明史卷五十六 志第三十二 禮十

篇目

  • 篇首の目次に挙がるのは次の七項である。巡狩、皇長孫監國、迎接詔赦儀、進表箋儀、蕃王朝貢禮、蕃國遣使進表儀、庶人相見禮。ただし本文には東宫監國・頒詔儀・進書儀・鄉飲酒禮・遣使之蕃國儀・品官相見禮の各項も立てられている。

巡狩之制

  • 永樂六年(1408年)の北巡にあたり、禮部が直隷・諸省に対し、重大事および四夷の来朝・進表はみな行在所に届け、小事は京師に届けて奏聞するよう通達した。
  • 車駕が出発しようとすると、天地・社稷・太廟・孝陵に奏告し、大江・旗纛などの神を祭り、承天門で軷祭を行う。沿道で祭るべきところには官を遣わして祭らせる。北京に着こうとすると壇を設けて北京の山川などの神を祭る。車駕が到着すると天地に奏告し、境内の山川を祭る。
  • 扈従する馬歩の軍は五万。侍従は五府の都督各一、吏部・戸部・兵部・刑部の堂上官各一、禮部・工部の堂上官各二、都察院の堂上官一、御史二十四、給事中十九、通政・大理・太常・光禄・鴻臚の堂上官あわせて二十、翰林院と内閣の官三、侍讀・修撰・典籍などの官六、六部の郎官あわせて五十四。ほかは記載しない。
  • 車駕が出発しようとすると群臣に宴を賜い、扈従の官および軍校に鈔を賜う。北京に着くと群臣と耆老に宴を賜い、百官と命婦に鈔を賜う。通過する郡県の官吏・生員・耆老が朝見する。廷臣を手分けして遣わし守令の賢否を調べさせ、その場で黜陟を加える。給事中と御史が高齢者を見舞い、幣帛・酒肉を賜う。
  • 嘉靖十八年(1539年)、承天に行幸した。前もって自ら元極寳殿で上帝に告げ、同じ日に皇祖および睿宗の廟に告げ、官を分かち遣わして北郊および成祖以下の諸廟・社稷・日月・神祇に告げさせた。
  • 駕は正陽門から出、后妃の輦轎が従った。錦衣衞が勅製の武陣を設け、駕を衛る卒八千が輿輦を奉じ儀仗を執り、衞指揮が前駆した。武臣の重臣二員を留守とし、兵部尚書に機務を参贊させ、それぞれに敕を賜って事に当たらせた。文武の重臣を分けて命じ、宣府・大同・薊州・山海関を督させ、九辺を巡らせ、これにもそれぞれ敕を賜った。皇城および京城の諸門にはみな文武の大臣各一員に守りに就かせて警備を設け、駕に扈従する官軍は六千。
  • 駕が出発すると百官が吉服で彰儀門の外に見送った。扈従の官軍はおおむね永樂のときと同じ数である。先に発って途上にある者は朝参を免ずる。ただ禮部・兵部、鴻臚寺・太常寺、科道の紏儀官および光禄寺が従行した。
  • 真定を過ぎるとき北嶽を望祭した。帝は常服、従臣・大臣および巡撫都御史は吉服で礼を行った。衞輝では官を遣わして濟瀆を祭り、鈞州では中嶽を望祭し、滎澤では河を祭った。礼はいずれも北嶽と同じ。南陽では武當山を祭らせた。途次の古の帝王・聖賢・忠臣・烈士の祠墓には官を遣わして祭を致した。撫按と三司が境界で迎え、行宮に至って吉服で朝見した。生員と耆老はみな三十里の外で迎えた。通過する王府の親王は常服で駕を待ち、従って行宮に至り、冕服で朝見して宴を賜った。宗室は外出を許さなかった。
  • 承天に至ると獻皇帝の廟に赴いて謁告した。四日を経て龍飛殿で告天の礼を行い、丹陛の上で獻皇帝を配した。皮弁服に着替えて国の社稷および山川壇に赴いて礼を行った。翌日、顯陵に謁した。翌日、従駕の官が表を上って賀し、そして詔を頒つこと儀のとおり。京に帰ると自ら上帝・皇祖・皇考に謝し、官を分かち遣わして郊・廟・社稷に告げさせ、群臣が初めと同じく礼を行った。

