明史卷五十五 志第三十一 禮九

篇目

  • この巻が扱うのは次の十一項である。天子納后儀、皇太子納妃儀、親王昏禮、公主昏禮、品官昏禮、庻人昏禮、皇帝視學儀、經筵、日講、東宫出閣講學儀、諸王讀書儀。

天子納后儀

  • 婚礼には六礼があるが、天子だけは親迎の礼を行わない。漢晉以来はみな使を遣わして節を持たせ迎えさせた。礼物や儀式の文面は時代ごとに増減がある。明が興ってからは歴代の帝はみな即位後に冊立の礼を行った。正統七年(1442年)の英宗の大婚のときはじめて儀注を定めた。
  • 納采と問名。前もって日を択び、官を遣わして天地・宗廟に告げる。当日、御座・制案・節案・鹵簿・綵輿・中和の大樂を儀のとおり設ける。禮部が礼物を丹陛の上と文樓の下に並べる。質明、皇帝が冕服で座に升り、百官が朝服で礼を行い、終わってそれぞれの位に就く。正副使が朝服で四拜する。執事が制案と節案を捧げて中門から出、礼物がこれに続き、いずれも丹陛の中央の道に置く。伝制官が「このたび某官某の女を選んで皇后と為す。卿らに節を持たせ納采・問名の礼を行わせる」と宣する。正副使が四拜し、御駕が起つ。制案・節案を捧げて奉天門の中門から出る。正副使が節と制書を取って綵輿の中に納め、儀仗と大樂が先導して大明門を出、朝服を脱いで馬に乗り皇后の邸に向かう。
  • 邸では使者の控え所を大門外の左手に南向きに設け、香案を正堂に、制案・節案をその南に設け、別に案を北に設ける。使者が到着すると引禮が控え所に導く。執事官が礼物を正堂に並べる。使者が控え所を出て制書を案に安置する。禮官がまず入って東に立ち、主婚者が朝服で出て西に立つ。禮官が「制を奉じて后を立てるにあたり、使を遣わして納采・問名の礼を行う」と述べ、主婚者を導いて出迎えさせる。使者が制書と節を捧げ、主婚者が従って堂に至り、制書と節を案に置く。正副使が案の左右に分かれて立ち、主婚者が四拜して案の前に進んで跪く。
  • 正使が納采の制を取って「朕は天の序を承け謹んで大業を継いだ。国を治める道は家を正すことを本とし、夫婦の倫は乾坤の義である。宗廟の祭祀を助け敬い、奉養の誠を協えるには、頼るところがまことに重い。謹んで聖母皇太后の命に従い、使を遣わして節を持たせ、礼をもって采択する」と宣する。宣し終えて主婚者に渡し、主婚者は執事者に渡して北の案の上のやや左に置かせる。副使が問名の制を取って「朕は思うに、夫婦の道は人倫の本である。内に位を正すには必ず名家に頼らねばならぬ。特に使を遣わして節を持たせ、礼をもって名を問う。返答を待つ」と宣する。宣し終えて前と同じく渡し、案の上のやや右に置く。
  • 主婚者は俯伏して起ち、執事が表案を挙げ、表を主婚者に渡す。主婚者は跪いて正使に表を渡し「臣某、謹んで嘉命を承ります。正使某官某らが重ねて制詔を宣べ、臣の名族をお尋ねになりました。臣の女は臣ら夫婦の生んだ子で、先臣某官某の曽孫、先臣某官某の孫、先臣某官某の外孫にあたり、当年何歳です。謹んで奏聞いたします」と述べる。主婚者は俯伏して起ち、退いて四拜する。使者が出て表を綵輿の中に納める。主婚者が進み出て従者をもてなしたいと請う。酒饌が終わると主婚者が幣を捧げて使者を労う。使者が退出し、主婚者は大門の外まで送る。使者は綵輿に従って大明門の左門から入り奉天門の外に至り、表と節を司禮監に渡して復命する。
  • 次に納吉・納徴・告期。制を伝えて使を遣わすのはすべて前の儀と同じだが、納徴には元纁の束帛・六頭の馬・榖圭などの品を用いる。制の文言は「このたび某官某の女を聘して皇后と為す。卿らに節を持たせ納吉・納徴・告期の礼を行わせる」。皇后の邸の陳設は前と同じで、ただ玉帛の案を加えて設ける。使者が到着すると制書と玉帛を案の上に置き、六頭の馬を堂下に並べる。執事があらかじめ皇后の冠服など諸品を正堂に据える。禮官が入り主婚者が出迎える。執事が玉帛の案を挙げ、正使が納吉・納徴の制書を、副使が告期の制書を捧げ、執節者が節を捧げ、制とともに入ってそれぞれ案に置く。主婚者が四拜して案の前に進んで跪く。
  • 正使が制書を取って「大婚の卜は亀卜も筮竹も、師も士もみな一致した。謹んで礼典に従い、使を遣わして節を持たせ吉を告げる」と宣し、さらに「卿の女は貞静の徳があり、母儀の選にかなう。天地と宗廟にともに仕えるべきである。特に使を遣わして節を持たせ、礼をもって納徴する」と宣する。宣し終えて主婚者に渡す。正副使はまた圭と元纁を捧げて主婚者に渡す。すべて前の儀のとおり。副使が制書を取って「年も月も良く、某甲子の日が吉である。大婚にふさわしい。特に使を遣わして節を持たせ、礼をもって期日を告げる」と宣し、宣し終えて前と同じく渡す。主婚者が四拜する。使者が節を持って退出し、主婚者が使者をもてなす。使者は初めと同じく復命する。
