃れ、弓矢の事が専ら武夫だけの習いとなって文士の多くが解さないことを憂え、詔して国学および郡県の生員にみな射を習わせ、儀式を天下に頒布した。朔望には公廟または空き地でこれを習わせた。
  • 官府・学校の射儀は、おおむね大射の式に倣いつつ禮を減じたものである。射位は初め三十歩、その後に累加して九十歩に至る。四矢を射て、二人を一耦とする。
  • 永樂の時には撃毬・射柳の制があった。永樂十一年(1413年)五月五日、東苑に幸して撃毬・射柳を行い、文武の群臣・四夷の朝使および在京の耆老に集まって観覧させた。撃毬の官を二朋に分け、皇太孫以下、諸王・大臣が順に撃ち射て、中った者には幣帛を差等をつけて賜った。

救日伐鼔

  • 洪武六年(1373年)二月、救日食の禮を定めた。その日、皇帝は常服で正殿に御さず、中書省が香案を設け、百官は朝服で禮を行い、鼓人が鼓を伐ち、日が復円して初めて止める。月食のときは大都督府が香案を設け、百官は常服で禮を行い、鼓は伐たない。雨雪や雲翳のときは免ずる。
  • 洪武二十六年(1393年)三月に改めて定めた。禮部が香案を露台に設けて日に向け、金鼓を儀門内に設け、楽を露台の下に設け、各官の拜位を露台の上に設ける。時が至ると百官が朝服で班に入り、楽が作り、四拜して起ち、楽が止んで跪く。執事者が鼓を捧げ、班首が鼓を三たび撃つと、衆の鼓が一斉に鳴る。復円を候ってのち四拜の禮を行う。月食のときは百官が便服で都督府に集まり、儀のとおり救護する。在外の諸司では、日食は布政使司・府・州・県で、月食は都指揮使司・衛所で、儀のとおり行う。
  • 隆慶六年(1572年)、大喪の成服の折しも日食に遇い、百官はまず哭臨し、そののち禮部に赴き、青素衣・黒角帯で日に向かって四拜し、鼓楽は用いなかった。