東宫監國

  • 古の制では、太子が出るのを「撫軍」、留まるのを「監國」という。三代以後では唐の太子が監国して雙龍の符を結んだだけで、その儀は明らかでない。
  • 永樂七年(1409年)、駕が北京に行幸するにあたり制を定めた。常朝には皇太子が午門の左で政務を執り、左右の侍衞および各官が事を啟するのは常のとおり。文華殿に出御して旨を承けて召し入れられた者だけが入る。
  • 内外の軍機および王府の急務はことごとく奏請する。辺境に警報があればただちに軍を調えて討伐し、そのうえで行在に馳せ奏する。皇城および各門の守衛にはみな官軍を増置する。
  • 聖節・正旦・冬至には皇太子が百官を率いて文華殿の前で表を拜し、十二拜の礼を行う。表は中門から出し、皇太子は左門から出て午門まで送って還宮する。百官が長安右門の外まで導き、文官五品・武官四品以上および近侍官・監察御史がみな馬に乗って三山門の外まで導き、表を進奏官に渡す。期日に至って天に告げ寿を祝し、八拜の礼を行う。正旦・冬至・千秋節には百官が文華殿で慶賀すること常のとおり。
  • 太廟および社稷・諸神の祭には、前もって皇太子に敕して摂祭させる。祀典に載る神祇については太常寺が行在に奏聞して官を遣わし礼を行わせる。
  • 四夷が来朝すれば例によって宴を賜い、禮部に命じて行在所に送らせる。
  • 詔書が届くと龍亭・儀仗・大樂を設け、百官が朝服で三山門の外に出て奉迎する。皇太子は冕服で午門の前に迎え、文華殿に至って五拜三叩頭の礼を行い、殿に升って読み上げさせる。使者が詔を捧げて龍亭の中に置き、皇太子は午門の外まで送る。禮部官が詔書を雲輿の中に納め、文武の二品以上の官が承天門まで迎えて儀のとおり読み上げる。鼓楽をもって使者を會同館に送る。使者が皇太子に会って四拜の礼を行い、禮部で宴を賜う。
  • 十二年(1414年)の北征のとき、また制を定めて、常朝は文華殿で政務を執り、文武の啟事はみな北京に届けることとした。
  • 嘉靖十八年(1539年)の南巡では皇太子に監国を命じた。当時、太子は幼かったので輔臣一人に留守を命じ、軍国の機務はことごとく啟して行わせた。

皇太孫監國

  • 永樂八年(1410年)、帝が北京から北征したとき、皇太子はすでに南で監国していたので、皇長孫に北京で監国させた。当時、宣宗はまだ冠礼を済ませておらず、冠礼を経てはじめて皇太孫と称するようになったという。
  • その制では、毎日、皇長孫が奉天門の左で政務を執り、侍衞は常のとおり。諸司に事があれば啟を具えて施行する。軍機および王府の要務については、一方を皇太子に啟して処分を仰ぎ、一方を行在所に奏聞する。
  • 聖節には香案を奉天殿に設けて礼を行うこと常のとおり。天下の諸司の表文はみな北京に届け、四夷の朝貢はみな南京に送る。
  • 武選および官民の犯罪は、重いものは皇太子に啟し、軽いものは皇長孫が処理する。皇孫に罪があれば皇太子に啟する。犯した情状が重く謀逆に及ぶ者は即時に拘束し、皇親に命じて会同で問わせ、服さなければ公・侯・伯、五府・六部・都察院・大理寺に命じて皇親とともに再度問わせ、皇太子に啟して車駕が京に帰るのを待って処分を奏請する。

頒詔儀

  • 四方に命を頒つには、詔書・赦書・敕符/丹符・制諭/手詔がある。詔と赦はまず闕廷で宣読してのちに頒行する。敕符などは使者が授かるべき官に届けるだけで、秘して開くことをしない。開読と迎接の儀はそれぞれ異なる。
  • 洪武二十六年(1393年)に定めた頒詔の儀は次のとおり。御座を奉天殿に設け、寳案を殿の東に設ける。中和韶樂を殿内に、大樂を午門および承天門の外に陳ね、宣読の案を承天門の上に西南向きに設ける。清晨、校尉が雲葢を殿内の簾の前に捧げ持つ。百官は朝服で承天門の外に列し、公・侯は午門の外に東西を向いて列する。皇帝が皮弁服で殿に升ること儀のとおり。禮部官が詔書を捧げて案の前に進んで宝を捺し、終わって雲葢の中に置く。校尉が雲葢を捧げて殿の東門から出、大樂が起こる。東の階から降り奉天門を経て金水橋の南に至り、午門の外で楽が起こる。公・侯が先導して承天門の上まで迎える。鳴贊が排班を唱え、文武官が位に就き、楽が起こって四拜、楽が止む。宣読を唱え、展読官が案に升って「有制」と称し、衆官が跪く。禮部官が詔書を捧げて宣読官に渡し、宣し終えると禮部官が捧げて雲葢の中に置く。贊禮が俯伏と起立を唱え、楽が起こって四拜、楽が止む。舞蹈・山呼してまた四拜する。儀禮司が礼の終わりを奏し、御駕が起つ。禮部官が詔書を捧げて使者に分け授け、百官が退出する。
  • 嘉靖六年(1527年)に続けて定めた。鴻臚官が詔案を設け、錦衣衞が雲葢と雲盤を奉天殿内の東に設け、別に雲盤を承天門の上に設け、綵輿を午門の外に設ける。鴻臚官が宣読の案を承天門の上に設ける。百官が丹墀に入って侍立し、帝が冕服で座に升ること朝儀のとおり。翰林院官が詔書を捧げて従い、御座の前の東に立つ。百官が班に入って四拜し、出て承天門の外に至る。頒詔を贊し、翰林院官が詔書を捧げて禮部官に渡し、捧げて雲盤の案の上に至る。校尉が雲葢を捧げ、ともに殿の左門から出て午門の外に至り、詔を捧げて綵輿の中に納める。公・侯・伯および三品以上の官が先導して承天門の上まで迎える。宣読と拜の贊はみな上の儀のとおり。禮部官が詔書を捧げて錦衣衞官に渡し、雲匣の中に納め、綵の索で結んで龍竿から下ろして頒つ。禮部官が捧げて龍亭の中に納め、鼓楽をもって禮部まで迎え、使者に授けて頒行する。
  • 隆慶六年(1572年)、詔が皇極門まで出たところで礼の終わりを奏し、駕が還ることとした。