  • 次に冊を発し奉迎する。担当官庁の陳設は前の儀のとおり。禮部が雁と礼物を丹陛の上に並べ、内宮監が皇后の鹵簿と車輅を奉天門の外に並べる。制の文言は「このたび某官某の女を冊して皇后と為す。卿に節を持たせ冊寳を奉じて奉迎の礼を行わせる」。正副使はふたたび冊寳を綵輿の中に納め、従って皇后の邸に向かう。門に至って制書と冊寳を取って案の上に置く。禮官がまず入り、主婚者が朝服で出て会う。禮官が「制を奉じて后を冊するにあたり、使を遣わして節を持たせ冊寳を奉じて奉迎の礼を行う」と述べる。主婚者が出迎え、執事者が案を挙げて先を行き、使者が制書と節を捧げ、執事者が雁と礼物を持って従い、堂の中に至ってそれぞれ案に置く。使者が左右に立ち、主婚者が四拜して退き西南に立つ。
  • 女官が九龍四鳳の冠と褘衣を皇后に進める。内官が儀仗を中堂に並べ、女樂を堂下に設ける。奏起も停止も常のとおり。使者が節・冊・寳を司禮監官に渡し、内贊が中堂に導き入れる。皇后は服を整えて閣を出、香案の前に進んで闕に向かって立ち四拜する。冊を宣するよう贊し、皇后が跪く。宣册官が宣し終えて皇后に渡し、皇后は圭を挿して冊を受け女官に渡す。女官は跪いて受けて西に立つ。寳を宣するのも冊と同じ。圭を出すよう贊し、起つよう贊して四拜する。終わって皇后は閣に入る。司禮監官が節を持って出て使者に渡し、受冊寳の礼が終わったことを報せる。
  • 主婚者が案の前に進んで跪き、正使が奉迎の制を取って宣し、終わって主婚者に渡す。副使が雁と礼物を進め、主婚者はみな跪いて受けること前の儀のとおり。主婚者が起ち、使者が四拜して退出する。主婚者が初めと同じく使者をもてなす。
  • 女官が皇后に閣を出るよう奏請する。皇后は東の階から降りて香案の前に立ち四拜し、堂に升って南を向いて立つ。主婚者が東に立って西を向き「これを戒め、これを敬み、朝夕そむくことのないように」と述べ、退いて東の階に立つ。母が進み出て西に立ち東を向き、衿を掛け帨を結んで「これに努め、これを敬み、朝夕そむくことのないように」と述べ、退いて西の階に立つ。内執事が輿に乗るよう請い、皇后は階を降りて輿に升る。導き従う者が出、儀仗と大樂が先を行き、次に綵輿、正副使が続き、次に司禮監官が守り導いて大明門の中門から入る。百官は朝服で承天門の外に列して迎え、輿が入るのを待って退く。
  • 皇后が午門の外に至ると鐘鼓が鳴り、鹵簿が止まる。正副使が節を司禮監に渡して復命する。授册寳官が冊寳を捧げ、儀仗と女樂が先導して奉天門に入り、内庭の控え所に至る。司禮監が冊寳を女官に渡す。皇后が輿を出て西の階から進み、皇帝は東の階を降りて庭に迎え、揖して皇后を内殿に入れる。帝は着替えの場所に行って衮冕を着け、后は着替えの場所で礼服に改め、ともに奉先殿に赴いて謁廟の礼を行う。祭が終わると還宮して合卺の礼を行う。
  • 帝は皮弁に改めて内殿に升り、后も着替えて従って升り、それぞれ座に着いて東西に向かい合う。執事者が饌の案を前に据え、女官が四つの金の爵を取って酒を酌んで進める。飲み終えると饌を進め、また酒を進め、飯を進める。終わって女官が二つの卺に酒を酌み、合わせて進める。飲み終えるとまた饌を進め、終わって起ち、また常服に着替える。帝の従者は后の饌の残りを、后の従者は帝の饌の残りをいただく。
  • 翌日の早朝、帝と后はともに礼服で太后が座に升るのを待つ。帝と后が座の前に進み、宮人が腵修の盤を持って后の左に立つ。帝と后がともに四拜する。執事が案を挙げて至り、宮人が腵修の盤を后に渡す。后は捧げて案に置き、女官が案を挙げ、后が升って太后の前に進める。終わって元の位置に戻り、帝と后がともに四拜する。
  • 三日目の早朝、帝は冕服、后は礼服でともに太后の宮に赴き八拜の礼を行う。還宮して帝は皮弁を着けて座に升り、宮女が后を導いて礼服で帝の前に進み八拜の礼を行う。后は還宮して座に升り、引禮が内の親族および六尚などの女官を導いて百拜の礼を行わせ、次に各監局の内官・内使が八拜の礼を行う。この日、皇帝は奉先殿に出御して詔を頒布すること常のとおり(「奉天殿」の誤りか)。
  • 四日目の早朝、皇帝は衮冕で華葢殿に出御し、親王が八拜、次に執事官が五拜する。そして奉天殿に升り、百官が表を進めて慶賀の礼を行う。この日、太后と皇后はそれぞれ礼服で座に升り、親王が入って八拜して退出する。次に内外の命婦が慶賀し、外命婦が表箋を進めるのはみな常のとおり。
  • 五日目に盥饋の礼を行う。尚膳監が膳を用意し、皇后は礼服で太后の前に進んで四拜する。尚食が膳を皇后に渡し、皇后は膳を捧げて膳の位置に進め、四拜して退き西南に立つ。食事が終わるのを待って導かれて退出する。

皇太子納妃儀

  • 歴代の制では皇太子の納妃は納后と同じであった。隋唐以後はじめて親迎を行い、天子が臨軒して醮戒するようになった。宋にはじめて盥饋の礼が行われ、明もこれに従った。
  • 洪武元年(1368年)に定めた制では、礼を行うにはみな使を遣わして節を持たせること、皇帝の大婚の儀と同じである。
  • 納采・問名。制に「制を奉じて某氏の女を納れて皇太子妃と為す。卿らに納采・問名の礼を行わせる」とある。妃の邸に至ると儐者が出て使者の前に進み「事を承りたい」と言う。使者は「儲宮の配偶を令徳の家に求めるのは国の常典である。某に納采の礼を行わせる」と答える。儐者が入って告げ、婚を主る者が「臣某の子は閨房の作法に暗く、采択に応じるに足りませんが、謹んで制命を承り、臣某は辞退いたしません」と述べる。儐者が出て使者に告げ、礼物を庭に並べる。前に進んで「某は詔を奉じて采択いたします」と宣し、雁を供えて礼を終え、使者が退出する。
  • 儐者がまた使者の前に進んで「事を承りたい」と言う。使者は「儲宮の配偶はすでに采択が済んだ。これから卜筮を行うため、制を奉じて名を問う」と答える。儐者が入って告げ、主婚者は「制によって臣某の女が儲宮にお仕えできるとのこと、臣某官某は辞退いたしません」と述べる。儐者が出て告げ、使者がふたたび入って礼物を並べ、儀のとおり雁を供える。「臣某は詔を奉じて名を問い、これを卜筮に諮る」と宣する。主婚者は「臣某の第何女、某氏でございます」と答える。使者は控え所に退く。
  • 納吉。儐者が前と同じく事を請い、使者は「卜筮に諮ったところ、占いは吉と出た。制使某が吉を告げる」と述べる。儐者が入って告げ、主婚者は「某の子は愚かで務めに堪えぬかと恐れておりましたが、卜筮が吉と出たのは臣の幸いです。謹んで典制を奉じます」と述べる。儐者が出て告げ、使者が入って礼物を並べ、儀のとおり雁を供え、「制を奉じて吉を告げる」と宣する。
  • 次に納徴。儐者が出て告げ、使者が入って玉帛と礼物を並べる。雁は供えない。「某は制を奉じて成ったことを告げる」と宣する。
  • 次に請期。辞は「亀卜と筮竹に諮ったところ某月某日が吉である。制使某が期日を告げる」。主婚者は「命を承らぬわけには参りません」と述べる。礼物を並べ、儀のとおり雁を供える。
  • 次に告廟。使を遣わして節を持たせ冊寳を授ける。儀注はすべて前に見えるとおり。
  • 次に醮戒。皇帝が通天冠・絳紗袍で奉天殿に出御し、百官が侍立する。引進が皇太子を導いて丹陛に至らせ四拜させ、殿の東門から入って席の位に就いて東を向いて立つ。司爵が餞を進め、皇太子は跪いて圭を挿し餞を受けて酒を祭る。司饌が饌を進め、跪いて受けるのも同じ。起って席に着いて飲食し、終わって御座の前に導かれて跪く。皇帝が「行って汝の伴侶を迎え、我が宗廟の祭祀を継げ。つとめて敬みをもって率いよ」と命ずる。皇太子は「臣某、謹んで制旨を奉じます」と答え、俯伏して起って出、丹陛に至って四拜する。終わって皇帝は還宮し、皇太子が退出する。
  • 次に親迎。前日、担当役所が皇太子の控え所を妃の家の大門の外に南向きに、東宮官の控え所をその南に東西向かい合わせに設ける。当日質明、東宮官が朝服を着け、鹵簿と鼓吹を東宮の門外に並べる。皇太子は冕服で輿に乗って出、侍衛が儀のとおり導き従う。宮門に至って輿を降り輅に升り、東宮官がみな従う。妃の邸に至って轅を回して南を向き、輅を降りて輿に升り、控え所に至って輿を降りて入る。東宮官もみな控え所に就く。
  • これに先立ち皇太子が来ようとする頃、主婚者は女のために会宴を設ける。時刻になると妃は褕翟に花釵を着けて閣に出て南を向いて立ち、傅姆が左右に立つ。主婚者は朝服で西の階の下に立つ。引進が皇太子を導いて控え所を出させ、大門の東に西を向いて立たせる。儐者が朝服で出て門の東に立ち「事を承りたい」と言う。引進が跪いて申し上げ、皇太子が「某は制を奉じて親迎する」と述べる。引進が命を受けて起ち、儐者に伝える。儐者が入って告げ、主婚者を導いて大門の外の西に出迎えさせ、東を向いて再拜させる。皇太子が答拜する。
  • 引進が皇太子を導いて門を入って左に、儐者が主婚者を導いて門を入って右に進む。雁を持つ者が従う。皇太子は東の階を升り、閤門の戸の前に進んで北を向いて立つ。主婚者は西の階を升って西に東を向いて立つ。引進が雁を供えるよう申し上げ、雁を持つ者が雁を進める。皇太子が雁を受けて主婚者に渡し、主婚者は跪いて受けて起ち、左右の者に渡して退いて西に立つ。皇太子は再拜して東の階を降り、控え所に出て待つ。主婚者は階を降りて見送らない。
  • 皇太子が門に入ったとき、妃の母は出て閤門の外の雁を供える位置の西に南を向いて立つ。皇太子が拜し終わると、宮人と傅姆が妃を導いて出し、姆の左に立たせる。主婚者が「これを戒め、これを戒めよ。朝夕つつしみ勤め、決して命にそむくな」と命じ、母が「これに努め、これに努めよ。汝の父の訓えがある。行って謹んで承れ」と命じ、庶母が重ねて「父母の言葉を恭しく聴け」と述べる。宮人と傅姆が支え導き、妃は輿に乗って門を出、輿を降りて鳳轎に乗る。皇太子が簾を掲げて、そのまま輅に升る。侍従は来たときと同じ。東宮の門外に至って輅を降りて輿に乗り、閤に至って輿を降り、内殿の門外の東に西を向いて控える。司閨が導いて内殿の門外の西に東を向いて至らせる。皇太子が妃に揖して入り、合卺の礼を行うこと中宮の儀のとおり。
  • 次に朝見。その日、妃は内殿の階下に赴き、皇帝が座に升るのを待つ。司閨が妃を導き入れ、北を向いて立って再拜させ、西の階から升らせる。宮人が棗と栗の盤を捧げて御座の前に至り妃に渡す。妃は御前に供えて退いて元の位置に戻り、再拜する。礼が終わると皇后の前に進み、腵脩の盤を奉ずることも同じ手順。
  • 次に妃に醴を賜い、次に盥饋、次に謁廟、次に群臣と命婦の朝賀。みな儀のとおり。
  • 四年(1371年)、開平王常遇春の女を皇太子妃に冊した。禮部が儀注を上ると、太祖は目を通して次のように言った。贄の礼に筓を用いず、金の盤を用いよ。翟車には鳳轎を用い、雁は玉で作れ。古礼には親迎で綏を執り輪を御する所作があるが、いま轎を用いるのだから簾を掲げるのがそれに当たる。合卺は古礼に従って匏を用いよ。妃が朝見のため宮中に入るときは小車に乗せて帷幕で覆え。太廟に謁すときは皇太子もともに行け、と。礼が成ってから三日後に群臣と命婦に宴を賜うことを令とした。
  • 成化二十二年(1486年)、婚礼を改め定めた。節や冊などの案はみな奉天左門から出し、皇太子の親迎は東長安門から出る。親迎の日、妃は燕居服を着けて父母に従って家廟で礼を行い、執事者が酒饌を備えて妃が飲食する。父母が堂上に坐り、妃が前に進んでそれぞれ四拜する。父が「汝は大内に行くのだ。朝夕勤め慎み、孝敬してそむくな」と命じ、母が「汝の父の訓えがある。汝はこれを敬んで承れ」と命ずる。合卺の前に皇太子と妃の内殿にそれぞれ拜位を設け、皇太子が妃に揖して入って位に就き、再拜する。妃は四拜し、そののちそれぞれ座に升る。廟見ののち百官が朝賀し「某官某臣ら、謹んで思いますに皇太子の嘉礼が成り、いよいよ宗社の隆盛の福が長く続くこと、臣らは喜びに堪えず、謹んで慶賀申し上げます」と述べる。帝は正旦の儀のとおり宴を賜う。命婦は太后・皇后の前に赴いて賀し、これにも宴を賜う。言葉は「皇太子の嘉聘の礼が成り、いよいよ大いなる福が続きます」。ほかはおおむね洪武の儀のとおりである。