迎接詔赦儀

  • 洪武年間に定めた。使を遣わして詔赦を読み上げさせるときは、その地の官が龍亭・儀仗・鼓楽を用意して郭外に出て迎える。使者が馬を下り、詔書を奉じて龍亭の中に南向きに置く。その地の官が朝服で五拜の礼を行う。衆官と鼓楽が先導し、使者は馬に乗って龍亭の後ろに従う。役所の門に至ると衆官が先に入り、文武が東西に分かれて立ち、龍亭の到着を待って班を成し四拜する。使者が詔を捧げて展読官に渡し、展読官は跪いて受けて開読の案に進んで宣読する。終わって詔を捧げて朝廷の使者に渡し、なお龍亭の中に置く。衆官が四拜し舞蹈・山呼してまた四拜する。終わって班首が龍亭の前に進んで跪き「皇躬万福なりや」と問う。使者は鞠躬して「聖躬万福」と答える。衆官は退いて着替え、使者に会ってともに両拜の礼を行う。ふたたび鼓楽を具えて詔を官亭に送る。もし出使の官が居合わせていれば、その地の守臣に先んじて礼を行う。

進書儀

  • 書を進めるうち実録がもっとも重い。皇帝が袞冕を着け、百官が朝服で表を進めて称賀する。そのほかの纂修の書が成ったときは表をもって進め、重録した書および玉牒はただ捧げて進めるだけである。ここに実録を進める儀を詳しく載せる。ほかはこれによって推し量ることができる。
  • 建文のとき『太祖實録』が成ったが、その進める儀は考証できない。
  • 永樂元年(1403年)に『太祖實録』を重修して成ったとき、香案を奉天殿の丹陛の中央に、表案を丹陛の東に設け、寳輿を奉天門に設け、鹵簿と大樂を儀のとおり設けた。史官が實録を捧げて輿の中に納める。帝が殿に出御すること大朝の儀のとおり。百官が丹墀に至って左右に立つ。鴻臚官が寳輿を導いて丹陛の上に至らせ、史官が實録を挙げて案に置き、そのまま班に入る。鴻臚官が實録を進めることを奏し、序班が實録の案を挙げて順に殿の中門から入り、班首は左門から入る。帝が起ち、序班が實録の案を殿の中央に置く。班首が案の前に跪き、史官もみな跪くよう贊する。序班と内侍官が實録の案を挙げて謹身殿に入れ、中央に置く。帝が座に戻る。俯伏を贊し、班首が俯伏して起ち元の位置に戻る。四拜を贊する。表を進めることを贊し、序班が表案を挙げて左門から入って殿の中央に置く。表を宣することを贊し、衆官がみな跪くよう贊する。宣し終えて俯伏して起ち四拜する。實録を進めた官は東の班に退く。百官が班に入り、鴻臚官が慶賀を奏し、各官が四拜して起つ。「有制」を贊し、史官がまた班に入り、跪くよう贊して制を宣する。「太祖髙皇帝・髙皇后の功徳は光り輝き、その纂述は詳らかで事実にかなう。朕の心は歓び慶ぶ。卿らとこれを同じくしよう」。宣し終えて俯伏して起ち、三たび舞蹈してまた四拜し、礼を終えた。
  • 萬厯五年(1577年)に世祖の實録が成ったとき(「世宗」の誤りか)、続けて進める儀を定めた。寳輿・香亭・表亭を史館の前に設ける。帝は冕服で中極殿に出御し、百官は朝服で侍班する。監修・總裁・纂修などの官が朝服で館の前に至り、監修官が表を捧げて表亭の中に納め、纂修官が實録を捧げて寳輿の中に納める。鴻臚官が導き迎え、鼓楽と繖葢を用いて會極門から階を下り橋の南に至り、中央の道を通る。監修・總裁らの官は表亭の後ろに従い、二つの橋を通って皇極門に至る。實録の輿は中門から、表亭は左門から入り、丹墀の案の前に至る。監修官が表を捧げて案に置き、纂修官が實録を捧げて案に置き、ともに石墀の東に侍立する。内殿で百官が礼を行い終えると、帝が出て皇極殿に出御する。監修・總裁らの官が入って實録を進め表を進めるのは、みな永樂の儀のとおり。翌日、司禮監の官が内殿から實録を殿の下に送り、あらためて寳輿の中に納め、繖葢を用いて監修・總裁の官とともに皇史宬に送り納めた。