親王昏禮

  • 唐の制では皇子が妃を納れるとき親王に婚を主らせた。宋ではみな皇帝が臨軒して醮戒し、おおむね皇太子と同じであった。明もこれに従った。
  • 宣制は「某氏を冊して某王妃と為す」。
  • 納采の言葉は「某王の伴侶を懿しく淑やかな家に求める。某に納采の礼を行わせる」。
  • 問名の言葉は「某はすでに命を受けた。これを卜筮に諮ろうとするので、制を奉じて名を問う」。主婚者は「制によって臣某の子が某王にお仕えできるとのこと、臣某は辞退いたしません」と答える。
  • 納吉の辞は「卜筮が一致して吉と出た。某に吉を告げさせる」。主婚者は「臣某の子は愚かで務めに堪えぬかと存じておりましたが、卜が吉を賜り、臣にとって幸いです。謹んで典制を奉じます」と答える。
  • 納徴の言葉は「某王の伴侶について卜がすでに吉と一致した。制使某が儀物をもって成ったことを告げる」。主婚者は「制を奉じて臣に重い礼を賜りました。臣某は謹んで典制を奉じます」と答える。
  • 請期の言葉は「某月某日が吉日に選ばれた。制使某が期日を告げる」。主婚者は「謹んで命を奉じます」と答える。
  • 醮戒の命は「行って汝の伴侶を迎え、その家を承けよ。つとめて敬みをもって率いよ」。
  • 親迎・合卺・朝見・盥饋はみな皇太子と同じ。
  • 盥饋が終わると、王は皮弁服、妃は翟衣で東宮の前に赴き四拜の礼を行う。東宮は坐したまま受け、東宮妃は立って受けて二拜し、二拜を返す。王と妃は妃の家に赴き、妃の父が出迎える。王が先に入り、妃の父が従って堂に至り、王は東に立ち、妃の父母は西に立つ。王が四拜し、妃の父母は立って受け、二拜して二拜を返す。ほかの親族が王に会って四拜し、王はみな坐したまま受ける。妃が中堂に入り、妃の父母が坐り、妃が四拜する。そのほかは家人の礼に従って順に行う。
  • 太祖の代には皇太子と皇子に二人の妃があった。洪武八年十一月(1375年)、衞國公鄧愈の女を召して秦王の次妃とした。制を伝えず、冊も発せず、親迎もせず、正副使が納徴の礼を行った。冠服は唐宋の二品の制になぞらえ、儀仗は正妃よりやや減らした。婚儀の日、王は皮弁服で妃を導いて奉先殿に謁し、王が東でやや前、妃が西でやや後ろに立った。礼が終わって宮に入り、王と正妃が正面に坐り、次妃が王の前に進んで四拜し、また正妃の前に進んで四拜し、次妃は東に坐って宴飲して礼を成した。翌日の朝見の拜位は謁殿と同じ。中宮に謁すときは棗栗・腵脩を用いない。ほかはみな同じである。

公主昏禮

  • 古くは天子が女を嫁がせるとき自ら婚を主らず、同姓の諸侯に主らせた。ゆえに「公主」という。唐ではなお親王に婚を主らせたが、宋にはじめてこれを用いず、ただ掌婚の者に内東門で表を納めさせたので、天子が自ら主る形になった。明もこれに従った。
  • 公主が降嫁するにあたり納采・問名の礼を行うときは、婿の家が礼物と表文を家の庭に備え、闕を望んで再拜する。掌婚者がこれを内東門まで奉じ、内使の前に進んで「朝廷のご恩により某官某の子某に室を賜りました。先人の礼にならい、使臣某が納采をお願い申し上げます」と述べ、表を跪いて内使に渡す。内使が跪いて受けて内殿に奉り進め、雁と礼物を持つ者が従って入る。内使が出ると掌婚者は「卜筮を行うため、使臣某が名を問います」と述べ、初めと同じく表を進める。内使が出て「有制」と言い、掌婚者が跪くと「皇帝の第何女、某公主に封ず」と宣する。掌婚者は俯伏して起ち、控え所に就いて宴を賜って退出する。
  • 納吉の儀は納采と同じ。掌婚者の言葉は「これを卜筮に加えたところ、占いは吉と出ました。謹んで使臣某をもって申し上げます」。
  • 納徴。婿の家が元纁・玉帛・馬・表文を儀のとおり備える。掌婚者の言葉は「朝廷のご恩により某官某の子某に室を賜りました。先人の礼にならい、使臣某が束帛と馬をもって納徴いたします」。
  • 請期の言葉は「某が臣某に命じ、謹んで吉日をお願い申し上げます」。
  • 親迎の日、婿は公服で廟に告げ「国のご恩により某に室を賜り、某日に親迎いたします。あえて申し上げます」と述べる。出立しようとするとき父が廳で醮し、心のままに戒めを述べる。婿は再拜して出、内東門の内に至り、内使が控え所に招き入れる。雁を持つ者と礼物を奉ずる者がそれぞれ庭に並べる。
  • その日、公主は礼服で奉先殿に暇乞いし、帝と后の前に進んで四拜し、爵を受ける。帝と后は心のままに訓戒する。命を受け終わってまた四拜し、階を降りる。内命婦が内殿の門外まで送る。公主は輦に升って内東門に至り、輦を降りる。婿が簾を掲げ、公主が轎に升る。婿は控え所を出て立つ。雁を持つ者が雁を跪いて婿に渡し、婿は雁を受けて跪いて内使に進める。内使が跪いて受けて左右の者に渡す。婿は再拜して先に出、馬に乗って還る。公主の鹵簿と車輅は後から発する。公侯と百官・命婦が府まで送る。
  • 婿があらかじめ門で待ち、公主が至ると婿が簾を掲げ、公主が降りて、ともに祠堂に赴く。婿は東、公主は西に立ち、ともに再拜して爵を進め祝文を読み、また再拜する。寝室に赴き、婿と公主は向かい合って再拜し、それぞれ座に着く。婿は東、公主は西。饌を進め、合卺すること儀のとおり。ふたたび向かい合って再拜する。
  • 翌日、舅姑に会う。舅姑は東に坐って西を向き、公主は西に立って東を向き、四拜の礼を行う。舅姑は二拜を返す。十日目に駙馬が朝見して謝恩し、五拜の礼を行う。
  • はじめ洪武九年(1376年)、太祖は太師李善長の子李祺を駙馬都尉として臨安公主を娶らせた。前もって奉先殿に告げ、下嫁の二日前に使に命じて公主を冊し、冊の翌日に奉先殿に謁した。また駙馬が誥を受ける儀を定め、吏部官が誥命を捧げて龍亭に納め太師の府に至り、駙馬が朝服で拜して受ける。翌日、李善長と駙馬が謝恩し、十日後にはじめて婚期を請うた。
  • 二十六年(1393年)に儀注を少し改めた。しかし儀注は残ってはいても、舅姑に拜する礼や公主と駙馬が向かい合って拜する礼は、明一代を通じて実際には行われなかった。
  • 翌年(1394年)、また公主・郡主の封号と婚礼、および駙馬・儀賓の品秩を改め定めた。
  • 𢎞治二年(1489年)、仁和長公主を冊封するにあたり婚儀を定め直した。府に入ると公主と駙馬がともに天地を拜して八拜の礼を行う。堂内には公主の座を東に西向きに設け、駙馬は東を向いて坐すこと前の儀のとおり。
  • 嘉靖二年(1523年)、また工科給事中安磐らが、駙馬が公主に会って四拜の礼を行い公主が坐したまま受けて二拜を返すのは、貴賤の別があるとはいえ夫婦の分としては礼に安んじないと述べたが、容れられなかった。
  • 崇禎元年(1628年)、駙馬の教習にあたる主事陳鍾盛が言った。臣が駙馬鞏永固を教習しておりますが、駙馬は明け方に府の門外の月臺で四拜し、三か月後には堂上・門上・影壁で前と同じく礼を行い、それからようやく公主の前で膳の世話をします。公主が上座で飲食し、駙馬は傍らに侍立します。それが過ぎてはじめて成婚を議します。駙馬が菓子や肴を贈るときは「臣」と書き、公主が答礼の書を賜うのも、みな大いに礼を失しています。合卺した以上は堂々たる夫婦であり、どうして数か月にわたって跪拜し臣と称して膳に侍り、そののちに成婚するなどということがありましょう。會典は四拜を合卺の前に置いており、合卺の後には拜礼が無いことは明らかです。天子の婿を下々の隷役と同列に扱うのは、朝廷を尊ぶゆえんではありません、と。帝はその言を是とし、鞏永固にただちに日を択んで成婚させた。
  • 駙馬を選ぶには、禮部が在京の官員と軍民の子弟のうち十四歳から十六歳、容貌が整い立居振舞いが端正で家庭の教えのある者に名を届け出るよう榜示する。司禮監の内臣が諸王館で選考し、適格者が無ければ広く畿内・山東・河内に求める。三人を選び、そのうち一人を勅命で定め、残る二人はその地の儒学に送って廪生とする。宣徳のころから駙馬に教習が置かれ、学官がこれに当たった。正統以後は駙馬を国子監に赴かせて読書と習礼をさせた。嘉靖六年(1527年)にはじめて禮部主事一人を専任として駙馬府で教習させることとした。