進表箋儀

  • 明初に定めた制では、王府において聖節・冬至・正旦に際し、前もって陳設を終え、王が冕服で位に就いて四拜し、香案の前に進んで跪いて表を進める。終わって元の位置に戻り、四拜・三舞蹈・山呼してまた四拜する。百官は朝服で班に従って礼を行う。中宮に箋を進める儀も同じだが、舞蹈と山呼は行わない。皇太子に箋を進めるときは王が皮弁服で八拜の礼を行い、百官は朝服で班に従って礼を行う。
  • 賀の表箋を進めるにあたっての称呼は次のとおり。皇子で王に封ぜられた者は、天子の前で自ら「第何子某王某」と称し、天子を「父皇陛下」、皇后を「母后殿下」と呼ぶ。孫であれば自ら「第何孫某王某」と称し、天子を「祖父皇帝陛下」、皇后を「祖母皇后殿下」と呼ぶ。弟であれば自ら「第何弟某封某」と称し、天子を「大兄皇帝陛下」、皇后を「尊嫂皇后殿下」と呼ぶ。姪であれば自ら「第何姪某封某」と称し、天子を「伯父皇帝陛下」または「叔父皇帝陛下」、皇后を「伯母皇后殿下」または「叔母皇后殿下」と呼ぶ。尊属であれば自ら「某封臣某」と称し、天子を「皇帝陛下」、皇后を「皇后殿下」と呼ぶ。從孫以下であれば「從孫」「再從孫」「三從孫某封某」と称し、みな皇帝を「伯祖皇帝陛下」「叔祖皇帝陛下」、皇后を「伯祖母皇后殿下」「叔祖母皇后殿下」と呼ぶ。世宗のときに至って、はじめて各王府の表箋にはみな聖号を用い、家人の礼を用いてはならないと令した。
  • 在外の百官が賀の表箋を進めるときは、前日に役所および街衢に綵を結び、文武の官はそれぞれ斎沐して自分の役所に泊まる。清晨、龍亭を庭中に設け、儀仗と鼓楽を露臺に設け、表箋の案を龍亭の前に、香案を表箋の案の前に設け、表箋を進める官の位を龍亭の東に設ける。鼓の初嚴で各官が服を着け、次嚴で班首が服を着けて香案の前に進み、印を洗って捺す。終わって表箋を案に置き、退いて幕次に立つ。三嚴で各官が班に入って四拜する。班首が香案の前に進み、跪くことを贊し、衆官もみな跪く。執事者が表箋を跪いて班首に渡し、班首は跪いて進表官に渡す。進表官が跪いて受けて龍亭の中に納める。班首が元の位置に戻り、各官がみな四拜・三舞蹈・山呼して四拜する。金鼓・儀仗・鼓楽と百官が先導し、進表官は龍亭の後ろに就いて郊外まで行く。龍亭を南向きに据え、儀仗と鼓楽が前と同じく並び立ち、文武の官が侍立する。班首が表箋を取って進表官に渡し、進表官は馬上でこれを受けてただちに出発する。百官が退出する。

鄉飲酒禮

  • 『記』に「郷飲酒の礼が廃れれば争闘の獄が繁くなる」とある。ゆえに『儀禮』が記す礼のうち、郷飲の礼だけが庶民にまで及ぶ。周から明まで加減は時代ごとに異なるが、その礼は廃れなかった。
  • 洪武五年(1372年)、禮部に詔して郷飲の礼儀を奏定させ、有司と学官に士大夫の年長者を率いて学校で行わせ、民間の里社でもこれを行わせた。
  • 十六年(1383年)、郷飲酒礼の図式を天下に頒つよう詔した。毎年正月十五日と十月一日に儒学で行う。
  • その儀では、府・州・県の長吏を主人とし、郷の致仕の官で徳行のある者一人を賓とし、年高く徳のある者を僎に択び、賓の次を介、その次を三賓、さらにその次を衆賓とする。教職を司正とし、贊禮・贊引・讀律にはみな堪能な者を用いる。
  • 前もって賓の席を堂の北の両楹の間のやや西に南向きに設け、主人の席を阼階の上に西向きに、介の席を西の介の上に東向きに、僎の席を賓の東に南向きに、三賓の席を賓の西に南向きに設ける。いずれも専用の席として連ねない。衆賓のうち六十歳以上の者の席を西序に東向き北を上手として設け、席が多ければ西の階に北向き東を上手として設ける。僚佐の席を東序に西向き北を上手として設ける。衆賓のうち五十歳以下の者の位を堂下の西の階の西、序に当たる位置に東向き北を上手として設け、賓が多ければさらに西の階の南に北向き東を上手として設ける。司正と讀律の者の位を堂下の阼階の南に北向き西を上手として設ける。主人の贊者の位を阼階の東に西向き北を上手として設ける。主人と僚佐以下の控え所を東廊に、賓・介および衆賓の控え所を庠門の外に設け、僎の控え所も門外に置く。
  • 酒尊を堂上の東南の隅に設け、勺と羃を添えて葛の巾を用いる。爵洗を阼階の下の東南に置き、篚一つを洗の西に置いて爵と觶を入れる。盥洗は爵洗の東に置く。桌案を堂の上下の席の位置の前に据え、その上に豆を陳ねる。六十歳の者は三豆、七十歳は四豆、八十歳は五豆、九十歳は六豆、堂下の者は二豆。主人の豆は賓と同じ数。みな葅と醢を盛る。
  • 当日、賓が門に近づくと執事者が進んで「賓が到着しました」と報せる。主人が僚属を率いて門外に出迎え、主人は西を向き、賓以下はみな東を向く。三たび揖し三たび譲ってのち堂に升り、向かい合って再拜して着座する。執事者が僎の到着を報せ、迎えて着座させるのも前の儀と同じ。
  • 贊禮が「司正、觶を揚げよ」と唱える。司正は盥洗の位に進み、次に爵洗の位で篚から觶を取って洗い、西の階から升って尊のところに進んで酒を酌み、両楹の間に進んで北を向いて立つ。着座している者はみな起つ。司正が揖し、僎・賓以下がみな揖を返す。司正は觶を挙げて次のように述べる。「謹んで思いますに、朝廷は旧章に従って礼教を敦く崇び、郷飲を挙げ行われます。飲食のためではありません。我ら長幼はたがいに勧め励まし、臣たる者は忠を尽くし、子たる者は孝を尽くし、長幼に序があり、兄は友に弟は恭しく、内は宗族と睦み、外は郷里と和し、決して怠り堕ちて生まれを辱めることのないように」。述べ終わると贊禮が「司正、酒を飲め」と唱える。飲み終わって揖と返礼が初めと同じ。司正が元の位置に戻り、僎・賓以下がみな坐す。
  • 贊禮が「律令を読め」と唱える。執事が律令の案を堂の中央に挙げ、律令を読む者が案の前に進んで北を向いて立って読む。すべて觶を揚げる儀と同じ。過ちのある者はみな正席に赴いて立って聴く。読み終わって元の位置に戻る。
  • 贊禮が「饌を供せよ」と唱える。執事者が饌の案を挙げて賓の前に至らせ、次に僎、次に介、次に主人、三賓以下もそれぞれ順に挙げる。
  • 終わって贊禮が「賓に献ぜよ」と唱える。主人が降りて盥洗および爵洗の位に進んで爵を洗い酒を酌み、賓の前に至って席に置き、やや退いて両拜する。賓が答拜する。また僎の前に進むのも同じ。主人は退いて元の位置に戻る。
  • 贊禮が「賓、酒を酬いよ」と唱える。賓が起ち、僎が従い、盥洗・爵洗の位に進むこと儀のとおり。主人の前に至って爵を置き、賓・僎・主人がみな再拜してそれぞれ着座する。執事者が介・三賓・衆賓以下に順に酒を注ぐ。
  • 終わって贊禮が「酒を飲め」と唱える。三巡または五巡し、湯三品を供して終わる。贊禮が「饌を徹せよ」と唱え、着座の者がみな起つ。僎・主人・僚属は東に、賓・介・三賓・衆賓は西に居てみな再拜する。贊禮が「賓を送れ」と唱え、順に堂を下り東西に分かれて進み、なお三たび揖して庠門を出て退く。里中の郷飲もおおむね同じである。
  • 二十二年(1389年)、罪過を犯した者はみな外の席に並べ、同類の者だけで席を成させ、善良な者の中に混じることを許さぬよう命じ、令とした。

賔禮の位置づけ

  • 五礼の第三が賓礼で、蕃国の君長とその使者を待遇するためのものである。宋の政和年間に五礼を詳定したとき、『周官』の司儀が九儀を掌り、賓客の擯相が王に南面して諸侯に朝せしめるよう告げる、という義を取ったので、朝会の儀を賓礼に列した。しかし古の諸侯はそれぞれ自国の君であり自国の民の親であるから、客の礼で待遇するのは当然で、後世の臣下と同列にはできない。ここではその旧に従うよう改め、百官と庶人の相見の礼をこれに附す。