品官昏禮

  • 周の制では公・侯・大夫・士の婚娶にはみな六礼を用いた。唐以後は儀式や品物の多寡を官品によって加減した。
  • 明の洪武五年(1372年)に詔して言うには、古の婚礼は両家の歓びを結んで人倫を重んずるものであったが、近ごろは聘財のことばかりを論じ奢侈に染まっている。その儀制を頒行するにあたっては節倹に努め、風俗を厚くせよ、と。そこで当時は品節が詳らかで、みな制限があった。のちにこれをよく守る者は稀となった。
  • その制は次のとおり。品官が婚娶し、あるいは子のために妻を迎えるには、みな媒氏に書を通じさせ、女の家が承知したら吉日を択んで納采する。主婚者が賓の席を設け、当日に祝版を用意して廟に告げる。賓が女の家の邸に至り、主婚者が公服で出迎え、賓と媒氏に揖して入れる。雁と礼物を廳に並べる。賓は左、主人は右、媒氏は賓の南に立ち、みな再拜する。賓が主人の前に進んで「某官が伉儷の重きを某に施されましたので、某は典礼に従い、謹んで某を遣わして納采いたします」と述べる。主婚者は「某の子は姆の訓えに習熟しておりませんが、采択にあずかった以上、お受けせぬわけには参りません」と答える。賓と主人は西南に向かい合って坐す。雁を下げ礼を受け終わると、あらためて雁と問名の礼物を並べる。
  • 賓が起って主婚者の前に進み「某官は婚礼を慎重にし、卜筮を行おうとしております。名をお尋ねしたい」と述べる。主婚者が進み出て「某の第何女、母は某氏でございます」と答え、控え所に退く。紅羅または銷金紙に女の順位と年齢を書く。賓が辞去し、主婚者が従者をもてなしたいと請う。礼が終わると賓を門外まで送る。
  • 納吉は納采の儀と同じ。賓の言葉は「某官が嘉命を承け、これを卜筮に諮ったところ、亀卜も筮竹も一致しました。某を遣わして吉を告げます」。主婚者は「某のまだ教えの行き届かぬ女に吉を告げられた以上、どうして辞退できましょう」と答える。
  • 納徴は納吉の儀と同じで、元纁の束帛と函書を加え、雁は用いない。賓の言葉は「某官が伉儷の重きをもって某官に恵みを加えられました。某は典礼に従い、粗末ながら幣を用意しましたので、納徴をお願いいたします」。主婚者は「某官が某に重い礼を賜りました。某はお受けせぬわけには参りません」と答える。賓が函書を主婚者に渡し、主婚者も函書をもって答える。
  • 請期もまた納吉の儀と同じ。
  • 親迎の日、婿の父が禰廟に告げ、婿は北を向いて再拜して立つ。父が「みずから良き伴侶を迎え、汝の内を治めよ」と命ずる。婿は進んで「命を承らぬわけには参りません」と述べ、再拜する。媒氏が婿を女の家に導く。その日、女の家の主婚者は廟に告げ終わって女に醴を賜うこと家人の礼のとおり。
  • 婿が門に至って馬を下り、大門外の控え所に就く。女の従者が女に盛装するよう請い、寝室の門の内に南を向いて坐らせる。婿が控え所を出ると主婚者が門外に出迎え、揖して入る。主婚者は門を入って右、婿は門を入って左に進み、雁を持つ者が従う。寝室の戸の前に至って北を向いて立ち、主婚者は戸の東に西を向いて立つ。婿が再拜して雁を供え、出て控え所に就く。主婚者は階を降りて見送らない。
  • 婿が出ると、女の父母が南を向いて坐り、保母が女を導いて四拜させる。父が「汝の家に往き、順を正しさとし、慎み恭しくすることを忘れるな」と命じ、母が「必ず恭しく必ず戒め、舅姑の命にそむくな」と命じ、庶母が重ねて「汝は訓えの言葉を誠実に聴き、父母に恥をかかせるな」と述べる。保姆と侍女が女を助けて門を出させ車に乗せる。儀衛が前を導き、見送る者が車に乗って後に続く。
  • 婿は先に還って婦を待つ。車が門に至ると門の内に出迎え、婦に揖して入れる。寝室の門に至ると婿が先に階を升り、婦が従って升って室に入る。婿は室の東南で手を洗い、婦の従者が巾を持ち水を注いでこれを助ける。婦は室の西北で手を洗い、婿の従者が巾を持ち水を注いでこれを助ける。手を洗い終えてそれぞれ座に着く。婿は東、婦は西。食案を挙げ、酒を進め饌を進める。飲食が終わるとまた初めと同じく進める。侍女が卺に酒を注いで婿と婦の前に進め、それぞれ飲み終わるとともに起って座の南に東西向かい合って立ち、ともに再拜する。婿と婦は室に入って着替える。婿の従者は婦の残りを、婦の従者は婿の残りをいただく。
  • 翌日、宗廟に会う。婿の父の拜位を東の階の下に設け、婿はその後ろに、主婦の拜位を西の階の下に設け、婦はその後ろに、諸親はそれぞれ順に分かれて立つ。その日早朝、婿の父以下がそれぞれ位に就いて再拜する。贊禮が婦を導いて序の中に至らせ北を向いて立たせる。婿の父が東の階から升って神位の前に進んで跪き、三たび香を上げ三たび酒を祭り、祝を読んで起って西に立つ。婦が四拜して退いて元の位置に戻る。婿の父が西の階から降りて拜位に就き、婿の父以下がみな再拜して礼を終える。
  • 次に舅姑に会う。その日、婦は堂の下に立ち、舅姑が座に着くのを待って位に就き四拜する。保姆が婦を導いて西の階から升らせ舅の前に至らせる。侍女が棗と栗を奉じて婦に渡し、婦が進めて終わると階を降りて四拜する。姑の前に進んで腵脩を進めるのも前の儀のとおり。
  • 次に舅姑が婦に醴を賜うこと家人の礼のとおり。
  • 次に盥饋。その日、婦の家が饌を用意して婿の家に届ける。舅姑が座に着き、婦が四拜して西の階から升り舅の前に至る。従者が食案を挙げて饌を婦に渡し、婦が饌を進め、執事者が匕と筯を添える。姑に饌を進めるのも同じ。食べ終わって饌を下げ、婦は階を降りて位に就き四拜して礼を終える。舅姑がふたたび婦に醴を賜うこと初めの儀のとおり。

庻人昏禮

  • 礼に「婚礼は下にまで及ぶ」とある。すなわち六礼を行うのに貴賤の別は無く同じである。朱子の家礼には問名と納吉が無く、納采・納幣・請期だけである。洪武元年(1368年)に定めた制はこれを用い、指腹(胎児のうちの許婚)や割衫襟によって縁組することを禁ずる令を下した。
  • 庶人が妻を娶るには、男は十六歳、女は十四歳以上であればみな婚娶を許す。婿は常服、または九品の服を借りて着る。婦は花釵に大袖の服を着る。納采・納幣・請期はおおむね品官の儀に倣うが、媒はあっても賓は無く、言葉もやや異なる。
  • 親迎の前日、女の家が人を遣わして婿の寝室に調度を整える。俗にこれを「鋪房」という。告詞・醮戒・奠雁・合巹に至ってはみな品官の儀と同じ。祖禰と舅姑に会い、舅姑が婦に醴を賜うのも、おおむね準じている。