蕃王朝貢禮

  • 蕃王が入朝するときの迎労・宴饗の礼は、唐の制がもっとも詳しい。宋のときには蕃国はみな使を遣わして入貢したので、接見したのは使臣だけであった。
  • 明の洪武二年(1369年)に定めた制では、蕃王が龍江驛に至ると侍儀・通贊の二人を遣わして接伴させる。館人が蕃王の座を廳の西北に東向きに設け、應天府知府が出迎え、座を廳の東南に西向きに設けて賓主として接見する。宴が終わると知府が帰り、蕃王は門外まで送る。
  • 翌日、接伴官が蕃王を會同館に送り入れ、禮部尚書が館で宴を設けて労う。尚書が至ると蕃王はその国の服を着て会う。宴饗と迎送はみな龍江驛と同じで、酒が回ると楽を用いる。
  • 翌日、中書省が奏聞し、官一員に命じて館に赴かせ、前と同じく宴を設けて労う。侍儀司が蕃王および従官に服を着けさせ天界寺で三日儀を習わせ、日を択んで朝見する。
  • 蕃王および従官の控え所を午門の外に設け、蕃王の拜位を丹墀の中央の道のやや西に、従官をその後ろに設ける。方物の案を丹墀の中央の道の東に設け、知班二人の位を蕃王の拜位の北に、蕃王を引く舎人二人の位を蕃王の従官の北に設ける。鼓が三たび鳴って百官が入侍する。執事が方物の案を挙げ、蕃王が案に従って西門から入り、殿前の丹墀の西に至って立って待つ。皇帝が通天冠・絳紗袍で殿に出御する。蕃王と従官がそれぞれ拜位に就き、方物の案を拜位の前に置く。四拜を贊し、終わって引班が蕃王を導いて殿に升らせる。宣方物官が方物の目録を持って西の階から升り殿の西門に入る。内贊が御前に導き、拜を贊する。蕃王が再拜して跪き、賀を称して言葉を述べる。宣方物官が目録を宣し、承制官が制を宣する。終わって蕃王は俯伏して起ち再拜し、殿の西門から出て元の位置に戻る。拜を贊し、蕃王とその従官がみな四拜する。礼が終わって皇帝が起ち、蕃王以下が退出する。楽の起こりと止みはみな常のとおり。
  • 皇太子に会うときは東宮の正殿で、拜位を殿の外に設ける。皇太子が皮弁服で座に升り、蕃王が再拜し、皇太子は立って受ける。蕃王が跪いて賀を称して言葉を述べ、終わって元の位置に戻り再拜し、皇太子が答拜する。蕃王が退出し、その従官が四拜の礼を行う。
  • 親王に会うときは東西に向かい合って再拜し、王が答拜し、ともに着座する。王の座はやや北。礼が終わると揖して退出する。丞相・三公・大都督・御史大夫に会うときはみな対等の礼をとる。
  • 蕃王が暇乞いするのは朝見の儀と同じだが、制を伝えない。中書省が禮部の官を率いて龍江驛まで送り、初めと同じく宴を催す。
  • 二十七年四月(1394年)、旧儀が煩雑だとして改め定めた。蕃国から来朝するときは、まず禮部官を遣わして會同館で労う。翌日、それぞれその国の服を着け、朝服を賜っている者は朝服を着て、奉天殿で朝見し八拜の礼を行う。終わるとただちに文華殿に赴いて皇太子に朝し四拜の礼を行う。親王に会うのも同じで、王は立って受け、あとの二拜に答える。従官は蕃王の後ろに従って礼を行う。賓客の会では蕃王は侯・伯の下に位する。
  • 蕃国が使を遣わして朝貢するときは、驛に至ると應天府同知を遣わして礼遇し、翌日、會同館に至る。中書省が奏聞し、禮部侍郎に命じて館中で儀のとおり礼遇させる。宴が終わって三日儀を習い、日を択んで朝見する。儀仗の陳設と表を進めるのはみな儀のとおり。承制官が使者の前に進んで「有制」と称し、使者が跪くと「皇帝が問う。使者が来たとき、汝の国王は無事であったか」と宣する。使者が答え終わると俯伏して起ち再拜する。承制官が「後制あり」と称し、使者が跪くと「皇帝がまた問う。汝ら使者は遠来の労、大儀であった」と宣する。使者は俯伏して起ち再拜する。承制官が復命し終わると、使者はまた四拜する。礼が終わって皇帝が起ち、楽の起こりと止みは儀のとおり。
  • 東宮に会うときは四拜し、方物を進めて終わってまた四拜する。丞相・大都督・御史大夫に謁するときは再拜し、書を献じてまた再拜する。左司郎中などに会うときはみな対等の礼をとる。
  • 宴を賜うときは、御座を謹身殿に据え、皇太子の座を御座の東に、諸王の座を皇太子の下に西向きに設け、蕃王の座を殿の西の第一行に東向きに、文武官の座を第二・第三行に東西向きに設ける。酒は九巡、食事は五度供し、大樂と細樂を交互に奏し、舞隊を披露する。蕃国の従官は西廡の下に坐り、酒の数と食品は同じだが楽は用いない。
  • 東宮が蕃王に宴するときは、殿上の中央に皇太子の座を設け、諸王の座をその傍らに東西向きに、蕃王の座を西寄りの諸王の下に東向きに設ける。三師・賓客・諭徳の位を殿上の第二行に東西向きに、蕃王の従官および東宮官の位を西廡に東向き北を上手として設ける。和聲郎が楽を陳ね、光禄寺が酒饌を設けること、みな謹身殿の儀のとおり。
  • 宰相が旨を請うて宴労するときは、席を中書省の後堂に設け、賓は西、主は東とし、蕃王の従官および左右司の官の座を左司に設ける。教坊司が楽を堂および左司の南の楹に陳ねる。蕃王が省の門外に至ると省の官が迎え入れ、従官もそれぞれ後ろに従う。階を升って着座し、酒は七巡、食は五品、楽を奏し諸戲を取り混ぜて演ずる。宴が終わると省の官が門外まで送る。都督府・御史臺の宴も同じ。
  • 蕃使に宴するときは、禮部が旨を奉じて會同館で宴を賜う。館人が座次と御酒の案を設け、教坊司が楽舞を設ける。禮部官が龍亭を午門の外に据え、光禄寺官が旨を請うて御酒を取って龍亭に納め、儀仗と鼓楽が先導して館に至る。蕃使が門外に出迎え、執事者が酒を捧げて中央の道から入って案に置く。奉旨官が案の東に立って「有制」と称し、使者が闕を望んで跪いて聴く。宣し終えて再拜を贊し、奉旨官が酒を酌んで使者に渡す。北を向いて跪いて飲み終わり、また再拜してそれぞれ着座する。酒は七巡、湯は五品、楽を奏し戲を演ずること儀のとおり。宴が終わると奉旨官が退出し、使者が門外まで送る。皇太子が宴を賜うときは宮官を遣わして礼遇させ、省・府・臺もまた酒を置いて宴会し、酒は五巡、食は五品、楽は奏するが戲は演じない。

遣使之蕃國儀

  • 使を遣わして璽綬を賜い、また問遺・慶弔することは漢にはじまる。唐では外国への使を「入蕃使」といい、宋では「國信使」といった。明の太祖は天下を定めると、使者を分け遣わして詔書を奉じて諸国に諭し、あるいは香と幣を下してその国の山川を祀らせた。撫柔の意はきわめて厚く、しかも国体を損なわなかった。前代に比べて得たところがある。
  • 使を遣わすには、翰林院官が詔を草する。期日に陳設は常のとおり。百官が入侍し、皇帝が奉天殿に出御する。禮部官が詔書を捧げ、尚寳司が宝を用いることを奏し、黄の銷金の袱で包んで盤に納め、案に置く。使者が拜位に就いて四拜し、楽の起こりと止みは儀のとおり。承制官が丹陛に至って「有制」と称し、使者が跪くと「皇帝が使者たる汝某に敕す。某国に詔諭せよ。汝は謹んで朕の命を承けよ」と宣する。宣し終えて使者は俯伏して起ち四拜する。禮部官が詔を奉じて中央の階から降りて使者に渡す。使者は捧げて午門を出て龍亭の中に納める。御駕が起ち、百官が退出する。
  • 使者が蕃国の境に入ると、まず人を遣わして王に報せる。王は使を遣わして遠くまで出迎える。前もって国の門外の公館に幄を設け綵を結び、龍亭と香案を陳ね、金鼓・儀仗・大樂を備える。また城内の街巷に綵を結び、闕亭を王の殿上に設け、香案をその前に設け、捧詔官の位を殿の階の東北に、宣詔官・展詔官の位を順にその南に設け、いずれも西を向く。
  • 詔使が到着すると館に迎え入れる。王が国中の官および耆老を率いて国の門外に出迎え、五拜の礼を行う。儀仗と鼓楽が龍亭を導いて入り、使者が従う。殿上に至って龍亭を正中に据え、使者は香案の東に立つ。蕃王の位は殿の庭中に北向き、衆官がこれに従う。使者が南を向いて立ち「有制」と称すると、蕃王以下がみな四拜する。蕃王は西の階から升って香案の前に進んで跪き、三たび香を上げ、俯伏して起つ。衆官も同じ。蕃王が元の位置に戻る。
  • 使者が龍亭の前に進んで詔書を取って捧詔官に渡し、捧詔官が捧げて開読の案に進み宣詔官に渡す。宣詔官が詔を受け、展詔官が向かい合って開く。蕃王以下がみな跪いて聴く。宣し終わってなお詔を龍亭に納める。蕃王以下がみな俯伏して起ち、四拜・三舞蹈してまた四拜する。拜のたびにみな楽を奏する。礼が終わると使者は詔書を担当の役所に渡して頒行させる。蕃王と使者は賓主に分かれて礼を行う。
  • 蕃王に印綬および礼物を賜うときの宣制は「皇帝が使者たる汝某に敕す。某国王に印綬を授けよ。汝は謹んで朕の命を承けよ」。蕃国に至っての宣制は「皇帝が使某に敕し、印を持たせて汝が国王某に賜い、あわせて礼物を賜う」。ほかは儀のとおり。