皇帝視學儀

  • 礼に「はじめて学を立てる者は必ず先聖・先師に釈奠する」とある。周末に世が乱れて礼が廃れ行われなくなった。漢の明帝がはじめて辟雍に行幸し、唐以後は天子が視学するときにはじめて講榻を設けるようになった。
  • 洪武十五年(1382年)、太祖が国子監に行幸しようとしたとき、議する者が、孔子は聖人とはいえ人臣であるから礼は一たび奠じて再拜するのが適当だと言ったが、太祖は従わず、禮部尚書劉仲質に制を定めさせた。
  • 前もって御幄を大成門の東に南向きに設け、御座を彞倫堂に設ける。当日、学官が諸生を率いて成賢街の左に駕を迎える。皇帝は御幄に入って皮弁服を着け、先師の神位に進んで再拜し、爵を献じてまた再拜する。四配・十哲・両廡への分献は常のとおり。皇帝は御幄に入って常服に着替え、輿に乗って彞倫堂に至り座に升る。学官と諸生が五拜叩頭し、堂下に東西に分かれて立つ。三品以上および侍従の官が順に入って堂に東西に分かれて立つ。
  • 進講を贊し、祭酒・司業・博士・助教の四人が西の門から入って堂の中に至る。経の案を御前に挙げるよう贊する。禮部官が講官に経を授けるよう奏請し、祭酒が跪いて受け、講官に坐を賜う。そこで経を講案に置き、叩頭して西南の隅の几榻に坐って講ずる。大臣・翰林の儒臣にも坐を賜い、みな叩頭して東西に順に坐る。諸生は取り囲んで立って聴く。講が終わると叩頭して退き元の位置に就く。司業・博士・助教もそれぞれ順に進講し、堂の門を出て元の位置に戻る。
  • 制を宣するよう贊し、学官と諸生が班を成してみな北を向いて跪いて宣諭を聴き、五拜叩頭する。礼が終わると学官と諸生が成賢街に出て駕を見送る。翌日、祭酒が学官を率いて表を上って謝恩する。
  • 永樂四年(1406年)、禮部尚書鄭賜が宋の制を引いて鞾袍を着けて再拜するよう請うたが、帝は従わず、なお四拜の礼を行った。進講が終わって百官に茶を賜った。禮部が視学の碑を立てるよう請い、帝は自ら文を作って石に刻ませた。祭酒らが表を上って謝した。帝は奉天門に出御して百官に宴を賜い、なお祭酒・司業に紵絲と羅の衣それぞれ二襲、学官三十五人にそれぞれ紵絲の衣一襲、監生三千余人にそれぞれ鈔五錠を賜った。
  • 正統五年(1440年)、帝が国子監に行幸すること儀のとおり。礼が終わって公・侯・伯・駙馬、武官は都督以上、文官は三品以上、および翰林学士から檢討まで、国子監の祭酒から学録までに宴を賜った。
  • これより先、視学で先師を祭るときは牲を供えず楽も奏さなかったが、成化元年(1465年)にはじめて牲と楽を用い、視学の日には楽を設けるだけで奏さないこととした。礼が終わって百官が慶賀し、衣服を賜い宴を賜うのは、みな孔・顔・孟の三氏の子孫にも及んだ。
  • 𢎞治元年(1488年)、あらかじめ一日致斎し、奠に幣を加え、牲は太牢を用い、分獻官を分奠官と改めることを定めた。
  • 嘉靖元年(1522年)、衍聖公が三氏の子孫を率い、祭酒が学官と諸生を率いて表を上って謝恩し、みな禮部で宴を賜うことを定めた。
  • 十二年(1533年)、先師の祀典が正されたことを受けてふたたび視学し、大臣に啟聖公の祠に奠を致させた。
  • 萬厯四年(1576年)、翌日に慶賀の礼を行い、賞を頒つのは旧のとおりとし、賜宴は免ずることを定めた。
  • はじめ憲宗が三氏の子孫を京に呼んで礼を観させ、また衍聖公に分献させた。世宗のときに至って、衍聖公および顔・孟二氏の博士、孔氏の年長者五人、顔氏・孟氏各二人を京に赴かせて陪祀させた。

經筵

  • 明初には経筵に定日も定所も無かった。正統のはじめにはじめて常の儀として定め、毎月二の日に文華殿に出御して進講し、月に三度行い、寒暑のときは一時免ずることとした。
  • その制では、勲臣一人が知經筵事、内閣学士が知經筵事または同知經筵事、尚書・都御史・通政使・大理卿および学士らが侍班、翰林院・春坊の官および国子監祭酒の二員が進講、春坊官二員が展書、給事中・御史各二員が侍儀、鴻臚寺・錦衣衛の堂上官各一員が供事、鳴贊一人、贊禮の序班四人が案を挙げ、勲臣または駙馬一人が将軍と侍衛を領する。禮部が吉日を択んで開催を請う。
  • 前もって御座を文華殿に設け、御案を座の東のやや南に、講案を御案の南のやや東に設ける。当日、司禮監があらかじめ講ずる四書と経史それぞれ一冊を陳ね、一冊を御案に、一冊を講案に置く。いずれも四書は東、経史は西。講官はそれぞれ講章を作って冊の中に挟む。
  • 帝が座に升ると、知經筵および侍班などの官が丹陛の上で五拜三叩頭する。順に殿に上がって東西に分かれて立つ。序班二員が御案を座の前に挙げ、二員が講案を御案の南の中央に据える。鴻臚官が進講を贊し、講官二員が東西の班から出て講案の前に進み北を向いて並んで立つ。東西の展書官がそれぞれ御案の南の銅鶴の下に至って向かい合って立つ。鴻臚官が講官の拜と起立を贊する。東班の展書官が御案の前に進んで跪いて四書を開き、退いて東の鶴の下に立つ。講官が講案の前に立って某書を講ずる旨を奏し、講じ終えて退く。展書官が跪いて書を閉じ、また鶴の下に退いて立つ。西班の展書官が経または史を開き、講官が進講して退くのも初めと同じ。鴻臚官が講官の拜と起立を贊し、それぞれ東西の班に退き、展書官が従う。序班が御案と講案を下げる。礼が終わると酒飯を賜うよう命じ、各官が退出して丹陛に至って叩頭の礼を行い、左順門に至って酒飯を済ませ、入って叩頭の礼を行う。
  • 隆慶元年(1567年)、前日に奉先殿に告げ几筵に告げること、当日は帝が文華殿の左室に赴いて先聖・先師に礼を展べること、講章は二日前に先に進呈して御覧に入れることを定めた。
  • 萬曆二年(1574年)、春の講は二月十二日から五月二日まで、秋の講は八月十二日から十月二日までとし、いちいち題を上げて請う必要はないと定めた。