蕃國遣使進表儀

  • 洪武二年(1369年)に定めた。担当役所が王宮および国の城の街巷に綵を結び、闕庭を殿上の正中に設け、その前に表箋の案を、さらにその前に香案を設ける。使者の位を香案の東に、表箋を捧げる二人を香案の西に置き、龍亭を殿の庭の南の正中に設け、儀仗と鼓楽を備える。
  • 清晨、印を掌る者が印の案を殿中に陳ね、印を洗い終わって表箋と印をともに案に置く。王が冕服、衆官が朝服で案の前に赴いて印を捺す。終わって黄の袱で表を包み、紅の袱で箋を包み、それぞれ匣に納め、なおそれぞれ黄の袱で包む。捧表箋官が捧げて案に置く。
  • 引禮が王を殿の庭の正中に導き、衆官がその後ろに位する。拜を贊し、楽が起こって再拜、楽が止む。まさに香案の前に進んで跪き、衆官もみな跪き、三たび香を上げる。終わって捧表官が表を取って東を向いて跪いて王に進める。王は表を受けて使者に進め、使者は西を向いて跪いて受け、起って案に置く。起立を贊し、王が元の位置に戻る。拜を贊し、楽が起こって王と衆官がみな四拜、楽が止む。
  • 礼が終わると捧表箋官が表を捧げて先を行き、龍亭の中に納める。金鼓・儀仗・鼓楽が先導し、王は宮の門外まで送って還る。衆官は朝服で国の門外まで送り、使者が出発する。

品官相見禮

  • 官員の揖拜について、洪武二十年(1387年)に定めた。公・侯・駙馬が相見するときはそれぞれ両拜の礼を行う。一品官が公・侯・駙馬に会うときは、一品官が右に居て両拜の礼を行い、公・侯・駙馬は左に居て答礼する。二品が一品に会うのも同じ。三品以下もこれに倣う。三品が一品に、四品が二品に会うときは両拜の礼を行い、一品・二品の答礼は適宜とする。ほかの品もこれに倣う。親戚として尊卑の分がある場合は私礼に従って行う。
  • 三十年(1397年)に令した。百官は品秩の高下によって尊卑を分ける。品が近い者が礼を行うときは東西に向かい合って立ち、卑い者が西、高い者が東に立つ。品が二、三等隔たる者は、卑い者が下、尊い者が上に立つ。四等を越える場合は卑い者が下で拜し、尊い者は坐したまま受け、事があれば跪いて申し上げる。
  • 文武の官が公的に集まるときは、それぞれ品級によって順に坐る。資品が同じ者は衙門の序列による。王府の官と朝官がともに坐り立つときは、それぞれ品級によりつつ、いずれも朝官の次とする。
  • 成化十四年(1478年)に定めた。在外の総兵・巡撫の官の位次は、左右都督は左右都御史と並び、都督同知は副都御史と並び、都督僉事は僉都御史と並ぶ。いずれも文は東、武は西。伯以上は左に坐る。
  • 十五年(1479年)に定め直した。都御史で総督および提督軍務を兼ねる者は、左右・副・僉を問わずみな左に坐る。総兵官は伯であっても右に坐る。
  • 官員が行き会ったときの回避について、洪武三十年(1397年)に定めた。駙馬が公・侯に会えば道を分けて行く。一品・二品が公・侯・駙馬に会えば馬を引いて脇に立ち、通り過ぎるのを待つ。二品が一品に会えば右に寄って道を譲って行く。三品が公・侯・駙馬に会えば馬を引いて回避し、一品に会えば馬を引いて脇に立ち、二品に会えば右に寄って道を譲って行く。四品が一品以上の官に会えば馬を引いて回避し、二品に会えば馬を引いて脇に立ち、三品に会えば右に寄って道を譲って行く。五品から九品までみなこれに準じて順に差を付ける。のちには十分には遵行されず、文職は一命以上であっても公・侯・勲戚・大臣を避けず、たがいに回避するのも官によって決まり品秩によらなくなった。
  • 属官が上司に会うことについて、洪武二十年(1387年)に定めた。属官は堂の階の上に順に立ち、まとめて一揖する。上司は拱手し、首領官が揖を返す。公務や節序で上司に会うときは、官はみな両拜の礼を行い、長官は拱手し、首領官が答礼する。
  • 官員の公座について、洪武二十年(1387年)に定めた。大小の衙門の官員は毎日、公座で肅揖の礼を行う。佐貳官が長官に揖すると長官が答礼し、首領官が長官と佐貳官に揖すると長官と佐貳官は拱手する。

庶人相見禮

  • 洪武五年(1372年)に令した。郷党では年齢の順による。民間の士・農・工・商などの者が平生相見するとき、および年中の宴会・謁拜の礼では、年少者が先に礼を施し、坐次の列は年長者を上とする。
  • 十二年(1379年)に令した。内外の官が致仕して郷里に居るときは、宗族および外祖・妻の家に対してだけ家人の礼として尊卑の順による。宴席では別席を設け、官の無い者の下に坐らせてはならない。同じく致仕した官と会うときは爵位の順により、爵が同じなら年齢の順による。異姓で官の無い者と相見するときは答礼するに及ばない。庶民は官に対する礼で謁見する。凌辱する者は律のとおり処断する。
  • 二十六年(1393年)に定めた。民間の子・孫・弟・姪・甥・婿が尊長に会うとき、生徒が師に会うとき、奴婢が家長に会うときは、久しく別れていたなら四拜の礼を、近ごろ別れたばかりなら揖の礼を行う。そのほかの親戚の長幼もことごとく等級に従い、久しく別れていたなら四拜の礼を、近ごろ別れたばかりなら揖の礼を行う。対等の交わりも同じである。