日講

  • 文華の穿殿に出御し、講読官だけを用いる。内閣学士が侍班し、侍儀などの官は用いない。講官は四人または六人。開読のはじめは吉服で五拜三叩首、以後は常服で一拜三叩首。閣臣もともに殿内に侍し、帝が「先生来たれ」と口ずから宣するのを待ってともに進み、叩首して東西に立つ。読む者がまず御前に至って一揖し、案に至って書を開き金の尺で押さえ、牙の籖を執って五度読み、書を閉じて一揖して退く。まず書、次に経、次に史。進講も読むときの儀と同じ。侍書官が習字に侍する。終わるとそれぞれ叩頭して退く。文華殿で茶を賜い、文華門で酒飯を賜う。
  • 午の講は隆慶六年(1572年)に定めた。毎日、朝の講が終わると帝は煖閣に入って少し休み章奏を閲する。閣臣らは西の廂房に退き、しばらくして講官を率いてふたたび進み午の講を行う。『通鑑節要』および『貞觀政要』を講ずる。講が終わると帝は還宮する。三・六・九の日の視朝の日は講読を一時免ずる。
  • また嘉靖六年(1527年)に定めた制では、毎月三と八の日の経筵に日講官二員が『大學衍義』を講ずる。
  • 十年(1531年)、無逸殿の講儀を定めた。質明、帝は常服で輦に乗って殿門に至る。衆官が門外で迎え候する。帝は輦を降りて板輿に乗り殿に至って座に升る。各官は殿門の外で一拜三叩首し、内に入って東西に分かれて立つ。進講を贊し、講官である大学士一員が班を出て叩首し、坐を賜う命が下ると一叩首して坐す。講が終わると展書官が跪いて講章を閉じ、講官は叩頭して班に戻る。また学士一員が旨を承けて坐して講ずること初めと同じ。礼が終わると各官は豳風亭に至って駕を待ち、亭内に至って宴を賜う。

東宫出閣講學儀

  • 太祖は学士宋濓に命じて皇太子と諸王に大本堂で経を授けさせた。のちに文華の後殿で行い、世宗が文華殿を便殿に改めたので殿の東廂に移した。
  • 天順二年(1458年)に出閣の儀を定めた。当日早朝、侍衛と侍儀は常のとおり。執事官が文華の後殿で四拜する。鴻臚官が皇太子に殿に升るよう請い、師・保などの官が丹陛の上で四拜し、各官は退出する。内侍が皇太子を後殿に導いて座に升らせ、書案を進める。侍班・侍讀・講官が入って東西に分かれて立ち、内侍が書を開き、侍讀・講官が順に進んで読み講じ、叩頭して退く。
  • 毎日の講読の儀は次のとおり。早朝の朝が退いたのち、皇太子が閣を出て座に升る。侍衛などの官は用いず、侍班・侍讀・講官だけが入って叩頭の礼を行う。内侍が書を開き、まず四書を読むときは東班の侍讀官が前に進んで十数遍伴読し、退いて班に戻る。次に経または史を読むときは西班が伴読するのも同じ。読み終わって各官は退出する。
  • 巳の刻に各官が入り、内侍が書を開き、侍講官が朝に読んだ四書を講ずる。終わると班に退き、次に経史を講ずるのも同じ。講が終わると侍書官が習字に侍し、書き終わると各官が叩頭して退く。
  • 読書は三日ごとに一度、背読して暗誦できるまで復習する。復習の日には新しい書を授けない。習字は春・夏・秋は日に百字、冬は日に五十字。朔望・節の休みおよび大風雨雪・厳寒酷暑のときは一時停める。
  • 𢎞治十一年(1498年)に改め定め、三師・三少ならびに宮僚が丹陛で四拜し、終わって殿の左右の門から入って東西に立ち、講読が終わるのを待って叩頭して退くこととした。
  • 隆慶六年(1572年)、皇太子の座を文華殿の東廂の中央に西向きに改め設けた。毎日、講読の各官はまず文華殿の外に赴いて東西を向いて順に立ち、帝の日講・経筵が終わるのを待って皇太子が閣を出て座に升る。東宮の講のはじめには閣臣が連続して五日侍し、以後は毎月三と八の日に一度来て、まず拜して退出し、そののち各官が入る。
  • 崇禎十一年(1638年)、禮部の事を署理する学士顧錫疇が言った。東宮の嘉礼が成り、累朝の賜与には典拠がある。実録には成化十五年(1479年)に皇太子が出閣して講学したとき六卿にみな保傅を加えたこと、𢎞治十年(1497年)に皇太子が出閣して講学したとき内閣の徐溥ら四人、尚書の馬文升ら七人にみな宮保を加えたことが載っている、と。帝は斟酌して議し行うよう命じた。

諸王讀書儀

  • 書堂は皇極門の右の廂にある。講官は部曹または進士を選び、翰林官に改め授けて充てる。
  • 天順二年(1458年)に定めた。はじめて書堂に入る日、王は早朝に右順門の北の書堂に至り、東を向いて中央に坐る。提督講讀ならびに講讀官が四拜の礼を行う。内官が書を捧げて案の上に開き、案の左に坐って読む。讀官が進んで案の右に立ち、十遍伴読して叩頭して退く。
  • 毎日の講読では、清晨に王が書堂に至り、講讀官が叩頭の礼を行い、十遍伴読して退出する。食事のあとふたたび堂に赴き、習字に付き添い、書を講じ終わるとやはり叩頭して退く。
  • 萬厯六年(1578年)に定めた。書堂には中央に座を設け、書案は左、習字の案は右に置く。輔臣が講讀官・侍書官を率いて門外に控える。王が書堂に入り「先生進め」と令旨を伝えると、輔臣が各官を率いて入り四拜し、班に分かれて侍立する。講讀官が順に書を授けること各十遍。終わると「先生、酒飯を喫せよ」と令旨があり、各官が退出する。王はしばらく堂の南の間に入って休む。輔臣がそれぞれ官を率いて入り、「先生進め」の令旨があってそのまま入り、班に分かれて侍立する。侍書官が習字を見、講讀官が順に進講する。終わると各官が一拜して退出する。